なげきの森の迷子魔女

久里 琳

なげきの森の迷子魔女


 おさない魔女が森をかけていた。

 うたいながら。

 高い、すんだ声だ。

 森の獣たちは立ち止まり、声をひそめてぴんと耳を立てた。

 細いかすかなその声は、ふしぎととおくまで響いて梢の葉を揺らした。

 おさない魔女はもう一時間ばかりもかけっぱなしで、足はもつれかけてリボンはほどけて長い髪がばらばらに風になびいている。

 それでもうたうのをやめないのだった。


 殺される。

 逃げなきゃ逃げなきゃ殺される。

 人間につかまっちゃったら殺される。


 たった三行の不吉なことばをなんども繰りかえしてうたうくちびるは笑みをたたえているように見えた。

 梢のしたを魔女が走りぬけるとき烏たちがぎゃあぎゃあわめくのもかるく無視して走りつづけた。

 きっとずっとそうやってここまでかけてきたのだ。


 キツネは巣穴に逃げこんだ。匂いがあぶないって告げたから。

 蝶々ちょうちょたちは花や葉っぱに擬態した。空気の揺れがみんなを不安にさせたから。

 魔女のうた声はあまりに透きとおっているからなにかいけないモノを呼び寄せそうで、どこか聴く者の胸をざわつかせる。



 はだかで青年が起きあがったとき、となりで寝ていた恋人はほんのすこしだけ顔をあげて言った。

「よしときなさいな。助けたっていいことないし、どうせあんたにゃ助けられないわ」

 寝床からおりて青年は、剣をさがしながらひとり言みたいに言った。

「森ではだれもが迷いやすいから」

 背中のはねからしずくが落ちた。

「徒労ね」

 女はつまんなさそに言って、青年のつややかな翼をなでた。



 おさない魔女のうた声は森じゅうに行きわたって、追っ手にすればこんな都合のよいことはなかった。たがえずそのあとを追えたから。

 やがて追っ手の一団は魔女のうしろすがたを捉えた。

 手に手にもった槍をつぎつぎ投げると、たいていとちゅうの木や枝に当たって落ちたけれどもいくつかは魔女までとどいて、そのひとつがとうとう魔法のバリヤを破り、おさない魔女の頬にきずをつくって、創から噴いた血は服をべっとり染めた。

 魔女のうた声がはじめてやんだ。

 足も止まって、おさない魔女は頬に手をあて自身の血の色を見た。見たけど色はわからない。さっきから空はずっと雲におおわれ月も星も見えないまっくらやみだ。

 鳴りをひそめていた虫たちがとつぜんいっせいにうたいだした。


 追っ手は魔女の住んでいた村の人たちだ。

 かれらはおさない魔女をとりかこんだ。逃げ場をなくした魔女はまわりをぐるりと見まわした。みんな知った顔のはずだけどまっくらな森ではシルエットが浮かびあがるだけでだれがだれだかわからなかった。


 ――殺される。

 ――つかまっちゃったら殺される。


 おさない魔女はささやくようにまたうたった。透きとおった声で。


 ――殺されちゃうのはだれだろね。


 虫たちはまただまってしまった。うたの問いには鳥も獣も村人たちも答えない。


「殺されちゃうのは――」


 かわりに答える声が、頭上から落ちてきた。

 さいしょは鳥かと思った、おおきな鳥かと。背中に翼を生やしていたから。

 魔女も村人も見あげる先で、翼ある青年はすうっと地上におりてみんなに微笑みかけた。


「殺されるのがだれだか知りたいかい?」


 おさない魔女はふるふる首をよこに振った。でも青年はかなかった。

 ふわっと木の枝が浮いたと思ってよく見たら、さっき村人たちの投げた槍だ。いくつもいくつも宙に浮いて、そのことごとくが村人たちに穂を向けていた。

「狩るモノと狩られるモノとは紙一重なんだよね」

 おさない魔女の手をとって、青年は背中の翼を羽ばたかせた。

「かわいそうに」



「危機一髪だったね」

 串刺しになった村人たちを背に青年はわらって、おさない魔女にウィンクした。こんなのなんでもないってみたいに。

 魔女はなにも言わなかった。ただ目をおおきく見ひらいて、村人たちのうめき声と手足のあがきがすこしずつ弱くなっていくのをずっと見ていた。いくら目を凝らしたってまっくらな森ではだれがだれだかやっぱりわからなかった。

 魔女のようすを見て青年は、返事なんかなくてもかまわないっていうみたいにふふっと笑った。それから魔女の手をひいて歩きだした。

 手をひかれるままおさない魔女もついていった。そのまましばらく、ふたりだまって森のなかを歩いた。

 もう魔女はうたっていない。

 かわりに鳥や獣がぎゃあぎゃあ騒ぐ。


 さっきからおさない魔女は、むっつりだまりこんでいる。

「きみは声を出せなくなったみたいだね」

 青年がやさしく笑いかけると、

「みんな殺しちゃったの?」

 と魔女は訊いた。

 追っ手のなかにはきっと、となりのおじさんもいたはずだ。学校の先生も。ゆかいな人たちだった。抱っこして遊んでくれた。魔女だと知ったら母さんも姉さんも殺しちゃったけど。

 青年は肩をすくめた。

「どうせきみを殺そうとしてた連中だよ」


 おさない魔女は青年の手をふりほどいて、先に立って歩きだした。

 青年はおとなしくそのあとをついていった。

 かれの足にヘビがからみつこうとしたけどすぐ弾かれて、しおらしく去っていった。

 月はぶあつい雲にかくれたまんまで、ところどころぽおっとヒカリダケがひかっているのだけが森を歩く頼りだ。


 おさない魔女の背中から青年はやさしく声かけた。

「ほら、こう考えたらどうだい? オオカミに食べられちゃうヒツジはかわいそうだよね。だからきみたちはオオカミを憎んで追っぱらうけど、オオカミだって死んじゃったらやっぱりかわいそうなんじゃないかな?」


 おさない魔女はまえを歩きながら、しかたないってふうにうなずいた。


「だからヒツジがこぞってオオカミを殺そうとするなら、殺されないようオオカミが反撃したってしかたないって、そう思わない?」


 わたしオオカミじゃないわ、魔女は振りむかないで言った。

 そうだね、と青年は答えた。ちかくに沢でもあるのかカエルがぐえっぐぇとしきりに鳴いた。


 森のいちばん険しかったところは抜けたみたいで、いまはなだらかなくだり坂になっていた。森の獣たちの啼く声がながながと未練たらしくいつまでも消えないで、まるで死んだ追っ手の村人たちを悼んで悲しむみたいに聞こえる。だから『なげきの森』って呼ぶのかな、おさない魔女はやっと得心いったというふうにうなずいた。

 なにかあったら『なげきの森』に逃げなさいって母さんは言っていた。そこは魔女たちの聖域だから。


 はじめての道だっていうのに夜の森の道をおさない魔女は自信まんまんに歩いた。ふとうしろの青年のことを思い出してかのじょは尋ねた。

 どこまで歩くの、

「この森からきみがすっかり抜け出てしまうまで」

 ひとりで行けるわ、

「きみはまだ迷いのなかにいるんだ、それに追っ手がまた来るかもしれない」

 もう殺さないで、

「どのみちヒツジは屠られる運命さだめにあるんだよ」

 振りかえれば青年はたのしそうな顔をしていた。


 つぎ追っ手が来るとしたらだれだろう、と魔女は思いをめぐらせた。そのなかには姉さんの恋人だった男もいるかもしれない。

 姉さんのことほんとに好きでうちにもよく来て豪快に笑うひとでわたしの頭をやさしくなでてくれたりもしたけれど、魔女だと知ったら姉さんを焼くのに躊躇しなかった。



 おさない魔女はだまって歩きつづけた。その表情はむっつりと、むずかしいことを考えようとしてわからなくなって、そこをむりしてまた考えて消化しきれず出口のない迷路を走りまわってるみたいになっている。

 さっきのオオカミの話だけど、と青年はまた声かけた。

「オオカミにだって子どもはいるんだしその赤ちゃんが餓えて死んじゃったりしたらかわいそうだよね?」

 あんたよっぽどオオカミが好きなのね、

「ぜんぶ食べちゃおうってわけじゃないんだ。何百匹といるうちの、ほんの一匹か二匹をときどきちょうだいしちゃおうってだけさ――子どもたちを餓えさせないために。それでもきみは許せない?」


 おさない魔女は答えないでそのまま歩いた。頭のなかで考えていたのはさっき逃げまどいながらもちっとも怖いなんて思わなかったってことだ。むしろ怖がっていたのは村人たちの方だった。あれはヒツジたちの必死の反撃だったんだ。

 そのとき雲の切れ間からほんのすこし月がのぞいて、その光が森に満ちた。

「あんたって、ぞっとするほどきれいね」

 いっしゅん歩みを止めて、あきれたみたいに魔女が言った。月の光を浴びて青年は笑った。


 また歩きだしてすぐおさない魔女が言った。

「あんたの名前わかったわ」

 ルシフェルって名でしょ?

 青年は莞爾にっこりとした。

「ものりなんだね。それにさとい」


 そりゃ知っててとうぜんだわと魔女は言った。

 ルシフェルがわたしたちの王様よ、って母さんはいつも言っていた。だれにもぜったい秘密とかたく念を押されて。その約束をやぶってうっかり話してしまったから、母さんと姉さんは殺された。


 ルシフェルを王とあがめる者は邪悪なのだとみんな言う。

 なのにどうしてわたしたちはルシフェルに仕えるの?

 そう尋ねたとき母さんは首をひねって、さあねえ、と答えた。母さんの母さんも、そのまた母さんもそうやって生きてきたからねえ。

 それにほら、神さまは村の人たちを助けちゃくれないけど、ルシフェルは助けてくれるじゃないか、この薬だって――

 と指さした薬はついこないだとなりのちいさなマー坊を高熱から救った薬だ。魔女の薬はたいていの病気をなおしてしまう。自然の摂理に反するって坊さまたちは非難するけど、じゃあどんな難病だろうと我が子を救いたいっていう自然な心は置き去りにしてもいいんだろうか。

 魔女の薬はみんなルシフェルから教わった人外の智慧と技とでつくられたものだ。



 おさない魔女はまたむっつりだまりこんでいる。その一歩うしろをルシフェルがついて歩いて、まるで従者のようだ。

 ねえルシフェル、と唐突に魔女が言った。

「なんだいお姫さま」

「あんたをあがめてたせいで、母さんも姉さんも殺されたわ」

 魔女たちにとってルシフェルは王であり絶対的な主人だ。

 相手がルシフェルと知ってもこのつんけんした態度を崩さない魔女のすがたをかれはでた。

 尊卑や善悪といったつまらないものに汚されていない純な魂はルシフェルにとりとうといものだ。智慧の実を食べるまえのエヴェがそうだったように。ルシフェルはとおい昔のかのじょの面影を思い出そうとしたけどそれはあまりにとおすぎたためぼんやりした像しか結ばなかった。


 どうして母さんは、とおさない魔女は考えている。

 命さえあやうくするとわかっていながら母さんは魔女であることをやめなかった。娘ふたりも自然と魔女になった。いいことなんてなにもないのに。

「それはちがうよ」

 とルシフェルが言った。

 かってに人の頭のなかに入ってこないで、とぷんぷん怒るおさない魔女に、

「あんまりきみが興味ぶかいもんだから」

 言い訳らしい言い訳もしないでルシフェルはたのしそうに笑った。

「きみもきみの母さんも姉さんも、魔女のとても濃い血をひいている。どうしたって魔女になるしかないんだ、いずれきみも覚醒する、母さんよりも姉さんよりもずっとつよい力で」

 だからぼくが迎えに来たんじゃないか、とつづけた。


 わたしオオカミになるの? とおさない魔女は尋ねた。

 不満はたっぷりあるけど不安なんてない声だ。まっすぐ自分を見つめる瞳にルシフェルは満足した。

「とびきりつよいオオカミになるだろうね」

「そうだとも、きみはつよいオオカミになるよ、ヒツジを守るオオカミに」

 とつぜん割り込んできた声とともにふたりの正面に青年があらわれた、それはそれは唐突に、森のやみから生まれ出たみたいに。ルシフェルはおおげさに天を仰ぎ、おさない魔女はまじまじと青年を見つめた。



「……おどろかないんだね」

 むしろ青年の方がおどろいて感心したってふうに言ったけれどおさない魔女の反応を半ば以上は予期していたようだ。

 青年はルシフェルに似ていた。そして背中には白い翼が生えていた。そういえばだいぶんまえから虫も獣も鳴かなくなっていたと魔女はこのときやっと気づいた。

「あなたも気づいていたみたいだね、ルシフェランジェロ」

 青年が目を向けた先で笑みをもらしているルシフェルはなんだかうれしそうだ。

「だれかは来るだろうと踏んでいたからね。それにしたってミケ坊が来るとは、ずいぶん本気じゃないか。今夜はなんていい夜なんだろう」

 隠れていた月がまた顔を出すと、いつの間にかおおきくひろがっていた翼が黒々とひかった。

「もう坊やじゃない」

「じゃあぼくのことも昔の名で呼ぶのをやめてくれないか。その名は捨てたんだ……ミカエランジェロ」


 おさない魔女にはなにが起こっているのか飲みこめない。その魔女の手を、ルシフェルが握った。

「残念だったね、すこしばかり遅かった。この子はぼくのものだよ。それに――」

 この子の魔女の血は本物だ、とはルシフェルは言わなかった。わざわざ言わなくともミカエランジェロにはわかっているから。

「それでも迷いから救い出すのがぼくたちの役目だ」

 想定どおりのセリフだ、ルシフェルはさびしく口をゆがめた。

「ぼくには敵わないって、わかってるはずだよ」

「むかしはね。いまはちがう。あなただってわかってるはずだ」

 ミカエランジェロの口ぶりはむかしと変わらず生まじめだ。金色のおおきな瞳が、かつてまばゆく見上げていた長兄をいまはかなしい敵意とともに見つめていた。ゆっくり純白の翼がひろがっていくのを月が照らした。


 それを見てルシフェルは黒い翼をたたんだ。

「よそう。ぼくらが本気でぶつかれば、森も世界もみんな吹き飛ばしてしまいそうだ。それはぼくの本意じゃない」

 それからしゃがんでおさない魔女とおなじ高さまで顔をもってきた。

「ヒツジをみんな殺しちゃったらオオカミだっておもしろくないんだ。だってもうそのあとは、ヒツジをいただけなくなるだろう? すこしずつ、ほんのひとりかふたりの魂をときどきいただけばいいんだから」

 おさない魔女にウインクして、まだ事態が飲みこめていないかのじょの額にくちづけた。

「この子は返すよ。とびきりの大魔女になるはずだったんだけどな」

 それからミカエランジェロの方へとそっと肩を押してあげた。


 押されるままにおさない魔女はとたとた走って、白い翼のそばまでくるとうしろを振りかえった。ルシフェルはやさしく彼女を見つめていた。

「危機一髪だったね。きみをオオカミにするのはいったん諦めよう。でもきみがオオカミになりたいと願うなら、いつでもぼくを呼ぶんだよ」

 もいちどルシフェルはウィンクをして、黒い翼をひろげた。羽ばたきもせずすうっと空へ浮かぶと、しらみかけた夜空のなかにすぐ消えてしまった。

 おさない魔女が将来なにになるのか、いまのところはわからない。



(おわり)


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