得能哲哉氏の毎朝の習慣

須賀マサキ

第1話

 トレーニングウェアに身を包み、ランニングシューズのひもを結ぶ。玄関先で軽く準備体操をして体をほぐすと、哲哉てつやは外に出た。

 見上げる空にはまだ星が残り、吐く息も白く凍る。毎日のこととはいえ、この寒さには慣れない。特に今朝は放射冷却の影響で身体の芯まで凍えるようだ。

くじけんなよ。こんなの、いつものことじゃねえか」

 両手で頬を軽く叩き、哲哉は自分自身に喝を入れた。


 エレベータで一階までおり、マンションから一歩踏み出す。

 午前六時。街は少しずつ目覚めのときを迎えている。五十メートルほど先にあるバス停には、すでにちらほらと人が集まり始めていた。

 見覚えのある顔を見つけると、早起きして頑張っているのは自分だけでないと勇気づけられる。

 哲哉は身体を温めるために、軽いペースで走り始めた。バス停をふたつ過ごしたころには、速度をいつものペースに切り替える。あっという間に身体が温まる。冷たい空気が心地よい。


 イヤホーンから流れてくるのは、学生時代によく聴いたポップな曲たちだ。好きな音楽からランニングのペースにぴったりのものを選び、自分でプレイリストを作った。曲の順番はランダムにしているので、毎日同じ曲を流していても飽きがこない。

 我ながらいいアイデアだったと自画自賛しながら、哲哉は慣れたコースを走る。

 行きは西の方角に走るため、今朝は月がマンションの向こうに沈むのが見えた。この時間帯だと満月に近い。

 走り慣れた道でも、見上げる空は日々姿を変える。都会でもその気になれば季節の移ろいを感じられる。それはランニングを始めてから気づいたことのひとつだ。


  ☆  ☆  ☆


 高校時代の哲哉は、運動が特別得意ではなかった。

 技術も体力も人並みで、目立ったものではない。スポーツ万能なクラスメートが女子に注目される中で、マイペースを保ちながら楽しめればいいと考え、実際にそうしてきた。

 変わったのは大学生になってからだ。

 バンド活動を始め、ボーカルを担当することになったのがきっかけだった。

 それまでは対バンばかりで、長時間ステージに立つことはなかったので気づかなかった。だからソロライブでも、簡単にこなせると思っていた。


 ところが現実は簡単ではなかった。


「哲哉、最後の曲では息が上がっていたぞ」

 ステージを降りたとき、リーダーのワタルに開口一番注意された。

「え? そんなにひどかったか?」

 咄嗟とっさに否定しながら椅子に腰掛ける。その瞬間、哲哉は無意識のうちに深呼吸をしていた。

「ほら。疲れ切っているのが見え見えじゃないか。見にきてくれた人全員に気づかれていなくても、鋭い人には見透かされているよ」

 ドラマーの弘樹ひろきも、ワタルに続いて指摘する。

 顔を上げてメンバーを見渡すと、肩で息をしているのは哲哉ひとりだった。

 弘樹は全身を使ってドラムを叩いている。ギターソロで歌ったバラード一曲以外はパワフルに演奏しているのに、何事もなかったように落ち着いている。

 最初に指摘したワタルも、ギターを弾きながらステージを動き回るパフォーマンスをしていたが、弘樹同様疲れたようすを見せない。


「ボーカルはずっと歌い続けているからさ。疲れるのは理解できるよ。でも声が命なんだから、一時間程度で息が上がっていると、プロのステージなんて務められないだろ」

 やんわりとした口調のワタルだが、真剣にさとしているときほど冷静で言葉を選ぶ。リーダーとして仲間を率いるのに、恫喝は必要ないというのがワタルの方針だ。

 それだけに哲哉は、簡単に否定した自分を恥じた。

「ごめん。おれ、ボーカルはボイストレーニングだけでいいと思っていたから……」

 勉強やアルバイトで追われる日々の中で、時間を作って歌の練習をしている。もちろんバンドメンバーみんなも似たり寄ったりの生活だ。

 じゃあ仲間たちは、いつどうやって体力をつけているのだろう。哲哉が疑問を抱いたタイミングだった。


「明日から、毎朝ジョギングをしないか? 最初は哲哉のペースに合わせるからさ」

「ジョギング? ワタル、もしかして毎朝走ってるのか?」

 哲哉の問いかけに

「さすがに雨の日は休むけれど、天気が許すならなるべく走るようにしているよ。でもおれは自分に甘いから、徹夜してレポートを仕上げたときや、前の日に飲み会で飲みすぎた日は素直に休んでいるかな」

 ワタルは頭をかきながら答える。

「それって……素直とは意味が違う」

 哲哉が思わず突っ込むと、ワタルは破顔した。途端にメンバー内の緊張がほぐれ、いつもの空気が帰ってきた。

「ちょうど明日は晴れるみたいだから、六時に迎えに行くよ」

「あ、明日? 待て、おれ、ランニングシューズやトレーニングウェアなんて持ってないぜ」

「気にすんなって。履き慣れたスニーカーとトレーナーでいいんだよ。大切なのは、一日も早くスタートさせることなんだから。それとも哲哉は、形から入るタイプなのか?」

「いや、そんなわけでは……」

「じゃあそれで決まりだな。外に出てなかったら、降りてくるまでインターフォンを鳴らし続けるから。覚悟しておけよ」

 こうして哲哉の想いとは関係なく、体力作りのために走ることが決められてしまった。


 ——まあいいか。いつかやらないといけないなら、明日から始めたって問題ないもんな。


 一方で、バイト代が入ったらその日にウェアをそろえようと考えている自分に気づく。ワタルの「形から入る」という指摘は案外正しいのかもしれない。


  ☆  ☆  ☆


 それが哲哉にとって、ランニングをスタートさせるきっかけだった。

 三日坊主に終わることなくプロになっても続いているのは、ライブで歌うのに息が上がらなかったという経験をしたからだ。

 いつまで続けられるか解らないが、プロとしてステージに立つ限りはやめるつもりはない。


 折り返し地点にまで走り、マンションまで戻る。

 今度は東の空が目に入った。


 登り始める太陽が地平線を綺麗なオレンジ色に染める。

 西の空に残る星を見るのもいいが、冬の早朝ランニングは日の出の瞬間を目にできる。何度見ても見飽きることのない最高の風景だ。

 走るにつれて空が少しずつ青くなる。今日もいい天気になりそうだ。寒さなんて吹き飛ばしてしまえ。


 一日のスタートを目にも鮮やかな日の出で迎える。

 当たり前の光景であると同時に、自然の営み、大宇宙の一端を感じられる瞬間だ。

 悩み事や心配事なんて、本当にちっぽけなもの。そんなことに囚われている時間はもったいない。


 ——今日もいい一日になりそうだ。


 嬉しい予感を胸に、哲哉は一日のスタートを迎える。

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得能哲哉氏の毎朝の習慣 須賀マサキ @ryokuma00

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