始まる

生津直

始まる

 ジリリリリ、とベルが鳴り出した。


 朝だ。


 一日が、また始まる。


――イヤだ……まだ夜であってくれ……


 けだるい寝返りを打つ。新しい体勢に落ち着いた記憶のないまま、二度寝していたらしい。ジリリリリ、と再びベルが鳴った。


「あー、もう!」


 タナカは、手を伸ばしてデバイスのボタンを荒々しく叩き、ベルの音を止めた。


 いっそ、壊れればいい。



   *



 いつものエレベーターは逃した。一つ後の便びんに駆け込む。「詰めてください」「もう無理だよ、次にしろ」そんなお馴染みのやりとりを経て、さらに数人が押し込まれてくる。目の前の男の口臭をもろに吸い込み、思わず咳き込んで隣の女に舌打ちされる。百数十人もの男女が灰色の作業服に身を包み、一様に押し黙り、上昇する一つの箱に押し込められ、立ちっぱなしで過ごす小一時間の移動が、今日も始まった。


 数少ない垂直の柱に体重を預けて眠れればいくらか助かるが、そんな好運はめったにない。タナカは、頭上に水平に渡された手すりに半ばぶら下がるようにして、崩れ落ちたがる体をどうにか支えた。熱心に新聞を読む老紳士を、元気だな、と羨ましく眺める。他はおおむね、疲れた顔だ。耳にイヤホンを突っ込んでいる者、何かしらのデバイス画面を見つめる者、ただ目を閉じている者。タナカ自身の視線は、人々の頭の上にわずかにのぞいたクリーム色の壁の向こう、どこか遠くをさまよっていた。窓なんてものはあるはずもなく、あったところで、外に景色なんてものはない。天井に開いた申し訳程度の通気孔が、妙に慈愛に満ちて見えた。



   *



 作業場での一日は例によって、作業指示書を復元するところから始まった。A4の紙一枚に印刷された手順説明が、平均二センチ四方ぐらいのランダムなピースへと細かくちぎられている。その紙片の山がプラスチックのトレイに載せられ、セロテープとともに渡される。タナカたちは、紙片の形や書かれた文字を手がかりに、これらを元通りに貼り合わせる必要がある。


 タナカは、誰よりも早く指示書を完成させ、今からすべき作業を把握した。各自が持っているワークブックの五八から七五ページの計算を行え、というもの。さっそく開いてみると、単純な四則演算だ。機械に任せれば一瞬で終わる加減乗除を、何の目的もなく、タナカたちが紙と鉛筆で行う。ザ・典型ともいうべき、基本中の基本だ。


 指示書を早く仕上げれば、それだけ早く作業を始められて本来は有利なはず。しかし、この世とは不条理なものだ。タナカが計算に取りかかるとすぐに、隣の席のヒライも後に続いた。


「おい、指示書できたのかよ?」


「ああ」


 ヒライは頬杖ほおづえをついてごまかしたが、ひじの下で折り畳まれている紙は、テキトーに貼り合わせてざっくり長方形っぽくしただけなのが明らかだ。


「お前、カンニングしたな?」


「してねえよ」


「だって、お前の指示書、全然読めねえじゃん!」


「うるせえな、察したんだよ。こんなもん、いつものやつじゃねえか」


 そう言われてしまえば、嘘だという証拠はない。タナカは、何とか怒りを抑え、心を無にして計算に取り組んだ。


 しばらくすると、ヒライがちょんちょんとつついてくる。


「なあ、これ、どうやるんだ?」


「知らねえよ」


「知らねえはずねえだろ。教えろよ」


「ったく、うるせえなあ」


 ヒライときたら、いつもこんな調子だ。努力なんてものはせず、周囲に甘えながら楽して世を渡っている。タナカは、こんな能なしを相手にするより自分の作業に集中したかった。


――いや、待てよ……


 運がよければ遠隔監視員の目にとまり、指導スコアや協調スコアがもらえるかもしれない。タナカは全身のあらゆる毛細血管から忍耐力を総動員し、アホのヒライを何とか納得させ、かつ自分の作業に支障が出ないギリギリを攻めた親切丁寧さで、ごく簡単な通分について解説した。


――クッソ、こんなアホがなんで俺と同じティアにいるんだよ。さっさと降格しやがれ!


 ののしったところで、この世のヒエラルキーを決めるのはタナカではない。上位のボスたちだ。そして、アホのヒライは、彼らのご機嫌を取ることだけが天才的にうまかった。今日もあんじょう、ヒライには何のおとがめもなし。奴の解答など、半分も合っているとは思えないが、同じ作業室で唯一処罰を受けることになったのは、作業の完了が一番遅かったハヤシだった。処罰とはすなわち、食事の量や質の制限だ。なお、賞罰ルールは、ボスたちの気まぐれでどうにでも変わる。今日はスピードが求められ、明日は打って変わって緻密さが求められる。それが、この世の常だった。



   *



 トイレを済ませて手を洗った後、何気なく頭に手をやると、毛先が派手に暴れているのがわかった。鏡に横顔を映してみれば、すっかり伸び切った後ろ髪がまくらに乱されたまま、好き放題に飛び跳ねている。


「あー、もう、何だよ畜生!」


 これがイヤでずっと短髪にしていたのに、最近は帰宅すればぶっ倒れて眠るだけの日々で、髪など切っている場合ではなかった。しかし、これ以上減点を食らうわけにはいかない。身だしなみもスコアのうちだ。つい先日、何日も風呂をサボって強烈な腋臭わきがをまき散らしたサトウが、降格の憂き目にった。仕事は丁寧で愛想もいい奴だが、におっていては台無しだ。明日は我が身。近日中に髪を切ることにして、今はとりあえず水で撫でつける。



   *



 昼食は、何の変哲もないハンバーグ定食だった。可もなく不可もない、いつも通りの味とボリュームだ。


――ちっ、スルーしやがったか!


 特別スコアが入ったなら、エビフライぐらい付いても良さそうなものだ。まったく、なんて因果な低ランクだろう。努力が報われるなんてのは、つくづく迷信だ。アホのヒライに対するさっきの指導は、遠隔監視員に見てもらえていなかったか、あるいは見て見ぬふりをされたか。それとも……。


 以前、腋臭のサトウが言っていたことは本当だろうか。監視員とは名ばかりで、彼らは実際には“鑑賞者”なのだ、と。



   *



 午後には、肉体労働がタナカたちを待っていた。労働といっても、もちろん何かの役に立つわけではない。砂の入った袋を、A地点からB地点へと運ぶ。運び終えたら、またA地点へと戻す。タナカたちの日常だ。


 重たい砂袋を前の奴から受け取り、次の奴へと渡す。それを無心に繰り返していると、どこからか苛立たしげな舌打ちが立て続けに聞こえてきた。続いて、大仰おおぎょうなため息と「マジかよ」「勘弁してくれよ」の声。隣の列だ。


 原因はすぐにわかった。列の中ほどに、ワダがいる。ぱっと見、小学生ぐらいの体格で、線の細い女性だ。タナカは砂袋リレーを続けながら、彼女から目を離せずにいた。いたいけな小動物を思わせるワダの姿には、いつも視線を奪われてしまう。ひたすら実直でつい頑張りすぎるところは、自分と似ている気がしていた。きっと話も合うに違いなく、そのうち暇ができたら散歩にでも誘ってお近づきになるつもりだった。


 この砂袋はワダには明らかに重すぎて、隣の列はワダのところで大幅にスローダウンしている。周りの男たちや、天変地異が起きてもびくともしなさそうなババアたちが苛つくのもわかるが、仕方ないではないか。ワダがこの作業に向いていないのは、ワダのせいではない。ただし、砂袋の持ち方や重心移動のコツをつかめば、いくらか楽になりそうな気もする。


――そうだ、それを口実に後で話しかけて……


 そのとき、脇腹に強烈な一撃を食らい、タナカは地面へと倒れ込んだ。見上げれば、タナカに砂袋を渡す位置にいるスズキが、不敵にニヤついている。砂袋をタナカに投げつけたのだ。


「おっと、すまねえ。でも、テメエがよそ見してんのが悪いんだろ」


 意地悪でケンカっぱやいスズキのことだ。わざとに決まっていた。こいつのせいで、うちの列の作業は中断されたわけだが、誰も何も言わない。こんなときは、自分の中の“大人”を最大限に発揮し、黙って耐えるのが賢明だ。しかし、タナカが脇腹をさすりながら体を起こそうとした瞬間、ワダが視界に入った。いたいけな小動物が、あわれみと軽蔑の混じった目でタナカを見つめる。「だらしないわね」という、言われてもいないセリフの吹き出しが、彼女の小さな顔のそばに浮かぶ。ぎゅっとこぶしを握り締め……その後のことを、タナカはほとんど覚えていない。



   *



 スズキのパンチ力は意外にしょぼく、顔にできた青タンからして、どうやら互角に殴り合ったらしい。タナカはスズキとともに、現場警備員に連行された。建物の地下へと導かれ、湿っぽい廊下の奥、「反省室」と書かれた個室にそれぞれぶち込まれる。スズキはここの常連だが、タナカは初めてだ。


 驚くべきことに、夕食が提供された。つぶしたイモに何かをり込んだような不気味なシロモノだが、まずいというほどではない。夜の作業で数千本のマチ針を真面目に数え、正解を達成すると、デザートにとリンゴまで与えられた。普段の食事よりは粗末だが、十分といえば十分だった。


 布団はカビ臭いし、マットレスも薄っぺらいが、眠れないことはない。むしろ、すし詰めのエレベーターで自宅に戻る必要がない分、長く寝られて翌朝にはいくらか気分がすっきりしていたほどだ。二日目の晩には、バリカンを借りて自分でヘアカットを済ませる余裕さえあった。


 食事や作業材料が運ばれてくるとき以外は、ほぼ人に会わないため、身だしなみにクレームをつけられることも、アホを目の当たりにして歯ぎしりすることも、意地の悪いチンピラのなりそこないと渡り合う必要もない。二泊三日の監禁期間は、あっという間に過ぎた。ことによると、スズキをはじめとする無法連中がしょっちゅう暴力や盗みを働くのは、反省室の快適さゆえなのではとすら思えてくる。



   *



 皆のいる作業場での日々が、再び始まった。今日は、作業室のペンキ塗りを課された(もちろん、数日後にはまた別の色へと塗り替えさせられ、それが延々と続く)。タナカは、ワダと同じ部屋に割り当てられた。作業をしながら、さりげなく話しかける。


「やあ」


「……どうも」


「この前の砂袋運び、大変そうだったね」


「別に……いつものことだし」


「あれってさ、実はコツがあって……」


 言いかけたとき、何者かがタナカとワダの間に割って入った。


「その件はもう、僕から話しといたよ」


 いけ好かない声のぬしは、イケメン・ナカムラだ。


――こいつ、この生活しながら一体いつの間に眉毛なんか整えてんだ?


 ナカムラは、タナカに侮蔑ぶべつの眼差しを向け、


「暴力振るって反省室に行くような奴とは、話したくないよねえ」


と、猫なで声でワダの肩を抱く。


「ここはもういいから、あっち塗れよ」

 

 ワダも同感らしく、二人仲良くペンキを塗り始めた。何たる理不尽だろう。タナカが反省室送りになったのは、元はといえばワダを心配したせいだというのに。


 アホのヒライはと見れば、近くにいた男の仕事ぶりを褒めちぎり、そいつに自分の分までペンキを塗らせていた。


 神は死んだ。間違いない。精もこんも尽き果てたタナカは、その日も下りのエレベーターにぎゅうぎゅうに詰め込まれて帰宅し、浅く短い眠りを可能な限りむさぼった。


 時間が止まればいい。


 世界が滅びればいい。


 何もかも終わってしまえばいい。



   *



 ジリリリリ、とベルが鳴り出した。


 朝だ。


 一日が、また始まる。









          【了】

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