不器用な深水さん

惟風

優しい先輩

 深水ふかみさんは不思議な人だ。

 バイト先の先輩で、年は向こうが上だけど浪人と留年どっちもしたそうで同じ大学三年生とのことだ。背が高くひょろりとしていて、肩口まで伸びている髪をいつも雑に縛っている。

 職場であるコンビニの裏で、僕達はよく揃って煙草を吸う。

 シフトの入れ替わりで会う時は、咥え煙草で軽く片手を挙げて挨拶してくれる。

 仕事中も休憩中も、深水さんはそんなに喋らない。無口というわけじゃないけど場を和ませるために発話をする、ということをしない。それでも、そこにいるだけで何となくホッとする空気を纏っている。

 だからなのか、常連のお客さんや周りの店員からよく話しかけられている。深水さんはそれをほんのり笑って聞いている。

 でも、僕と二人きりの時には深水さんの方からぽつりぽつりと話しかけてくれることがあった。

 西の方の出身とのことで、柔らかい関西弁でゆっくりと語る。改めて星の王子さまを読み返して泣いてしまったとか、パートの人に字を褒められたのが嬉しくてペン習字を習い始めたとか。些細だけど個人的なエピソードで、僕は彼の話を聞くのが好きだった。そういう時の深水さんは、ほんのりじゃなくてちゃんと笑顔だった。

 店の雰囲気が良いのは間違いなく深水さんのおかげだと思う。だから、僕はバイトに行くのが楽しみだった。もう過去形になってしまったけど。


 きっかけが何だったのか思い出せないけど、夏の終わり頃だったろうか、僕は変なお客さんに絡まれるようになった。中年の小柄な女性で、見た目は本当にどこにでもいそうなおばさん、僕の母親とそんなに変わらない年代に見えた。

 最初は他の常連さんと同じように挨拶とか軽い世間話をする仲の人だったのに、ちょっとずつ距離感がおかしくなってきた。

 品出しをしていると棚の物を選ぶフリをしながら付き纏ってきたり、精算時に商品を渡す時に僕の手に触ろうとしてきたり。バレてないと思ってるのか、素知らぬ顔をしているのが不気味だった。シンプルな服装をしていたけれど、近づくと生乾きの布と柔軟剤の香りが混ざったような悪臭がした。


 ストーカー行為で周りに助けを求めるには微妙な行動で、よく見ていなければ僕の自意識過剰か被害妄想で切り捨てられそうなことばかりだったからタチが悪かった。

 それでも深水さんを始め仲の良いバイト仲間は親身になってくれて、そのおばさんが来たらさりげなくバックヤードに行かせてくれたりレジを代わってくれたりした。

 有り難かったけれど業務外のことで迷惑をかけてしまうことが辛くて、平気なフリをして彼女のことをやり過ごしていた。

 それが良くなかったのか、彼女はどんどん増長しだした。精算中、耳打ちするように言葉をかけてくる。


 あのパートの人ねえ……ちょっと貴方に偉そうじゃないかしら。

 さっきの女の子よく見かけるけど常連さんなのね。お会計終わっても話しかけてきてホント迷惑よねえ。

 品物の並べ方が上手くなったわねえ。偉い偉い。

 そろそろ散髪した方が良いわよお。ついでに黒く戻しなさいな、学生さんなんだからそんな背伸びしすぎないの。


 それは恋人というより、母親面に近い馴れ馴れしさだった。小さい子に言い聞かせるように説いてくる姿には悍ましさしかなかった。


 ある日、おばさんは普段は買わないサラダと野菜ジュースを購入すると、レジ袋ごとこちらに押しつけてきた。

 最近顔色悪いんじゃない。夏バテじゃないの。ちゃんとお野菜食べなきゃダメよ。

 野菜、という言い方が耳障りだった。口が動くたびに唇がぴちゃぴちゃと鳴っている。掠めるように触れてきた指先の生温かさに首筋が粟立つ。

 受け取れませんやめてください、と強い口調で断っても全く相手にされなかった。ただ子犬でも見るような目で微笑まれ、一瞬でくらくらするほど頭に血が上った。

 そのままくすくすと笑って退店しようとするおばさんを、僕ではなく深水さんが店の外まで追いかけた。尻尾のような黒髪が軽やかに揺れる。

 僕の手から引ったくったレジ袋を彼女に返すと、何事か囁いた。僕のいる場所からは深水さんの表情は見えなかったけれど、おばさんの顔色がサッと変わった。みるみるうちに真っ赤になって目が吊り上がったかと思うと、怒声をあげながら帰って行った。

 深水さんに何て言ったんですかって聞いて見ると、いつもの澄ました顔で「ああいうのは困るし迷惑やから、二度としないでくださいねって丁寧に伝えただけやで」と後毛を右耳にかけた。

 おばさんの様子からして深水さんの話を額面通り受けとるのは無理があったけど、かといってキツい言葉を浴びせる深水さんも想像できなかったから頷くしかなかった。

 ともあれ、それからはおばさんが来店することはなくなって平和な日常に戻った――と思えたのは数日だけだった。


 店に面した道路、車が行き交うその向こう側に、人影が立っていることに気づいた。

 朝だろうが夜だろうが、店内から道を眺めるとこちらをじっと見ている。街路樹の影にいるせいかぼんやりとしていて、目を凝らしてもどんな人物かまではわからなかった。

「あの木のとこ、最近いつも誰か立ってますね」

 何気なくパートの坂本さんに話を振る。坂本さんは眼鏡の奥の目をぎゅっと細めて店の外を見つめた後「……誰もいないけど」と困ったような顔をした。僕はそれ以上何も言えなくなった。

 そのやりとりをしている間にも人影からの視線が僕に突き刺さっているのに。

 人影はよく見るとゆらゆらとした半透明の“何か”だった、そんなこと知りたくなかったのに向こうから日に日に近づいてきて嫌でもよく見えた。頻繁に視界に入るようになり、一週間もすれば大学や家の前にも現れるようになった。

 誰にも相談できずに日にちばかり経った。一度「見えない」と言われてしまうと、もう他の人に打ち明ける勇気は出なかった。一人になるのが怖くなり友達の家を泊まり歩いた。常に人がいる場に身を置きたくて大学もバイトも意地でも休まなかった。


「何や、近づいてきとるな」

 夜、シフト上がりの喫煙所で深水さんがぽつりと言葉を落とした。僕は思わず顔を上げた。

「君が気づいてないんやったら黙っとこうと思ってたけど、どう見てもそうじゃないわな」

 深水さんの声はいつものように淡々として、飄々として、晩秋の闇に溶けた。かさかさした風が頬を撫でていった。

、たぶんこの前のおばちゃんやよ」

 深水さんは微かに眉根を寄せた。僅かな変化だったけど、普段穏やかな表情しか見せない彼の激情を読み取るには十分だった。

 え、と聞き返したつもりだったけど、掠れた声は濁った吐息にしかならない。頭の中であのおばさんと得体の知れない“何か”が上手く結びつかなくて混乱する。

「あんまりこういう話すると引かれるから普段は言わないんやけどね」

 深水さんは煙草を消すと、歩き出した。自然と僕もついて行く形になる。夜空にかかる雲が“何か”に似ている気がしてビクついた。体力的にはキツかったけど、一人になるよりマシだった。

「俺さあ、よく言う“視える人”て言うのかな、まあちょろっと見えるだけで対処はでけへんねんけど」

 深水さんは歩みを止めずこちらに顔を向ける。でもその焦点は僕の肩の後ろ辺りに合っているようだ。“何か”は今は僕の視界にいない。振り返る勇気はなかった。ただいつものように深水さんの話に耳を傾ける。夜の住宅街は静かだ。

「でも今回は、俺でもどうにかできるやつやと思う。は幽霊とか悪霊の類ちゃうから」

 目的地のわからない歩みに、足がフラつく。何日もろくに眠れていないし、食事だって最後に固形物を食べたのがいつか思い出せない。バイトは残り滓みたいな気合いを掻き集めて乗り切ったけど、もう真っ直ぐ歩くことすら覚束なくなっていた。深水さんがそんな僕の右腕を取って、軽く支えてくれた。ヤニの匂いが濃くなる。自分より、他人に染みついたものの方がよくわかる。

 深水さんは淡々と、でも饒舌に続ける。

「俺なあ、普段は人の話の聞き役に回ることが多くて、まあ別にそれが嫌なわけじゃないんやけど。でも君は珍しく俺の拙い話をふんふん聞いてくれるやんか。それが結構嬉しかってなあ。だから、あのおばちゃんが調子乗ってまう気持ちもちょっとだけわかる気がすんねん。でも、なんぼなんでもやりすぎやね」

 深水さんの歩調はゆっくりだけど、足が長いから一歩一歩が大きくてすぐに置いて行かれそうになる。

 半ば抱きかかえられるようにして連れてこられたのは、古びたアパートだった。

「君には見えてへんやろけど、から細い糸みたいなんが出てて、ここに入っていっとる。な、生霊いきりょうてやつよ。分身みたいなんを相手のとこに飛ばして悪さしよる。相手が幽霊とかやったら俺はお手上げなんやけど、生霊なら本体叩けばええから俺でも何とかなるねんな。ちょっとするわ」

 一階の角部屋まで来ると、深水さんはドアスコープの前に僕を立たせた。

「君なら向こうも警戒せんと玄関開けてくれるやろから」

 昔ながらのドアベルを押しながら、深水さんは小声で言う。

 程なく、扉は開かれた。

 おばさんは僕を嬉しさと驚きが混じったような顔で出迎えた、でも彼女の言葉を僕が聞くことはなかった。

 おばさんが声を発するよりも速く、室内に滑り込んだ深水さんが彼女の顔を片手で掴んで壁に叩きつけた。細身の身体のどこにそんな力がと思うほどの強さだった。

「生霊なんか飛ばしたらアカンよ。迷惑なことせんといてって言うたやん」

 床に倒れ込んだおばさんの耳に囁きかける口調は、徹底的に穏やかだった。

 おばさんが何かを言いかけたけど深水さんの土足がそれを塞いで、後は鈍い音と振動が断続的に狭い部屋に響くのみだった。


 しばらく深水さんの無造作な毛先に見惚れていた。目の前には、もはや人間の形をしたサンドバッグが転がっている。広がる血生臭さに我に返って深水さんを止めた。血痕と吐瀉物とが混ざったものは踏むとぬるぬると滑った。

 僕に制止されながら、深水さんは尚も爪先でおばさんの腹を蹴りあげた。彼女の身体が大きく跳ねた。


 おばさんはかろうじて息があった。深水さんが殺人者にならないためだけに僕は救急車を呼んだ。

 このまま部屋にいると間違いなく警察にしょっ引かれてしまうので、今すぐ立ち去ろうと深水さんの手を取った。彼は最後に「仕返ししてきたらホンマの霊体にしたるからな」とおばさんの頭を撫でた。接客中かと錯覚するくらい親切そうな話し声だった。


 僕自身の気持ちを落ち着けたくて、近くの公園で煙草を取り出した。震えてまともに点けられない火を、深水さんが点けてくれた。外はそれなりに寒かった。煙草が燃える音がやたら大きく耳に響いた。

 深水さんはどこまでも冷静だった。これが一番早いし、マトモに話して聞く相手じゃないのはとっくにわかってたからと返り血以外は普段通りの表情で煙を吐いた。むしろ、どうして止めたのかわからないとでも言いたげに首を傾げる。さっきは気づかなかったけど、顔にも髪にも返り血が飛んでいる。


 生霊を飛ばして人を精神的に追い詰めるのは罪に問われないけど、それをめさせるために相手を殴る行為はそうはいかないから。

 それでも、僕が深水さんに助けられたのは事実だし、あのままおばさんの生霊に付き纏われていたら衰弱したり気が狂って死んでたかもしれない。

 世間的には許されないことでも、僕にとっては救いだった。


 泣いてせながらたどたどしく話す僕の言葉を、深水さんはバイトの時と同じように優しい顔で聞いてくれた。

 指紋とか足跡とか、痕跡になるあらゆるものを残してきてしまった。早晩僕達は捕まるんだろう。

 二人でぽつぽつ話すこの時間が惜しくて、ずっと続けば良いのになと溢れた一言に、深水さんはうんうんと目をきゅっと細めて頷いた。


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不器用な深水さん 惟風 @ifuw

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