嚆矢
つきたておもち
嚆矢
りん
鈴の音が、どこかでいちど鳴った。
それはいつも聞こえてくる、澄み切った、厳かな音色だ。
この鈴の音が鳴ると、わたしを取り巻く空気がぴん、と張り詰めたモノへと変化する。
その、肌にひりついてくる緊張感のある澄んだ空気は、わたしの少し丸くなりかけた背筋を、否が応にも伸ばすものだ。そしてそれは、わたし自身気づかず少し竦んでしまった一歩を、踏み出させるものだった。
高校受験の日にも、第一志望だった大学受験の日にも。
部活動の成果を舞台で研究発表した時にも。
酷い喧嘩をした親友と、仲直りをしようとした時も。
どこかからか、りん、と澄んだ音色の鈴の鳴る音が聞こえてきた。
その澄んだ鈴の音は縮こまりかけた身体を心を、ぴん、と伸ばし、怖気づき後退りしそうな足を、一歩前へと押し出すものだった。
それらのことから、コレはわたしの人生の中で、いざ、といった場面で鳴る鈴の音だと、いつのころからか思うようになった。
けれどもこの音は、誰にも聞こえていない音。
周りにいる友人や知人、家族に訊ねてみても、誰も聞こえないし、聞いたこともないと言う。わたし以外、聞こえることがない、鈴の音。
「まるで嚆矢みたいだね。」
はとこで7歳上のお兄ちゃん的存在の彼が、わたしが不思議話としてそのことを口にしたときに、そう例えた。
嚆矢?と問い返したわたしに、矢の鳴る音じゃないけれど、と彼は柔らかな笑顔を浮かべ、
「これから始まるぞ、って合図みたいだってコト。」
そう教えてくれた。
わたしが知らないことをたくさん知っている、とても頼りになるお兄ちゃん的存在の、はとこの彼。
彼と私の家は近所同士で、わたしが小さい頃はいつも一緒に遊んでくれていた。それは、彼とは「はとこ」といった関係性で、わたしと彼の両親同士も仲が良かったからも知れない。それと共働きで日中あまり家にいることがないわたしの両親からも、わたしの面倒を頼まれて、ということもあったのかも知れない。
けれども、それだけでなく、彼はとても面倒見が良かったのだと思う。
ひとりっ子のわたしはそんな彼を、本当の兄のように慕っていたし、彼も男ばかりの3人兄弟の真ん中ということもあってか、妹が欲しかったんだ、と言って、わたしを彼の家族の一員かのような親しさで接してくれ、可愛がってくれていた。その彼のおかげでわたしは、日中両親がいない淋しさを感じることは、ほとんどなかった。今から思えば、淋しくないようにしてくれていたのだと思う。
優しい、とても優しいお兄ちゃん。
そんな彼のことが、わたしは小さい頃から大好きだった。
彼が就職にともない生家を離れ、この土地から少し遠い場所へ引っ越すのだと彼の口から聞かされたときに、遅まきながら、わたしはいつの間にか彼への自分の気持ちの変化があったことに気が付いた。
気が付いたが、それを伝えるのには時期を逸していたし、またそれを伝えるその時期ではなかった。なぜなら彼は多分、わたしのことは、妹としか見ていないと思ったからだ。
そして彼は仕事が忙しいこともあってか、実家に滅多に戻ってくることはなかったし、戻ってきてもわたしとはすれ違いばかりで、彼が家を離れるときに見送った以降、会うことがなかった。
その彼が、わたしの成人の式典の日に合わせて、わたしを祝いに、今日、帰ってくる。
もちろん、成人の式典なので、わたしはそれなりの身支度だ。ひとり娘なので、両親の気合も入っている。
そして彼は、わたしの華やかに着飾った姿を見るのは、初めてだ。
少し大人の雰囲気を纏い始めたそんなわたしを見て、彼はどう思うだろうか。彼の瞳にわたしは、どのように映るだろうか。
「じゃぁ、最後に紅を引きますね。」
馴染みの美容師さんからそう告げられ、軽く瞼を閉じた。
紅をさしたわたしと対面することで、彼の中で、わたしに対する変化は見られるだろうか。
そのような気がかりが少しずつ、わたしの頭の中を占め始める。正直に言って、自分自身に自信が持てない。自信が持てる何かをこの手にはいまだ、何も持っていない。彼の中にあるわたしの位置づけの変化が期待できるほどの、自信はどこにもない。華やかな衣装を纏って、両親からキレイだと、大人っぽくなったと何度も言われて、浮かれていた気持ちは萎えてしまって、身体も心も竦んでしまいそうになる。
そのとき。
りん、と。
美容師さんが持つ筆がわたしの口唇に触れたと同時に、りん、と鳴った鈴の音。
とたん、わたしの周りの空気が変わる。静謐な気に包まれる。
あぁ、そうだ。コレは始まりの、合図。
彼が教えてくれた、嚆矢。
鈴の音が耳に届いたとたん、竦んで丸くなりかけていたわたしの背筋がその一歩を踏み出すために、知らず伸びた。
お題「スタート」
嚆矢 つきたておもち @tenganseki
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