ナンバーカードを追いかけて

諏訪野 滋

ナンバーカードを追いかけて

 大池公園は、その名の通り中央に広大な池をようしており、その池の周囲はちょうど二キロのランニングコースになっている。

 街のほぼ中心という好立地であることや、コースにチップがかれていてすべりにくく足に優しいことなどから、ランニング愛好家たちのちょっとしたメッカになっており、県外からもわざわざ訪れる人がいるほどの名所になっている。


 高校を卒業してから八年間、私はほぼ毎日このコースを走っている。

 ほかの場所よりも女性ランナーが多いため、好奇の目を向けられる事が少ないことも、私がこの場所を気に入っている理由の一つだった。

 まあ、私が自意識過剰なだけだと言われれば、それまでなのだが。


 え、走る目的?

 そんなもの、別にないよ。

 月に五百キロも走っていれば、黙っていてもダイエットなんて達成できるし、もともと私のスタイルはダイエットが必要なほど悪くはない。

 それでは楽しいから走るのか、と問われれば、楽しいわけがない。

 あなたもひとりぼっちで八年も走ってみれば、私の言う事が分かってくれると思う。

 じゃあ速くなるためなのか、とたずねられたら、私は首を横に振るしかない。

 誰かと競争するなんて、そんなの高校まででとっくに卒業したから。


 いいじゃん別に、からっぽなままで走ったって。




 今日は水曜日、特定の距離を一定のペースで走る、ペース走練習の日。

 別に目的がなくったって、メリハリは大事よね?

 激辛カレーをたまに食べたくなるようなもんだ。

 一キロ四分ジャスト、十キロ走。


 走り始めてすぐに、私はぴたりとあとをつけてくる足音に気付いた。

 いるんだよなあ、自分より速いペースで走る女性ランナーに、無理やり張り合ってくるおじさん。

 いいところを見せたいのか、はたまたコンプレックスの裏返しなのか。

 仮に私より速くったって、そいつにれることなんて絶対にないけれど、それでも私のペースについてこれるのは男性ランナーでも一握りだ。


 キロ三分五十秒に少しペースを上げてみると、後ろの足音も軽やかについてくる。

 いやらしい、いっそ追いしてくれよ、と私がキロ五分に急激にペースを落としてやると、あろうことか、その足音もキロ五分に合わせてくるではないか。

 あったまきた、ここで思い切って厳しく注意してやるのが全ての女性ランナーの為だ、と決意を固めて首だけで後ろを振り向いた私は仰天ぎょうてんした。


 十メートルほど離れて私を追っていたのは、暑苦しい勘違い中年ジジイなどではなく、さっぱりしたショートヘアの若い女性だった。

 流れる景色の中でちらりと見ただけだが、その人がよほどの美人であることは間違いなかった。

 年のころは私と同じく二十代後半くらいか、しかしそのいでたちは長そでTシャツにロングタイツというやぼったい私とは違って、露出ろしゅつの多いノースリーブにたけの短いランニングパンツという、今や中高生の記録会でしか見られないような、今すぐにでもレースに出れそうな戦闘スタイルであった。

 だがそれは彼女の細身の体には抜群ばつぐんに似合っていて、浮いた感じなどまったくない。

 ある種エロティックな彼女を正視できずにに私はあわてて前に向き直ると、キロ五分を保ちながら自制心を保とうとする。


 と、例の足音は心なしか速さを増して、ついに私は彼女と並走する形になった。

 そのまま一キロほど何も言わずに黙々もくもくと走る彼女にしびれを切らした私は、ついに根負けする形になって、彼女に声をかけた。


「あの、速いですね」


 礼を尽くし勇気を振りしぼった私の声掛けに対し返ってきたのは、すげない一言だった。


「あなたもね」


 え、それだけ?

 人をストーキングしといて、自分から話を振ったりはしないのか。

 私のいらだちが伝わったのか、彼女は一言だけ付け足した。


「私、水曜日は、仕事が早く終わる日だから」


 そして彼女は私からすっと離れると、呆然ぼうぜんと見送る私を振り返ることもなく、見事な足運びで公園の外へと消えた。


 は、どういう事?

 これはもしかして、来週の水曜日も一緒に走らないかという、一種のナンパなのか?

 やばいやばい、変な人にからまれてしまった。

 来週から練習場所を変えたほうがいいかな、などと考えながら、私は独りジョグを再開した。




 結局、来てしまった。

 あの人が変質者だという線はまだ捨てきれなかったが、私のペースについてきた彼女の走りは間違いなく本物だった。

 いやがらせならとことん試してやれ、という投げやりな気持ちもあった。

 十分ほどジョグを続けていると、背後からくだんの足音が聞こえてきた。

 音を聞けば、同じ人だとわかる。

 なぜなら、私は高校時代に陸上競技場のトラックで、追いかけてくる足音を嫌というほど聞いてきたから。


 となりに、彼女が来た。


「今日のメニューは?」


 余計なことを一切言わないところが、実に小気味よかった。


「インターバル。千メートル十本、キロ三分四十秒。レスト六十秒」


 挑戦的な私の練習プランに、彼女は涼しい顔で短い返事を返した。


「了解」


 そして私たちは、公園の路上に白くかすれて書かれてある「スタート」という文字を踏むと同時に、二人だけの戦いを開始した。

 お互いに設定を無視して、ほぼ全力走となっていた。

 四本目までは、すべて私がった。

 五本目からは、すべて彼女が獲った。

 どうやらスピードは私が、持久力は彼女の方が、それぞれまさっているらしかった。


 練習を消化した後も、足を急に冷やさないために、キロ五分のジョグを続けた。

 やはり私より彼女の方が、呼吸が整うのが早い。

 今日は、彼女の方が先に口を開いた。


「あなた。右足、痛いの?」


「いえ。どうしてですか」


「かばったような走りしてる」


 遅れて呼吸が整い始めた私は、努めて明るく答えた。


「よくわかりましたね。高三の時に右のすねを痛めちゃって、疲労ひろう骨折ってやつですよ。今は全然痛くないんですけれどね。そうかー、かばってるかー」


「……それでもここまで速いんだ。すごいね」


 腕を振っているから肩をすくめることは出来ないが、苦笑を返すことは出来た。


 それから私たちはさらに二キロほどジョグしたが、やがて彼女はピッチを落とすと、ゆっくり立ち止まった。

 そのまま走り去るのも今更だと思い、私も付き合って止まる。

 彼女は私の顔をじっと見ながら、無表情に言った。


「あなた、次のレースは?」


 私は失望した。

 ランナーだったら誰でもレースが目標だなんて考えている、ステレオタイプなつまらない人だったのか。

 そんなのあなたの思い込みじゃない、決めつけなんてやめてよね。

 それでも私は、しおらしいふりをして答えた。


「いえ。私はレース、一度も出たことがなくて」


 私の予想に反して、彼女はおどろかなかった。

 ただ静かに、疑問を口にする。


「どうしてレースに出ないの。そんなにきつい練習をしているのに」


 レース、レースか!

 質問に質問で返すのは失礼だと思ったので口には出さなかったが、それならあなたは、どうしてきつい練習をしてまでレースに出るの?


 私はおどけたように言った。


「はは、怖いんですよ。また痛くなったらどうしようって。骨折なんて、とっくに治ってるんですけれどね。なんだかまだ違和感があるような気がして、全力で走れないんです。レースなんて、とてもとても」


 彼女は私の右脚を見ると、しなやかな細い指をあごに当てて、少し考えこむような表情をした。


「高校を卒業してから、病院には?」


「全然行ってませんよ。卒業して一年ほどたったら、全く痛くなくなりましたし。それに第一、もう一所懸命いっしょけんめいに走る必要もありませんでしたから」


「……そう。もし病院に行って、もう大丈夫だって確信できたら、またレースに出る気になる?」


 この人、何にもわかってない。

 病院なんて、何の役にも立ちやしなかった。

 一方的に話したがりのやつらばかりで、私の気持ちなんて知ったこっちゃないって感じだったよ。


「実はですね。私、お医者さんってあまり信用してないんですよ。痛いって言ったら、走るのをやめろ、の一点張りで。私から走りを取ったら」


 つい、と私はそっぽを向いた。

 なぜか彼女には、今の私の顔を見られたくなかった。


「ただのつまんない奴だってのに」


 彼女は黙っていたが、不意に背負っていたバックパックを下ろすと、中からメモ帳を取り出した。


「あなた、名前と生年月日は?」


 おろかにも私は、自分の個人情報を正確に伝えた。

 利用されて何かのトラブルに巻き込まれる、などとは、何故か微塵みじんも考えなかった。

 彼女は何やら書き込んだかと思うと、びっと破って私に突き出す。

 不審ふしんげに受け取った私は、そこに書かれている綺麗きれいな文字を読んだ。

 博央はくおう大学医学部付属病院、整形せいけい外科、六月二十日、午前十時半。


「何ですか? これ」


「あなたの言う通り、ランニングにくわしい医者なんてほとんどいないから。私が知っている医者なら、もうちょっとましなアドバイスしてくれると思う」


「あの、ちょっと」


「日にちと時間、絶対に仕事の都合付けて休んできて。予約を取るのって、結構大変だから」


「でもこれって明後日あさってじゃ。って、おーい」


 私の抗議などお構いなしに、彼女はバックパックを背負い直すと、またしてもさっさと公園を後にしていった。

 どうやら彼女の目的はナンパではなく、病院の患者集めだったらしい。

 それにしても大学病院って、客せをしなければいけないほど赤字なの?




絹沢きぬさわ真琴まことです。あの、今日の十時半に、整形外科の予約が入ってますか?」


 病院の受付で半信半疑に名乗る私に、応対した事務員が明るい笑顔で答えた。


「絹沢真琴様ですね、生年月日は…はい、うけたまわってますよ。今日は、長谷部はせべ先生の初診になります。番号札を持って、三番診察しんさつ室の前でお待ちください」


 長谷部というのか、彼女が太鼓判たいこばんを押した医者は。

 それにしても大学病院だ、あまりの規模きぼに気後れしてしまう。

 ランニングしてたら足が痛くなりました、なんて、とてもその程度の症状で受診できるような場所じゃない。

 からかわれたのかも、と席を立ちかけた私の耳に、電子的な合成音が聞こえた。


「六十四番の番号札をお持ちの方。三番診察室にお入りください」


 がっくりとうなだれた私は、ええいままよと診察室の扉を開けた。


「絹沢、真琴さんですね。どうぞおかけください」


 ん、なんか聞いたことがある声、と顔を上げた私の目に飛び込んできたのは、白で統一された清潔そうな診察室。

 奥に設置された机の前でパソコンのディスプレイを見つめていた白衣の人物が、椅子いすを回してこちらに身体を向けた。


「え。えー!」


 目の前には、ショートヘアの若い女医が、迷惑そうに眉をしかめて私の方をみらんでいた。


「ちょっと、あなた。もしかして」


 彼女は私の驚きの声をことさらに無視すると、極めて事務的に質問を始めた。


「高校の時に右のすねを疲労骨折した、と。八年前という事ですね? その時は、どこの病院で診断を受けましたか?」


 私はあわてて彼女の胸に下がっている名札を見た。

 長谷部、さえ


「あの、あの、私」


「今は痛くないというお話でしたね? 念のために、MRIという写真の検査を予約していますが。お受けになられますか?」


 彼女の雰囲気ふんいきと眼光に気圧けおされた私は、ただかくかくとうなずくしかなかった。




 私と彼女は夕暮れの池沿いを、キロ五分半のペースでゆっくりと流していた。


「良かったわね、真琴さん。異常なくて」


「冴さん、意地悪です」


 いつしか私と彼女は、下の名前で呼び合う仲になっていた。


「ん。何が?」


「自分がスーパーウーマンだってこと、隠してて」


「私がドクターってこと? まさか。いまどき医者なんて、犬も歩けば棒に当たるほどごろごろしてるわよ。現に今も、ほら」


「そうじゃなくて。冴さん、去年二回市民マラソンに出場して、二回とも優勝してますよね」


 冴さんは、げーという表情を作った。


「あなた、ひょっとして私の名前をネットで検索けんさくしたわね。これだから医者は嫌なのよ、実名をさらさなくちゃ仕事ができないから」


 彼女のしぶい表情に、くすくすと私は笑った。

 このペースであれば、普通に歩くのと何ら変わりなく会話することが出来る。


「でもおかげさまで、右足の違和感いわかん、すっかり消えました。冴さんが、意識して右脚を使うようにってアドバイスくれたからですよ」


「別に私のおかげじゃないでしょ。あなたが自分で自分をしばってただけじゃない」


「ふふ、そうですね」


 さらに一キロほど走った後で、冴さんが遠慮えんりょがちに口を開いた。

 普段の彼女には珍しいことだった。


「あのさ、レースの件だけれど。別にあなたが嫌だったら無理にとは言わないけれど、やっぱり出てみない?」


 ずきり、と私の胸がうずく。

 別にレースなんて出なくても。

 二人でいつまでもこの公園を回っていれば、それでいいじゃない。


「嫌、って言ってもいいですか」


 冴さんの走るペースが、わずかに落ちたように感じられた。


「……理由、聞かせてもらってもいいかしら」


 彼女に話してどうなる。

 とっくの昔に終わったことじゃん。

 せっかくできた練習相手を失うかもしれないんだぞ、わかってるのか。


「私、冴さんにうそをついてました」


 私は、何を口走っている。

 今すぐインターバルを再開すれば、お互いに話をする余裕よゆうも必要もなくなるのに。

 そんな姑息こそくで非現実的な考えも、隣の冴さんの息づかいを感じたら、一瞬で失せた。


「私、足が痛くなるからレースに出たくないなんて、本当はあまり思ってませんでした。誰かと走るのが、嫌だっただけで」


 冴さんは急に立ち止まると、静かに私を見つめる。

 私も遅れて足を止めると、夕焼けに染まった大池の水面みなもながめた。


「私、高校で陸上の特待生だったんです。二年まではインターハイにも出てて、大きな会社さんからも、ちょっと声がかかったりなんかして。それが三年の始めに足を痛めてから、チームのみんなとも疎遠そえんになって。そりゃあそうですよね、陸上でつながっていたんだから、陸上できなくなったら離れ離れになりますよね」


 泣くのは久しぶりだな、社会人になってから泣いたことはなかったな、と私は思った。


「本当は、実業団で走りたかったんですよ。足が痛くなるまでは、どんな記録でも出せるって思ってました」


 ありふれた私の愚痴ぐちを、冴さんは黙って聞いてくれている。

 私はおびのしるしに、誰にも見せたことのない自分の泣き笑いの表情を、彼女に披露ひろうしてみせた。


「でも、仕方ないですよね。今の銀行員の生活も楽しいし、両親も安心してくれてます。それでも私、誰かと」


 もう、あのころには戻れない。

 それでも、私は走り続けてきた。

 何のためにって?

 未練みれんだったんだよ、結局さ。


「誰かと、一緒に走りたかったんです。でも私、いつかまた離れ離れになってしまうのが怖くて。そんな思いをするくらいなら、独りで走っている方がましだ、なんて」


 少し冷たい風が、水面を渡って吹き抜けてくる。

 冴さんはふうっと息をつくと、かたわらのベンチに深く座って、暮れゆく空を見上げた。


 やばい、結構メンヘラなムーブしてしまった。

 ちょっと知り合って一緒に走っているだけの奴に、こんな重い話されたら、誰だって引くに決まっている。

 あわわ、と私は慌てて両手を振った。


「ご、ごめんなさい。だから私の言いたいのは要するに、冴さんが嫌とかではなく……」


 首をかたむけた冴さんは、私に優しい瞳を向けた。


「真琴さんって、本当に走ることが好きなんだね」


「そんな冴さん、何をいまさら」


 冴さんは頭をかくと、ばつが悪そうに笑った。


「私はね。本当は、走るのも医者になるのも興味はなかったんだ」


 私は露骨ろこつに顔をしかめてみせた。


「うわ、恵まれた人の嫌味いやみ……」


「そんなんじゃないって。私が医者になって走ってるのは、あなたのせいだってことだよ」


 は。

 全然意味わかんない。


 冴さんは遠くを見ながら、種明かしをする名探偵たんていよろしくせきばらいを一つした。


「私、あなたが校舎の裏で泣いてたの、見たことあるよ。畜生、畜生って、自分の右足を何度も殴ってたじゃない」


 見られてた。

 高校時代?


「もちろん、私のことはあなたは知らないでしょうね。あの頃の私、父親の方の鴻上こうがみってせいを名乗ってたからね」


 鴻上、冴。

 その名前なら、スポーツ特待クラスだった私でもわかる。

 別クラスだから顔こそ知らなかったけれど、特別進学コースで常に首席だった人。


「え、うっそー。あの鴻上さん!?」


「あの、とかつけなくていいから。それでね、授業がつまらなくて外を見ていると、いつもグラウンドで走っているあなたの背中が見えていたわけよ。おかしかったわ、いつ見てもあなたったら、ぐるぐるといつまでも、日が暮れても同じように回っていて」


 ひゃー、そんなこと早く言えよ。

 いままでずっと、心の中でニヤニヤしながら一緒いっしょに走ってたんだろうなあ、こいつ。


「それがさ、三年になって姿が見えなくなったと思ったら、風のうわさであなたが走れなくなったって聞いて。そうこうしているうちに、あなたが泣いているところに出くわしてしまって」


「……それは、大変失礼しました」


 そうだね、そんなこともあったね。

 足を切り開いたら痛みの原因が取り出せるんじゃないか、なんて馬鹿なこと考えてカミソリの刃を取り出した時は、お母さんに泣いて止められたっけ。


 冴さんはベンチから立ち上がると、頬を膨らませた顔をずいっと近づけた。

 うわ、ボーイッシュな美人のアップは迫力がある。


「私はあなたの背中をずっと追っていたのに、それが急に私の前から消えちゃってさ。そんなのって、不公平じゃない?」


「な、何が不公平なんですか」


「もう、鈍いわね。今度はあなたが、私の背中を追っかけなさいって言ってんのよ」


「な!?」


「私が主治医なんだから、また痛くなったって安心だよ。だからさ、またレースで存分に走りなさいよ。実業団だけが人生じゃないでしょ。それに私は走ることなんて全然好きじゃないけれど、あなたに負けるほど落ちぶれちゃいないし、私と勝負するのならやる気も出るでしょ?」


 やっぱりやばい人だった。

 私なんかよりも、全っ然重い、重すぎる。


「ひょっとして冴さん、私が故障していたのを見てお医者さんになったんですか?」


「あんたみたいな馬鹿な奴ら、少しでも減った方が世の中の為でしょ」


「高校卒業してから走り始めたんですか? 私に勝つために?」


「独学だけれどね。私の走り、経験者のあなたから見たらどこかおかしい?」


 もう怒ったぞ、大声出しちゃいそうだ。

 二十六のいい年した女が、まだ人通りも絶えない公園の路上で。


「どうして、私なんかに影響されて、自分の進路を決めるような真似まねを。この変態、ストーカー」


 少しだけ背が高い冴さんの胸を、私は握りこぶしで叩いてやった。


「……どうして、もっと早く私の前に現れてくれなかったんですか」


 冴さんは苦笑すると、少しさびしい目をした。


「ごめんごめん。あの頃は私、無力だったからさ。でも」


 止め忘れていた私のストップウォッチが、時間の経過を絶え間なく告げ続ける。

 百分の一秒の変化が積み重なって、それはもう一時間を優に超えていた。


「今だったら、真琴さんの役に立てるんじゃないかなって」


 勝手なこと言わないで。

 役に立つ、ってなんだよ。

 そんなことはどうでもいいんだよ。


 私と冴さんは、お互いの背中に腕を回したまま、しばらく黙っていた。

 まだ新しい彼女の汗のにおいが、私のそれと混じり合う。


「それで、あらためて問うけれど。一緒にレース出てみない、私と」


「でも冴さん。いまさら私、その」


「もう、あなたって体育会系のくせにまどろっこしいわね。いいから、黙って私についてきなさいよ」


 冴さんは、その細腕に力を込めた。


「昔なくしちゃった夢、一緒に見てあげるからさ」


 馬鹿だなあ、私。

 陸上ができなくなったからこそつながるえんだってあるのに、目も耳もふさいだままで。

 冴さんを、ずっと待たせて。


 それにしても彼女だって、私に劣らず大馬鹿だよ。

 なんたって八年だよ八年、信じられる?


 冴さんはゆっくりと私を引き離すと、夕日で修飾しゅうしょくされた赤い顔を隠すように背中を向けた。


「ちょっと冷えてきたね。もう少し走ろうか」


「うん」


 軽く走り始めた彼女に、私は少し遅れてついていく。


 そのきれいな背中、追いかけさせてよ。

 必ずあなたを、どこかで捕まえてみせる。

 そしていつか、あなたを越えることが出来たなら、その時には。


 私は隣に並ぶと、ゆるいカーブを二人で抜ける。


「ねえ、冴さん」


「うん?」


「私、レース出てみるよ」


 ペースを変えない冴さんは、いつものポーカーフェイスだ。


「当たり前でしょ。私たちの練習レベルから考えれば、多分ワンツーフィニッシュがねらえる」


「えー、やだ。私、目立ちたくない。職場に走ってることがバレる」


「何言ってるのよ。本気でかかってこないと私に勝てるどころか、背中も見えなくなるわよ」


「それは絶対いや」


 負けず嫌いの私のペースが上がった。




「選手招集しょうしゅうです。十キロレース、女子の部に出場の方は、スタートラインの近くにお集まりください」


 すでにスタートラインに陣取じんどっていた私はそのアナウンスを聞くと、隣にいる冴の脇腹わきばらを肘でつついた。

 二人とも当然のように、露出度満点のガチのレーススタイルだ。


「どうする冴。女子、だって。私たちってもうアラサーじゃん、女子なんて呼ばれていいの?」


 もはや私たちは、お互いを呼びすてしあう仲なのだ。

 何がどうなったかって?

 それは言わない、察してよ。


「馬鹿、周り見てみなさいよ。市民マラソンなんて、私たちより年上のベテラン先輩ばっかりじゃない」


 レースなど高校生の時以来の私は、都心に出てきた田舎者よろしく、物めずらしさにきょろきょろするばかりである。


「そうは言うけれど、あの短パンの女の子見てよ。体つきまってて、結構速そう」


 私が指さす方をちらりと見た冴は、鼻で笑った。


「ふん、目じゃないわ。良くて三位ね」


「ちょ。何を根拠に」


「簡単。真琴の方が可愛い」


 あー、この女は。

 自分たち以外は眼中にないってか。


「冴。あんたそれって、自分が一番かわいいって言ってるでしょ」


 くっくと笑った彼女の横顔は、私の発言が誇張こちょうではない事を証明していた。


「ばれたか。でもね、私は一番が好き」


 冴は右の人差し指をまっすぐに立てると、きらきらと輝く目で私を見た。


「研修期間が終わってこっちに戻ってきたばかりだから、去年は二回しかレースに出れなかったけれど、二回とも一番だったし。レースに出るからには、やっぱり一番を狙わないとね」


 憎らしくなった私は、彼女の手をぺしりと払う。

 こちとら走ることしか取りがないんだ、せめてレースでは引き下がれるかよ。


「ざーんねん。今回は私が、初レースで初優勝してやる。練習では冴と五分五分だもの、十分に勝機はあるわ」


「……ふうん。まあ、それもいいか」


 売り言葉に買い言葉で返してくる、という自分の予想が外れたことに、私は肩透かしを食らった。


「え、いつになく殊勝しゅしょうな態度じゃない。あんた、一番が好きじゃなかったの?」


 シューズの靴紐くつひもを結び直しながら、彼女がぼそりとつぶやいた。


「あなたの一番だったら、私はそれでいいから」


「……っ」


 火が付いたように熱くなった私の背中を、冴がばしんと叩いた。


「ほら真琴、気合入れていくよ。私たちのレース、きっと誰にも邪魔じゃまできないからさ」


「オーケー、冴。待ってなさいよ、優勝賞品!」




「スタート十秒前。五秒前……」


 晴れた国道の空に、再びアナウンスの声がひびく。

 目の前に広がった冴の背中のナンバーカードに、私はそっと触れた。

 後ろ手に私の手を強く握り返した彼女が、振り向いてほがらかに笑う。


 止まっていた時間が、再び動き始める。

 途中棄権きけんなんて論外。


 号砲ごうほうとともに、私と冴はストップウォッチのボタンを同時に押すと、果てしなく続く路上へと飛び出した。

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