楽園の小さな午後

沢城 据太郎

楽園の小さな午後





「楽園の、定義について考えているんだ」




 眩い日差しを避ける幌が張られたテラスの下、アキノリくんがそんな事を言い出す。


「……楽園の、定義?」


 突拍子も無いアキノリくんの言葉にわたし、こと北井芽衣(きたいめい)は訊き返す。いや、突拍子が無い事は無いのか? わたしは改めて日陰の向こうの風景を見渡す。


 そこは何処までも広がる様にすら思える広大な白い砂浜。

 吸い込まれそうなほど果てしない快晴の青空。

 本当に海の底が透けて見えてしまう程の透明度のエメラルドグリーンの海。

 これは光が反射して眩しいというのとは少し違うと思う。人の心を動かす美しさが渾然一体なったゆえの『眩しさ』ではないだろうか? 

 そして、穢れの無い砂浜とキラキラと透明に輝く波が寄せては返す波打ち際で戯れるまばらな数の家族連れに、カップル。みんな笑顔だ。




 八月上旬、沖縄の夏。

 大学の映画部の合宿の自由時間で、わたしとアキノリくんは成り行きで、ホテルに併設された海の家と呼ぶには余りにもお洒落過ぎるオープンカフェチックな海の家で休憩中。シチュエーションがばっちり過ぎていて現実の光景と素直に思えない。なるほど、これは『楽園』である。




「楽園ってここみたいなものの事?」


 わたしは、わたしとアキノリくんの目の前に広がる風景を掌で窓を拭く様になぞりながらアキノリくんに訊く。


「うん、比喩的な意味ではここは楽園だろうな」


 メロンソーダの入ったグラスふたつを乗せたテーブルを挟んで、アキノリくんは眉間に皺を寄せて海の向こうを凝視しながらわたしの質問に深刻ぶって応える。




「いろんな宗教に共通して所謂天国や楽園と似た装置が規定されている訳なんだけど、楽園の共通した定義の一つに『現世のあらゆる憂いから解放される場所』っていうのが有る」


 想像以上にガッツリと話し込みたい気分らしい。


 わたしは海側に向けていた上体を真っ直ぐアキノリくんに向け、居住いを正した。 アキノリくんは視線こそこちらに向けているけれど、身体の方は相変わらず海の方を向いていた。




「あらゆる憂い……? 定義としてはそうなのか。天国で人が悩んでいるなんて話はあんまり訊かないよね」


 わたしの真剣に話を訊く態度に気付いたアキノリくんは大袈裟に慌てて、身体を真っ直ぐわたしに向けて座り直した。ちょっと嬉しい。


「この『憂いから解放される』っていうのが物凄い曲者だと思うんだ」


 アキノリくんはテーブルに肘をついて僅かに身を乗り出す。


「というと?」


「例えば北井さんがアダムとイブが追放された『後』のエデンの園の住人だと想像してみて欲しい」


 アキノリくんは大真面目な顔でそんな事を言う。


「……? アダムとイブって最初の人間でしょ? 他に住人なんか居たの?」


「まぁ、居るさ。鹿とか馬とか、動物が」


 わたしは眉間に皺を寄せ、一瞬だけ素直にちゃんと考え込んだ。が、諦めた。


「いや、エデンの園の動物が何を考えているかとか全く想像が付かない」


「ああ、オレも想像が付かないだろうなぁと思いながら無茶振りした」


「ふざけんなぁ!」


 わたしは笑いながらアキノリくんの二の腕を叩いた。アキノリくんも笑っている。


「あはは、ごめん、ちゃんと説明する。

 まぁ、アダムとイブが楽園追放を喰らった経緯は突っ込み所は多々あるだろうけどここではどうでもいい。罪を犯して追放されたんだからしょうがない。人間が二人居なくなったところで残った動物達にはその楽園の完全性は揺るがないだろう。ただ、アダムとイブが居なくなった事ともう一つ、エデンの園には大きな変化が訪れた」


「ふむ?」


「エデンの園の東に、炎の剣を持った智天使が現れた。アダムとイブがエデンの園に戻ってこないようにする門番だね」


「門番の、天使……」


「まぁ、人間に対する戒めっていう意味合いが一番大きいんだろうけれど、楽園の完全性を守るための存在だったという見方もできる。ただそれって、エデンの園の内側に住む動物達にとっては『どう』なんだろうな?」


「『どう』って?」


「中の動物達は相変わらず楽園の恩恵を享受できる訳だけれど天使が一人ずっと門番をしているんだ。楽園の中でただ一人神様に任せられた仕事を淡々とこなしている。動物達にとってそれって、何だか後ろめたいことじゃないのか?」


「あー……」


 アキノリくんが言いたい事がようやく大体わかった。


「『憂い』が生まれる訳だね、楽園の住人達に。天使に仕事をさせてしまっているという『憂い』が」


「そういう事」


「……鹿や馬がそこまで考えるかな?」


「天使や神様の気苦労に一切気付かない者だけが楽園の恩恵を真に享受できるっていう世界観も中々えげつないな」


 アキノリくんはにやりと笑いながらまた視線を波打ち際に戻した。


「『地上の楽園』とかいう比喩を聞くとちょくちょくこういうことを考えてしまうんだよ。子供の頃にテーマパークとかに行くとめちゃくちゃ楽しくても、順番待ちの整理を笑顔で頑張ってやってるスタッフとか見ると急に現実に引き戻される。そのスタッフの気苦労とか想像しちゃうの」


「……中々穿った見方をする子供だったんだね」


 わたしは恐る恐る揶揄った。


「ああ、厭な子供だったよ」


 アキノリくんは自嘲気味に笑った。


 わたしもアキノリくんと同じ方向、波打ち際で戯れる人々の中の一区画に目を遣った。




 そこに居るのは一組のカップル、映画部の志藤聖治(しどうせいじ)と水瀬美園(みずせみその)だ。

 二人でじゃれ合いながら脛の辺りまでの海に浸かって手を繋いで、貝殻を拾い上げたり小魚の群れを見つけてはしゃいだりしている。




 その様をアキノリくんは、険しい表情で眺めている。




 志藤くんと美園ちゃんが付き合っているという事実が映画部内で公になった時、映画部内において男女共に大量の失恋者が発生した。

 双方絵に描いた様な美男美女で、部員達の大部分は少なからず彼・彼女に好意を持っていて、その一部はかなり本気だったらしいという事が方々で行われた聞き取りにより明らかになっている。

 そう、アキノリくんも美園ちゃんに割と本気だった男の一人なのだ。


 二人の笑顔がさざめき、弾け合う。

 相手を慈しむ甘い笑みと子供のようにはしゃぐ屈託の無い笑顔を織り交ぜながら。 

 穢れ無く輝く空と海と砂浜で行われるそれは、世界の幸せを押し固めたようで、完膚無きまでに美しい光景だった。


 水瀬美園ちゃんはわたしから見ても完璧と呼んでも差し支えない女の子だった。美人だけどチャーミングさが滲み出る容姿に気さくで機転が利いておまけに優しい。部活運営の仕事も楽し気にきっちりこなす。完璧というか、彼女自身に屈託が一切無いので嫉妬心すら起きない。

 志藤くんと付き合い始めた時は映画部の女の子達から阿鼻叫喚が湧き上がったのだけれど、相手が美園ちゃんだった事でみんな諦めが付いた部分が有ったと思う。そりゃあまぁ、そこそこ胸が有るのに太っている印象を一切与えないプロポーションに水色のビキニを身に付けて、上品にウェーブのかかったほんの少しだけ染めたロングヘア―を揺らしながらあんな子供みたいな可愛らしい笑顔を向けられたらくらっと来ない男は居ないだろうさ(嫉妬心の発露では無い、道理の話をしている)。




「多川(たがわ)くん」


 わたしはアキノリくんの苗字を呼ぶ。


「なに?」


「この風景は多川くんにとっては楽園、では無いよね?」


 アキノリくんの胸にナイフを突き立てる感触を掌に感じながらわたしはアキノリくんに尋ねた。

 ただこれは、アキノリくんのネタ振りだ。志藤聖治✕水瀬美園カップル誕生により量産された失恋者達はしばしば――二者が与り知らない場所で自分の失恋をネタにする。笑いに転化しないとやってられないという訳だ。アキノリくんはそういう、失恋をネタにしてしまっている一人で、それをわたしも認識している事をわかっている。 

 わたしの前で剣呑な顔で黙って問題のカップルを凝視しているという事は、何か言ってくれというネタ振りなのだ。




「楽園の風景と言うより、アレだな……」


 胸に付き立てられたナイフに臆する事無く、考え込む様な素振りをしつつ口を開く。


「『マルコヴィッチの穴』のラストシーンでの主人公の視点に近い光景だな」




 ……危なかった、メロンソーダを口に含んでいたら確実に噴き出していた。




「え……、『あの』シーン?」


 代わりにわたしはテーブルに身を乗り出して驚きをアピールする。


「ああ、『あの』シーン」


「あの、口に出すのも憚られるというか、『閉じ込められてる』シーンだよね?」


「ああ、それ」


「……相当重症じゃない?」


 わたしの、若干心配すら含んだ驚きにアキノリくんはちょっと物怖じし「……流石にあそこまで酷くは無いか」と思い巡らせたが


「いや、系統は同じだな。熱量はオレの方が低いけどベクトルは同じ」


と結論付けた。


「……結構まだ傷が癒えてなかったりする? 話したくないとか?」


「いやいやいやいや、大丈夫まだ大丈夫。ちょっと大袈裟に言い過ぎた」


 まだ大丈夫とか言っちゃったよアキノリくん。匙加減難しいな……。




「いやまぁ、話し戻すけど、ここは確かに地上の楽園と呼んで差支え無いと思う。海と砂浜とか、そこで遊んでいるカップルとか家族連れとか。何も考えずにボーッと眺めている限りでは美しいとしか言い様の無い風景だよ。ただそれは、自分の中の憂いを意識するまでの間だけの話だね」


「憂いを意識しない限りにおいては楽園である、と?」


「そういう事。オレがもし天国に行けたとしても、そこを運営する神仏の苦労に感じ入って憂いに満ちた日々を送る自信が有るね。そして『ここは楽園とは、天国とは呼べない!』とか声高に叫び出すだろうぜ」


「あはは、迷惑なお客さんだ」


 わたしは小さく手を叩いて爆笑した。


 


 ……そこに居る者の自覚で、あらゆる場所が楽園になり得るしそうでない物にもなり得る。


 世界の果ての様な美しい光景の中で、大学生二人のバカ話が小さく瞬いて、その一部になっていくような感覚が、この光景を客観視しているもう一人のわたしには感じられるようだった。


 楽園のスペックを、もう一度確認してみよう。


 最果ての様な風景。


 吸い込まれそうな青空。


 眩しい砂浜。


 海の果てまで見えてしまいそうな透明な海。


 まばらに戯れる、幸せそうな家族やカップル。


 海の家と呼ぶにはお洒落過ぎるオープンテラス。


 テーブルに二つ並んだ飲みかけのメロンソーダ。


 最果てのような風景の中で二人きりみたいにテーブルを挟むわたしとアキノリくん。


 向かいに座るサーフパンツ姿のアキノリくん。


 細身だけど引き締まっている身体。高校の頃卓球部部員で、全国大会を狙えるレベルの実力だったらしい。


 短く切り揃えられた髪と彫りの深い顔立ち。視線は憂いに満ちてその先のカップルに向けられている。


 向かいに座るわたし。


 花柄が散りばめられた白のビキニにパーカーを羽織っただけの姿。


 高鳴り続けている胸とそれが悟られない様に平静を装い続けている表情。


 ……なるほど、ここは憂いに満ち溢れている。憂いに満ち溢れているけれど、海岸線を眺めながらアキノリくんと他愛の無い会話を繰り広げるこの時間は地上の楽園以外の何者でも無かった。憂いに満ちた、とても脆いひと時だけの楽園。


「しっかし絵になるよな、あの二人」


「そうだよねぇ……」


 相変わらず海岸の方を見ながらアキノリくんは言う。海岸を見たいからだけではなくて、わたしに視線を向け辛いから海岸を見ているのだという事は実は気付いている。海から上がった時、パーカーの前のジッパーを閉めようかと思ったけど敢えて止めた。何にも気付いていない振りをして羽織っただけで、身体にパーカーの裾が乗らない様に椅子に座った。胸元とか、身体のラインがアキノリくんからはっきり見えるようにするために。わたしと面と向かって会話をしながら、視線が下の方を向いていた瞬間が何度か見て取れた。自分の大胆さにいよいよ体が熱くなってしまったけれど、自分がちゃんと異性として意識されているという事は大きな収穫だった。




「北井さん的に志藤ってどうなの? やっぱり格好良い?」


 アキノリくんが純粋に質問する。


「うん、格好良い」


 わたしは屈託が無い風に答える。


「お喋りは面白いし、スマートでがつがつしてない感じが凄く好感が持てる」


「ほう……」


「ただ、わたしとしてはちょっとしんどいかなっていう部分もある」


「……そうなの?」


「凄く女の子慣れしてる所が有って、恋愛経験が乏しい娘が付き合っちゃうと卒無くエスコートされちゃうばっかりで多分志藤くんにつまんない思いをさせると思う。優良物件過ぎて難易度が高い」


 アキノリくんは感心したように唸った後で


「それ志藤に直接言ってやれよ。スゲェ驚くぜ」


などと宣ってお道化る。


「言えるか! 馬鹿ぁ!」


 お互い爆笑している中、わたしはアキノリくんの肩を叩いた。


 あはは、馬鹿みたいにもどかしい。でもそれ以上に全部がキラキラ輝いている。


 憂いが有る場所は楽園では無いってアキノリくんは言うけど、悪いけどわたしは間違いだと思う。だってここは今らくえ


「よぉ、多川もホテルに居たんだな」




 


 アキノリくんの背後から別の男の人の声がして、声の主がアキノリくんの肩に手を乗せる。


「っ! 平坂(ひらさか)か」


 アキノリくんは少し驚いて声の方へ振り向く。極端な程の金髪ににやけ笑いを浮かべた映画部部員の平坂くんが立っていた。北井さんもおひさ~と手を振って来るのでわたしは大袈裟になり過ぎない笑顔で手を振り返す。


 平坂くんの後ろから他にも二人、水着姿の男子が歩いてくる。痩せているけど長身で冗談みたいに大きな黒縁眼鏡を掛けた河尾(かわお)くんとどんぐりみたいな坊主頭で恰幅の良い田山(たやま)くん。


「他の部員ってどこに居るの?」


 田山くんがわたし達に尋ねる。


「ああ、副部長が学園祭用の映像のロケハンするとかで一年生引き連れてホテル出て行ってたよ。部長が『今日は有志だけでいい』って言ってたからオレ達は残った」


 アキノリくんが掻い摘んで答えた。


「てか、部長から何も訊いてない?」


「いや、オレらは副部長が何か不穏な事をやろうとしているのを空気で感じ取ったから逃げ回っていた」


 平坂くんの発言に他二人もしみじみと頷いた。


「じゃあ、ホテルに残っているのは僕達だけか」


 田山くんが改めて訊くので、わたしは「ああ、志藤くんと美園ちゃんはあそこに居るよ」と海の向こうを指差した。男達三人の視線が一斉に海に向かった。そして三者三様に険しい表情を作った。まぁ……、四人揃って失恋ネタカルテットなのだ。


「はぇ~、やっぱり海辺の二人は絵になるねぇ~」


 河尾くんはやけくそ、と言うより純粋な感想としてしみじみと呟き両手をピストルの形にして窓枠、仮想のディスプレイを作って二人の戯れる様を二次元の中に納めた。画家とか映画監督みたいに。いや、河尾くんも映画を撮った事があるから『みたいに』というのはおかしいのか。そう言えば、志藤くんか美園ちゃんが主演をしている部員達の自主映画は無数に観た事があるけれど、二人が共演している映画はひとつとして観た事が無い気がする、何故か。


「志藤とイチャついてる美園ちゃんの姿を眺めてるとかどうなの? マゾなの?」


「不可抗力だよ。あと、志藤とイチャついてる水瀬さん眺めてる時に男に肩を抱かれると死にたい気持ちになるから止めてくんない?」


 平坂くんに肩を抱かれながら辛辣な言葉を返すアキノリくんに田山くんはくすくす笑っている。


 ていうかこの三人、


 明らかにこのまま海で泳ごうとしていたのに、志藤くんと美園ちゃんの姿を見た瞬間、砂浜に繰り出そうとする気配が完全に消え失せている。何だかんだでカップルの二人に気を利かせてやろうという優しさは好ましいと思うけれど、その気配りがあるならわたしとアキノリくんの事も放っておいてくれなかったのだろうか? あと、会話の流れが「なら五人でどう時間を潰す?」みたいな感じになり始めている。マジか……。




 わたしは、おもむろにパーカーのジッパーを閉じてメロンソーダのストローに唇を付ける。かつての楽園の味は解けた氷で薄まって、全く甘くなかった。




 夏休み中か、大学が再開した直後か、必ず一度アキノリくんを食事に誘おうと心に決めた。




 多分そこは憂いに満ちて、かつ全く楽園とは呼べない場所なのだろうけれど、まぁ、それはそれで。






                                             FIN


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

楽園の小さな午後 沢城 据太郎 @aliceofboy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ