競争社会について(山田玲司の言葉に触発された文章)

島尾

結果が全てだから。という言葉の実像


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 私がこの文章を書くきっかけになったのは、山田玲司さんのyoutubeチャンネル「山田玲司のヤングサンデー」内の動画、「『資本主義』とは何か?【ディスカバリー現代言語講座 レジペディア】」を視聴したことです。


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 私が精神を病んで、しかも加速度的に悪化していたのはちょうど一年前の今頃でした。「結果がすべて」という言葉をありとあらゆる人から聞かされて、一方で自分は「そうじゃない」という自分だけの思いを秘めたまま、日々を過ごしていました。「そうじゃない」と言えるほど社会的にも精神的にも強くはないからです。

 とはいえ、なぜ「そうじゃない」と言えるのか説明せよと言われればできませんでした。なんとなくそう思っているだけで、実際には周りの人たちが言う「結果主義」が正しいんだと諦めていました。


 そんなとき、偶然、山田玲司が資本主義というシステムについて熱く語っている動画を見つけました。彼は「資本主義とは結果がすべての勝ち負けの世界」だと解釈し、そこに「美」「情」が無いという致命的な欠陥を指摘していました。


A. 美について



 私が初めて美を感じたのは、おそらく小学生のときに陶器を見た瞬間です。それから中学時代に元素の周期表に出会ったとき、そして大学時代に「恋愛」というものの片鱗に触れたとき、そして自分一人で旅行に行って自然界に自分の全身を浸したとき、です。もちろんこれらは一例に過ぎず、数々の美を経験し堪能してきました。美が、私の心の緊張と退屈から解き放ってくれた回数は数え切れません。


 ところで、高校時代の私は「数学の校内実力テストで1位を取ったら自分には価値がある、取れなければ価値がない」という大変極端な思想に溺れていました。他の生徒に対し怒りや対抗心、憎悪などのきわめてネガディブで不幸な考えを駆動源とし、結果1位を2,3回取ることができました。今、そのときの自分の気持ちを鮮明に思い出せます。「よっしゃ」です。それで終わりです。確かに幸福感はありましたが、自分の心を傷つける努力をして最終的に得たものは「よっしゃ」、それだけでした。そんなただ一つだけのことで喜んでいる自分がいました。一方で周囲の人は数学で1位でもなければ国語で1位でもなく、英語で1位でもなければ物理化学生物や地理歴史政治経済倫理で1位でもなかったはずなのに、ほとんどの人が笑顔でした。ほとんどの人が普通にしゃべることができ、ほとんどの人が普通に動くことができ、ほとんどの人が普通に生活できているように見えました。

「数学のテストで1位」という結果がすべてではないことが、今となっては明々白々だと分かっています。「何々で1位」、ひいいては「何々ができたから価値がある」という、最終結果だけが注目されてそこに至るプロセスを評価してくれる人が(自分自身を含め)誰もいないということは、不幸にしかならないという経験を何度となくしてきました。「この世界は結果がすべてだから」(父親)、「結果を出さないと意味が無い」(とある関係者)、「結果がすべて、まさにその通り」(別の関係者)。しかしその「結果」には、「美」はありません。あるのは「達成感」「嬉しさ」であって、それは時間が経つと消えゆくものではないかと思います。「あのときは最高だったなぁ」という言葉をつぶやいたときに、それが「何か結果が出たその瞬間」を指す場合は「美」と言えないと個人的に思います。「美」は、ある時刻において経験すればその後は時間に依存せず常に存在可能であり、「あのときは本当に最高だった」と言えるものだと思います。「いつでも会える」という言葉で表現してもよいでしょう。その時を思い出した瞬間その時にタイムスリップし、その時を脳内で経験できるのです。懐古主義や、「あのときに比べて今の自分は……」などという思想には決してなり得ないものだと思います。





B. 情について



 一人で旅行していたときに、声をかけられたことがあります。なぜかというと、真っ暗な夜に一人で浜辺を歩いていたからです。「あの人、自殺する気⁉」と思われたのでしょうか。実際には夜の浜辺を深く観察して美を見出していたのですが笑。

 知らない土地の知らない人が声をかけてくれるという経験を、そのときまでしたことがありませんでした。厳密には、「~してくれる」という贈与の気持ちを受け取ったことがなかったと表現できます。習い事や勉強の機会を与えてくれた親や先生は、「術」を与えてくれたようなものであり、どこか物質的(あるいは完全に物質)でした。「できない」ならば「怒られる」、「できた」ならば「褒められる」という、条件の真逆の変化に応じて相手の態度も真逆になる経験が圧倒的に多かった人生です。いつしか知らない人を恐怖し、声をかけて「くれる」誰かが急激に減ってしまいました。

 こんな暗いことを述べたいわけではありません。「情」は、下地に「美」があるのではないかと述べたいのです。一人で旅行することの美を体験していた最中に声をかけられた私は、その人が情を注いでくれていると「感じ」ました。親や先生が心配して声をかけて「くれる」とき、情を注いでいるのは「分かり」ますが、「感じ」ることはできないです。そう言えば確かに、彼らとの関係に「美」を見出すことは不能です。「できない」ならば「怒られる」、「できた」ならば「褒められる」という「支配-被支配の関係」の中では、普通に考えて「美」は生まれにくいでしょう。



「結果がすべて」という言葉は、資本主義社会における競争の勝敗結果を意識しすぎるがあまり出てくる極論で、負けたらもはや対象に関する楽しみが消え失せ、勝ったら勝ったでそれは「勝っただけ」の虚無的状態になるという「結果が出た後の世界」を一度も考えずに無視している態度に思います。「負けた自分はクズ」と自己否定したり、「勝った自分は偉い」などと自分に判を押したりするのは早急であり、浅はかな脳髄の状態だと思います。これは山田玲司が述べていたことを聞いて感じた感想ですが、誰にでも分かりやすくて非常に低級な例えを出すと、オナニーだと思います。妄想やAVで気持ちをたかぶらせてイった後、「今まで俺は何をやってんたんだ」というふうになります。女の人のほうは知りませんが、少なくともオナニーでイくという「結果」を出して満足するだけの人間は明らかに人間として低次です。そんなことはサルでもイヌでもできるのですから。



「結果がすべて」と本気で言いたいのならば、結果に至るプロセスと結果が出た後の影響をもすべて含めて、その上で「結果がすべて」と公言すべきではないでしょうか。山を上っているときも「結果」、下っているときも「結果」、もちろん頂上に到達したときも「結果」です。しかし人間は逐一1個1個のプロセスを気にしていられないし、また、先のことなど知る由もない中で、資本主義システムの奴隷に成り下がったような伽藍洞のメンタルで「結果はすべて」と言い捨てるのはいささか乱暴ではないでしょうか。そもそも「すべて」とは何でしょうか。人間が「すべて」をとくとくと語れるほど豊富な知性に恵まれる時など、永遠に来ないと思います。



 こんなことをタラタラ書くのは、屁理屈かもしれません。ですが、心を病んでいたり心が落ち込んでいる方には、発想の転換という意味でリフレッシュ効果があるかもしれません。プロセスも結果、結果はもちろん結果、その後の予言不可能な未来も結果。だから「結果がすべて」なんて言われても「人力でどうにかなる範囲を大きく逸脱している、だからそんなことを簡単に言うな」と心の中で反撃してみてはいかがでしょうか。そして、資本主義における結果主義のシステムの裏に隠れて目立たなくなっている「美」や「情」にもっともっと関心を向けても全然いいんじゃないでしょうか。

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競争社会について(山田玲司の言葉に触発された文章) 島尾 @shimaoshimao

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