第12話

 凡夫ただおが身悶えし始めたのは、無論不意打ちで口腔を侵されたこともあろうし、侵入はいってきた妖の指が否応なしに雌の柔らかさを彷彿させたこともあろう、何なら乳の味と誑かされ悲しき雄の性が律動したというのも遠からず、またその淡い期待と裏腹な、鮮烈な酸味に咽せかけたというのも理由の一には挙げられるに違いない。けれどもそのようなことよりも何よりも、


「暴れるでないわ。どうせこうでもせんと、吾の手から食べようとせんでしょう、おんしは」


と妖がいみじくも言い当てた通り。そんな白々と儚げな、銀竜草もかくやという指先の、貪欲の臭み芬々たる男の唾に塗れるのは忍びなや。などという、清貧の僧というより初夜も未だの少年じみた恥じらいを、この五つ目に見透かされたのが凡夫には一等、堪えたようで。

 指を抜かれた凡夫はとにもかくにもまずは口内に残る果実を嚥下して、荒く一息、そして、


「何が甘やで滋味深きだ、この野郎。酸っぱいばっかりじゃねぇか」


と芸も何もなく吠えよった。妖はあくまでも優しげな声音のままで、たわけと一捻り。


「お頭を使うて、よぅ考えなさいませ。酸っぱいとしか思われぬのは、己のせい。含む寸でのところでこの子に邪念を読まれたのでしょう」

「んな莫迦な。お前さんこそ、本当は酸っぱいところを甘いと言い張ってるだけじゃねぇだろうな」

「そう思いたくば、お好きになさい。どの道、おんしに修行が足りぬということは変わりゃしませんが」

「畜生、ぐぅの音も出ねぇ正論を言いやがる」

「ホホホ、まぁおんしもじきに味わえるようになりましょ……因みに。少々味は落ちますが、慣れてくれば自らの手でも食べられはしますがの」


 その言葉通りに妖は凡夫のかいなより、直に実を毟ってムシャムシャとやり出した。一口、二口、三口、手が木の実と口とを往復する度に、凡夫は眉間に皺寄せ妖の顔つきを観たけれど、口を窄めて酸味に堪える相はついに現れない。ばかりか口周りに赤黒い汁がベッタリ付くのも意に介さず頬張る様は、どうにも一芝居打つ者のていとは思われず。

 これはそも、妖と人では味覚が異なるの道理であるか。或いは「甘い」の語を違って覚えたか。例えば「こわい」というのも北に向かえば「しんどい」の、西に行けば「硬い」の意で通ることがあるように、この妖もどこぞで風変わりな用い方を吹き込まれたのやもしれぬ、いやきっとそうだ、甘いは未熟の意も持つのであるからして、旬の美味には時期尚早、未だ酸い、青さが残ると評したのだ、うむ、是で全てが繋がった――さもなくば仏滅後のいまの世に、よもや妖怪風情に涅槃道を説かれねばならぬほどに人間の機根が落魄おちぶれたのだと傍証することになりかねぬ――ところで己一個の醜態を人類全体にまで拡張するのは、悲観論者の好んで嵌りたがる陥穽であるが、凡夫を妄想モウゾウの泥沼より引き上げたのはやはり妖、


「これ、何をぼさっとしておられます」


と耳に届いたときには凡夫の眼前から消えてあった。とはいえ隔たるはせいぜい手の鳴る方へと囃すほどの、沢の上流にて足を浸した見返り姿。けれども逆光が凡夫に見せたのはたれの、遥か遠く、己を置き去りにして去らんかという、まやかしで、


「どこに行きやがる」


と背中にぶつけた声の、焦りに濁ったのは実に、らしくもない。


「そんなもの、吾らのねぐらに決まっておりましょう。ここから沢を上ってゆくのが一番の近道じゃ」

「……われ、ら?」

「違いましたかね。草の枕がお好みとあらば、止めやしませんけども」


 妖は素気無く応えてそれっきり、黙して水の道をバチャバチャと音高く歩み出す。慌てて凡夫が後を追う。沢に足を、つけかけたところで草履履きに気づくが遅し。ざぶりとやって、懐にでもと思ったものの木の実が邪魔で、とうとう脱ぎ捨て追い縋る。妖は振り向かない。案ずるのも冷やかすのも間が悪いと心得る、この辺りは人よりも人がましい。その気遣いを――薄々感づいていたろうに――


「なぁ、おい」


一度で無に帰せしむる、愚かな振舞いに凡夫を駆り立てたのは。これだけはどうしても聞いておかねばならぬ、たったひとつの問いであり。


「今更こんなことを尋ねるのは何だがよ……お前さんのことは、何て呼べばいい」


水撥ねが止んだ。


「――ほんに、いまさらな。前にも言いましたが、吾らは名を付ける習慣を持ちません。いちいち呼び合わずとも、意思疎通には困りませぬゆえ」

「お前さんらはそれでよくとも、こっちはそうもいかねぇのよ。名が無くっちゃ、不自由で敵わん」

「名がある方がよほど不自由でしょうに……まぁよろしい。それならおんしが付けてたもれ。吾に相応しいと思う名を、の」


 唐突な催促に凡夫は面食らうたが、ここで有耶無耶にするのが無粋なくらいは承知してある――しかしまさか五つ目などと、鳥獣の学名と同じ調子ではどんな顰蹙を買うたものやら。とはいえ人に付けるのと変わらぬのもどうか、うぬのコレかと小指を立てられそうで気が引ける。はてさて――難儀するかと思うたところ、ふと凡夫の頭に閃くものがあって、其の名は口からするりと零れ出た。


「――さい。よし、お前さんのことは、さいと呼ぶこととしよう」

「ほぅ。さい、とな。して、その名のこころや如何」

「こころだとぅ……そんな仰々しいモンじゃねぇが、いろどりという字をあてた、それだけだ。何か文句があるかぃ」

「文句などということは、決して。さい……佳い響きです」


 莞爾にこりと咲いた妖の微笑みに、凡夫は情けなくも目を逸らした。いや逸らす他なかったのだ、気恥ずかしさと、そして後ろめたさのゆえに。彩の字から採ったなんぞ今でっちあげた大嘘で、実のところは賽子さいころの賽からとったのだ、この無礼者。


「かような佳き名を賜ったからには、それなりの礼を尽くさせていただきましょう」

「おい止せやぃ、名付けたくらいで大仰な」

「なに、遠慮なさいますな。そら、褒美じゃ」


妖がそう告げたのと、凡夫の面を大筒が襲ったのがほぼ同時――哀れ凡夫の総身はずぶ濡れに。


「ホホホ、では改めて参りましょうか」


 再び川上へ向かい歩み出したる妖、もといさいの背へ、待ちやがれと喚きたくも叶わない。目、鼻、口、穴という穴に鉄砲水を食らうた凡夫はあのツンとくる独特の痛覚に悶えることで手一杯で、何事が起ったか、考えることすらおぼつかぬ。ややあって、目を擦り、鼻啜り、咳き込みつつも何とか絞り出した声は呪詛めいて、おそらくは、ちくしょう、どんなまじないをつかいやがった、と聴こえた。


「おぉ、くわばら、くわばら。これは仕返しの予感がするわぇ。いつ背後から襲われるのかしらん。彩の五つ目では足らんのぅ。

「気づいてて黙ってたんじゃねぇか、このさとり妖怪め!」

「恨み言なら後になさいな。ホレホレ、今度こそ置いてゆきますよ――」


 彩は駆けた、優美に地を蹴る豹のように。凡夫も駆けた、こちらは足縺れさせた駄馬の如く。ぐぅんぐぅんと、風の唸りさえ聴こえてきそうな疾走に、凡夫は見惚れ、胸焦がれ、離されまいとの一心で、もたつく両の肢へ懸命に鞭打ったれど、所詮は人と妖、距離が開くは必定の、はずなのに。彩の後姿は縮みも膨らみもせず、つかず離れず、心地よき間が変わることなく保たれる。彩が合わせたようにはみえぬ、されど己に超常の力が宿るとも思われぬ、全く以て不可解な。そればかりか、いつの間にやら忙しなき水音は止み、呼気の乱れも有りや無しや。ただひたすらに楽しいと、幼年期にのみ許されるような恍惚感が五体に満ちて、一瞬これは夢幻ではなかろうかと不安が頭を掠めたけども、腕に抱えた珠の子の重さが妙に頼もしい……。

 まぁいいさ。行き着く先があの襤褸屋か否か、直にわかろう――それまでは、と凡夫はすっぱり開き直って、いまは彩と名付けた妖の背中を追いかけるのだ。されどその腹裡はらを知るは凡夫とおそらく彩のみで。傍目には、人に化けた妖怪と、ある種妖怪じみた人間と、ケタケタ、ゲラゲラ、耳ふたぎたき歓声と水飛沫とを盛大に撒き散らしながら、淋しき宵の沢をひたかける奇景の映るばかり。かかる山水図の染みの如き命の二つ、やがては紺と茜のあわいの中へ、溶けて一つとなりにける――


<幕>


***


――ここで一旦、『妖界珍記』は閉幕と致します。まだ序章で始まってもいないじゃねぇかといった具合ですが、それでも一区切りは付きましたので(無理やり区切ったとも言う)。続きを書くかは全くの未定です。まぁ、書かない可能性の方が高いでしょうが。


 今後についてですが、以前書きかけで消去してしまった『翼人像異聞』の執筆を再開しようと思ってます。タイトルは変えるかもしれません。


 まぁこれまで散々まだるっこしい文章を書き散らかしてきましたので、今度のはもう少しスッキリとしたものになるようにするつもりです。お暇な方は、お付き合いくださいませ。それではまた、お会いしましょう。

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妖界珍記 律角夢双 @wasurejizo

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