終章② 彼の旅立ち 〈最終回〉
1998年。夏休みに入ったある日のこと。
バイクにもたれた和さんとわたしは並んで立っていた。場所は大学図書館前の駐車場。
ラーメン・ライダーズの集合場所にいつも使っていた場所だ。
「へえ、歩は野球場に行ってるんだ」
「そう。今日は秋田高校の試合なの」
今年は高校野球のバイトをやらなかった。歩は一人で母校の応援に嬉々として向った。
彼女は和さんと、昨日挨拶を済ましていた。
歩は秋田高校の試合があると可能な限り応援に顔を出していた。
今の三年生は歩のことを知っている最後の学年になる。
彼女がスタンドを歩けば、ベンチ入りできなかった部員たちが気付いてみんな帽子を取り、よく響く声で元気よく挨拶をしてくれる。
彼女を知らない新一年生たちは、よく事情の飲み込めぬまま挨拶をしただろう。
歩が一年生のなかに一人、懐かしい顔を見つけてすれちがうとき、彼女はまわりに気付かれぬよう彼だけに向けてそっと微笑を投げかけたのだと思う。
「わたしね。バイトで貯めたお金がほとんど手付かずで残っているんだけど、使い道考えたの」
「へえ、何買うの?」
「教習所に通って、バイクの免許を取る」
「お、ついに決意したか」
「わたしのことだから、時間がかかるかもしれないけどね」
そして安いのでいいからバイクを買って、高木くんを後ろに乗せてあげるんだ。
「いつかどこかで、お互いバイクで出くわしたら、勝負してください」
「生意気な。いいよ、蹴散らしてやる」
和さんは、今日秋田を離れる。
彼の言葉によれば、少し長い旅に出て気合を入れ直してくるのだそうだ。大学は一年間休学する。それが彼の出した結論だった。
誰もが、和さんならばそのくらいのことをしてもなんら不思議ではないと思っていた。
そして、恐らくもう大学に戻ってこないのではないかという予感を、思っても口に出せずにいた。
行き先は南の方、としか決めていない。それだって怪しいものだ。そういいつつ最初の交差点をいきなり北に曲がりかねないのがこの人なのだ。
「やあ、いたいた。お見送りくらいはしなくちゃと思っていたのよ」
明るい声。コンちゃんがやってきた。
彼女は髪をポニーテールにして、白いTシャツに、ジーンズという出で立ちだった。
わたしも似たような服装だったけど、シンプルな格好をすると実力差が際立ってしまうなあと、改めて思った。
見送りに来たというコンちゃんは、さっぱりとした表情。右手の銀の指輪は外されたままだ。
別れた、というのが周囲の一致した見解だった。
「和也。また会うことがあったら、よろしくね」
「うん、色々ありがとう、コン」
「さみしくはなっちゃうわね。そういえば優斗くんも全然遊んでくれなくなっちゃたし。でも彼は時間の無駄遣いをしたもんだわ。初めから今のように勉強していればいいだけの話だったのにね」
「人間て、そんな機械みたくはいかないもんだよ」
「それでもやらなきゃならないことをやるのが、人間じゃないの」
それからコンちゃんは和さんに向かってもう一度、「時間の無駄よ」と言った。
「コン、俺に言ってるの?」
「そう聞こえた? 違うわよ」
わたしって、そんなに存在感がないだろうか。
横で聞いているのに、和さんとコンちゃんの語気が、ちょっとずつきつめになってきた。
「バイクでどこかをふらふらとさまよって、なにが変わるのかな。具体的にあるのなら、教えてよ」
「このままいたって駄目なんだ。今分かるのはそれだけだよ」
「今わからないのなら、いつまでも分からないわ、きっと」
わたしはどんなに険悪になろうとも、この場を離れるつもりはなかった。
どうしてだろう。自分は部外者だ。二人だけの話を聞き耳立てるような真似は恥とみなす人間であると自負している。しかしわたしもまた、ここで退くわけにはいかなかったのだ。
「言い訳なのよね結局は。やりたくない理由として、夢があるみたいなことをもっともらしく言っているだけなのよ。あなたも、優斗くんも」
「コン、高木のことはいいだろ」
「優斗くんが買ったその日に車を壊しちゃったって聞いたとき、わたしやっぱりなって思った。笑みすら浮かべていたかも知れない。自分の力のなさをごまかそうとする人間の末路なんて、そんなもんなのよ」
和さんはすっとコンちゃんの目の前ににじり寄った。しかし何か見えない壁にさえぎられたかのように動きを止めた。
「何よ」
コンちゃんの目には、いつの間にか涙が浮かんでいた。
「ぶちなさいよお」
和さんは、何も言わなかった。何も言わず、引き返してバイクにまたがった。ヘルメットをかぶってアクセルを吹かし、わたしとコンちゃんの横を走りぬける。
和さん、こんなお別れになっちゃったか。
わたしたちは、どうしてこんなに愚かなんだろう。
コンちゃんが彼を怒らせようとしていたことは明白だったが、下手だよ。
しかしバイクは止まった。駐車場の入り口のところで。
和さんはうつむいていた。わたしとコンちゃんのところは見ない。エンジンの音が響く。
とうとうわたしが一度も乗ることのなかった和さんのバイク。
彼を見つめる、わたしとコンちゃん。
「ねえ、みどり」
「何?」
「わたし自分が間違っているとは思わない」
「うん、そうね」
「わたしは優斗くんを侮辱した。でもそれはわたしの本心なの。彼の失敗はわたしの人生を肯定するものなのよ。ねえ、みどり。わたしたちがいる学校っていうこの場所は、ある意味ではあきらめるための場所なのよ。人は違う言葉を使うかもしれないけど、わたしに言わせればそういうことなの。和也には引き際をちゃんと見極めて欲しかったのに、彼は逃げることを選んだ。結局わたしは最後まで和也をつかまえることができなかった。もう終わりよ」
コンちゃんはわたしに何を求めているのだろうか。わたしが言えたのはこんなことだけだった。
「高木くんの白い車は、最後にとてもきれいな、勇ましい音をわたしに聞かせてくれました。まるで空を飛んだみたいな音だった」
和さんとコンちゃんが互いに理解することは決してないのだろう。コンちゃんはそのためのエネルギーを使いきってしまったのだ。本人にもそれが分かっている。これ以上はお互いをすり減らすだけだということが、分かってしまったのだ。
横に立つコンちゃんにわたしが視線を移した、その瞬間のことだった。
彼女は駆け出していた。
コンちゃんはうさぎのようにひょいっと和さんの後ろに座り、彼の体に手を回す。
バイクは走り出した。
二人は言葉を交わすことなく、コンちゃんがほんの一瞬こちらを一瞥しただけで、わたしから遠ざかっていった。
コンちゃんはヘルメットすらかぶっていなかったが、いまや意に介さないようだった。
自分が決して分かりあうことのできない人間を、彼女はしっかりと抱きしめた。
それは無意味な行為だった。彼女の言葉を借りれば。
きれいなポニーテールが、夏の風と日差しを浴びて自由に揺れていた。
夏休みが明けたころ。教育学部の掲示板に一枚の張り紙があった。
下記のものは、八月二十五日付けで休学
小松 和也
今野 恵
わたしたちは、愚かだ。
浮田幸吉の、空を飛んでからの人生については諸説ある。
住んでいた岡山を所払いになってから移り住んだとされる静岡にお墓があるのだが、そこで九十一歳まで生きて家族に囲まれながら一生を終えたという言い伝えもあれば、また空を飛ぼうとして、そしてまた捕まって、今度こそ処刑されてしまったという話もある。
そもそも、岡山で飛んだ時点で江戸幕府の命により処刑されているという説もあるのだ。
どれが本当なのかは分かっていない。あえて明らかにするのを避けているような節が感じられる。
現実はあくまでも現実的で、事実はあっけないものなのかもしれない。なんの慈悲もなく岡山で打ち首になったというのが本当なのかもしれない。
それがこの世界の姿ならば、わたしは受け入れるだろう。
しかしその一方で、だとしたら静岡にあるお墓は別人のお墓であるか、あるいはまったくの偽物ということになるのだが、わざわざそんなものを作って、彼はこの地で幸せになったのだと語り継ぐものの気持ちも、わたしには理解できるのである。
世間を騒がせた罪に対して浮田幸吉に出されたとされる所払いの処分が、一九九七年に岡山の殿様の子孫によって二百年ぶりに取り下げられたという。
この年の冬に、とても残念な出来事があった。
和さんと牛タンラーメンを食べに行ったラーメン屋『上海』が火事で全焼してしまったのだ。
火がおこったのは平日の夕暮れ時で、店の付近は車でひどく混雑していた。そのために消防車の到着が遅れたのだ。
ラーメン・ライダーズの面々は哀しみにくれた。和さんには誰かが伝えたのだろうか。
あったかい光に包まれた、大きな振り子時計の音が響く場所にわたしが行くことができたのは、結局あの一度きりで、それはまるで夢のなかの出来事に過ぎなかったのではないかという不思議な思いにわたしはとらわれた。
でも、いい夢だった。
お店の夫婦の状況はわたしの耳には伝わってこなかった。しかし数ヶ月後、別な場所に急ごしらえの簡素なつくりではあったが、『上海』は復活した。
新しい場所は、宿敵(一部の人間が勝手に言っているだけだが)時代屋のすぐ近くだった。派閥争いは今後さらに激しさを増していくことだろう。
わたしはある晩一人でその店を訪れた。もう女性一人でラーメン屋に行くことに抵抗などなにもない。すれてしまったものだ。
わたしは牛タンラーメンを注文した。
店の夫婦は以前と同じように、愛想がなかった。
新店舗の中をわたしは見まわした。
手書きのお品書きは、全て新しい紙に書き直されていた。店内の様子はこざっぱりしてしまっていて、以前のような、代々のラーメン好きたちが通い詰めることによって練りに練られた、心地よい空気は、残念ながら、今は失われてしまっていた。
そして覚悟はしていたことだが、あの大きな古い振り子時計は、どこにもその姿を見つけることはできなかった。
わたしはさらに店の中を眺めた。テーブルの下、本棚の影。丸椅子の上。いない。あの生意気な巨猫の姿がない。
わたしは答えを知るのが怖くて、巨猫の行方を店の人に聞く気にはなれなかった。
牛タンラーメンは、変わらずおいしかった。
次は誰かを連れてきて一緒に食べよう。
それともまた一人で来て、遠いところにいる、この店が好きだった彼のことを思い出しながら食べるのもいいかもしれない。
ふと誰かに呼ばれたような気がして振り向くと、懐かしい球体がそこにあった。球体は、己の文法にしたがって何かをわたしにごにゅごにゅと語りかけた。
「心配したじゃないか」
巨猫。また会うことが出来た。嬉しい。
わたしはじとっとこちらを見つめる巨猫の頭に手を伸ばす。
確かに触れたと思った。しかし瞬間、巨猫はぷいっと向こうをむいて、手はまるで透き通ってしまったかのように空振りにおわる。巨猫はわたしの感慨などお構いなしに、のろのろと離れていってしまった。
素直じゃないやつだ。
〈了〉
浮田幸吉の翼 のんぴ @Non-Pi
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