終章
終章① 彼の告白
わたしは、そんなに長生きできない人間なのかもしれないなあ。
古川の病院のベッドで目を覚ましたわたしは、ぼんやりとそんなことを考えていた。不思議とそこに悲観的な感情は含まれていなかった。
親が駆けつけてくれて、以前の病気をお医者さんに説明し、検査を受けた。
あーあ、また心配をかけてしまった。知らせを聞いてわけが分からなかったろう。何がどうなるとわたしが宮城県の道端で倒れなければならないのか。自分だってびっくりだ。
居酒屋でバイトしたときの疲れが抜けきっていないところに、徹夜でドライブなどしたもんだから、体が驚いてしまったようだ。
やわいやつだ。
翌日退院して、実家の本荘に一泊したのち秋田市に戻った。
アパートの留守番電話には、メッセージが何件か入っていた。
由里ちゃんが助けを求める声も残っていた。そして一番うしろには高木くんからのメッセージがあった。
彼はわたしの体を案じていてくれた。それから車が廃車になってしまったことを淡々と話していた。
由里ちゃんから、試験に合格したことを告げる電話が来たのは次の日だった。
「おめでとう、由里ちゃん」
「ありがとう、先生。あのそれで、高木さんの車ってどうなりました?」
「うん、連絡あったよ。ディーラーに持っていったけど、やっぱり無理だった。廃車だって」
「そうですか。わたしのせいですね」
「違う。あなたが負い目を感じてしまったら、高木くんががんばった甲斐がなくなっちゃう。責任があるとすればわたしだよ。わたしがあいつを頼っちゃったからだ」
彼女は電話の向こうでしばらく無言になって、それからかすれた声で「わたし必ず、いい選手になります」と言った。
一月の終わりには大学での試験がたくさんあった。さすがに無理は出来ず、たいした成績ではないが、わたしはどうにか乗り切れた。
高木くんとは、随分長い間会えなかった。彼とて試験があったはずで、最低限の単位は取得できたと伝え聞いた。
しかし四月になって、学校のどこを探しても高木くんの姿を見つけることができなかった。
ラーメン・ライダーズは今年も湯沢の『一文字』に年度初めの春季遠征で出向くことになっていたが、わたしは体調を理由に断った。和さんも欠席にしたそうだ。彼の姿もしばらく見ない。
体調に問題がなかったとしてもわたしはサークルから距離を置いていたと思う。もう潮時だった。
わたしも和さんも、高木くんもいなくて、歩には寂しい思いをさせてしまった。
そして五月。東北地方特有の、冬が何か忘れものでもしたのか急に戻ってきてしまったような冷たい雨の日。わたしはすごく久しぶりに会った高木くんに、告白をされた。
「みどり、俺お前のこと前から好きだったんだ。付き合ってよ」
電話で呼び出されたときから、彼の声のトーンはいつもと違っていた。まるで告白でもするみたいだなあ、変なやつ、と思って学校の側のお店に呼び出されてみれば、本当に告白だった。
わたしは中途半端な笑みを彼に向けた。
「何か言えよ」
「あ、うん」
高木くんは、黒いニット帽に青いウインドブレーカーという姿だった。一緒にバイトをしていたときよりも、もっと疲れているように見えた。
あまりにやにやして黙っていると、また茶化しているものだと思われてしまうかもしれない。何かを言わなければ。でも言葉が出てこないのだ。
しかし、なんだ。
へえ。
高木くんは、わたしのことが好きなんだ。
言葉には表せずとも、彼が思いを伝えてくれた時、わたしの胸の中には今までに感じたことのないような暖かさがあふれ出していた。これは何と名づけるべきものなのだろう。
わたしは自分のなかのその暖かい何かと、それから高木優斗と、真剣に正面から向かい合う覚悟を決めた。でもそれは多分、今突然ではなく、一年かけてゆっくりとわたしの中に芽生えたものだ。
そして告げた。
何かを見せて欲しい。江戸時代の鳥人浮田幸吉のように。
ひどいことをいっているのはわかっている。わたしにそんなことをいう資格があるなんてかけらも思ってはいない。
すごいことならもう見せてくれた。
高木くんが成したことを、わたしは一番近くで見ていたのだ。
彼は自らの敗北に屈しなかった、受け入れ、跳ね除けようとした。自分の中に新たに築き直さんとする勇気の象徴として彼は、白いあの車を求めたのだ。
そしてやりとげた。彼は報われるに値するだけのことを十分に為した。復活の第一歩が踏み出されるのは誰もが疑うことのない必然だった。
しかし、それは叶えられなかった。やっとの思いで立ち上がった彼は、再び地面に叩き伏せられてしまった。
それは運などという言葉で片付けられてしまってよいものなのだろうか。
わたしが言っていることは、精も根も尽き果てて泥の中で横たわる高木くんに向って、「いいからさっさともう一度立ち上がれ」と乱暴に腕を引っ張りあげているようなものだ。
それでも、どうしても、わたしは高木くんにこれで終わって欲しくなかったのだ。自分がそんな大層なことを言える人間であることは承知していながら、願わずにはいられなかったのだ。
今までのことに区切りをつけて、崩れてしまった砂をもう一度、一から積み上げて欲しい
彼は笑って去っていった。
わたしは傘をさして大学図書館へと戻った。
翌日、寝不足気味のわたしは普通に学校に行ったが、高木くんにはどこでも会うことはなかった。
「あいつ授業出てないって。履修届けだけは提出したみたいだけど」
学生食堂でひと休みしているときに歩が言った。
「そ」
「ちょっと心配だよね。家に行ってみよっか、長友」
「ううん、わたしはやめとく」
「長友、何かあった?」
「なんにも。そうだ、あのね歩」
「うん?」
「もしわたしがこの先死んじゃうようなことがあったら、高木くんのこと、よろしく頼むね」
「なに馬鹿なことをいってんの。お医者さんには大丈夫って言われたんでしょ。弱気になってんじゃないわよ」
「万が一の話よ」
わたしとてそんなことはまっぴらごめんであったが、自分がこの世から消えてしまっても、いつか歩と高木くんが一緒になることがあって、時折わたしのことを懐かしく思い出し、語り合ってくれている様子を遠いところから見守ることができたら、それはそう悪いことでもないように思われた。
「長友、本当に変だ。なんだか、あんたはあんたで心配だなあ」
「ありがとう、でもほんとに何にもないから」
歩は今日、家の用事があった。彼女は学生食堂を後にして、わたしはひとり残り缶コーヒーをすすりながら、バックに入れておいた雑誌のページをぺらぺらめくっていた。
おやつの時間と夕食の時間の隙間あたりでは、食堂に人があまりいなかった。
なので知っている顔が入ってくればすぐに分かった。
わたしは雑誌をバッグにしまって缶を片手に立ち上がり、テーブルを移動した。
座りなおしたテーブルの正面には、クマさんときつねうどんが怪訝な表情を浮かべてわたしのところを伺っていた。
わたしが黙って会釈すると、クマさんも会釈を返した。
「みどり、湯沢にいかなかったのな」
「クマさんは行ったんだ」
「ああ、今年は都合がついたからな」
クマさんの今日の容姿はへたれた茶色主体の、生協の主バージョンのほうだった。彼の無精ひげは、どう伸びればより汚く見えるかつぼをよく心得ているようである。
「コンちゃんは行ったんですか」
わたしの問いに、彼はうどんをすすって紙コップのお茶を一口飲んでから、こちらを見ずに「ああ」とだけ答えた。
「クマさんって結婚してるんでしたっけ」
「おう。かみさんと子供は神奈川に残して、単身赴任だけどな。どうした、何でそんなことを聞く? ああそうか。みどりは俺に惚れているんだったな。いや嘘です。ごめんなさい」
わたしの殺気に気おされて、クマさんはたじろいだ。
「クマさんって本当は」
「あ?」
「大学を守る精霊か何かなんでしょ」
「えーと、何言ってんだお前?」
「隠すんですね。分かりました。そういうことにしておきましょう」
「うん、どうも」
彼はうどんを食し続けた。目線はテーブルのちょっと前の方を見つめて動かなくなっていた。目の焦点が合っていない。わたしが怖いのだろうか。
「クマさん、この学校は長いんでしょ?」
「十五年だ」
「いろんな学生を見てきているのよね。和さんみたいな人って、今までにいた?」
「あいつには言わないけどな。よくいるんだ、ああいうの」
「言ってあげればいいじゃないですか。お前のそれは若者特有のはしかみたいなものだって」
「言わねーよ」
「どうして」
「俺が言いたくねえんだよ」
「ふうん」
「ほっといてもいつかは勝手に転んじまってたろうが、人間て不便なもんでな。無理に押し留めるとそれはそれで年くってから、自分の平べったい生き方に疑問を持ったりするんだ」
「どうすればいいんですか」
「教えねえ。俺は知ってるけどな」
「ほらやっぱり」
「何が」
「あなたはこの場所の主なんだ。思った通りだった」
わたしは自然にこぼれた笑みをそのままクマさんに晒して、それから立ち上がった。
「じゃ、また」
「今度飲もうぜ、みどり」
わたしは振り返って「そうですね」と応えた。
しばらく何も起きない日々が過ぎた。
何かわたしは対応を間違えてしまっただろうか。
こんな気持ちがふわふわした状態を長く続けるのは本意でないのだが、「なにかやってよお」とわたしが言って、「いいよお」と高木くんが応えて、そうなるともう、わたしとしては彼の次の出方を待つしかなくなってしまったではないか。
新緑のきれいな季節が再び秋田に巡ってきていた。まだ夜は寒くてしょうがない日もあるけど、今年の命が日に日に輝きを増し始めていた。
わたしはその日、高木くんの姿をちらっとキャンパスの中で見つけた。
彼は他の人と一緒に遠くを横切っていったので声をかけることはできなかった。
あ、学校に来たんだ。そのときはそれで終わって、次の授業中に記憶を思い返して、ん? と思った。
彼は何かを抱えていた。何冊かの本。
となりにいた男の子も本を持っていて、ほんの一瞬のことであるが彼らの身振り手振りを見るに、高木くんがその人から本を借りたように見えた。
そして二人は図書館の方へ歩いていった。
抱えていた本の中に、見間違いかもしれない、勘違いかもしれないが、赤い本があったように見えた。
赤い本といえば、赤本だ。
大学受験の過去問題集。わたしも受験のときはお世話になった。
どうしてそれを高木くんが持っている?
わたしは、足元の床が突然すっと抜けてしまったような感覚に襲われた。
ちらっとみただけの、僅かな可能性でしかないけど、そこから導かれる彼の思惑はわたしにとって重大な意味をもっていた。
気になるなら確認すればいいのだ。
彼はきっと本当のことを話してくれるだろう。
電話でもいい。自分からたずねに行けばいいだけの話なのだ。
そんなに気になるならば行動に移せばいいのだ。
どうせわたしの思い違いだ
動揺する必要がないことをわたしは何とか自分に言い聞かせようとしたのだが、無駄だった。となりの歩が語りかけてきても何も耳に入ってはこなかった。授業が終わるとすぐに教室を出て、気付いたら歩を置いてきぼりにして駆け出していた。
休憩時間中、移動する学生たちで混雑する中キャンパスを探し回ったが、高木くんの黒いニット帽は見つからなかった。
大学食堂にも、図書館にもいない。アパートに帰ったのかも知れないがわたしはそのままあたりをさまよい続けた。
次の授業がはじまり、急にあたりは人通りがなくなった。
そしてわたしは彼の姿を見つけた。
場所は、かつてわたしが受験の合格発表を見に訪れて、自分の番号を見つけることのできなかったあの細長い掲示板のところだった。
それがまたわたしに不吉な暗示を突きつけているようで、わたしは感情の高ぶりを抑えられなくなった。
「高木くん」
「あれ、みどりじゃん。どうした」
「大学受験、やり直すの?」
「ん?」
「出て行くつもりなんだ、ここから。あなたがわたしに見せてくれるものってそういうことなの? 何考えてんのよ。それじゃ話が全然かみ合わないじゃないの」
「え、みどり?」
「わたしのこと好きっていったじゃない。側にいて欲しいんじゃないの? あなたの意地をみせて、そして東京だかどこだかの別な町に引っ越して、そしたらそれで終わっちゃうじゃない。なんで行っちゃうのよ」
わたしは泣き出してしまった。自分でなにを言っているのかもよく分かっていなかった。顔をくしゃくしゃにして、さぞ不細工な泣き顔だっただろう。でも止めようがなかった。
「わたしらと遊んでてそんなにつまんなかったのかよお!」
「いや、すごく幸せだったよ」
彼は目を細め笑う。
「じゃあ、ここにいればいいじゃないの」
「いるつもりだけど? これからもずっと」
彼の困っている顔を、わたしは不細工のままで小首をかしげて見つめていた。高木くんはわたしのところに駆け寄ってきた。
「うそだ」
「嘘じゃねって。なんで急にそんな。な、みどり、ちゃんと話そ?」
高木くんは、泣きやまないわたしの背中にそっと両手を回して抱きしめてくれた。
わたしは嗚咽が収まるまで、彼の胸の中に顔を埋めていた。学校のどまんなかで。
歩が後日「長友、あの時どこ行っちゃってたのよ」と、このとき自分が別な場所にいたことをやたら強調するのが、なんかイヤだった。
わたしと高木くんは、図書館に入って机に並んで座った。
「これを見よ」
高木くんがそういって広げたノートには、『材料工学』とか、『ドイツ語』とか、授業の名称がびっしり書かれていて、その横には簡単な棒グラフのようなものがあった。
わたしは顔を寄せてノートを見回す。
「これは?」
「現状の把握と、作戦を立てるためにまとめてみた。俺が三年生に進級する為に、これから何を為すべきか」
「進級? 厳しいの?」
「そりゃ厳しいさ。自慢じゃないけど一年から二年に進級するときも、ほんとうに最低限の単位しか取れなかったんだ。去年はバイトしかしてなかったからな。三年生になるまでには必ず取らなければならない必修科目を去年取り損なって、今年もう一回履修している授業もかなりある」
「じゃあ、学校に来なくちゃだめじゃないのお」
わたしは彼の語るその恐ろしい状況に、また泣きそうになってしまった。
「まったくだ。厳しい教授の授業は、最初の数回休んだ時点でバツなやつもあって、すでに何個か落としている。家でふてくされていてどうしても行くことができなかった」
「車のことを引きずっているのはわかるけど、なにやってんのよ、高木くんのアホ!」
「久々にそれ言われたなあ。確かにひどい事態だ。でもさ、こうしてまとめてみたら、まだ進級の可能性が残っていることが分かった」
「本当に? っていや、まだ五月なのに可能性があるとかそんなレベルの話なの」
「前期、後期で、あと四単位落とせる」
「うわ」
わたしは悲鳴に近しい声を上げた。前の机に座っていた男の子に振り返ってにらまれた。基本的に一つの授業あたりが二単位なのだから、二つしか落とせないということだ。難しい授業は本当に難しくて、わたしも歩も去年は、ちゃんと取るつもりで勉強したのにそれでも落としてしまった単位がいくつもある。
「それは可能性あるって言えるの?」
「俺さバイトは全部辞めさせてもらってきた。去年の逆だ。進級できるかどうかに全てを費やす。客観的に見たら、絶望だって俺だって思うよ。でもやって見せるから。みどり、見てて」
高木くんは単位取得の作戦について熱く語り出した。
「必修科目は、落とした時点で落第だから、取れたものとしてカウントする。そうすると残りはこれだけの単位が必要だ。情報を集めるだけ集めて、難易度を三段階に分けたものがこれだ」
本人に自覚はあるのだろうか。彼の瞳は最大の敵を前にして、再びきらきらを帯び始めていたのだ。わたしが好きなその光。
彼の長話を、わたしは机に肘をついていつまでも聞いていた。
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