第052回「趙雲子龍」

 ちょうどそのころ、北山の東に布陣していた張郃は、異様なまでの黒煙が上がるのを目撃すると


「さては蜀軍の奇襲か」


 と、兵三千を引き連れて、装備もそこそこに陣営を飛び出して行った。


 張郃が兵糧倉に到着すると、そこにはあちこあちに火を放つ黄忠の兵が盛んに魏軍を攻撃する姿があった。


 張郃は「黄」の旗印を見ると逆上した。輜重隊の兵は、黄忠旗下の兵とあちこちで戦っているが、蜀軍は数少ないが精鋭ぞろいらしく苦戦している。


「小癪なり蜀軍め。我が兵糧を狙うとはなんという大胆不敵。この上は、蜀兵を残らず斬り刻んで、黄忠の首を上げ、夏侯将軍の墓前に供えてやるぞ」


 張郃はそう言うと手にした矛を振り回しながら、苦戦の味方を助けるために、ドッと騎馬を乗り入れた。


 そこかしこで白兵戦は続く。張郃は、途中で黄忠の属将である蜀の張著を見つけると名乗るが早いか襲いかかった。


「その首貰った!」

「なんの、敵が魏の張郃とあらば申し分ない。黄将軍の代わりにそなたの首は儂が拾うてやるわ」


 張郃が一騎打ちで張著を圧倒し始めた時、曹丕の本陣にも蜀の奇襲がたちまちに伝わった。


 濛々たる白煙を上げる山を曹丕は目にすると


「ぬう、ここにきて我が軍の輜重にまで手を出すとは図々しきやつらよ」


 と、徐晃や臧覇の援軍を素早く差し向けた。


 この時、趙雲は約束の刻限に近づいても、なんら音沙汰のないのをいぶかってか、かたわらの部将である張翼に


「漢升どのからなんら連絡がないのはやはり心配である。私は自ら彼を迎えにゆくので、そなたは陣を守りて、ゆめゆめ無暗に飛び出すのではないぞ」


 と伝え、自ら十数騎を率いると、黄忠のあとを追って駆け出した。疾風のような速度で、北山のふもとに近づくと、遠方でも目に見えた黒煙があたりを覆い、目鼻に細かな痛みや痺れを覚えた。


 ――漢升どの、無事でいてくれ。


「そこをゆくは蜀の敵将と見た。まさしく、飛んで火にいる夏の虫よ」


 その時、急ぐ趙雲のゆく手を遮ったのは、慕容烈という文聘旗下の豪傑である。慕容烈は矛を携えると下卑た笑みを浮かべながら、趙雲を半包囲する。


「我らは急いでいるのだ。悪いがどいてもらうぞ」

「通しはせぬよ、趙子龍」

「我の名を知っているのか」


「はは、我こそは文聘将軍随一の豪傑と謳われた慕容烈である。劉備の将で趙子龍と言えば音に聞こえた猛将であると聞いていたが、いざ目にすれば拍子抜けよ。どうにもこのような優男とはな。荊州での借りをここで返させてもらうぞ!」


 慕容烈は気迫を込めた矛の一撃を繰り出して来るが、趙雲から見ればその攻撃はあまりにぬるく、遅かった。


「なんだ、その突きは。蠅が止まるわ」


 趙雲が手にした槍を電光石火の勢いで放つと、慕容烈は喉元を朱に染めて、馬から地上にどうと音を立てた落ちた。槍の穂は凄まじい勢いで慕容烈の喉を刺し貫くと、ただ一合で絶命させた。


 慕容烈が大の字になった地は流れ出た血液が瞬く間に広がった。趙雲がそれを意に介さずに突き進むと、陣屋の中央に歩兵を重厚に連ねて待ち受ける一手が立ち塞がる。


「そこなるをゆくは蜀の大将か。我こそは魏の焦炳なり。名を名乗るがよい」

「我は蜀の趙子龍なり。先にここへやってきた蜀の一軍はいずこか」


 その言葉を聞くなり焦炳はカラカラと笑って、手にした槍を後方に向けた。


「カッ、そのような雑魚はすでに我らが残らず討ち取ってやったわ。蜀の趙雲よ。おまえもあとを追わせてやるから覚悟しろ」


「だとしたら黄将軍の弔い合戦だ。まずは、おぬしから血祭りにあげてやる!」


 趙雲は怒りで全身を燃え上がらせると、槍をしごきながら白馬を駆って突撃する。対する焦炳は激しい動揺を見せながらも、一軍の将らしく手にした戟を頭上に差し上げ迎え撃ってきた。


 が、趙雲の手にした槍が異常なまでの速度で突き出されると、焦炳は戟を振り下ろす暇もなく胸を貫かれて馬から勢いよく転げ落ちた。


「さあ冥途の土産にその眼に焼きつけておけ。この趙子龍の槍さばきを!」


 趙雲は馬をドッと魏軍に乗り入れると、瞬く間に十数人の敵を槍で刺し殺した。

 槍が天高く突き上げられると、胸を刺された兵卒が宙を舞った。


「どうした、どうした!」


 素早く槍を突き込んで天高く跳ね上げる。数百人いた焦炳の手勢は趙雲とそれに続く騎兵によって、あっという間に追い散らされた。趙雲がゆくところ、まるで無人の野のようであった。


 張郃や徐晃の手勢もゆくてを遮ることなどできずに、趙雲は、知らず、敵の囲みを突破していた。


 すると、北山周辺で囲まれていた黄忠の手勢も趙雲の雄姿を目の当たりにして、ワッと両手を上げて集まってきた。


「趙将軍だ」

「助かったぞ」


 兵卒たちが蟻のように趙雲のもとに集まってくる。離れた場所で大刀を振るい、魏の守備隊を蹴散らしていた黄忠もやがて合流した。


「おう、趙将軍。これはすまなんだ。約束の刻限、どうも間に合わなんだ。これは黄忠一生の不覚なり」


 さすがの猛者も疲れを覚えたのか、肩で息をしている。肩にかついだ大刀は魏兵の血を厭と言うほど吸ったのか、一部が乾き黒ずんでいる。黒ずんだ上に、いましがた斬りつけた敵のぬらぬらとした血液が垂れ落ち、赤く光っていた。


「とにかく、ここを突破して陣に戻りましょう。多勢に無勢、敵の糧食は焼き尽くしたと見える」


「それよりもだ。共に来た張著の姿がついぞ見えぬ。彼を置いては戻れぬよ」


 そう聞くと、趙雲は「しばし待たれよ」と言うと、馬首を翻して再び魏軍の群れに突っ込み、数十人を朱に染めて、みごと張著を救出すると戻ってきた。


「さすがは子龍どの。だが、この老いぼれもまだまだ捨てたもんじゃないぞ」


 これを見た黄忠は疲れた身体に闘気を燃やして、負けじと向かい来る魏軍を自慢の大刀で次々に斬り殺し、鬼神の如き強さで包囲網を突破する。


 かくして趙雲は黄忠と共に自陣に戻ると、負傷した張著を休ませて劉備は勝報の使者を送り、ささやかな祝杯をあげた。






 しかし、翌日、兵糧を焼き払われた曹丕は怒り狂って、五万余の兵を張郃と徐晃に与えて、趙雲の守る陣営に攻め込ませた。


 見張りを行っていた張翼は、慌てて陣営に転がるように駆け戻るとすぐさま


「みなの者、早く門を閉め、橋を上げよ」


 と、叫んだ。


「落ち着け、一体どうしたというのだ」


 杯を置いた趙雲が防備を厚くし、敵に備えている張翼に訊ねると


「趙将軍。一大事でございます。曹丕が、張郃と徐晃に五万騎の兵を与えて、漢水を踏み越え、我が陣を攻め滅ぼそうと、まっしぐらに進んできます」


「な――に?」


 だとすれば、確かに危機だ。兵糧強奪作戦のために設けられた急造の陣には、一万程度の兵しか籠められていない。本営に援軍を求めても、それらがたどり着く一両日までには、陣が攻め落とされれば、蜀軍は多大な被害を追ってしまうだろう。趙雲がしばし黙考すると、かたわらの黄忠は大杯の酒を一気に呷ると、壁に立てかけていた大刀に手を伸ばしている。


「黄将軍、なにをなさるおつもりか」

「なあに、ちょいとした腹ごなしに曹軍を追い散らしてまいるわ」


「それには及びませぬ。曹軍の襲撃は黄将軍にゆずりましたゆえ、こたびはみどもにまかせていただけませぬか」

「ぬ、確かにそうじゃの」


 黄忠は思ったよりも聞き分けがよく、席に戻ると皿に盛ってあった肉に手を伸ばすと、頑丈な歯でかぶりついた。


「よし、陣門を開け。それから旗を仕舞い、鼓を止めよ。八千の兵は空堀に弩を持って伏せよ。全軍、曹軍が近づいても声ひとつ上げることは許さぬ。我が合図をただ待つのだ」


 趙雲は壕橋へと白馬に跨り進み出て、槍を携えてピタリと止まると、待った。ほどなくして、張郃と徐晃の軍勢五万が、地平線の彼方から地鳴りのような馬蹄の響きを唸らせて、徐々に接近してくる。


 しかし、趙雲は橋の上にただ一騎で立ちながら微動だにしない。これを見た魏の斥候は、素早く本営に報告に戻るが、趙雲の所作に疑念を覚えて、突撃を躊躇した。


「あれが蜀の趙子龍か」

「なにを考えているのだ、ただひとりで」

「門は開いている。降伏するつもりだろうか」

「なにか、謀があるやも知れぬ」


 ひたひたと陣を押し包もうとしていた曹軍は疑心暗鬼に陥ると、攻撃をためらい、動きは鈍くなった。


 この報告を聞いた曹丕は自軍の情けなさに癇癪を起して


「なにをためらうことがあるか。いくら豪勇と言えども、敵は趙雲ひとりなり。一気に全軍で突っ込み、血祭りにあげればいい」


「しかし、魏王。敵には劉備の知恵袋で策謀家の諸葛亮がおりますれば、なにごとか、また罠が仕替えられている可能性があるやもしれませぬ」


 幕僚のひとりがそう言うと、いままで、幾度も諸葛亮にしてやられてきた曹丕の脳裏にも怯えの虫が這いだして、ゾロゾロと嫌な動きをはじめ、怯えが強まった。


 ――が、このまま睨み合いを続けてどうなるというのだ。


 曹丕は、自ら陣頭に立つと声を嗄らして、突撃の下知を命じた。張郃も徐晃も、仕方なしに軍を前に出すが、それでも橋の上の趙雲は怯えを微塵も見せずに、ただひとり立っている。


 この不気味で静かな光景に、曹軍自慢の北方騎兵隊も、ところどころで足を止めて突撃に躊躇した。


「どういうことだこれは。まさか、まるでなにもないとは思われぬが」


 徐晃が訝しげに属将に相談すると、怯えの風に吹かれ出した騎兵たちが示し合わせたかのように、馬首を翻して帰陣しようと戻る気配を見せた。


 これを見ていた趙雲は、遠方に聞こえるような大音声で


「どうした魏の兵士たちよ。ここにいるのは常山の趙子龍ただひとりなり。ここまで足を延ばして、刃ひとつ交えぬは武人の恥であろう。戻りたまえ、是非とも一戦お相手願いたい」


 怒鳴った。


 やがて曹丕の督励に負けて、全軍はどこかゆるみのある攻撃を行おうと、ワッと歓声を上げて駒を進める。


 その時だった。趙雲は、槍を持った右手を天高く差し上げた。空堀から、歩兵たちが突如として地上に現れ、八千の兵士が弩を魏軍に向かって一斉に放った。


 陣営の鼓が天を震わせて雷のように鳴って、弩から放たれた無数の矢が、黒々と空を染めた。大空をすべるように奔る矢は魏軍の兵馬を片っ端から殺傷して、最初の射撃で数千の兵が地に斃れた。


 魏軍が態勢を立て直す前に、趙雲は門の内側に潜んでいた二千の騎兵と共に打って出た。さらに、弩を投げ捨てた八千の歩兵が喚きながら趙雲に続く。


「我が正義の槍を受けてみよ」


 趙雲はまっしぐらに魏軍に突っ込むと槍を旋回させて、次々に敵兵を打ち倒し、並み居る曹丕の部将たちを、十数人刺し殺した。


「ぬうう、趙雲め。これ以上、おぬしの好きにはさせぬぞ」


 と、戟を手にして立ちふさがった部将の名は昌奇といい、もとは張魯配下で、のちに曹丕に仕えた漢中の豪傑である。


 十数人の歩兵を従えた昌奇は戟を頭上で旋回させながら大声を出して威圧してくる。


 ――意味のない行動だ。


「それほど死にたいのなら相手をしてやる」


 趙雲の槍。きらりと一条の光を受けて輝くと、前に突き出された。昌奇は回転させていた戟を焦りながら振り下ろすが、趙雲の槍の速さは比ではなかった。穂先が昌奇の甲を突き破ると、あっさり背中まで食い破った。


「ぬぐおっ!」


 昌奇は喉元から大量の血反吐を吐き散らかすと、前のめりになって落馬した。歩兵たちは、蜘蛛の子を散らしたようにワッと逃げ出した。


 左翼からは黄忠、右翼からは張翼がそれぞれ手勢を率いて、混乱の極みに遭った張郃と徐晃の兵を一方的に殺傷した。仰天した魏軍の兵卒たちは、たがいに踏み躙りあい、驚き、逃げ場を失って漢水に落ちて多数が死んだ。


 ――なぜ、このようなことに。


 曹丕が、陣営を立て直そうと、退いた。しかし、それらは遅かった。後方には諸葛亮の策によって、北山のふもとに到着した別動隊である孟達と柳隠が手薄になった残りの陣営に火を放って回っていたのだ。


 この決戦の翌朝のことである。

 劉備は自ら趙雲の陣営を視察し、昨日の戦場を観察して状況を把握すると


「子龍の全身は肝っ玉だ」


 と称賛して、日暮れまで音楽を演奏して宴を開き、趙雲のたぐいまれなる戦功と黄忠の敵兵糧の奪取を祝った。


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転生諸葛亮戦記 三島千廣 @mkshimachihiro

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