第051回「兵糧破壊作戦」

 夏侯淵の首。


 これを討ち取った黄忠の名は一夜にして、蜀魏に知れ渡った。実質的に、漢中の総司令官であった夏侯淵は、曹操に従い、数々の功績を上げてきた古参の名将のひとりでこれを討ったことは黄忠一世一代の栄誉であった。


 当然ながら、漢中の総司令官であった夏侯淵を定軍山の戦いで失った諸軍には動揺が走った。普通、よほどの混戦にならなければ、これほど名の通った指揮官が戦死することは珍しいのだ。


 もっとも夏侯淵はおのれの役目の重さを理解せずに、やらなくてもよい逆茂木の修復などに自ら赴き、首を失った軽さがあり、ある意味自業自得だった。


「征西将軍が討たれるとは」


 この時、陣営にいた夏侯淵の軍司馬であった郭淮は、動揺に陥った士卒を集めると、盪寇将軍であった張郃を軍の主将に推し立てたので諸軍営は落ち着きを取り戻した。


 郭淮はあなざを伯済といい、太原郡陽曲県出身である。漢中征討に随行して夏侯淵の司馬となった。


 劉備は夏侯淵を討ったあとに、当然勝利に乗じて漢水を渡って残軍を掃討するために軍を動かした。


 魏軍の諸将の意見は、衆寡敵せず、劉備の攻撃を防ぐためには水に沿って陣営を作るしかないだろうというものが多かった。郭淮は、みなの意見を聞くと


「この場合、孫子の兵法のように弱くみせかけても敵をくじくには足りません。策略にはなりえないでしょう。水より遠ざかって陣営を築き、劉備軍を引きつけて呼びよせ、敵が半分渡ったところで攻撃するほうがよろしいでしょう。これならば劉備を破ることができます」

 と述べた。


 ――意外に冷静であるな。


 だが、諸葛亮は魏軍の動きを索敵によって充分調べていたので、漢水をわたることはさせなかった。


 張郃を主とした諸軍は、劉備軍が攻め寄せて来ないことを確認すると、敗兵を取り込んで、休ませ、北に移動して強固な陣を張った。



 さて、曹丕の動きである。

 曹丕は漢中で夏侯淵が劉備と激闘を続ける最中、諸州からしきりに軍を集める一方、督励に徹していた。


 しかし、軍配は劉備に上がった。


 荊州での戦いでは曹操軍の名のある将が数多く討たれていた。かの戦いに従軍しなかった曹丕には、肌感覚でわからなかった危機感が現実になった。夏侯淵という曹操以来の藩屏が、討ち取られた。


 曹丕が不滅を考えていた鉄壁な防御陣が、いま、瓦解したのだ。長安で漢中の情勢を窺っていた曹丕は、敗報を耳にした瞬間、激怒した。


「劉備風情がこの魏王を本気で怒らせるとは命知らずな。よかろう、我が実力をその身をもって思い知るがよい」


 漢の建安十六年(二一一)四月。


 曹丕は、各地から終結させた魏軍二十万をもって斜谷を進軍して陽平関に向かった。


 率いる将は、諸葛亮が想像していたとおりに、主な者だけでも、夏侯惇、許褚、徐商、臧覇、劉曄など錚々たる者ばかりだ。


 武都方面にいた張飛が南進して劉備軍に戻ったことで、曹洪率いる諸軍もそれに従って陽平関を目指した。


 これに対して、劉備は険阻な地形を利用して強固な要害を組んで、魏軍には容易に攻めさせなかった。


 陽平関には、魏延が籠り、それに続く街道には高翔が布陣して警戒を怠らない。

 曹丕が南鄭に到着してから一週間ほど、膠着状態が続いた。


「誰か鬱陶しい劉備の鼻を明かしてやるという猛者はおらぬか」


 曹丕が軍議でそう発言すると、合流していた徐晃が進み出て、遠くまで届く声を張り堂々と名乗り出た。


「魏王よ、不肖、この徐晃にその役目をお授け願いたい。身命を賭して果たします」

「おう、その意気よ。頼もしいかな、徐公明。そなたに精兵三万を授ける。みごと街道を阻む高翔を打ち破ってまいれ」


 曹丕に三万の兵を与えられた徐晃は、勇躍、白馬に跨ると自慢の戦斧を手にして南鄭から出撃した。後詰には曹真軍一万が控えている。思えば、漢中での魏軍は劉備によっていいようにやられっぱなしであった。


 ――劉備は魏王がいうように断じて戦下手ではない。


 長じて、その特性や才能を開花させるものは多い。

 春秋戦国の世に、六十歳を過ぎてからその才を発揮した晋の文公のように、五十代に手のかかった劉備の軍才が曹操を上回ったとしても、可能性は皆無ではないのだ。


 実際、漢中における劉備の神算鬼謀はそれまでの敗北を塗り替えるような閃きが随所に見受けられた。


 ――しかし、このまま負け続けでは、間違いなく漢中は劉備の手に渡るであろう。


 敗北はこれまで以上に許されない。徐晃は、高翔の守る陣営の前に到達すると不退転の決意で兵卒に訓示を行った。


「我らは今日まで情けなく負け続けてきた。このままでは、我が魏国を狙う賊である劉玄徳に漢中を奪われてしまうであろう。みなの者、いま、一戦、我を信じて命を預けてくれ。必ずや目前の敵を撃ち砕き、勝利を我がものにし、みなが胸を張って国に帰れるように、この徐公明が請け負うぞ」


 徐晃はそう言うと、重装歩兵を前に出して高翔に向かって突撃させた。

 徐晃の一万に対して、高翔の軍は一万五千である。

 数では圧倒的に不利であったが、追い詰められた魏軍の気構えは凄まじかった。


「ゆけ、まずは敵の出鼻をくじくのだ」


 徐晃は戦斧を振り上げると、敵の矢が届く前まで来て、味方を督励した。歩兵たちは、挑発によって陣より出てきた高翔の軍勢に押し寄せ、たちまちに後退させた。


 ――なかなかやるな。


 高翔の将器も凡庸ではない。蜀と魏は互いに揉み合いながら、拮抗状態が続く。


 魏の旗が前のめりに動くと、高翔の歩兵がバタバタと倒れてゆく。徐晃は弩をそろえると、扇の形のように左右に広げて高翔を狙い打ちにした。飛矢は徐晃の熱気が乗り移ったように、次から次へと発射され、高翔軍はみるみる数を減らしてゆく。


 とはいえ、高翔も蜀軍切っての猛者である。粘り強く、戦い続け陣形を保持していたが、徐晃の熱量が上回ったのか、次第に押され始めた。高翔の旗から、やや鋭気が薄まったのを徐晃は見逃さなかった。


「いまだ、騎兵で穴を開けよ」


 ここぞとばかりに徐晃は虎の子の騎馬隊を突っ込ませた。険阻な漢中の地では、騎馬の大軍を自由に進退させるのは難しい。統率には独特の勘と、経験が必要であった。


 だが、徐晃はそれを成し遂げた。徐晃の騎兵が高翔の陣に錐のように揉み込んでゆき、ぽっかりと穴を開け、そこに歩兵が突っ込んでいった。


「者ども、命を惜しむな。勝機はここにあるぞ!」


 ついに、高翔の陣が崩れた。

 数刻後、徐晃は高翔を撃破すると、甲を汗まみれにして土煙を上げて陣を逃げ出す敵影を呆然とした表情で眺めていた。


「勝った、のか……?」


 徐晃は高翔軍が陽平関に逃げ込むのを目で追いながら、素早く諸隊を終結させて陣営に戻った。この戦いで、徐晃は高翔軍の四千近くを討ち取って凱歌を上げた。


「さすが、徐公明よ。そなたの功績は周亜夫に優るであろう」


 曹丕は自分の膝を両手で幾度も打ち鳴らすと喜悦に塗れた表情で徐晃の功を諸将の前で激賞した。


 これにより、曹丕軍三十万と劉備軍十二万はそれぞれ、北と南に分かれて陣地を構えて睨み合った。


「曹丕が来たとしても手も足も出ないだろう。私は必ずや漢川を保有してみせよう」


 劉備は自信満々にそう言うと、諸将に軽挙妄動を慎むように徹底させ、曹丕の挑発に乗らぬよう、軍規を厳しくした。


 そんな状況下において、前線から急使が劉備の要塞に届いた。


「夏侯淵が討たれたと聞いた曹丕の闘志は並々ならぬもので、先方に徐晃や夏侯惇など歴戦の勇士を置き、南鄭の周辺は曹軍の兵士で満ち満ちております。しかし、なにを思ったか、先ごろは兵馬を留めて陣地から北方の山に兵糧を移しているとのことでございます」


 諸葛亮は急使の伝達を聞くと、すぐさま劉備に対応策を献言した。


「夏侯淵の死がよほど衝撃だったのでしょうか、曹丕は私どもの予測をはるかに超えた兵士数で、斜谷を超えてやってきましたが、案の定、兵糧輸送に苦しんでおりましょう。ここで我らが固く守っていれば、時間と共に曹丕は軍を退くでしょうが、無駄な時間は費やしたくないのが実情です。ここで曹丕軍の物資貯蔵庫を破壊することができれば、戦わずして曹丕軍を漢中から追い出したも当然でしょう。この功は百万の軍勢を撃破したものと遜色ございません。願わくば、主は良将を選び、輜重を破壊いたしますようご一考くださいませ」


「うむ、確かに孔明の言うとおりだ。曹丕の輜重を奪うことができれば、こたびの戦功は第一級のものだろう。さて、誰が適任であろうか……」


 すぐそばで、このやりとりを聞いていた黄忠は


「そのようなことであらば、主よ。是非ともこの儂にご命令くださいませ。すぐにでも出撃して、曹丕の胃袋を踏みつけて、魏軍には米粒ひとつ入らぬようにしてやりましょうぞ」


 と言った。諸葛亮は黄忠の興奮し切った顔を見ると、静かに羽扇を下げた。


「黄将軍。今度の相手は夏侯淵のように短気で思慮を欠いた将ではありませぬ。曹操の右腕とも呼ばれていた大将軍の夏侯惇ですぞ。佐将には知恵袋の劉曄と、先日高翔を破った徐晃も当然ついてくるでしょう。それに、黄将軍は先日以来の戦いで疲れが溜まっておりましょう。無理をせずともよろしいのでは?」


 諸葛亮が言うと、黄忠はみるみるうちに顔面に紅を昇らせて、憤然と歩き出すと、壁にかけてあった槍を三本ほどつかみ取った。


「軍師どの。それはいくらなんでも儂を侮りすぎでござる。不肖、この老黄忠、あの程度の戦など昼めしあとの散歩と変わりありませぬ。儂は歳は取っていても、若きころより鍛えた腕力は微塵も衰えており申さぬ。それが証拠をおみせいたす」


 戦場で使う槍の柄は非常に折れにくい木材でできている。黄忠はそれを三本ほど重ねて両掌で包み込むと、眉間に皴を寄せることなく力を籠め始めた。


 瞬時に、三本分の槍の柄は圧縮されると、凄まじい音を立ててメキメキとヒビが入り、あっさりとへし折れた。


 劉備はほとんど表情を変えないが、驚いている証拠にぴくぴくと口髭が揺らいでいる。


「これでいかがか」


 劉備は振り返って諸葛亮を見た。諸葛亮は羽扇をだらりと下げると致し方ないという風情で黄忠の出撃を許可するよう、劉備に伝えた。劉備はこの時


「よろしい。黄将軍に精兵一万を与える。必ず曹丕が北山に移した兵糧を奪い、我が軍を勝利に導いてくれ。ただし、佐将として子龍を連れてゆき、なにごともよく協議して遺漏が無いように執り行ってくれ」


「必ずや」


 黄忠は満面に笑みを浮かべると喜悦して拱手を行い、趙雲を引き連れて曹丕が数千万を超える袋の米を移送したはずである北山のふもとに向かって軍を進発させた。


 行軍の途中、趙雲は駒を寄せると黄忠に訊ねた。


「ところで、黄将軍。あれほどまで自信満々にこたびの役目を引き受けた以上、なにか妙策はあるのでしょうか。敵の首魁は曹丕であるとはいえ、父である曹操が官渡における戦いで、袁紹の兵糧がある烏巣の焼き討ちを行い勝利を確実にした事績は必ず頭に入っているでしょうから、警備は極めて厳重だと思われます。これを撃ち砕く策はどういたしましょうか」


「子龍どの。この儂に妙策などはない。ただ、ことに挑んでは全身全霊を尽くし、断固として完遂するのみである。ことがならねば、この命を捧げて活路を見い出す。それが、黄忠の生きざまと思ってくれ」


「そんな。そのようなお考えではこたびの大役は到底果たせえぬでしょう。危地を踏み、命を危うくすれば我が主はどれだけ悲しむことか。できれば、露払いとしてこの私に先陣をお任せください」


「なあに、それほど重たく考えることはないぞ。曹丕は、ここまで重ねて敗北を喫してなお、劉公を軽んじている節がある。それに、儂とて完全に無策ではない。北山周辺の防備がそれほどではないことは、斥候を放って確認してある。子龍どのは、安心して後陣で我が勝報をお待ちいただきたい」


「そこまでおっしゃるのであらば……」


 黄忠はカラカラと笑って趙雲の考えを吹き飛ばすと、速やかに陣を構築し、精鋭五百騎を率いると、曹丕が兵糧物資を溜め込んでいる北山のふもとへと漢水を踏み越えて攻め入った。


 黄忠を見送った趙雲は、部将である張翼と馬勲に

「老将軍が午後までに帰らなかったら、自分は兵を率いて直ちに救出にゆく。その時、ふたりは陣地の防御を第一として、みだりに兵を動かさぬように」


 と伝えた。


 一方、黄忠は兵を励まして移動を続け、漢水を渡ると平坦な場所で大休止を取り、夜が白々と明け始めた直後に北山のふもとにたどり着くと、周囲の状況を観察し、機を窺った。


「よし、魏軍の守備は手薄なり。みなの者、一斉に攻め入って糧食武器に火を放ち、魏兵の夢を覚ましてやれ!」


 黄忠は自ら馬を駆ると陣に攻め入って、兵卒たちを叱咤し、糧食の山に火を放ち攻撃を開始した。


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