3

少女の話。


 少女は深窓の令嬢だった。

 物心ついた頃から、深窓の令嬢として周りは彼女を扱った。

 


 少女は自らの出自を知らない。

 王族の嫡子かもしれないし、ごく普通の家庭に生まれたのかもしれない。どこかの孤児か、知れば醜聞に耐えぬような事情の子かもしれない。


 しかし真実が如何であったとしても、彼女の周りの人々は変わらず彼女を丁重に扱っただろう。


 当然だ。

 いずれ聖女を継ぐ器――少女はそう定められていたのだから。


 ゆえに、少女に自由はなかった。

 それでも深窓の令嬢としての――聖女候補としての不自由な生活に、ほとんど不満はなかった。


 今ここにいる自分は消え、少女はやがて聖女となる。


 自分は、文字通りの意味で器だ。

 齢七つにして、少女はそれを受け入れていた。

 連綿と続く聖女という役割を、注ぎ込まれて器は完成する。

 そのための自分なのだということを、誰に強要されるわけでもなく彼女は受け入れていたのだ。

 あるいは、その早すぎる達観こそが彼女が聖女の器たる証なのかもしれない。


 ただ、少しだけ。

 少女にとって母と呼べる存在の聖女様にほとんど会えないことは、寂しいと感じることもあった。



 だから、その日の出来事は少女にとって忘れられないものとなった。


 少女の住む教会の部屋に、白いローブを着た女性が突然訪ねてきたのだ。

 

 まず、少女は今日が自分の誕生日でないことを頭の中で数回確認しなければならなかった。聖女様と会えるのは、そんな特別な日だけだからだ。

 

 少女は頭の中が真っ白になる感覚を覚えながらも、習った礼儀作法を披露しようとした――その瞬間、彼女の身体は、ふわりと暖かなものに包まれていた。

 抱きしめられたのだ、と気付いたのは、聖女様がとうに踵を返し、その残り香さえも消え去った後のことだった。

 

 なぜその日、聖女様が少女の元へやって来たのか。

 そしてなぜ、息が苦しくなるほど強く彼女を抱きしめたのか――。

 その答えは、聖女しか知らない。

 

 

 だが、そのことと関係してかどうか、それから数日が経った頃に、少女はその日、聖女が“賢者たち”と何か大きな事を成し遂げたことを、教会内での噂で聞くことになる。

「何か大きな事」が勇者召喚の儀であるということと、その選ばれし勇者が近く、この教会に移送されるということも。

 

***


「……それは、冷たくないのか」


 それが、少女が勇者へ発した初めての言葉だった。


 最初は、声をかける気はなかった。

 この場所に移送され、今は使われていない旧礼拝堂をあてがわれた彼を、入り口あたりからこっそり見るだけで満足するつもりだったのだ。


 彼は、大人の男性を見慣れていない少女の目からも、勇者と呼ぶにはいささか体躯が足りない気がした。

 では一体どこに、勇者と呼ばれる要素があるのだろうか。

 それから、そんな彼がいったい何を食べているのかが気になった。


 ……そんな風に観察しているうちに、どうやらじりじりと近づいていたらしい。

 やがてその食事内容が自分や教会関係者と変わらないものであること、なぜか温めていないスープだけであることを見て取って、少女は思わず「冷たくないのか」と疑問を呈していたのだった。


 勇者の少年はそこで初めて少女がいたことに気付いたのか、驚いた素振りを見せたが、


「温め方が分からない」

 

 と、なぜかバツが悪そうに答えた。


 なるほど、調理室から残り物を勝手に取ってきたというわけか。少女はそう納得する。

 しかし温めるだけなら、炎台に魔力を通すだけでは――と反射的に言いそうになったが、世の中には生まれつき魔力の操作ができない者もいるらしいというのを思い出した。

 勇者と呼ばれる人間がそうだとは思い難いが、しかし実際彼のスープは冷めているのだから、指摘しても詮ないことだろう。

 

 そんなわけで少女は旧礼拝堂を出ると、調理室へ行って温かいスープをよそった。

 ついでに、丸パンも十個ほどトレイにのせる。あの年頃の男がいくつ食べれば満腹なのか分からないが、勇者なのだからもう少し恰幅があった方が良いように思えた。


「ここでは、食事は決まった時間にしか出てこない。明日からは食べ損ねないように」


 態度を決めかねて説教しながら、しかしその辺りは教会の人間が気を利かせてくれても良さそうなものだ、とも思う。

 なにせ彼の到着は、夕食の時間を過ぎてからだったのだから。きっと彼も、本心ではそう考えているに違いなかった。

 だが存外勇者は素直に、「そうか、分かったよ」と頷いて見せた。やや尊大な態度に隠した気遣いを分かっているのかもしれなかった。


 ともあれ、その夜のことをきっかけに、少女は勇者の元を訪ねるようになった。


 座学や運動は日課に組み込まれているものの、少女の一日は多忙というほどではない。

 それまでは戯れに魔術を行使していた時間や、読書に充てていた時間のほとんどは、勇者と共にすることが多くなった。

 

 少女にとって勇者は、他のなによりも興味を惹かれるものだった。

 彼がやがて語った、異世界からやってきたという点のみならず……この教会内で全く見かけない、若い男ということさえも少女の目には新鮮に映った。

 自分と接する際にあまり畏まらない人間というのも、彼女にとっては貴重であった。


 兄という存在が自分にできたとしたらこうなのだろうと夢想し、そのたび自分が誰と縁を結ぶこともない器に過ぎないことを思い出して、何やら名状しがたい感覚に陥るのも常になっていた。


 勇者が来てから三ヶ月ほど経ったそんなある日、再び教会を聖女が訪れた。

 しかし今回の目的は少女ではなく、触れるどころか一瞥することもなく――彼女は勇者を呼び出して、何か話をしているようだった。

 

 次の日、いつものように旧礼拝堂を訪れると、そこには勇者の姿はなかった。

 貸していた辞書と魔術の本が机に丁寧に並べられていて、少女は教会の敷地中を探し回った後で、そこに旅立つ旨の手紙が置いてあるのを見つけた。

 

 少女は手紙をゆっくりと読み、それをもう一度頭から読んで、理解する。

 勇者がここに送られてきたのは、「異世界を救え」という使命を、「世界を救え」という意味に換えるためだと。

 ここは世界一安全な場所だ。

 勇者を、異世界人をこの世界と関わらせるための、あらゆる条件が符合したのだろう。

 そしてきっと聖女様は、その情を確認するためにここに来て、今が頃合いだと判断したのだろう、と。

 

 不快になることなど、なにもなかった。

 自分が知らずのうちに利用されていたのだとしても、それで世界が救われるのであれば良かった。

 

 でも、悲しかった。

 勇者ではなく、ユウキとしてここにいて欲しかった。

 自分は不自由を感じなかったわけではなく、ただ自由を知らなかっただけなのだと分かった。

 

 捨て去るべき感情だと、少女は器としての使命を自分に言い聞かせた。

 彼を忘れようと努めた。

 自由があれば、彼を追いかけることができるという羨望を忘れようとした。



 たとえ、知ってしまう前の自分には戻れないと分かっていても。


***


 勇者召喚の儀から、十年以上が過ぎた。


 この間、勇者は幾度か魔族の拠点を潰し、そして同じ数だけの失敗を繰り返していた。

 結局のところ、勇者の存在があっても人類は救われず――当初は一挙手一投足に至るまで大々的に報じられていた勇者の動向も、すっかり伝え聞くところがなくなっていた。

 数年前の大敗によって、すでに勇者を辞しているという噂すらもあった。


 とはいえ、無論、ここまで拮抗状態を保っているのは勇者がいるからだ、という世論もあるが、それにしてもほとんど誰も勇者が世界を救うと信じているわけではなかった。


 十年という期間の間に、人々は勇者への過度な期待を失っていた。

 それは熱が冷めた、というよりも、目が覚めた、と言った方が近い。


 いくら勇者が魔族を打ち倒そうが、生活の脅威がすぐに去るわけではない。大元を絶たない限り、展望が明るくなることがないのだと多くの人々が気付いていた。

 彼らにとってより信をおけるのは、やはり生活圏に出現する魔物を討つ警備隊、ひいては聖女であることに変わりはなかった。

 

 そんな中でも、少女は勇者のことを忘れてはいなかった。

 無風に近い彼女の日々の中にあって、彼と過ごした三ヶ月は、月日が経とうとまだ燦然と輝いていた。

 

 ある日、少女は教会で調理師として雇われている女から、耳を疑うような話を聞いた。

 それは――彼女の妹が働いている宿場に泊まっている客が、あの勇者なのではないかと噂になっている、というものだった。


 それを耳にした夜は、寝付けなかった。

 自分に会いにきたのではないか――そう年頃の少女らしく思う一方、たった数ヶ月一緒に過ごしただけの少女を覚えているわけがない、と冷静な自分が指摘する。


 いずれにせよ、確かめる術はなかった。

 その噂の真偽も含めて、知りようのないことでしかない。


 彼女が直接、その宿場に行かない限りは。


***


 脱走は、あっけないほど上手くいった。

 外から中への警備は厳重だが、その逆は全く無警戒に近かった。


 少女は件の宿場の従業員協力のもと、フードを被り、格好を扮して、教会を抜け出す。

 計画と呼べるものはそれだけだったが、十数年に及ぶ信頼の積み重ねの結果だろう、今日この日、誰も彼女が外の世界に出ることなど夢にも思ってもない様子だった。

 

 郊外を歩き、生まれて初めて街に出た感想は、さほどのものではなかった。

 想像した通りの光景。やや圧倒されはするが、それだけの人々の織りなす営み。

 ただ、自分が周りから奇異に見えていないかどうかだけが気がかりで、彼女は視線から逃れるようにフードを目深に被った。

 

 女に描いてもらった地図を頼りに、かなり苦戦しながら宿場に辿り着く頃には、日はとうに落ちていた。

 

 宿場の一階部分には食堂を兼ねた酒場が併設されている。適当な席に着いて、爆発しそうな心臓を抑えながらウェイターに料理と酒を注文する。

 飲食店自体初めてだが、そのあたりの作法は件の女から学んでいた。注文する品さえも練習した通りにすると、ようやく人心地ついた。

 

 ――違う。食事をしにきたわけではない。

 少女ははっとそのことを思い出し、注意深く周りを見渡した。

 店内は宿泊客と思しき者が数名いるばかりで、背を向けているのが一人、酔い潰れたのか突っ伏しているのが近くに一人といった様子だ。


 最後にユウキに会ってから、十年。

 少年期を終え、二十を半ば過ぎている頃のはずだ。

 容姿を完璧に覚えているわけではないし、彼のほうも年月に応じて変わっているだろうが、それでも分かると信じたい。


 それでも――果たして、この中に彼はいるのだろうか?


 いや……そもそも居たとしても、彼が今夜この食堂を利用するかどうかは分からないではないか。

 そんな当たり前のことに今さら気付くと、途端、自分がらしくもなく愚かなことをしていると思えてきた。

 自由とは、愚かになることなのかもしれない。

 

 脱走が露見する前に帰らなくては、と思った矢先、料理が運ばれてくる。注文したのは良いものの、思えば当然、酒など一滴たりとも口にしたことがない。そして、その類いの好奇心があるわけでもなかった。


 やはりこれは下げてもらおう――そう考え、ウェイターのほうを見たその時、彼女が妙な動きをしていることに気付いた。

 通りに面した窓に向けて、なにか手振りをしている。

 それはまるで、通りにいる誰かに合図を送っているかのような。

 

 顔を隠した男たちが、店に入ってきた。

 勢いよく開けられた扉の嵌め込みガラスが落ちて割れる。

 その中のひとりと目が合った――次の瞬間、近くのテーブルに突っ伏して寝ていたはずの長髪の男が起き上がって、少女を椅子ごと抱えるように押し倒した。粗雑な使い捨ての魔導具が奏でる甲高い音と共に、床に伏した二人に向けて硬質な物体が射出される。

 男は隣のテーブルの天板でそれを防ぐと、食事用のナイフを掴み取り、男たちに投げつけた。一瞬の動揺を突いて、目にも留まらぬ速さで近づいた長髪の男は、地面に落ちようとするナイフを空中で取って輩の眼球に突き刺した。

 間髪入れず、床に落ちた粗悪な作りの魔導具を手に取り、今さら剣を手にした男に向けて撃つ。造りのせいか、それとも使い手の魔力のせいか、精度は著しく悪い。当たらなかったが、それが止めとなって相手の戦意を挫くことには成功したらしい。残る二人は逃げ、それを見たナイフの刺さった男も這々の体で逃げ出した。

 

 なにがなんだか分からないまま、床の上からただそれを見ていた少女を、長髪の男は腕を引っ張って助け起こした。すぐにぺたん、と尻餅をつく。

 腰が抜ける、というのが決して比喩でないことを少女は知った。その拍子にフードが外れ素顔が露わになると、おや、と言いたげに長髪の男は眉をあげる。

 それから、店の隅で震えているウェイターに手を挙げ、少女が座っていたテーブルの上を指さす。奇跡的に、そこにはまだ料理が配膳された通りに並んでいた。


「これ、温め直してくれます?」


 ウェイターはこくこくと壊れたように頷き、逃げるように厨房へと引っ込んだ。周りの客も、酔いが覚めたように二人を見ている。

 その様子に苦笑しながら、長髪の男は今度は少女を抱え起こすようにして、無事な椅子に座らせた。ついでに、フードをかぶせる。その目を直視できないから、助かった、と少女は少しだけほっとする。


「強いんだな」


 ようやく言えたのは、そんな見たままの事実でしかなかった。いきなり絶望的に頭の悪くなってしまった自分に半ば唖然とするが、挽回できるウィットに富んだ一言は続かない。

 幸いなことに、男は軽く笑って話を拾ってくれた。


「まあ、魔王は倒せない程度には」


「それでも、私の身辺警護くらいは務まりそうだ」


「どうだろう。同じくらい荷が重そうだ」


 少女は絶望を継続している。

 ああ、何を言っているんだ私は。どうしてこんなつまらないことしか言えないんだ。


 もっと言うべきことがあったはずだ。言いたいこともあったし、頭の中ではもっとちゃんと、しっかりいい感じで話せたはずだ。ほら見ろ、いや見れないが、なんか困ってるじゃないか。


 後悔すればするほど、少女は空回りしていく。

 食い下がらなくて良い話を、必死になって続けている。

 喉が枯れそうになって、先ほどの自分のテーブルの上にあったコップの液体を流し込む。かっとなる感覚にむせる少女の背中を男が気遣わしげにさすり、それがなおのこと舞い上がりを悪化させた。


 気が付けば、冷静な自分が目を覆う醜態が展開されていた。是非とも身辺警護をすべきだとか、その才覚は身辺警護で輝くとか、訳の分からないことを言い続けていた。

 まあそこまで言うなら、と男が苦笑交じりに頷いた時は、いやそこまでは言ってない、と支離滅裂極まる否定をしたくなった。


 もうどうにでもなれ、と冷静な少女の部分はすっかり目を閉じ、耳を塞ぐことに決めた。



 ――少女の脱走は、彼女が勇者を身辺警護の候補として教会まで連れてきた衝撃で有耶無耶になった。

 ついでに、帰ってきた彼女が明らかに飲酒していたことも同様の顛末を辿った。

 

 なお、一連の騒動のきっかけとなった調理師はどこかへ雲隠れし、彼女を採用した責任は教会組織内で混乱を招き――その末に、あろうことか勇者が本当に聖女候補のお付きとして任命された、という話は、そのお粗末さからか、教会内でもしばらくの間、重大な機密として取り扱われることになった。


***


 さらに、数年の歳月が過ぎた。

 なにもかも、いつまでも同じではいられない。

 

 

 ユウキは再び勇者としての旅を続けるべく、その準備へと旅立った。

 本音を言えば彼に着いていきたいが、そうも言っていられない。

 

 少女の方も、その器を満たす時が来ていると感じていた。

 

 勇者が身辺警護をつとめるのと時期をほとんど同じくして、少女のもとを聖女が頻繁に訪れるようになった。

 警備隊や討伐隊を含む組織についての知識、王室周りとの関係の保ち方など、主に人間関係に重きを置いたその講義は、まさに聖女の政治的な面をよく表していた。


 それが終わると、今度はいよいよ聖女の持つ力である光魔法についてである。

 だが、満を持してのそれについては実践はなく、概論的な程度に収まった。


 もちろん、少女もそれが“自らの命に関する魔法である”程度の知識はあったが、聖女手ずからというのを差し置いても、既知をなぞるだけの内容に終始したのには僅かに落胆を覚えた。


 聖女はそんな彼女の内心を知ってか知らずか、「時が来れば分かる」と、初めて見るほど切なく、優しく微笑んで講義を結び、以降は姿を見せなかった。

 


***




 やがて、その時が来た。


 少女は聖女になった。

 そして、聖女の罪を知った。

 

 

 知ってしまう前には、もう戻れない。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

元勇者のダンジョンレイズ ~余生を送る気満々で帰ってきたのにダンジョンがほっといてくれないんだが…… 秋サメ @akkeypan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画