その御旗は、今ここに。
勇者というものが魔王を討ち滅ぼすための剣なら、聖女は奴らの脅威から人類の営みを護る盾の御旗だ。
たとえば、魔族などの侵攻に対する実働部隊は聖女の名の下に組織されているし、魔術的な治療を行う治癒院の長でもある。
名目上の話だけじゃない。
聖女は大衆から神聖視され、古く歴史を紐解けば魔術の開祖であるとか、果ては永遠の命を持つとさえ真しやかに囁かれている。
つまるところ、
聖女こそが、あの世界の人類たちを長年支え、希望となっていた存在なのだ。
……どこかの魔女がうっかり異世界に来てしまったのも充分大事だが、それが聖女様ともなるとその重大さは比にはならない。
いまや魔王亡き世界とはいえ、その存在は国の、いや、あの世界全体の紐帯になっていると言っても過言ではないのだから――。
「…………どうなってんだ?」
呻くような声が、喉から鳴る。
数メートル先の光景は、ほんの数十秒前からは予想だにしなかったものになっていた。
数メートル先で、湖の中心に立つ三つの人影。紫色の何かを抱える謎の少女、リィナ、そして突如現れた聖女。
……状況は一変してしまった。
俺の疲弊しきった脳は、予想だにしなかった混乱の渦に叩き込まれて悲鳴をあげている。
「――――」
困惑しているのは、リィナも同じだろう。
この場で決定権を持っているのは、彼女だけだ。
この聖女様は、本物なのか。
存在感や、風格……それらがいくら本物らしく見えたとしても、このダンジョンが俺やリィナの偽者を創り出す機能を持っていた以上、その存在への疑いは捨てきれない。
その上、何よりも頭を過るのは、あの紫色の何かを殺せば異世界に帰れるという少女の言葉だ――。
「迷わないで。
言うとおりにしてくれれば、おねーさんをあの世界に帰してあげられる」
逡巡を見透かすように、紫色の何かを抱えた少女が口を開いた。
その腕に抱えた何かからボタボタと零れる液体の量は、今や目に見えて多くなっている。
「……わたし、約束はぜったい守るよ。信じて」
その切実な言葉は……なぜか強く心を揺さぶった。
信じたい、という欲求を刺激し、紙よりも薄いナイフのように心に入り込んでくる。
……それはきっと、少女の特性のようなものなのだろう。
彼女を疑い、怪しみながらも……なぜか決定的に切り捨てられない、催眠的で強烈な愛嬌とさえ呼べるような何か――。
「……もう、あんまり時間がないの。
おねーさん、はやく」
「リィナ――」
聖女様らしき少女は、血を吐くように名を呼ぶ。
絶望が混じったかすれ声だ。
……だが、リィナはすでにどうするのかを決めていた。
その手に、再び闇が集う。
やはり魔力が限界に達しているからか、
彼女は歯を食いしばって顔を上げて、何か逆転の一手を探すように視線を彷徨わせ――やがてようやく、初めて俺の存在を認識したようだった。
「――ああ……――」
彼女の目に浮かんだ誰何は、すぐに理解に変わった。
涙が零れ、堪えきれずに表情が歪む――。
――俺が放った“
リィナが腕に巻き付けてぶら下げていた、【
「――――っ!?」
おそらく、なにが起きたのか理解する間もなく、リィナが青い光に包まれて消えた。
破壊効果によって現実世界へと帰還したのだ。
瞬間――俺は、萎えた脚に“
倒れている聖女様を抱えて、立ち尽くしている少女から離れる。
少女は、俺たちに視線を向けていなかった。
まだ、消えたリィナの方をまだ見つめていた。
「――どうして?」
少女は微動だにせず、ただそう言った。
いかなる感情も、そこからは読み取れない。
その声は平坦で、機械的でさえあった。
俺は答えなかった。その必要があるとも思えなかった。
ただ――どうしてだろうな、と心の中で呟いた。
何が起きているのか分からない。
何が起きようとしていたのかも分からない。
聖女様がここに来たと信じるには不審な点が多すぎるし、彼女に無条件で従うメリットはあまりにもなさすぎる。
それでも、俺はこの人が聖女様だと信じた。
聖女様の言葉を信じようと思った。
考えもなにもない――ただそれだけが理由だった。
「……な、にを」
背中越しに聖女様の身体に腕を回すと、動揺の気配が伝わってきた。
答える余力はない。
魔力が上手く練れない。
どこかに叩きつけて壊そうにも、腕に力が入らない。
やむを得ず、口に含んで奥歯のあたりまでさしこむ。
「――――」
最後の力を振り絞り、聖女様とできる限り身体を密着させた。
……果たして、これで一緒にここから脱出できるかどうかは分からない。
それでも、俺にできるのはこれくらいしかなかった。
「――じゃあな」
怪しい呂律で強がってみせて、俺は奥歯を強く噛合わせた。
青い光の向こう、最後に見えたのは――溢れる粘液と一つになるかのように立ち尽くす少女と、息苦しくなるほど満天の星空だった。
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