第3話 出会った時にはもう……。

「時実様! どこですか! 彩が、彩が来ました!」


 目的地に着いた途端、私は狐さんから降りて名前を呼んだ。

 辺りには何もない。いつの間にか夜になってしまったかのように、真っ暗だった。それでも不思議と怖く感じないのは、時実様の安否に心が支配されていたからだろう。


 私は必死に探した。相手は一度も会ったことがないというのに。ここで会った人物が時実様ではない可能性だってあるのに。

 それでも私は懸命に呼び続けた。


「時実様!」

「彩、彩姫?」


 微かに私の名を呼ぶ声が聞こえた。私は再度、辺りを見渡した。

 暗いだけで、人の姿すら見えない。右も左も分からず、ただただ不安だけが胸に押し寄せてくる。だから希望を込めて、名前を呼んだ。


「時実様! どこにいらっしゃるんですか?」

「彩姫。私がそちらに行くので、あまり移動しないでください」


 今度ははっきりと声が聞こえた。低くて優しい声音。どんなお顔をしているのだろう、と思った途端、今度は緊張が心を支配した。ただ待っている、という行為も相まって。


 すると、前方から薄っすらと人の形が見えた。あの方が時実様だろうか。

 確認しようと口を開いたが、先に名を呼ばれてしまった。待ちきれなかったのは、どうやら私だけではなかったかのように。


「彩姫。あぁ、そうだ。私の記憶にある彩姫だ」

「え? あ、あの。私たち、会ったことが、あるのですか?」


 私は時実様の言葉と、その容姿に驚いてしまい、たどたどしい返事をしてしまった。


 だって、ずっと烏帽子えぼしを被った公達きんだちを想像していたから。


 それが時実様にも伝わったのだろう。照れ臭そうにしながら、説明してくれた。私たちの出会いではなく、ご自分の容姿について。


「あぁ、これは、その……幻滅させてしまって申し訳ありません。私も、できればきちんとした姿でお会いしたかったのですが、直衣のうしは旅に不向きなんですよ。出家はしていないんですが、僧侶の姿の方が楽なこともあって」

「あっ、もしかして、賊に襲われた経験が?」

「なきにしもあらず、といったところでしょうか。それに、陰陽師という立場よりも、僧侶の方が民の受けもいい、というのもあるんです」


 確かに、陰陽師の機嫌を損ねさせると、祟られるかもしれない、という恐怖心があるのかもしれなかった。逆に僧侶に対しては、そんなに悪いイメージはない。

 貴族でそうなのだから、民は尚更だろう。祓えるだけの金品がないのだから。被害だけ受けて泣き寝入りしてしまうかもしれなかった。


「けれど、髪はあるのですね」

「本物の僧侶でもないので。それに短くても、気にする者はいません。袈裟けさを着ていればいいみたいです」

「まぁ」


 思わずクスクスっと笑ってしまった。


「良かった。ようやく笑ってくれた。初めて貴女を見た時も、そのようにコロコロと可愛らしく笑っていました」

「その、宜しければ詳しく聞いてもよろしいですか? 全く見覚えがないものでして」

「勿論です。それに見覚えがないのも当たり前なので気にしないでください。私が一方的に想い慕っていただけなのですから」


 そう言って時実様は、懐かしそうな眼差しをしながら話してくれた。


「あの頃はまだ、駆け出しの陰陽師で。師匠と共に貴族の屋敷で仕事を終えた帰りでした。綺麗な夕日を見ていると、楽しそうな声が聞こえてきて……気がつくと中納言家の屋敷を覗いていました。失礼なことだとは分かっていたのですが、その当時の私は明るい声や話題に飢えていたようで」


 陰陽師ともなれば、貴族の汚い部分を見ることが多いのだろう。相手を呪い、呪い返す。心身が疲れてしまうのも、無理はなかった。


「その時、夕日に照らされた彩姫を見て、夕彩ゆうあやという言葉がとても似合う方だと思いました。いつしか、私の中で彩姫は夕彩姫と勝手ながら呼んでいたのです」

「夕彩……」


 夕日を受けて、ものの色などが美しく輝く言葉。私の彩に掛けて。途端、顔が熱くなるのを感じた。


「勿体ないお言葉です」

「いいえ。それほど美しかったのです。後に、夕方になると簀子縁に顔を出すのが日課だと知り、式神に文を届けさせました。初めは返事など来るとは思わず、舞い上がったものです」

「え? 式神?」

「はい。童の姿に変えて。今日、迎えに行った、あのものですよ」


 私は思わず振り返った。狐さんはただ、私たちを穏やかな表情で眺めていた。


「今日もあの時と同じく、賭けでした。式神の本当の姿を見せることも、勝負事をふっかけることも。そして、貴女がここに来ることも全て」

「……賭け」

「もう、今日しか機会がなかったのです。不快に思われても仕方がないのですが……」

「そんなっ! 不快だなんて。時実様との文のやり取りはとても楽しく、お返事を待っていたのに……」


 非難しようとした直後、私はあることに気がついて、ハッとなった。すると、透かさず時実様も反応する。


「さすがは聡明な方だ。私が何故、このようなことをしたのか、察していただけたとは有り難い」

「い、いえ。これは私の憶測です。あくまでも……」


 しかし、それ以上は言えなかった。言葉にしたら、本当のことになりそうだったから。そんな私の気持ちを汲んでくれたのか、代わりに時実様が仰られた。その真実を。


「えぇ、もう返事ができない身の上になってしまったんです。流行り病にかかり、そのまま。長い旅路で体も弱っていたのでしょう。あっという間でした。式神に文を託すこともできないほどに」

「陰陽師でも、ままならないことがあるのですね」

「万能ではありませんが、一つだけ。生と死の堺に貴女を呼ぶことができました。最初で最後の邂逅かいこうになってしまいましたが、こうして直接お話できたこと、幸せに存じます。これでもう、悔いはない」


 思わず私は時実様に抱きついた。

 まだお話したいことがあるのに。もっとご一緒したいのに。言葉にならない想いを込めて。


「夕彩姫」


 時実様が呼んでいたという、私の名前。親しみの籠もった声音に、時実様がどれくらいその名で私を呼んでいたのかが想像できた。


 それなのに、私は何も応えることができない。


「夕彩姫。先ほども言ったように、ここは生と死の堺。そして私は陰陽師です。無意識に生者を、死へ連れて行ってしまうかもしれないでしょう。だから……だから……離れては……もらえ、ませんか?」


 時実様の言いたいことは分かる。私を死者にしたくない。でも、私を無理に引き離したくない。その優しさに胸が締めつけられた。と同時に、頬を流れる涙。


「私を連れ去ってはくれないのですか?」

「何をいうのですか! 確かに生前はそうしたい気持ちはありました。身分が違い過ぎますから。届かない想いを、文にしたためないように注意していたくらいです。だからこそ、貴女は生きなければ!」

「生きてどうするというのですか? 会ったこともない。好いてもいない帝のところへ入内じゅだいさせられる可能性だってあるんですよ。それなら一層のこと……」


 時実様と死者の世界へ行くのもいいかもしれない。


「会ったことがない、というのなら、私は? 嫁いでからの恋もありましょう。そう、悲観なさる必要はありません。夕彩姫は、その名の通り美しい。帝も私と同じように感じることでしょう。そして、私と交わした文の内容を話せば、興味を持つはずです。帝は、いえ今上きんじょうは外に出たことがない御方ですから」

「もしかして、そのために?」

「叶わないのなら、せめて貴女の役に立ちたかったのです」


 狡い。そうやって、私から時実様への想いをわざと冷めさせようとする行為が。まるで、体ではなく、その想いを連れ去られているような気がした。


 私はさらに泣きながら、ゆっくりと後ろへ下がった。時実様が私を想ってしてくれているのなら、それに応えるべきだと。


 悲しくても、辛くても。たとえ出会ったばかりでさえも、別れを告げなくては。


「私もまた、時実様の文に惹かれた者の一人ですから。きっと帝も興味を示してくれると思います」

「はい」

「……人は生まれ変わると聞いたことがあります」

「夕彩姫?」

「ですから、また会える日を楽しみにしたいと思います。今日、初めて会ったのですから、寂しくはありません。もう文をいただけない以外は。それでも、私の文箱ふばこには時実様との思い出が詰まっています。それを読みながら待つのも良いと思いませんか?」


 自分でもおかしなことを言っているのは分かっている。それでも、時実様がしようとした別れ方はしたくない。


 涙が流れているのを感じながら、私は微笑んだ。きっと変な顔になっていたかもしれない。けれど時実様もまた、微笑み返してくれた。


「叶うことなら、今度は貴女の傍がいいですね」

「えぇ。そうお願いしてください。いつまでもお待ちしていますから」

「ありがとうございます。とても名残惜しいですが、ここに生者を長く引き止めて置くのは、本当に危険なんです。私の力が及ぶ内に、どうか」


 そう言って、狐さんのいる方へ手を差し出した。私は思わずその手を取る。もう握ることができない、その手を。


「お会いできて嬉しゅうございました。呼んでくださったことも」


 別れの挨拶はいつだって辛い。私は一度口を閉じ、ゆっくりと深呼吸してから、その言葉を告げた。


「さようなら、時実様」

「いつまでもお元気で、夕彩姫」

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勝負事に負けた夕彩姫は連れ去られる 有木珠乃 @Neighboring

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