staccato

秋待諷月

 ぽつり、と聞こえた。

 その微かな音と、鼻先を掠った微かな感触に、僕は目を瞬かせる。

「雨?」

 口に出して呟き、視界の上から下へ過った影を追いかけるように視線を落とした。

 小さな公園の片隅にある、青いペンキもすっかり剥げた古いベンチ。傍らにギターを寄りかからせ、座面に胡座をかいた僕の膝の上に載っているのは、一枚の五線紙と鉛筆が一本。

 まだ「楽譜」の体裁を成さない、数段に渡って黒い線が平行に伸びているだけの紙面には、小さな黒い染みができていた。

「あーあ。まだ何も書いてないのに」

 僕は肩を落として嘆息する。「書いていない」のではなく、「書けていない」のだという現実は見ないようにして。

 放っておけば乾くだろうと思いつつも、持ち上げた紙の表面を上着の袖口で拭いかけ――僕はそこで手を止めた。


 五線紙の上で、黒い染みが小さく動いている。


 ぴくぴく、というか、ふるふる、というか。そんな擬音が聞こえてきそうな、身を震わせているような微かな蠢き。

 僕は思わず目を擦り、まじまじと黒い点を見つめる。

 それは、全長三ミリにも満たない、ちっぽけなオタマジャクシだった。

「な……?」

 驚きのあまり紙を取り落としかけて、僕はどうにか踏みとどまる。

 オタマジャクシは軽く弾むように跳ねていたかと思うと、やがて、紙の中へと音も無く吸い込まれていった。

 五線の上、オタマジャクシが消えたあとには、印字されたかのような四分音符が一つ、くっきりと残されていた。

 自らの目と頭の異常を疑う暇もなく。


 ぱらぱらぱら。

 ばらばらばら。


 頭上から次々と降ってきた小さなオタマジャクシは、引き寄せられるように五線紙の上へ着地し、紙面をひと泳ぎしては姿を消していく。消えたあとには、一匹につき一つの音符が残される。

 僕は瞬きすらも忘れて、紙の上で踊り跳ねるオタマジャクシたちを見つめる。


 突然だった雨は、突然に止んだ。

 我に返った僕の膝の上の五線紙は、音符ですっかり埋め尽くされていた。


 ただただ呆然と固まっていた僕は、楽譜をしばらく眺めると。

 その譜面どおりのメロディーを、小声でそっと口ずさんだ。

 柔らかな――どこか、雨上がりを思わせる優しいメロディーだった。




 そこで僕はふと、楽譜の最終段だけが、メロディーから独立していることに気が付く。

 ぽつんと不自然に浮かび上がった四分音符の位置は、第二線に一つと、第二間に一つ。




 「ソ」「ラ」。




 僕は空を見上げる。

 秋の気配も近付く、鮮やかに色付いた見事な夕焼けが、陰鬱だった僕の気持ちを一瞬で晴らした。




 できあがった楽譜を大事に畳んで鞄に入れ、僕はギターを片手に立ち上がると、軽く弾んだ足取りで夕空の下を歩き始める。

 楽譜になったオタマジャクシのように。




 Fin.

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staccato 秋待諷月 @akimachi_f

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