7-2「曇りのち晴れ」

 有紀が言ったようにこれからはずっと雨で、みんなは憂鬱な気分で日常を過ごしていくのかもしれなかった。僕たちはもう二度と、太陽を見ることができない。やはり、これからずっと雨が降ればいいと思った。


 それなのに車内モニターの天気予報は期待と異なるから、嫌になる。


 僕は自宅の最寄り駅の、ホームにしばらく立ち尽くしていた。二度と踏むことがないと思っていたので、不思議な感覚だった。改札を通ったとき、懐かしい匂いがした。


 駅はどこも人が多かった。無機質な空気に耐えきれなくなり、下を向いたまま、人気のない方向へ歩いていく。外に出ると、乾きかけた服はまた水を含んでいった。


 生まれ育った街で死ぬ。それは有紀が里緒を殺したときに思い描いた結末だった。そこに、似た感覚を抱いて生きてきた僕が現われて、一緒に死ぬことを試みた。


 それなのに最後は僕を生かし、自分だけが死んだ。


 生きた証を紡いでいくような営みを捨て、一人で生きることはできそうになかった。だからといって誰かに縋り、裏切られるのは怖い。僕が自分を託した有紀は、もういない。


 彼女はいつ、僕を生かすことに決めたのだろう。


 ふと思い立って手に取ったスマートフォンに、無数の不在着信と、一通のメッセージがあった。発信主の名前に、心臓の、膨張するような衝動を感じる。最後の着信は深夜の二時だった。


 トーク画面を開き、彼女から送られてきたメッセージに、一語ずつ、丁寧に目を通す。


『周が死ぬ前に、周が私の生きる意味になっていたことを知ってほしい』


 それだけの文章なのに、脳内で様々な情報が錯綜し、理解に至るまでに時間を要した。


 会話、記憶のなかにある有紀とのやりとりを遡る。


 彼女は、僕の死と一緒に、自分の生きた証がなくなることを怖れたのではないか。自分が紡いできた生の軌跡を、僕を生かすことで繋ごうとした。


 彼女自身も、精神病だった。


 生きた証という、結果を求めて生きていくことを正しいと見なす考え方は、まだ、僕に生きる余地があることを認めるようなものだった。結果が何よりも優先されるべきなら失敗したとしてもやり直すことができる。


 有紀がそれに思い至らなかった理由を考えて、すぐにわかった。彼女は気づいていた。まだやり直せることを知りながら、敢えて死を選んだ。


 有紀は里緒を殺したことを後悔していた。そして、自分を罰するべきだと考えた。これは推測でしかない。死人の考えはわからない。


 手の中で、携帯が鳴っていた。表示された「池高咲」という名前を見て、沈みかけた意識が少し、浮き上がる。


 着信を知らせるバイブレーションはなかなか止まなかった。傷つけたはずなのに、それでもこうして電話を掛けてくる理由がわからない。


 有紀の生きた証を託された僕は、彼女がいたことを忘れてはならなかった。


 そのために、これから生きていかなければならないなら、やるべきことがたくさんあった。まずは咲に謝って、すべて話して、誠との関係を修復して、それからアルバイトを探す必要もある。生きるということは途方もない「やるべきこと」の積み重ねで、ひとつずつ、丁寧に紡いでいかなければならなかった。


 大きく息を吐く。空を見上げる。応答ボタンに指を乗せる。


 心地よい風が吹いていた。気づけば雨脚は弱まり始めていて、空に浮かんだ雲の、ほつれて薄くなった部分に太陽が滲んでいる。新しい一日が始まったということを、この日、初めて認識した。


 向こうから、微かに電車の音がしていた。咲が掠れた声で、「あ」に似た音を出す。空気は澄み渡っていた。


『どこ、いるの』


 抑揚のない声で咲が言った。


「……駅」


 答えた僕の声は掠れていた。


 端末と電波を挟んで、僕たちの間にはしばらく沈黙が流れていた。その間に僕は交差点を通過し、次の信号に差しかかった。


 水たまりが映した空に、光の筋ができていた。赤だった信号はやがて青に変わり、濡れて滑りやすくなった横断歩道を、転ばないよう慎重に歩く。


 たっぷりと時間を使ったのち、咲は『土手で待ってる』とだけ言って、電話を切った。その瞬間、僕は勢いよく地面を蹴った。


 走っている途中に、開けっ放しだったバッグから財布やモバイルバッテリーが落下していったが、どうでもよかった。嗚咽が喉の内側に食い込んで、上手く呼吸ができない。肋骨に隠れた心臓が、たしかに波打っているのを感じる。肺と気管が目まぐるしい周期で冷却と加熱を繰り返していた。手足が重くなっても僕は足を止めなかった。


 僕も有紀も結局は精神病で、自分自身に生きる意味を見出せず、最終的には他人との間に生きた証を作ることを選んだ。


 それはおそらく咲も同じだった。彼女も自分で目的を作れない人間だった。


 目的を付与し合うことでしか生きられないのであれば、僕たちはそれぞれが互いの生きた証を持ち続けるしかない。致命的な見落としをしていた。咲の生きた証を持ちつつあることを自覚していなかった。互いに縋ることでしか生きられないから、人生を委ね合って生きていくしかなかった。僕は生きなければならなかった。


 雲が太陽を隠すのを諦め、景色が一斉に明るい色に変化した。足元には長い光の道ができている。そこから先、空は綺麗に晴れ渡っていた。


 言葉の通り、彼女は土手にいた。足音で僕の存在に気づいたのか、咲はゆっくりとこちらを振り返った。


 いくつもの雫を纏った芝生たちが、日光に当てられて幻想的な光景を作り出している。景色は宝石のようで、背を丸めて座り込んでいる咲は、一輪の花に見えた。


「僕は、咲のことが本当に好きなんだと思う」


 喉の奥に詰まった言葉を吐き出したとき、自分が、大声で泣く幼児のようになっていると思った。子どもというのは、自分が生きているということを、すべて絞り出すみたいに泣く。存在を全面的に押し出そうとする。この空間は、命の光に満ちていた。


 咲は振り返った状態のまま、しばらく僕のことを見つめていた。時間の経過は気にならなかった。何時間でも、目の前に、咲の存在を感じていたかった。


 いつか見た花火とか夢なんかよりずっと現実感のある、刹那的な人間の美しさみたいなものがそこにぎゅっと詰め込まれていた。咲の目が次第に潤んでいって、彼女は両手で順に涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。


「意味、わかんない」


 降り注いだ日光のすべてが一点に収束し、歪んだ笑顔に変化した彼女の表情が、虹のように煌めいた。人の笑顔が輝いて見えたのは初めてのことだった。


「私は、周に」


 続けて口を開いた咲の、細々と紡がれた言葉は電車の高架を通る音に覆われて、口だけが動いたようになった。それなのに不思議と、咲が言った内容はするりと肌に染み込んだ。


 今日の天気は曇りのち晴れで、明日からは晴天が続くらしい。


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くもりのちはれ、ときどき死体 新代 ゆう(にいしろ ゆう) @hos_momo_re

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