第7章『上手く笑えなくてもいいから。』

7-1「陰霖と生」

 平和の象徴は鳩なんて言うが、もしそれが正しいのだとしたら、羽の生えた平和はどこかへ飛んでいってしまうと思う。


 隣で、起床時間を知らせるアラームが鳴っていた。僕はいつものように手探りでスマートフォンを探すが、なかなかたどり着かない。


 そうしているうちに、音は、遠く離れていく。


 唐突に内臓の膨れ上がる感覚がして、反射的に口を塞ぐ直前、吐き気を催したのだと気づいた。弛緩した食道の筋肉は胃の内容物を押し出すには至らず、僕はあまりの息苦しさで畳の床に頬を擦る。どこからが肺で、どこまでが胃なのか、わからない。


 脳のまんなかに痛みがあって、心臓が鼓動を刻むたび、針で貫かれたようになった。全身の感覚は朦朧としていて、自分に何が起きているのか理解できないまま、口から苦い液体を垂れ流している。死に至った身体に、これほどの苦痛があるとは思えない。


 焦点はなかなか定まらなかった。ぼやけた視界の中央、壁に、薄暗い光が反射している。ぽた、ぽた、と音がして、その背景に雨の気配があった。


 僕はしばらく、床に伏せたまま雨の音を聞いた。


 目の前で燻っていたはずの七輪は見当たらない。隣に有紀の姿もない。藺草の乾いた匂いがする。疑問は目の前の情報だけで解決しなかった。


 視界に映るものたちは、長い時間をかけて輪郭を取り戻していった。畳、居間、仏壇、縁側。ここは、本来、自分がいるはずのない場所だった。部屋には扉が二つあって、片方は台所、もう片方は、僕たちが自殺した部屋に繋がっている。


 右肩から手のひらにかけて、重たかった。動かすことができなかったので、無理矢理身体を捻り、上体を起こす。近くにあった座布団で、口の周りを拭った。座布団は線香の匂いがした。


 雨の音が鮮明に聞こえる。ノイズキャンセリングを施したような、混じりけのない綺麗な音だった。人工物の少ない場所で、雨は湿った匂いを伴う。五感が、これは現実だと告げていた。絶えず押し寄せる吐き気と内側から食い破られるような頭痛がやけにリアルだった。


 立ち上がって、足元の不安定さにバランスを崩し、また立ち上がった。右、左、右と踏み出す足はたしかに自分のものだった。軽く引いても襖は開かなかったので、取っ手に左手を引っかけて体重を乗せた。何かの破れる音がして、襖は三〇センチほど開いた。


 隙間の先、窓が一つ付いた和室の、煙たい空気のなかで有紀は壁に背をついて座っていた。中央に置かれた七輪はすでに、火が消えている。足を一歩踏み入れると激しい頭痛がして、僕は再び床に嘔吐した。身体が、空気の流入を拒否している。


 自分は一体、どれほど眠っていたのだろう。


 吐き気が収まってから部屋に入り、窓を開けた。風と一緒に雨が入り込んできて、畳の床にちいさな染みを作っていく。疎らに点が散りばめられただけの染みはどんどん勢力を増し、窓から一メートルの範囲で濡れていない場所を探すほうが難しくなった。


 有紀の前に座り、顔をじっと見つめる。彼女の体温は、冷たい大気によく馴染んでいた。


「有紀」


 言葉が喉に詰まった。その先、胸の内側から湧き上がってきた衝動のせいで、声にならなかった。


 どうして僕だけが部屋の外にいたのか。わざわざ問いたださなくてもわかっていた。部屋には丸まったガムテープが転がっている。剥がして、新たに貼り直したようだった。


 ずっと夢のような世界を生きてきた。何をしていてもどこか感覚が曖昧で、人との関係も上手くいかない。それなのに、いまこの瞬間は、嫌になるほど現実だった。有紀の死体を目の前にして、僕はたしかに現実を生きていた。


「……僕は君に生かされるほど、価値がある人間じゃないと思う」


 有紀は答えない。耳は激しい雨音だけを拾う。


 彼女が僕を生かそうとした理由がわからなかった。頭は先ほどよりもクリアに働いていて、身体の隅から隅まで自分のものだという確信がある。それなのに、考えることが多すぎて、脳の処理が追いついていない。


 目を覚ます様子のない有紀を見ていると、内臓がひとつずつ消えていくようだった。眺める時間のぶん、心は空っぽになっていく。失った心のぶん、実態のわからない何かの衝動に蝕まれる。


 廃墟の外は薄暗かった。僕は横掛けのバッグを肩から提げて、舗装のない道を真っ直ぐに歩いている。雨が服に染み込んで、体温を奪っていった。


 僕は生と死の境目にいた。遺体を置いたままにするのは気が引けたが、彼女が望んだことなので放置することにした。


 雨は順当に僕を濡らしていき、一つ目の民家が見えたころ、服はすべて水浸しになった。髪が含んでいた水分は雫となって落下し、地面に付くころには雨と見分けが付かなくなる。水たまりの一部になって、地面に吸収されていく。


 人の姿はなかった。有紀が死んだことで、僕は本当に世界に一人だけになってしまったのかもしれない。途方に暮れていた。この先、どうしたらいいかわからなかった。


 生きるという行為は、総じて苦しい。その理由は、自分の生に絶えず目的を見出し続けなければならないところにあった。そんな果てしないことを、今後、有紀の存在なしに続けられる気がしない。


 道なりに歩く途中に人影のようなものを見て、近づくと、その正体は廃墟へ向かう途中に見た案山子だった。刻まれてから決して表情を変えることはないはずなのに、それは僕を見て笑っている。おそらく僕は、その目に、惨めに映っていた。


 雨は僕を濡らすためだけに降っている。


 道はアスファルトになったり砂利に戻ったりしていた。畑の横を歩いていると、いつの間にか視界にはバスの停留所があった。木製の屋根にトタンの背板という、墓地の前にあった停留所と同じつくりをしている。ベンチに座って、バスが来るのを待った。


 このままバスはやってこない気がした。時刻表を確認するのも億劫で、雨粒を眺めながら僕は景色に溶け込む。


 ひとりで死ぬ気にはなれなかった。有紀が僕を生かした理由がまだわかっていない。だからといってこの先どのように生きていくのか、まるで見当が付かなかった。


 死の直前、やり直せるなら誰かを信じて、無意識に距離を取ってしまう自分に抗って生きたいと願った。咲と一緒にいることを望んだ。僕は、その願いに従って生きていくべきだろうか。そう考えていた自分を、遠く感じる。


 バスは当たり前のようにやってきた。


「お客さん、乗るんですか。乗らないんですか」


 突っ立ったままの僕に、運転手は苛立ちを隠さずに言った。


「乗ります」


 当然自分たちの他にも人間はいて、世界は変わることなく生活を続けているから、僕はすこし残念な気分になる。運転手は水浸しの僕を見て、ミラー越しに顔をしかめた。


 座席まで濡らすのは悪い気がして、僕は吊革に掴まったままバスに揺られた。料金を支払うとき、小銭を出すのに手間取った。ずいぶん待たせてしまったことを謝ると、「いやあ」と返ってきた。


 少しでも気を抜けば、有紀と過ごして色づいた日常も目を覚ましてから抱いているたしかな現実感も、心から零れてしまいそうだった。崖を掴む手を少しでも緩めれば落ちてしまうような緊張感があった。


 財布のなかの現金は東京駅までの新幹線に乗るのに充分な額だった。頭から足の先まで濡れた僕を、すれ違う人は怪訝そうな目で見る。広島駅は東京と見間違うほどの人が行き交っていた。午前六時半、黄色い時計と目が合う。


 新幹線に乗っている四時間のうちに、空はすっかり朝の色をするようになった。長い夜明けを経て昼を取り戻した空は、それでも灰色の雲がかかっている。雨は東京に入っても降り続けた。


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