真の共感は体験したものにしか得られない

それでも書く。それが作家です。

私の父はまだ生きています。それでも、代弁してくれた、と思いました。

丁寧に語られる出来事のつながりの中に顕れる感情は、魚の鱗がごりごりと剥がれるように落とされつつ見えていきます。中には、きれいに見える鱗も確かにあったような気もするし、すべてが、ヘドロにまみれていたような記憶を纏っている気もします。

時系列で見せられる流れの中で、

――(引用)――
 令和五年十一月五日、十六時十三分。心不全にてご臨終。四十九日は同年の十二月二十三日で、この日は奇しくも親父が無事に迎えるはずであった正真正銘六十一回目の誕生日・十二月二十二日の翌日にあたる。

 カレンダーを確認して初めてその事実を思い知る。洒落がかった性格な親父にしてみても誂え向きではあるな、と私は笑いながらコレを書き上げていた。

――(引用)――
母親から逐一明かされる、どこか心地よさを孕んだ声音から漂う安心感

――(引用)――
『先ほど、お父さんが死んだよ』

 抑揚もなく全ての感情が抜け落ちたような無を思わせる声色だった。そこに至るまでどれだけの恐怖と絶望と悲壮が襲いかかってきたのかは、想像に任せるしかない。

―――

この一瞬一瞬の空気が、すべてあるがまま、伝わってきて、胸を掴みながら読み終えました。


淡々とした語りが、一部の読者をけむに巻くかもしれない。
私は知っています。振れ幅を小さく見せる人が心に持つ傷の深さを。

知っていると思います。

泣き叫ぶ悲劇の多い中で、このような語りこそ、残してほしい。

「真の共感は体験したものにしか得られない」

と書きましたが、真の共感は、必ず誰かに起こっている。
今それが読者であるあなたになくとも、未来のある日に突然起こるかもしれない。

受賞してほしいです。

ありがとうございました。

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