米の香

魚崎 依知子

米の香

 これは十年ほど前の冬、私が第一子を妊娠した時の話です。

 結婚五年目にして授かった命に喜んだのも束の間、その心音が確認される頃には、私は既にひどいつわりに悩まされるようになっていました。寝ても醒めても船酔いの最中にいるようで、口にできるものはトマトと水だけ。日に日に窶れていく私に医師は「妊娠悪阻おそ」の診断を与え、二日に一度の通院と点滴を指示しました。

 夫は比較的自由の利く自営業ですが、そうは言っても妻の通院のため頻繁に中抜けするのは簡単ではありません。私は近くに住む母に事情を話し、しばらく実家で静養させてもらうことにしました。



「病院行く前に干しといて正解だったわ、ええ感じに温まっとる」

 母は広縁に並べていた衣紋掛けから布団を下ろし、座敷の真ん中に敷く。今日は珍しく朝から快晴で、窓越しの陽光が心地よく降り注いでいた。大きく吸い込んだ空気は懐かしい、日に焼けた木と畳の匂いがする。

「ほんに、ふかふかだわ。ありがとう」

 触れた綿布団はふっくらと温かく、冷えた指先に熱を移す。

「湯たんぽと食べられそうなもの持ってくるけえ、寝てなさいよ」

 最後に軽く叩いた枕を置いて、母は座敷を出て行った。

 一息ついて分厚いコートを脱ぎ、締めつけの少ないパジャマに着替える。点滴に通い始めて約一週間、悪化したら入院と言われていた症状は随分落ち着いていた。つわりそのものは変わらず続いていたが、栄養や水分が適切に補われるおかげで体が耐えられるようになったのだ。

 心配しているであろう夫に帰宅報告のメールを送ったあと、日に温められた布団に入る。相変わらず寝ても醒めても覚束ない視界に、日に焼けた天井板を映す。並ぶ板目の何枚目だったか、幼い頃は人の顔のように見える場所があって恐ろしかった。

 この子もそのうち「影が人の形に見えた」とか「廊下が暗すぎていや」とか、似たようなことで泣き出すようになるかもしれない。何せ、私の子だ。

 苦笑しつつ、膨らむどころか凹んでしまった腹を撫でる。まさか妊娠して痩せるとは思わなかったから、今もまだ怖くて仕方ない。本当に「問題なく育っている」のだろうか。私が食べられないせいで何か起きてしまっていたら、どうしよう。私のせいで。

 答えの出ない不安に顔を覆い、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

香保子かほこ、どうしたん」

 聞こえた声に手を下ろすと、心配そうに窺う母が見えた。

「私のせいでこの子になんかあったらどうしようと思ったら、怖あて」

「あんたは昔から怖がりだけえね」

 母は鷹揚に笑んで傍に腰を下ろす。私の冷えた足元に湯たんぽを突っ込んだあと、日の当たらない枕元に布巾を掛けた盆を滑らせた。

「大丈夫よ。怖がりな母さんにぴったりの子が出てくるわ」

「またそんな、暢気なこと言うて」

「暢気でよう抜けとるけえ、あんたみたいによう気づく子が出てきたんよ」

 ふふ、と目尻の皺を深くして笑う母は今年還暦、父はこのおおらかなところが良くて結婚したらしい。夫は私の重箱の隅まで埋め尽くすような仕事ぶりを気に入ったらしいから、対照的なのは確かだ。

「これ、小さなおにぎりと水、プチトマトよ。ちょっとずつでも食べられる時にね」

「ありがとう」

 落ち着いた私に安堵して、母は再び座敷を出て行く。

 体を起こして布巾をめくり、へたを取り除かれたプチトマトを一つ口に運ぶ。季節外れの酸味で口内の気持ち悪さを抑えたあと、少し眠ることにした。


 浅い眠りに揺らされることしばらく、聞き慣れない声にぼんやりと意識を取り戻す。その瞬間、体が固まった。しまった、金縛りか。途端に蘇るかつての記憶に、汗が噴き出すのが分かる。

――もし金縛りになったら、目を開けばええんよ。そうしたら、すぐに解けるけえ。

 母に対処法を授けられたのは、小学生の頃だ。怖がりのくせにテレビの心霊特集を観て眠れなくなってしまった私は、その言葉にようやく安堵して眠りに就いた。

 実際にその対処法を試したのは中学生の時、初めて金縛りに遭った私は母の助言に従い素直に重い瞼を押し上げた。そして胸の上に座るおかっぱ頭の女の子と目が合い、死ぬほど後悔した。

 絶対に、目を開いてはいけない。

 目を固く瞑ったまま動かない指先に意識を向けた途端、枕元で声が大きく聞こえた。誰か、何かがいる。

「ああ、これはうまい」

「握り飯なんて、いつぶりか」

 ああうまい、水もうまいぞ、と交わす感嘆の声は二つ、一つは野太く、もう一つはしわがれている。若い男と年老いた男か。母がさっき枕元に置いたおにぎりと水を貪っているようだった。当然、父でも夫でもない。「生きている人」ではないはずだ。

 恐ろしさに荒れそうな息を抑え、胸を宥めるように「大丈夫」を繰り返す。食べたのなら、もう帰るはずだ。食べ終えれば、もう。私が気づいていることに、気づかれてはいけない。今は、金縛りが解けてはいけない気がした。

 やがて、ああ、と若い男が声を漏らす。

「全部食うてしもうた。この娘が飢えてしまう」

「なら、連れて行けばええ」

 答えて笑う老人の粘りつくような声に、ざあ、と全身が総毛立つのが分かった。

「そうだな、なら連れて行くか」

「ああ、それがええ」

 二人の意見が一致してすぐ、何かに両足首を掴まれる。ああ、だめだ。また漣立つように、寒気が全身を突き抜ける。力を込めて抵抗するが、向こうは男の力だ。少しずつ、ずるずると体が下へと引きずられて行く。このままでは、どうにかしなければ死ぬ。母を呼ばなければ。

 誓いを破って目を開いた瞬間、真上から覗き込んでいた老人と視線が合う。真っ黒で、光の入らない瞳だった。

「やっぱり、起きとったか」

 私を見てにやりと笑った老人が、皺にまみれた口を大きく開く。ところどころ歯の抜けた昏い穴の奥から、何かがひたひたと迫ってくる。それが何かは分からないのに、何故か死だけは感じ取れた。

 やがて老人の口から溢れたどす黒い粘液のようなものが、少しずつ垂れて……もう。

「はなれろ、でていけ!」

 諦めて目を閉じた瞬間、凛と澄んだ声がどこからともなく響いた。今のは。

 再び開いた視界に映し出されたのは、見慣れた天井の板目だった。男達の姿もなければ、体がずり下がっていることもない。世界は眠りに就いた時のまま、ただ遠くで鳥の啼く声がした。

 夢、か。

 どくどくと早鐘を打つ胸を押さえて息を吐き、汗ばんだ額を拭う。不安を抱えたまま眠ったせいだろう。でも、救いのある夢で良かった。

 息が穏やかになるにつれ浸される眠気に身を任せ、今度はちゃんと眠った。


 香保子、と呼ぶ馴染んだ声に薄く目を開く。欠伸をして、涙の滲む目をこする。そろそろ夕方か、座敷に長く伸びた陽射しが窓枠の影を抜き取っていた。怖い夢を見たが、そのあとはぐっすりと眠れたらしい。体は随分、楽になっていた。

「あら、おにぎり全部食べられたん。良かったねえ」

 安堵のこもる母の声に、一瞬で血の気が引く。違う、私は食べていない。食べたのは。

「どうしたん?」

 跳ね起きて布団をめくった私に、母は驚いたように尋ねる。

「吐きそうなら、洗面器持ってこようか」

「そうじゃないんよ、見て」

 確信を持って、パジャマの裾をたくし上げる。確かめた両足首には予想どおり、鬱血したような気味の悪い痣が残っていた。



 夢ではなかった一件に、夫はすぐに私を連れて近くの古刹へお祓いに向かいました。

 年老いた住職は私の話を聞いたあと、「いろいろな要素が重なった結果ではないか」と四つのことを教えてくれました。

 一つ目は、この辺りには供養塔が建てられるほど多くの命が飢饉で喪われた歴史があること。二つ目は、私の心身が弱っていたこと。三つ目は、あの座敷がおそらく裏鬼門に当たる位置にあること。そして。

――枕元に置かれた握り飯の匂いに、ふらりと引き寄せられてしもうたんでしょうなあ。

 住職は私のお祓いをしたあと、寺の案内をしてくれました。そこは偶然にも、飢饉供養塔が建てられている場所だったのです。

 住職に聞くまではただ恐ろしくてたまらなかった体験が、その時には憐憫と哀悼に変わっていました。

 私は夫と供養塔へ参ったあと、住職にもう一つ尋ねました。凛と澄んだ声で私を救ったのは誰だったのか、気になっていたのです。

 でも住職は柔和な笑みを浮かべて「あなたが一番よう分かっておられる」とだけ、正解を教えてはくれませんでした。確かに私も、思うところはありました。ただそれは母親の願望か妄想のような気がして、夫にも伝えていないことでした。

 その後苦しんだつわりは安定期の来訪とともに収まり、次の冬が来る少し前、私は三,三〇〇グラムの男の子を出産しました。


 あれから約十年、息子はあの日聞いたのと同じ澄んだ声で私を呼びます。怖がりな私にぴったりの勇敢で優しい子は、弟二人の良き司令塔としても活躍中です(私はと言えば、怖がりのくせにつわりの苦しみも陣痛の痛みも毎回きれいに忘れて、結局三兄弟の母になりました)。

 あれから毎年、あの時期になると家族で供養塔へお参りしています。かつての恐怖を忘れることはできませんが、それでも今はただ、彼らの眠りが安らかであることを心から祈っています。



                                   (終)

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