第3話:世界観がぶち壊れた君に

 学校帰りの夕方、まだ夏のど真ん中だってのに空気は少し冷たくなり始めていた。もしかしたら今晩は雨が降るかもしれない。ビルに切り取られて無残な姿になってしまった茜色に染まる空を見上げて、なんとなくそう思った。


 高層ビルの合間から見える西の空は、もうすっかり青から朱色と橙色のグラデーションが広がり始めていて、まるで下手くそな画家が巨大なキャンバスに自身の自尊心をがむしゃらに描いたかのようだった。


 俺と絢莉はなんでもないいつもの帰り道を並んで歩いていた。こうやって一緒に歩くのはいつ以来だろうか。少なくとも最近ではない。全身がズキズキ痛むけど、歩けないほどじゃない。


 街路樹の葉が風に揺れ、夕日の光が木漏れ日となって道路に踊る影を落とす。自動販売機の明かりが街角で目立ち、買い物袋を提げた人々や子どもたちの自転車が忙しそうに行き交う姿が見える。商店街のシャッターが下りる音や、店主が店を閉めるために準備する音が、徐々に街全体に広がっていく。


「ねえ、聞いてた? ワタシの話」


「ああ? 聞いてるはずないだろ、そんなの」


「ひっどー!」


 彼女は他愛のない、自身や家族のとりとめもない近況を一人で勝手に話しながら、それを何でもないことのように笑い飛ばしていたけど、その笑顔はどこか遠くを見つめているようで、彼女がいつも孤立していることをどうしようもなく思い出させた。


「どうしてキミはそんなに愛想悪くなってしまったのかな。お母さんはそんなふうにキミを育てた覚えはありませんよ?」


「誰がお母さんだ、……諸悪の根源のクセして」


「なんか言った?」


「なんでもねーよ」


 帰り支度の商店街を抜けて、信号が赤になる。あまり車も走ってなくて、見ている人もいない。それでも、絢莉は律儀にぴたりと横断歩道で立ち止まった。だから、俺もそうした。別に立ち止まることが苦痛なわけじゃない、ただ無性にイラつくだけ。


「ねえ、どうしてキミはワタシのことを守ってくれようとするの? ワタシはひとりでも大丈夫だよ?」


 そう、どこかの戦闘民族並みにイカれた戦闘能力ならば、俺の助けなんて要らない。


 そう、自分自身の中に確固たる善悪の基準があるならば、俺の言葉なんて要らない。


 そう、絢莉には他のヤツらとは違う光り輝く何かがあって、それならば、俺の影なんて要らない。


 それでも、絢莉の輝きを曇らせたくなくて、壊されたくなくて、たとえこんなことは意味ないことだとわかっていても、この輝きを汚そうとするヤツらから彼女を遠ざけようとしてしまう。


「そんなの知るかよ。たぶん呪われてんだよ、お前にな」


「なにそれ?」


 俺なんかへの呪いの代償が、その意味不明な世界観の相違だとしたら、あまりにも不釣り合いだ。さっさと俺に掛けた呪いを解いてくれていいのに。そうしたら。


 信号はなかなか変わらない。ここが開かずの横断歩道だなんて聞いたことはない。俺達はまだ立ち止まったままでいる。このまま前に進めないんじゃないかって、なんとなくそう思った。


「俺はさ、絢莉、お前みたいなヤツがなんにもないつまらない街で埋もれていくのが悔しいんだ」


 絢莉みたいな超常的なヤツが、いつまでもこのままここに立ち止まっているのはイヤだった。


 いつものつまらない帰り道のはずだった、それなのに。どうしてもこの世界を、絢莉がいるべきではないこの世界を変えてやりたかった。


 ほとんど衝動的に俺の口から吐き出された言葉は、もう止められなかった。自分でも何を言っているのかわからない。絢莉の他愛のない話を聞き流していただけなのに、黙ったままじゃ自分の感情に押し潰されてしまいそうだった。


「……それはキミが決めることじゃないでしょ? ワタシの生き方はワタシが決める」


 信号が青に変わっても絢莉は歩き出さなかった。形のいい眉を少しだけムッとひそめた絢莉は頑なだ。誰に何を言われても決して自分の信じたことを曲げない。それがいい方向に働くことも悪い方向に働くこともある。そして、今はまだそのどちらかなのかはわからない。


「そうじゃないんだ、俺はお前の生き方を決めたいんじゃない、絢莉、お前にふさわしい世界にいてほしいだけなんだ」


 何言ってるのかはさっきから自分でも理解できてない。キョトンとしている絢莉を見るに、言われた本人も何が何だかわかっていない。けど、ずっと絢莉が噛み合わない世界観で息苦しそうにしているのを、この呪縛された目で見ていた。中学高校となんとなく距離は置いていて、それでも、まるで自分が水中に沈み込んでいるようなこの息苦しさだけはずっとどうしようもなかった。どうやら呪いの効果はだんだん強まっていくらしい。


「お前にはもっと輝くべき世界が、ふさわしい世界観があるはずなんだ」


 俺は絢莉のサファイアブルーの大きな瞳を久しぶりに真っすぐに見つめる。吸い込まれてしまいそうな透明感に必死に抗いながら、ただ俺のあまりにも拙い言葉が彼女に伝わってくれと、それだけを願って。


 あまりにも透明で、その奥にある真意すら透けて見えそうで、だけど、きっとそれは深みにありすぎて見ることはできない。そんな瞳をじっと見つめたところで、俺の存在のちっぽけさばかりが気恥ずかしくなってきて、彼女が何を考えているかなんてさっぱりわからなかった。


 だけど、それでも、俺は彼女の呪縛から逃れるために、こう言うしかなかった。


「俺とお前で、世界観を変えよう」


 信号はまた赤になった。俺達はまだ先に進めないでいる。

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