言の葉を喰む

夢見里 龍

言の葉を喰む

 吹きすさぶのは夏の雪ではなかった。

 あれは紙だ。


 斜陽に満たされた書斎で原稿用紙が舞う。今朝がた私が書きあげた原稿たちが蝶にでもなったかの如く、敷きつめられた毛氈じゅうたんをかすめてはまた、舞いあがる。

 さながら紙の旋風あらしだった。


 舞い散る紙吹雪のただなかには娘が、いた。

 華奢な娘だ。娘は元禄袖げんろくそでをはためかせて、原稿をひとつ、つかまえる。

 娘のしなやかな指が青いインクの筆致をなぞれば、文字の群が紙上しじょうを抜けだして浮かびあがった。『あれは鶴でなければならなかつた――』小説の一節がするすると娘の指に絡みつく。

 娘は落ち椿のような唇を綻ばせ、ちろりと言の葉が絡んだ指を舐めた。こく、と喉が微かに動く。

 瞳を潤ませて彼女は感嘆の息をついた。


「ごちそうさま」


 その娘は言葉をむ。

 私は娘のため、朝な夕なに小説を書き続ける。


 私が娘と逢ったのは昭和二十年。

 戦争が激化の一途をたどる、夏のはじめのことだった。

 


 ……

 


 昭和二十年の京都の町はざらざらとしていた。

 堀川通ほりかわどおりも五条通も取り壊された家屋の跡地に青草ばかりが繁って、風にざわざわと揺れている。まばららになった町の風景と同じ様にひとの心も荒れて、洗濯女のあかぎれだらけの手みたいにささくれだっていた。

 京都御所きょうとごしょに爆弾が落ちたのは五日前だ。太秦うずまさ空襲で軍需工場が燃えたときのような被害こそなかったが、市民の動揺は甚だしかった。この戦争は敗けるのではないか。そんな疑いが、潮が砂をのむようにじわじわと拡がりはじめていた。

 京都御所から寺町通てらまちどおりをはさんで東側にある出町柳でまちやなぎの、うらぶれた路地に原稿用紙がまき散らされた。


「ああっ、原稿が」


 突きとばされて思いきり尻もちをついた私は、散り散りになった原稿をつかまえようと咄嗟に腕を伸ばす。

 出版社の男は地べたに落ちた原稿を踏みつけると塩でも撒くように吐き捨てた。


「なんべんきてもろうても原稿は載せられへん。迷惑してるんや、これいじょうこんといてか」


「そこをなんとか。戦争がはじまるまではよう載せてくれはったやないですか」


「ほなら、もっと愛国心のある文學ぶんがくを書きなはれや。こんなん軍部の検閲を通るはずがあらへんわ」


「なにを仰いますやら。こんな時期やからこそ幻想文學げんそうぶんがくがもとめられるんです。英吉利いぎりすで妖精物語が愛読されるようになったんも産業革命の騒擾で損なわれた人間性を取りもどすためやないですか。いっぺんだけでええんです、読者に読んでもろうたらわかりますよって」


 しつこく喰いさがれば、あきれたように男はかぶりを振った。


「とにかく、もうこんといてんか」


 取りつく島もない。

 私は項垂れ、ずれた眼鏡をなおしてから靴跡のついた原稿を拾いあげる。


 軍部による締めつけが年々きつくなっているのは知っている。中央公論で連載をはじめたばかりの「細雪」という谷崎潤一郎の小説が戦争傍観の態度がみられるとして掲載打ちどめになったのは記憶に新しかった。


 散らばった原稿は約百枚。あと一枚というところで砂まじりの風が吹きあがり、原稿がとばされてしまった。

 疎らな雑踏のあいまを原稿が舞う。他人にとってはただの紙きれだ。拾ってくれるものなどいない。

 義足のせいですぐに動けず、よろめきながら追いかける。原稿用紙はいったん地に落ちても私が追いつきそうになると、また風に吹きあげられ、遠ざかっていった。

 弄ばれているようでよけいにむきになる。


 どれくらい追いかけただろうか。

 我にかえると町場からすっかりと遠ざかっていた。

 下鴨は閑静な社家町だったが、築造を経て文教地区へと様変わりした。だが、このあたりは昔ながらの風景が残っている。原稿用紙は風に乗って、白薔薇の垣根を越えていった。


 垣根から覗けば、大正に建てられたとおぼしき異国情緒の漂う館がたたずんでいた。不法侵入をとがめられては事だが、諦めきれず私は薔薇の繁みを掻きわけて庭へと踏みこんだ。

 幸いにも原稿は繁みを抜けてすぐのところに落ちていた。膝をつき、拾おうとしたとき原稿がまた舞いあがる。だが今度は風も吹いていない。妙だと眼鏡を持ちあげたのがさきか。

 私は息をのんだ。


 娘が、いた。

 奇麗な娘だ。蝶が微睡まどろむような睫毛に縁どられた双眸そうぼうはとろりとあまく、蜜を垂らしたような潤みがある。鼻筋は細く、額はまるい。肌は貝殻を砕いてはたいたようなきめ細やかな潤みを帯びていた。絹糸のような緑の御髪おぐしをなびかせ、元禄袖の和服をきている。めずらしい。今時は結婚式でもみな国民服か、もんぺ姿だというのに。


 娘は腕を伸ばして、乱舞する紙をつかまえた。

 あれだけ気ままに振る舞っていた紙は、吸い寄せられるようにして娘の小さな手のうちにおさまった。


 刹那、私は現実を疑った。


 硬い筆致の文字列が紙からするすると剥がれ、蔓が延びるようにして娘の指に絡みついたのだ。『女はその瑞々しゐ肌に金魚を飼つてゐた――』私が書いた小説の一節が娘の白い手背てのこう群青あおく飾りつける。

 娘はなにを想ったのか、潤いのあるうす紅の唇を微かにひらき、言の葉に濡れた指を舐めた。舌の先端に微か、指を落とすような。貞淑な姿にふさわしい慎ましい舐めかたで、彼女は言の葉をんだ。


 みてはならないものを、みてしまった――本能でそれを理解して、私はよろめくように後ずさった。

 蕩けていた娘のくろめが動いて、こちらに視線をむける。白紙になった原稿用紙が、羽をもがれた蝶のように娘の指から落ちた。


「続きを」


 うす紅の唇が、蜜のような声を紡ぐ。


「続き、ありますんやろ」


 考える暇もなかった。私は膝だちのままで慌てて鞄をさぐり、原稿用紙を取りだした。端を揃えて渡す。

 娘は歩み寄り、それを受け取った。


「これ、貴男あなたが書かはったんえ?」


 私はやっとのことで頷く。


「そう」


 娘が微笑む。桜が綻ぶような。慈しみすら感じさせる微笑を湛えて――彼女は勢いよく袖を振りかぶり、原稿用紙をばらまいた。


 物語が、散り散りになる。

 酷い。だが紙吹雪のなかで微笑み続ける娘は美しく、私は非難の声ひとつあげられず、唖然としてその場景を眺めるほかになかった。


 その時だ。

 ばらまかれた紙たちが不意に息を吹きこまれたように逆まき、をえがいて娘のまわりを取りまいた。


 娘が腕を伸べれば、数珠繋ぎになった言葉の群が紙から吸いあげられ、袖から覗く白い肌にまとわりついた。『想ゐびとを追いかけ、湖に身を投げた女の肌から、血潮が溢れるように金魚のむれが抜けだす。海へ、海へ。船から投げだされた愛する男を捜して』『漂流してゐた男を拾つたのは人魚であつた』『男が陸を想ゐだすことはついになく』『哀れ、金魚は海では泳げなゐ』万年筆の青いインクで綴られた文字が端からぐにゃりと崩れて、白肌に吸われていく。

 それだけでは飽きたらず、娘は手背てのこうに唇を寄せた。

 滲んだ言の葉を舐めとり、娘はほうと息をつく――彼女がんだあれは、私の文章だ。そう理解したとたん、燃えるような昂揚が胸を焦がした。


「……きめた」


 娘が呟いた。

 白紙になった原稿用紙が散る。娘はそれらを踏むことなく進んで、跪いていた私に手をべた。先程まで言の葉が絡みついていた腕。いまは白い娘の腕。


「私、貴男あなたの書いた小説がべたい」


 ぞわりと肌が痺れた。


「ね、書いてくれはりますやろ」


 捕食者に屈服するように――私は額を草におしつけ、こうべを垂れた。


「書かせて、ください」


 風が吹き渡った。紙とインク、薔薇のかおりが絡まりあった夏の風だった。



 ………



 館のなかは華やかな調度で統一されていた。

 日頃から三畳一間の長屋で寝起きしている私はいたたまれなくなって無意識に身を縮めた。きらびやかな迎賓室に通されたあと、娘は暫くいなくなり、軍人とおぼしき男を連れてきた。父親だろうか。


「君が小説家かね、若いな。失礼だが、徴兵は」


「日中戦争の折に左脚をうしないまして」


 現在は軍人恩給を貰い某大学に通っている旨を説明し学生証を提示する。怪しいものではないと理解してもらえたのか、むかいあっていた軍人の眼から険が抜けた。


「して、どれくらい書けるのかな。日に五十枚は書いてもらわねばこまるのだが」


「講義がなければですが、日に二百枚は余裕であります」


 軍人が眼を見張る。速筆なほうだとはおもっていたが軍人の予想をはるかに超えていたらしい。

 

「日に百枚ではどうか。月給は七十五円。一日でも原稿を落とせば五円減額するものとする」


「そないに頂けません。月に二十円で結構です」

 

 七十五円といえば少尉の月給に相当する。二等兵だったころは月給七円だった。


「ただ条件がございます。彼女が原稿を読むところをみていたいのです」


 あれを"読む"といっていいのかは些か疑わしいところではあったが、私が頼みこむと軍人は眉根を寄せた。


「残念だが――」


「ふふっ」


 場の緊張を破り、笑い声をたてたのは娘であった。


「変わってはりますねえ、文學をなさっておられるひとはそういうものなのかしらん」


 軍人は渋い顔をする。


「部外者に度々逢うというのは」


「あら、いけずやね」


 娘の声の端がひんやりとした。軍人は固唾をのむ。


「東京の図書館にある蔵書を京都に運ぶよりは、小説家せんせいを側におくほうがよっぽどにええとちゃいますか。たいせつな、私のためですもの。なんでもしてくれはるんでしょう?」


 このときに私は察した。あの軍人は親ではない。彼女をにすぎないのだと。 

 軍人が渋々と承諾し、娘は一転して晴れやかに微笑んだ。



 ……



 それから私は毎日原稿を書きあげては、館に通い続けた。

 娘が小説を喰む姿は奇妙に美しく、私はますますに耽溺していった。


 小説を書くとは心にきずをつけることだ。言葉にならないはずのものに言葉という縄をかけて縛りあげ、喰いこんで擦れた疵から溢れた青い血に万年筆の先端さきをひたす。

 そうして紡がれた小説を、娘は喰む。それはつまり、私の魂が喰われていることにほかならない――私の紡いだ言葉が血潮となって娘の透きとおる肌の下を通い、御髪となり、骨となる。

 たまらなく嬉しかった。


 彼女と語らうひと時もまた、私の心を華やがせた。

 彼女は物知りで、他愛のないことを喋っているだけでも小説の一節を朗読しているような玲瓏たるひびきがある。

 紫陽花が咲けば「紫陽花や 帷子時かたびらとき薄浅黄うすあさぎ」と口遊み、夏めいた風が吹けば「黄雀風おうじゃくふうやねぇ」と嬉しそうに微笑む。それが別段、気取った表現を考えているふうではなく、言い馴れた言葉が癖のようにこぼれているといった風情であるから参ってしまうのだ。


黄雀風おうじゃくふうですか」


 耳慣れない言葉を復唱すると、彼女は睫毛をしばたたかせた。


「あら、知らはらへんの。支那シナでは夏のはじめになると、海の魚が南東からの風に乗って黄色い雀になるゆうて。山海経せんがいきょうにもありますやろ」


「山海経というと」


「中国の地理書。ゆうても、今でいうところの地理とはちょっとばかりちゃいます。大陸各地の神話や伝承を蒐集したもので、始皇帝の焚書に巻きこまれへんかった書のひとつやね。焚書は知ったはるでしょう?」


「確か、中国の秦王朝しんおうちょうの思想弾圧でしたやろか。民を統一するため、儒教の経典や史録をことごとく燃やしたとか」


 ドイツでもナチス政権による焚書があり、夥しい量の本が焼かれた。詩人ハイネは本を焼くものはいずれ人をも焼くようになると警告したという。


「そう、始皇帝は薬や農事について書かれた書以外、読む事も書く事も禁じた。……権力者が考えることはいつの時代も一緒やねぇ」


 彼女は老熟している。膨大な知識がそう想わせるのか。

 いや、これは彼女という森にある木の葉ひとつに過ぎない。彼女の深遠さは何処からくるのか――私の疑問を察したのか、書斎にある窓にもたれて娘は呟いた。


「私は"本"なんよ、呼吸をする本。小説から大説、古文書から書録まで。んだ文書もんじょは一字一句こぼさず、この身におさめていますさかいに」


 彼女は証拠とばかりに金魚の女の一節をつらつらと暗唱した。原稿はすでに白紙になって確かめるすべはないが、思いいれのある段落はおぼえている。相違なかった。


「……重要な文書が紛失することのないように収蔵しておくのが言読コトヨミの役割。弘仁の時にはすでに天皇家の蔵書として平安京の宮廷におったとか。明治期に本家がお取りつぶしになってからは血が薄うなって、いまでは一族のなかでも"本"になれるもんはひと握り」


 言読という奇妙なひびきは古事記に書かれた月読命を連想させた。

 だがか。それは誇らしいことなのか、それとも呪いなのか。

 娘の微睡むような眼からは覗えなかった。


「私を読みたい?」


「いえ」


「賢明な御人やね。読んだらさいご、貴男あなたを殺さなあかんようになるさかいに」

 

 賢いものか。私は愚かだ。現にいまだって身の程知らずの欲を懐いている。

 彼女の頁を、どれほどに幸せだろうかと。



 ……



 西陣にしじんに火が降った。

 私の長屋は西陣にある。幸い私は出掛けており命拾いしたが、後からが大変であった。なにせ暮らすところも蓄えもなくなったのだ。教授を頼り、舞鶴にいる親に連絡を取って落ちついた時には三日が経っていた。私はややあって娘のことを想いだし、館にむかった。


「なぜ、こなかった」


 軍人は眉根を寄せ、ため息をついた。怒っているというよりは強い焦燥が滲んでいる。私が経緯を語れば彼も納得せざるをえなかったのか、気の毒そうに頭を振った。

 

「事情はわかった。だが彼女が飢えているのだよ。図書館から書物を掻き集めたが、どれもすでに


 玄関ホールには夥しい量の本が雑多に積まれていた。

 軍人から原稿用紙と万年筆を渡される。


「今すぐ書きたまえ、さあ、さあ」


 異様ともいえる勢いに圧されて、私は無理にでも筆を執らざるをえなかった。だが今後のことなどが頭をもたげ、筆は遅々として進まない。


 絡まる思考をたつように下駄の音がした。娘が家政婦の助けを借りて、緩いカーヴを描いた階段を降りてきたところであった。

 私は絶句する。

 娘は酷くやせ衰えていた。彼女は胡乱な、眼をして私を睨む。


「――はよう、書きい」


 これまで聴いたこともない、強い口調。だが息も絶え絶えで声は酷く嗄れていた。


「貴男、約束しはったやろ」


 胸を締めつけられた。彼女は私が原稿を書けなかったせいでこうも飢えたのか。

 想いあがりだ。わかっている。それでも浅ましく、胸は弾む。


「書きます」


 あらためて万年筆を執れば、意識はどぷんと物語の湖に落ち、水泡が溢れるがごとく続々と言葉が弾けた。


 筆は紡ぐ――東ローマ帝国、一族を滅ぼされた娘の怨嗟うらみを。娘は呪う。残虐なる皇帝にかならずや、報復を。皇帝は一族の臓物で絹を染め、禁色むらさきの服を織った。だが皇帝は禁色にふさわしい美貌をたずさえていた――娘は一族の仇を愛してしまった。娘は自身を呪いながら毒を飲み、毒の接吻で皇帝をみちづれにする――原稿にむかい続けてどれくらい経ったのだろうか。


 最後の段落を書き終えて私が筆をおいたのがさきか、娘の飢えにこたえるように原稿が舞いあがった。

 紙から剥がれた文字列は娘を取りまいて、乱舞する。


 だが娘は動かなかった。


「ね、食べさせてはくれはらへんの」

 

 娘はなまめかしく微笑すると華奢なてのひらを重ね、私の指をとり誘った。

 原稿用紙から剥がれた段落が私の指に絡みつく。

『その紫は、朝なぎの海に微睡む星の青さに人魚の血潮を一滴、垂らしたような、陸の何処を捜してもかわりがなゐ、そんな紫であつた』中指をゆるく締めあげるその一文は硬い筆致からは想像もつかないほどにやわらかった。熱かった。


 娘はしな垂れる髪を掻きあげながら、潤んだ唇を寄せる。

 事もあろうか、彼女は筆胼胝ふでだこのできた指ごと、小説の一節を喰んだ。

 木蓮のはなびらにも似た娘の薄い舌が私の指を舐め、青ざめた言の葉を吸いあげる。

 私はようように我にかえり身を退きかけたが、娘は私の臆病を許さなかった。丹念に舐めあげて娘は歓喜の息を洩らす。


「ああ、やっと満たされた」



 ……



 以降、私は書くことに傾倒していった。

 館の迎賓室を間借りして三日三晩書き続けることもざらあった。いったん筆が乗ると眠ることもわすれ、食事を取ることもせず、原稿に没頭する。いや、私にとってはもはや書くことが、眠ることで、喰らうことで、呼吸することにほかならなかったのだ。

 講義にも足を運ばなくなり、長屋が燃えたあと下宿させてくれていた教授から苦言を呈されたが、耳を素通りするばかりで、私の意識は彼女という本のなかにとらわれていた。

 

 玉音放送があったのはそんな夏のさなかだった。


 日本が敗けた。


 天皇陛下の御声で「終戦」と語られたそれは、事実上の全面降伏であった。

 戦況の悪化を察していたとはいえども、その報せは現実から隔絶した域にあった私を、無理やりにでも連れもどした。


 京都の町はにわかにざわめいた。

 だがそれは悲憤するだとか悔恨するだとかそうした強い感情のおこりではなく、この現実をどう受けとめていいのかさだまらぬといった狼狽うろたえであった。ただ「もう、空襲に怯えることはないのだ」と教授の妻が幼子を抱き締めて呟いたのを、私は寂寞せきばくたる想いで聴いた。



「日本は敗けました」

 

 茜さす書斎はいつもどおり静かで、籐椅子に腰掛けた娘もまた、これまでとなにひとつ変わらなかった。

 百年前に描かれた絵画のような、その風景にむかって私は声をかけた。


「私は日中戦争に出征きました。私と一緒に満州に渡った兵隊たちは日本が勝ち続けると疑わずに死にました」


「そう」


 握り締めていた原稿を、私は思いきり書斎にばらまいた。それらはいっせいに吹きあがる。死者の魂に集まる蝶の如く。


「"彼等"の話です。英霊ではなく、故郷や愛するひとのために死地にむかった男たちの――時が経てば、彼等がいたことはわすれられるでしょう。でも、あなたのなかには残り続ける、残してください」


 娘はとろりと睫毛をふせ、諦念じみた愁いを漂わせる。ため息をつくように呟く。


「本は残りませんえ」


 平安時代から書を収蔵してきた言読コトヨミらしからぬ言葉に私は、些か戸惑った。


「残ります。だって、あなたは呼吸をする本でしょう。紙は崩れて書物が滅んでも、心にあるかぎり、残り続ける。始皇帝の焚書の折かて詩経は暗唱されることで人の心に残り、喪われなかった――ちゃいますか」


 娘が破れるようにわらった。

 は、と細く呼吸いきいて。


「そうやねぇ、そのとおりやわ」

 

 娘は指をべ、いつになく時間をかけて言葉をんだ。いき場のない悔恨をかみ締めるように――私は瀬戸内海の風習を想いだす。彼方あちらでは葬式のとき、故人の骨を砕き酒杯にいれて飲むのだとか。

 ならば、文字を喰むのも弔いになるのだろうか。骨も還ってこられなかった兵隊たちの――『満州は寒ゐ。故郷を想つてこぼれた涙も凍るほどに。それがせめてもの救ゐだと呟いた男の哀しみをいかに例ゑよう』読み進めていくうちに娘の頬にひとつ、ふたつと涙がこぼれた。濡れた頬に小説の一節が滲む。

『最後の時、戦友ともが喉を嗄らしてんだのが「母さん」であったことを私は死ぬまで、きつと忘れまゐ』

 次第に私も涙腺が熱くなるのを感じた。眼鏡をはずして濡れた頬を袖で拭う。

 満州から帰還してはじめて、戦友を想い、泣いた。

 

 日が落ちて、書斎の窓から強い風が吹きこんできた。

 娘を取りまいていた原稿用紙のむれが一瞬、風に叩かれて地に落ちかけた。風は微かに焦げ臭く、異様な胸さわぎを私にもたらした。



 ……



 京都盆地は九月を過ぎても茹だるほどに暑かった。

 秋風は吹かず。市民の心は終わらない夏のなかに囚われていた。

 教職追放令がくだり、教授は退職を余儀なくされた。私は知人の長屋に移ることになった。

 長屋に荷を運びこんでいると児童達が草原くさっぱらに教科書を投げ捨てようとしていた。教科書とはいえども本が粗末に扱われることは辛抱ならず、私は児童達に声をかける。


「こらこら、そんなことをしたらあかんよ。勉強させてもらえるだけでも君らは恵まれているんや」 


「せやかて、こんなん、読めへんやん」


 児童が悔しげに声をあげ、教科書を突きだしてきた。どれどれと覗きこんだ私は一瞬にして、身のうちが凍りついた。


 開かれた頁の一面が、べったりと墨で塗りつぶされていたのである。

 なかば児童からひったくるようにして確かめれば、二三行に渡って線がひかれているだけの箇所もあれば、頁の端から端まで抹消されているところもあった。

 まるで焼かれているみたいじゃないか。

 焚書という言葉が頭に浮かぶ。


「読んだらあかんねんて。先生がこうしろって」


「米軍の命令なんやって」


「日本が敗けたから」


 私は教科書を児童達に突きかえすと、矢も楯もたまらず走りだしていた。

 軍歌をぬりつぶすのも「戦車」という言葉を「車」に書き換えるのも、大きな渦からすればただの余波だ。私の知らないところで今まさに、大量の本が焼かれているのだろう。


 本は焼かれた。

 ならば、人は。


 私は軋んで動きにくい脚に鞭を打って、彼女のもとに急いだ。



 ……



 娘は白薔薇のしぼみはじめた中庭にたたずんでいた。風に吹かれる背は書架に収まった文庫の背表紙のように薄く、頼りない。


「どうかしはったん」


 振りかえらずに娘が尋ねかけてきた。


「教科書が」


「ああ、はじまったんやねぇ」


 知っていたのか。

 頭がぐらぐらとした。

 私はかける言葉も捜せずに娘の袖をつかむ。ようやくに振りかえったその眼があまりにも静かで乾いていたから、私は絶望する。

 それは焼かれる本の眼ではないのか。


「逃げましょう」


「何処に?」


 娘はかそけく微笑んだ。


「何処でもええやないですか」


「それは何処にもいけへんゆうことやね」


 わかっている。大きな渦には逆らえない。それができるのならば、兵隊たちは戦地で若い命を散らすことはなかった。建物疎開で生家を壊されるものもいなかった。


「ねえ、私、想うんよ。人は誰もが一冊の本なんちゃうやろか。産まれた時は白紙で、時を重なるごとに頁が埋まり、百年後にはあとかたもなく崩れてしまう――どんな物語を綴ってもいい、自由で不自由な紙の束」


 娘は私の手を取り、指を絡める。いつだったか、私の指から物語をんだときのように。


「私の最後の頁は貴男あなたやね」


「これからやて書きます、何百でも何千でも。あなたに捧げます。やから、そないなこと、いわんでください」


 それでも縋りつこうとしたとき、背後で硬い鉄の音がした。戦地で聴きなれた不穏な音だ――振りかえれば、軍人が娘に銃口をむけていた。


「処分命令がくだった、……すまない」

 

 身構える暇もなかった。娘が微笑みながら勢いよく私を突きとばす。逢ったばかりのとき、原稿をまき散らしたあの眼で。


 灼熱の銃弾が放たれる。

 紙を破るようにあっけなく、娘は撃たれた。

 声にならない声をあげ、私は彼女のもとに這い寄ろうとしたが、銃弾は立て続けに娘の胸を撃ちぬく。

 銃創から溢れだしたのは血潮では、なかった。


 文字だ。


 青ざめた墨のいろをした文字の群れが娘の胸から溢れて、青空に吹きあがった。さながら黒い吹雪の如く。

 小説が、大説が、十五世紀に渡る記録が、渦まいて乱舞する。

 それらはやがて、ほたほたと落ちてきた。

 森鴎外の舞姫の一節が白薔薇を濡らして、敷きつめられた庭草の彼方此方あちこちに源氏物語が散らばる。医心方とおぼしき筆字が館の軒に垂れさがり、青葉の枝さきを『木の花の栄ゆるが如く栄え坐さむとうけひて貢進たてまつりき』という古事記の段落が飾った。

 軍人の頭上に『後悔』という二文字が降りかかり、彼は酷く青ざめると逃げるように踵をかえす。

 降りしきる青墨の雨のなか、私は倒れふした娘のもとまで這っていった。


 娘はすでに事切れていた。


 死してなお、彼女は美しかった。

 静かに綴じられた唇に接吻くちづけする。私の小説を再びには喰むことのない唇を、吸う。

 側には私がこれまで綴った小説たちが吹きだまっていた。


 私は言葉の雨に濡れながら、いつまでも、いつまでも彼女に寄りそい続けた。



 ……



 昭和二十六年。

 終戦から六年経ち日本は復興にむけて、進んでいた。

 終戦の年の九月初旬、京都下鴨に墨の雨が降ったことは記録されず、彼女がいたという事実は何処にも残らなかった。


 私は紆余曲折を経て小説家になっていた。


 賑わう三年坂をくだりつつ、娘が黄雀風おうじゃくふうと呼んだ孟夏の風に吹かれ、私は考える。


 山海経はなぜ、焚書されなかったのかを。

 儒教の語った「怪力乱神かいりきらんしんを語らず」に相反するものだったからか。あるいは荒唐無稽な幻想ゆえに奇書として捨ておかれたのか。

 のちに山海経は焚書以前の風習、思想を知るための手掛かりとして研究されるにいたり、殷王朝いんおうちょうの王族の争いなど神話として歴史的事実を織りまぜていることがわかった。時の書き手は幻想のなかにしん王朝おうちょうにとって不都合な真実を隠したのではないか。妄想だ。

 だが、私はそうするつもりだった。


 まもなく出版される私の幻想文學には言の葉を喰む娘が登場する。


「ね、書いてくれはりますやろ」


 夏風のなかで娘の声が聴こえた気がして、私は振りかえる。古都の軒端を背に、何処からともなく飛ばされてきた原稿用紙がひとつ、風に舞っていた。

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