帝國の書庫番 二幕

一年ほど前、刀祢麟太郎と分隊の任務の話。


『恭がよく躓いたりぶつかったりするのは、やっぱりすがめだからだろうねぇ。』

『生まれつきだもの、仕方ないじゃないか。』

『なんて可哀想な子だろう。男だってのに、これじゃあまともに剣も握れないんじゃないかい。』

『士族に生まれたばっかりにねぇ…。』


 そんなこえを、聞かされ続けて育った。多分向こうは、俺に聞こえていたとは気付いていないだろう。それでも、悔しかった。俺のどこが可哀想だと言うんだ。はじめからそんな扱いで俺を見るな。俺を惨めにしたいのは、お前達だろうが。血を吐く思いで、剣を磨いた。鋒の軌道は、ずれる。踏み込んだ位置は、遠い。死角が広い。左から狙われて何度も吹っ飛ばされた。それでも。片端者かたわものは落とされる警兵の入隊試験に受かり、尉官まで昇進した。だからこそ、あの「ちび」は許せなかった。あんな子供のような風体で、まともに戦える筈がない。俺達の上に立つ為に、「有坂」の名をいいように使ったに違いないのだから。



「私と二人での見廻は不服ですか、石動いするぎ少尉。」

「……。」

「私は気にしませんし、今は構いません。ですが、他の目がある場所では、上官が声を掛けたら、何か応えた方がいいですよ。」

 日は既に落ち、辺りは二人の持つカンテラの灯だけが照らしていた。前を行く小柄な男も、その後ろに不機嫌そうに従っている男も、烏羽一色の軍服に外套を羽織っており、彼らが警兵であると知らしめると同時に、彼らの姿を闇に溶け込ませていた。

「俺は、あなたを上官だと思っていません。」

「正直でよろしい。嘘をつかれたら、叱らねばならないところでした。」

 無表情に答えた小柄な男の、赤犬のような毛色の髪だけがうっすらと闇に浮かび上がっている。後ろの男――石動は当然その表情を目にしてはいないが、彼がどんな表情であるかなど、分かりきっていた。彼、石動の所属する東都中央兵団第一五七分隊の長、目の前の、石動よりも頭一つ半近く小柄な赤毛の男――刀祢麟太郎は、何が起きても表情を変えないことで有名だった。喜びも、悲しみも、怒りもしない、「有坂の犬」。隊の編成が通知され、この男を初めて目にし、そして副隊長に指名されたとき。込み上げる怒りのままに胸ぐらを掴み上げた時さえ、彼は表情を変えなかった。鍛え上げてはいるが、筋骨隆々とまでは言えない石動の片手でも持ち上がるほどの軽く小さな体で、一体何ができるものか。今回の「見廻」も、その当て付けだろうか。相次ぐ警兵狙いの殺害事件の調査、そしてその下手人の逮捕、もしくは排除。それが今回各分隊に与えられた任務だったが、何故か麟太郎は石動のみを指名し、連れ出している。これでは襲ってくれと言っているようなものだろう。これまでに殺された仲間は皆、一人の処を襲われているのだ。少人数で動くのは、当然避けるべきだ。

(俺が邪魔だからと、始末するつもりではないだろうな。)

 屯所から離れ、民家の並ぶ路地を歩きながら、石動は常に周囲の気配を探っていた。生まれつき左目の視力がない彼は、代わりに聴覚を頼って生きてきた。特に、死角からの攻撃であれば「空気の震え」で察知できる。今のところ、状況に変化はない。街の中心部であればガス灯も立ち並んでいるが、住宅地にそんなものはない。幕府の時代から変わらない生活空間の中を無言で歩む二人の姿は、遠目に見れば人魂か狐火のようだ。

 ふと、鳥の羽音が頭上から聞こえた。こんな夜更けに珍しい、と思った、その瞬間。

「後ろ! と、左です、石動!」

 鋭い声が飛び、同時に二人が動いた。サーベル拵の官給刀ではなく、取り回しの効く小太刀を抜き、「それ」を叩き落とす。短弓用の細い矢は呆気なく折れ、地面に乾いた音と共に落ちた。周囲は造りの似た平家の民家。方向はわかった。が、姿は見えない。ぽつりと、麟太郎が呟いたが、石動はそれを聞き逃さなかった。

「やはり、『彼となら』二人でも手を出して来ると思いましたよ。」

「どういう意味ですか。」

 麟太郎が石動に瞳だけを向けた。感情の浮かばない目。苛立たしい。

「あんたは、俺なら囮にできるとでも思ったのか?」

 俺が『可哀想』だから?

 その一瞬、怒りが脳裏を支配した、そして、それ故に、動きが遅れた。

「石動!」

 咄嗟に足を動かしたが、避け切れない。一本の矢が左足のこむら部分に突き刺さる。呻き声を噛み殺した石動の゛頭上から゛、声が降ってきた。

「頭を下げて地面に付けろ!」

 反射的にその通りに動く。背中の上に重み、同時に、肉に何かが刺さる音が、ほぼ同時に複数回響いた。

「……。」

 右目だけで石動は背後を見遣る。地に伏せた石動の背を踏み付ける麟太郎の足元だけが、石動からは見える。しかし、で分かっていた。自分に傷が増えていないのだから、先の攻撃は麟太郎が受けたのだと。足からじわりと痛みと共に熱と痺れが回ってくる。成程、こうして動きを封じて殺していたのだ。足音が一つ、二つ…六つ、いや、七つ。地面に放られたカンテラの光の中に、影が増えてゆく。

「私達が通り過ぎるのを待っていましたね。」

 全く声音を変えずに麟太郎が言う。一人が喉を鳴らして笑った。

「随分と卑怯な手を使っていたんですね。一人に対して七人がかりですか。」

「慎重だと言ってくれや、ちび助。」

「ええ、だからこそ『二人で』来たんですよ。必ず『一人』を狙っていた貴方がたの実際を知らなければなりませんでしたので。」

 哄笑が起きた。背中の重みが消える。麟太郎は動けているのか。痺れは腿あたりまで上がってきている。同じ矢で射られたなら、麟太郎はもっと毒を食らっているはずだが……。

 男の声が聞こえた。

「帰れると思ってんのか、ちび? 警兵ごっこはもっと大人になってからやんな。」

「ま、残念ながら、お前はここで死ぬんだが。」

「死にませんよ。……動くな、石動。毒の回りが早くなります。じっとしていなさい。」

 上半身を起こし、なんとか敵と相対しようとした石動は、目を見開いた。麟太郎の身体には、少なくとも五本の矢が突き立っている。

「なんで、あんた、動けて……。」

「理由は今はよいでしょう。私が君を守りますから、自分の事だけ考えなさい。」

 言葉を失う石動と対象的に、周囲の男達は侮蔑の色すら隠さなくなってきた。

「なんだぁ? この餓鬼、まだそっちの片端を庇うってよ!」

「とんだお笑い種だな、新政府の警兵ってのは、やっぱり人員も練度も足りてねぇなあ。」

「おい、餓鬼。我慢してんならそっちのお兄ちゃんを置いて逃げな。まともに動けるならの話だが。」

 麟太郎は、一つ息を吐いた。そして、小さな体で仁王立ちになる。格好の的だ。

「大事な部下を傷付けられて、見捨てて逃げる上官があるものですか。」

 静まり返った周囲とは裏腹に、男達は笑い声を隠さない。

「ははは、こりゃ傑作だな。面白い、根性だけは認めてやるよ、ガキ。お前を跪かせて、それから殺してやる。」

 ど、と鈍い音と共に、麟太郎の右太腿に矢が突き立った。もし彼が避けたなら、石動に当たる位置。上半身に向けて放たれた矢は左腕で受けた。何故受けるのか。何故。どうして、彼は倒れない。男達は刀を差している。思い返せば、仲間の遺体にも、矢傷は一つか二つ、あとは刀で斬り殺されていた。それでも的当てのように矢を放つのは、ただ甚振っているだけなのだ。左足に矢が刺さったとき、初めて、麟太郎が小さく「ぐうっ」と呻いた。そしてゆっくりと、膝を折る。勝ち誇ったような男達の顔と、自身の命の危機よりも、石動は、麟太郎の動きから目が離せなかった。膝を折り、姿勢を低くし、両手を外套の下に差し込み――


「情報は充分得ました。用済みです。」


 その声と、肉が潰れる音。一瞬遅れて男達が全員、地面に倒れた。ぴくりとも動かない者、悲鳴と呻き声を上げている者。麟太郎は、まるで何事もなかったかのように立ち上がると、呻いている男の首から細い鉄の棒のようなものを抜き取った。ゴボゴボと男が何か言っているが、口から溢れるのは血ばかりだ。

「私が暗器使いであると、知れ渡っても困りますから。ここで全員、死んでいただきますよ。」

 そう言うと麟太郎は、抜き取った鉄棒を男の眼球に突き立て、脳天に向かって抉り上げる。既に動かない男達は正確に目を射抜かれており、それが棒手裏剣であるとやっと石動にも理解できた。生き残った男達に、順番に、淡々と止めを刺し終えた麟太郎は、全ての手裏剣を回収すると袖で拭い、服の下に仕舞う。そしてちらと石動を見てから、漆黒の空に向かい「『くろすけ』、いますか」と声をかける。はたはたと羽音と共に舞い降りたのは、一羽の鴉だった。先程の羽音はこれか、とぼんやりと考える石動の前で、麟太郎は上衣から紙と鉛筆を取り出し、何か書くと、鴉の脚に結えて再び放つ。それが終わると、やっと麟太郎は石動の方へ向き直った。まるで針山のようなその姿に絶句する石動に、無表情のまま麟太郎は言う。

「本部へ『これ』を片付けるよう報告しました。まずは君を治療してもらわなければ。」

「いや……その、」

「私は大抵の毒には耐性がありますから。ただ、力がないのは事実なので、不安定だったらすみません。」

 そう言うと、麟太郎は石動の手を引き上げ、背負い投げの要領で勢いをつけて背に載せた。石動の視界の先で、刺さった矢を伝い、地面にぼたぼたと黒いものが垂れ落ちた。

「待っ……待ってください、歩けます、その傷じゃあんたの方が……。」

「嘘はいけません。そろそろ下半身全体に来ているでしょう。この時間でも対応してくれる知人がいますから。」

 図星どころか、言われて初めて気付いた。下半身が動かない。そして、ここまで一切表情を変えず、これほどの傷を受けてなお、あの挙動をしてのけた麟太郎は一体何者なのか。これからどこへ向かおうというのか。ぼんやりとし始めた頭で考え始めた石動は、自身の中から麟太郎に対する嫌悪感が消え去っている事にも、途中で自身の手から握っていた小太刀が抜け落ちた事にも気付かなかった。


 帝國陸軍衛生部医事本部乙種研究棟第三室。石油ランプの薄灯りに照らされた部屋に、紫煙がたなびく。白衣と鼻眼鏡を身に付けた若い男は、「室長」と書かれた板の置かれた机に座り、煙管を燻らせながら分厚い書物に目を走らせている。どうやら旭暉語ではないその本のページを白く細い指がめくったと同時に、外から扉が叩かれた。女性的にすら見える長い睫毛の下の瞳がスッと動き、本から扉へと視線を移す。

「誰だ、それと要件は。」

『二等衛生兵、藤ヶ森です。守衛より、衣笠室長に緊急の連絡と。負傷者が二人、警兵です。』

「そいつが俺を指名したんだな?」

『はい。』

 男は一気に煙を吐くと煙管を丁寧にしまい、つかつかと部屋を横切り扉を開けた。伝令にやってきた衛生兵は唐突に開かれた扉に驚き後退ったが、男は気にも留めず、制帽を被りながら言った。

「連れて来い。いや、俺も行く、一緒に来い。で、運ぶのだけ手伝ってくれ、あとは俺が片付ける。」

「は、はい、分かりました、衣笠室長。」

「さて、今度は何をやらかしたかね、リン公……。」

 室長――衣笠理一としかずは、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらも、口端だけを上げながら、小さく呟いた。


「夜分にすみません、衣笠先生。」

「夜分にすみません、じゃねぇ!なんだその格好は……。」

 急ぎ門の前に駆け付けた理一は驚愕と呆れが入り混じったような表情を浮かべた。腕から足から針山のように矢が突き刺さった男が、ぐったりとしたもう一人の男を背負って立っている。全身烏羽の軍服で分かりづらいが、足元を見れば血だまりができかけていた。その後ろには点々と血の足跡が続いている。

「どっから歩いてきた。」

「五弁花橋方面から。」

 返答を聞いた瞬間、理一の顔色が変わる。

「馬っ鹿野郎! すぐ上の奴を降ろせ!」

「そうですね、彼は毒を受けて。」

「そっちはそっちでなんとかするが問題はお ま え だ ! 何で喋ってられる!? これ以上血を失ったら死ぬぞ!」

「まだ、視界は正常です。……それに、彼は私の部下です。先に処置を。」

「同時にやる! おい、お前はこっちだ。俺は下の馬鹿を連れてく!」

「わ、分かりました!」

 連れてきた衛生兵と共に麟太郎が背負っていた男を引き剥がすと、彼はぼんやりと「衣笠……?」と呟いた。意識はあるようだがこちらも危ない。そして糸が切れたように倒れ込む麟太郎を素早く受け止めれば、その体は案の定、外套に染み込むほどぐっしょりと血に濡れていた。理一は舌打ちする。

「その場で矢、抜かなかったのは褒めてやるよ、リン公。」

「情報を持ち帰るまでが任務、ですから。そんなことしたら、親父殿に怒られ、ます。」

 そして麟太郎は「私の方が階級は上ですよ、衣笠少尉」と呟くと、目を閉じた。



 病室の寝台から、窓越しに外を眺める。鳶が円を描くように暫く飛んで、そして去っていく。石動は悩んでいた。あれから三日。負傷から治療までが早かったためか、傷以外の不調は完全に回復している。当然、行かなければならない。彼のもとへ。そう分かってはいるものの、余りにも不甲斐ない自身へのやるせなさと、自覚してしまった視野の狭さ。何より、石動は自分の愚かさが許せなかった。自分は、眇だというだけで見下されることを、何よりも嫌い、それゆえに努力してきた。きっと麟太郎も、肉体的に不利な属性を持っている点では、同じような状況だったのだろう。だというのに……。無力感からか、石動は無意識に顔の左半面を覆う前髪の下の、ガラクタのような眼球に、瞼の上から触れていた。

 その時、病室に大柄な人影が入ってきた。試験に受かり、警兵学校に入った時からの同期で、同隊の隊員でもある辻堂武雄だった。真っ直ぐに石動のもとに向かってきた辻堂は、威圧感のある見た目とは裏腹に、気遣わしげに石動を見つめる。

「辻……。どうした?」

「恭の字、ようなかことになっちょ。わいが来んなならん。一緒に来らるっか?」

「動けないことはない。しかし何が……。」

「おいが支ゆ。とにかっえ。」


 念のためと杖を取り、(不本意ながら体格差上仕方なく)辻堂に半分抱えられるようにして別の一室にやってきた石動は、部屋に入る前から怒りに任せて叫ぶ声を聞き取った。入り口で、恐らく担当であろう一等軍医が、困り果て泣きそうな顔で振り返った。

「怪我人に乱暴はやめてほしいと、止めたんですよ私は……。」

(鷹峰?)

 声の主は、同じく同期の鷹峰だった。配属された分隊は異なるが、同期のよしみでよく顔を合わせている。二人が部屋に入ると、他の病人はたまたま出ていないのか、仕切りの開かれたいくつかの寝台が並ぶ中、一番奥の仕切りだけが閉じられ、その中から声が聞こえてくる。

「……あいつはな、あんたみたいな足手纏いが居なけりゃ、へまをするような奴じゃない。それであんたは何をした? 怪我人連れて、歩き回って、伝手頼りに特別扱いだ? 本当にいいご身分だな!」

「あの時はそれが一番早かったからそうしたまでです。知らせを送ってその場で待っていたら、駐屯地から医事本部へ指示が出され、それから医官が現着、その後本部に向かい、漸く治療です。時間がかかりすぎます。」


(……!)


 淡々とした静かな声。麟太郎だ。石動は動けなかった。違う、違うんだ。その人は俺を庇って、しかも医者に引き渡されるまで、ずっと俺を優先して。


「そうだとしても! ……一番腹が立ってるのはそこじゃないんだよ……あんたは、あいつを『囮にした』んだよ。あいつは眇で、夜はより視界が狭まる! なのに、」

「それは、石動君に対して失礼な考えではありませんか?」


 唐突に尋ね返され、鷹峰の声が面食らったように止まる。続けて語る麟太郎の語調は、あくまで静かだ。


「私が彼を選んだのは、彼の実力であれば任務をこなせると判断したからです。確かに、私が行ったのは囮捜査です。ただ、下手人は必ず、一人で行動した隊員を襲っていたことを忘れましたか。それに、襲う対象はある程度選別されていました。多人数や、そうですね、我が隊の辻堂君のように、『仕留め損なう可能性がありそうな』頑健な体躯の人間は狙われていなかった。しかし、具体的に彼らが何人の規模で、どこと繋がりを持っているか知るには、彼らに相対した上で、生き残らなければならない。だから、『私と石動君』で向かったんです。石動君は片目が不自由ですが、それを補って余りある実力がありますし、私がどのように見られるかは、経験上分かりきっています。例え二人組でも我々のような見た目なら、彼らも油断して手を出してくるだろうと踏んでのことでしたし、実際、釣れましたからね。そもそも、狙うならより弱そうに見える私の方だろうと思っていましたから、一番の囮は私自身のつもりでした。石動君なら、私が囮になっている間に情報を持っていってくれる、と。彼は私を嫌っていますから、私を残して去る事を躊躇わないはずです。結果そうはなりませんでしたが、相手に対して情報を引き出す時間ができましたし、彼らを束ねる者が、警兵組織が新造で脆弱であると踏んでいる事、一部内部事情にも通じていそうだという事も分かりましたから、成果としては上々でしょう。あとは死体から何が出てきたか、ですが……それはまだ私にはわかりません。ここから出ていないものですから。」

 ぐ、と鷹峰が声を詰まらせた。それでも彼は言い募る。

「けど、なら何であんたはそんなにピンピンして、あいつは、」

「やめろ!」

 杖を投げ捨て、辻堂の手も振り切り、殆ど体当たりをするように、石動は仕切りに飛び込んだ。がしゃん、と脆弱な柱が鳴り、布の仕切りの先にある寝台に突っ込む。目を丸くしている鷹峰と、いつも通り無表情の麟太郎。上半身だけ起こしたその体は全体を包帯で覆われ痛々しいが、その表情と語調のため、平気そうに見えるのだろう。それでも流石に体に触れるのは躊躇われたのか、鷹峰の手は麟太郎の髪を掴んでいた。

「離せ、鷹、やめろ、その人は何も悪くない。」

「恭兵……?」

 鷹峰は茫然と手の力を抜き、麟太郎は石動を見て、言った。

「石動少尉、何かありましたか。火急でないのなら、まだあまり動かない方がよいですよ。足に障ります。」

「ッ、」

 石動は言葉を詰まらせた。ここまでされて、他人の方を心配するのか。どうして。

「何故……自分の事は言わないんですか。」

「自分の事、とは?」

「あんたの方が俺よりよほど酷い怪我して、あんたが一人で奴らを全員始末して、あんたが俺を命懸けで運んで助けたって事、なんで言わないんですか!」

 麟太郎は二度ほど瞬きをして首を傾げた。対照的に鷹峰はぎょっとした顔で麟太郎を見遣る。あの時の医者の声が切迫していたことくらい、熱に冒された頭でも覚えている。背後に辻堂の気配も感じたが、もう止められない。様々な感情が混ざり合った涙で視界が滲む。石動はそれ以上麟太郎を見られず、寝台に縋るようになりながら俯いた。

「全部、俺が悪いんです。あの時、俺は任務中なのに、あんたに対する怒りの方に気を取られた。それがなければ、こんな失態しなかった……あんたが、俺を庇わなきゃならなくなる事もなかった。俺は馬鹿です、何も分かってなかった。自分が一番努力していると慢心していた、大馬鹿者です……。」

「恭兵、お前、」

「そうでしたか。」

 感情のない、というより、抑揚のない声。しかし麟太郎は少し俯き、言った。

「私は嫌われていても構わないと思っていましたが……それが君の集中を妨げる原因になってしまったんですね。私がもっと、信頼を得る努力をすべきでした。申し訳ありません。」

「!?」

 石動は驚愕し顔を上げ、その場の全員が言葉を失ったが、麟太郎は気にする様子もない。

「けれど、君はやはり優秀ですね。気を取られていたにも関わらず、避けることができたのは君の実力ですよ。」

「避けた……? いや、避けられなかったからこうなって、」

「あの矢は膝裏を狙っていました。完全に気付けていなかったなら、膝関節の骨が砕けて歩くこともできなくなっていたはずですよ。それを避けたのは、間違いなく、君の力です。」

 その言葉に、石動は悟った。彼こそ、間違いなく、彼自身の実力でそこにいるのだ。そして自分は、彼には一生敵わないのだろう、と。



 天高く馬肥ゆる秋。陸軍病院内の庭には陽だまりができている。麟太郎は背もたれのある長椅子に座り、うたた寝をしているように見えた。その膝には一羽の鴉が巣篭もりでもするかのように腰を据えている。近付く足音に気付いたのか目を開けた麟太郎は、石動に言った。

「もう、杖がなくても平気ですか。」

「いや、そもそも隊長の方が出歩いたら駄目でしょう……。呼ばれたから来ましたが。」

「……君に『隊長』と呼ばれると、なんだか妙な気がしますね。」

 頭の片隅で、麟太郎でも「妙な気持ち」を感じるのかと驚きながらも、膝の上の「くろすけ」を撫でる麟太郎の隣に、石動は腰掛ける。

「それで、その……何用ですか? やっぱり俺、降格とか除隊とか……。」

「違いますよ。どうしたんですか、君らしくもない。」

 石動は一つ息を吐いた。鴉の「くろすけ」は麟太郎の手の下で、気持ち良さそうに目を閉じている。

「俺は、今まで自分を周りに認めさせる為だけに生きてきたんだと、気付いたんです。強くはなれたと思います。ただ、結局それだけで。隊長とは、器自体が違うんだと。そう思ったら、糸が切れたというか……今までの俺は一体何だったんだろう、と思って、ここにいる価値がわからなくなりました。」

「器? についてはよく分かりませんが、そう卑屈にならないでください。四日前……あの時にも言いましたが、君には実力があります。自分の弱点を補うために努力できる才能があるという事です。だからこそ、よい友人が集まるのではないですか。あの鷹峰君、第一二六分隊の所属でしたか、あそこまで怒ってくれる友人というのは貴重ですよ。」

「本当にあれはすいませんでした鷹にも後日土下座させます。」

「気にしていませんよ、私は。……まずはこれを。」

 そう言って麟太郎が取り出したのは、刃に布を巻いた小太刀だった。石動ははっとする。あの時、腕から力が抜けて落としてしまったものだ。あの怪我を負いながら、これすら回収していたのか。差し出されるままに受け取ったそれを呆然と眺める石動だったが、それを気にする事もなく麟太郎は言った。

「君を呼んだのは、私のことも話しておかなければならないと思ったからです。」

 麟太郎は目線を伏せ、艶々とした「くろすけ」の羽根を撫でる。

「私も、反省したんです。今までは、自分が誰からどう思われようと気にしていませんでしたが、隊を率いるということは、私が隊員を知るだけではいけない……隊員にも、私を知って貰わなければ、誤解が命取りになりかねない。そう、理解したので。私の所為で、不要な犠牲を出したくはありませんから。」

「隊長……。」

「だから、まずは君に、話させてください。……難しいものですね、別に秘密主義ではないのですが、自分から話すのは初めてです。」

 皆、特に訊ねてこないので、とぽつりと溢す麟太郎。その表情は無表情だが、何となく、普段よりも困惑しているように感じる。思わず石動は言った。

「教えてください、隊長。正直、知りたい事しかないですよ、あんなところ見せられたら。」

「そう、ですか。」

 ぽつぽつと、抑揚のない声で、彼は語り出した。彼の師は元隠密で、小さく身軽な体を活かした戦い方や暗器の扱いは、彼から習ったこと。その中で訓練として毒への耐性をつけたこと。小柄で華奢な見た目に反して体は頑丈らしい、ということ。

「らしい、って、どういうことですか。」

「訓練を始めてから気付いたんです。耐性をつけるために毒を飲んでも、……まあ初めはのたうち回る事にはなりますが、すぐに慣れるので、三日も調子を崩しはしません。そもそも痛みや苦痛に強いというか、体が慣れているようなんですよね。」

「何かそういう経験が?」

「分かりません。私には六年……いや、もう七年になりますか。生まれてから七年前までの記憶がないので。」

「……!?」

「だから、本当に分からないんです。痛みに強いのも、表情が作れないのも、この髪も、生まれつきだったのか、他に原因があったのか……。ただ、有坂様に拾われるまで、あまりよい生活をしていなかったのは確かなようです。事あるごとに言われますからね、『初めて会った時のお前はそりゃあ酷い姿だった』と。」

 麟太郎の語り口は淡々としているが、その内容は想像を絶していた。警兵の入隊試験に合格する人間は、幼少期から鍛練を重ねてきた士族や貴族の男子が殆どだ。石動自身、自分の弱点を克服できる戦い方を、幼い頃から試行錯誤を重ねた末に会得している。しかし、記憶がないとは。例えそれまでに鍛え上げ、何かしら「体が覚えている」事があったとしても、基本的にそれまでの経験は無かったことになると考えてよいだろう。

「では、その……隊長はたった七年で、あそこまで戦えるようになったのですか。」

「最初の二年は、とにかく『生活と作法』を覚える事に費やしましたし、本格的に訓練を始めたのは、警兵になると決めてからですね。こうして動物の類に懐かれやすいのも、『動物のような生活をしていたからだろう』と言われましたよ。」

 この「くろすけ」は特別ですが、と言いながら、麟太郎は鴉の首元あたりの毛を梳るように掻いた。それが猫であったならば、喉でも鳴らしそうだ。指先を動かしながら、麟太郎は少しだけ目を細める。石動には、それが「よくない感情」の現れのように感じた。

「しかし、尉官への昇進は、皆が思っている通り、有坂家の名前の力が作用したでしょうね。だから、皆の怒りは尤もではあるんです。私にその名を利用する気がなくても、有坂家と関係を持っているのは事実ですから。」

「そちらの人脈を使って昇進した訳じゃない、けれど、有坂家と繋がりがある人をいつまでも一般兵にしてはおけないと、上が勝手に、ですか。」

「私は『有坂孝晴様』に一生を賭しても返せないほどの恩義がある、ただそれだけです。奥方様にも主に勉学や作法の面でお世話にはなりましたが、『有坂家の人脈』を利用できる力など、私にはありませんよ。それこそ私など、有坂家にとっては、拾い犬のようなものです。」

 石動は麟太郎の声を聞きながら、今までの「なんとなく」が間違いではないように思えてきた。語りは変わらず淡々と抑揚なく、表情も変化しないが、彼の敏感な耳は、「有坂孝晴様」と麟太郎が言った時、声にほんの僅かに力が篭ったのを聞き取っていた。最後の一言は、内容は自嘲にも取れるのに、寧ろ語調は、より穏やかだ。石動は、思い切って切り込んでみた。

「隊長。もしかして……感情、ありますよね?」

「…………えっ。」

「驚いてる! 驚いてますね隊長!?」

「いや……その、感情が『ない』とまで思われているんですか、私。ありますよ、感情も痛覚も。表情に出ないだけです。」

「でも、声には出ていますね、少しですけど。」

 今度は麟太郎が絶句する番だった。自身の話し方に抑揚がないと自覚はあったが、表情が変わらないのだから声音も変わっていないだろうと思っていた。庭番を師に持つ者として、聴覚も疎かにしているつもりはなかったが、自身のことについては気付かないものだ……。そんな麟太郎の様子を少し嬉しそうな色さえ浮かべて見ていた石動は、はっと気付いて表情を変えた。

「その、俺を庇った時、倒れそうになりましたよね。何故その後動けたのですか。」

「ああ、あれは演技です。」

「……演技?」

 石動は目を点にしたが、麟太郎の声音からして、嘘ではないようだ。

「あの状況では、油断させ切ってから仕留めるのが最も効率的でしょう。私は『嘘』はつきませんが、必要な『演技』や『誤魔化し』は当然しますよ。より苦しんでいるように見せかける為に、わざと受けて呻いてみせただけです。」

「……めです。」

「何ですか?」

 ごく小さく、俯き加減に発した石動の言葉は流石に聞き取れなかったらしく、麟太郎が振り向いて聞き返す。石動はゆっくりと顔を上げ、言った。

「隊長は、もっと自分を大切にしなければだめです。」


「よぉ、理一リイチ。」

「なんだ、有坂の。珍しいじゃないか、平日にその格好は。」

 有坂孝晴は、陸軍病院を訪ねていた。麟太郎がいると聞いた部屋を訪れ、そこで理一と出会したのだ。仕事以外であまり着ない文官服を彼が着るのは珍しい。孝晴は肩を竦めた。

「お前さんの執務室ならまだしも、病棟にゃ流石に、遊び人の格好じゃあ入れねぇだろぃ。」

「俺の執務室も、遊び人が出入りする場所じゃないんだがな。」

 理一は息を吐き苦笑する。衣笠伯爵家は、公爵である有坂家より家格は下にしろ、衣笠理一は二十代の若さで現当主である。彼は孝晴を対等に扱う、数少ない人間のうちの一人だった。

「で、お麟は。刀祢の爺さんに頼まれてよ。『あいつは絶対に傷が塞がる前に出歩くようになる、治りを遅くするから絶対にやめるように叱って欲しい』ってな。……なんだかんだで過保護だぜ、お麟の『親父殿』もよ。」

「分かってんな、流石は師匠で養父おやってか。見てのとおり、出歩いてやがる。まだ一週間だぜ? 俺も動くなと言ったんだが。」

「まァ、お麟は『動いても死なない』って判断できりゃ、動く奴だからねぇ。」

「はぁ……医者の言う事くらい聞けってんだ。犬っコロでももう少し大人しくするぞ。」

 溜息を吐く理一に、孝晴はのんびりと笑って応える。

「流石に病院を抜け出したりはしねぇさ。どっかに座るとこでもありゃあ、そこにいる。」

「ったく……仕方ない、探すか。俺も暇って訳じゃないんだがな。」

二人は並んで廊下に出て行く。後には、畳んだ掛布団が置かれた寝台だけが残された。


「…………。」

 ぱちぱちと瞬きし、無表情でじっと石動を見つめる麟太郎。今まで憎らしさしか感じていなかった筈なのに、その戸惑う様子は余りにも幼く見えた。いや、既に彼の実力は充分過ぎるほど分かっているが、その純粋さと幼さは恐らく心根の部分から出ているのだろう。何故こんなにも純粋な人間が警兵という道を選んだのかは、石動には分からない。しかし。

「今回は、仕方なかったでしょう。俺が足手纏いでしたから。でも、あんな風に自分の身を削るのは、避けてください。例え分隊だとしても、貴方は我々の隊の『長』なんです。隊長への誤解は、俺が解きます。俺は、隊員として、副隊長として……貴方の隣に立てるよう、強くなります。だから、隊長はもっと自分の事を大切にしてください。」

「私は、……。」

 麟太郎には言えなかった。どんなに必死で追いかけようと、隣に立つ事すら許されない人がいるのだと。あの人の孤独な世界には、常人が努力したところで、決して届きはしない。手を伸ばそうと、孝晴はその手を掴もうとはしない。孝晴の孤独と苦しみに較べたら、肉体の苦痛など大した事とは思えなかった。ただ、せめて傍にいる為に。彼がこちらの世界に留まれるように、こちらの世界に絶望してしまわないように、この國の平穏を守る。孝晴の存在が麟太郎の生きる理由であり、警兵になったのは目的の為の手段でしかない。けれど。

「分かりました。私も、上に立つ以上、無責任にはなれませんし、目的を達するまで死ぬつもりもありません。努力してみましょう。」

 その返答を聞くと、石動の表情がまるで音でも聞こえそうなほど明るさを増す。こうも分かりやすいのによく警兵になれたものだ、と表情は変えないままに内心驚く麟太郎の肩を、石動は両手で強く掴んだ。

「では、まず飯を食いましょう、隊長はもう少し体を大きくした方が良いです。あとは表情ですね、顔も筋肉で動かしている訳ですから、鍛えればきっと動くようになります。」

「いや、私この七年、全く身長が伸びていないので、恐らくもう伸びませんよ。」

「だとしても、歳がわからないんでしょう? これから伸びるかもしれないですよ。辻知ってます? あいつの鶏料理がなかなか美味いんです。あ、最近喫茶店っていうのも流行り出しましたよね、今度行ってみましょうよ。」

 非常に楽しげに話す石動は、それまでの彼とは全く違っていた。本来は、人の感情はここまで表情を変えるものなのだな、と内心で感心しつつ、麟太郎は言った。

「……正直、君は警兵に向いていない気がしますよ。」

「相手が隊長だから、です。公私の別はつけると決めました。」

「あと、その……私は痛みには強いとは言いましたが、君ほどの力で傷口を握られると、流石に痛いです。」

「あっ!? すみません! 大丈夫ですか!? 大丈夫ですかじゃない! 何をしているんだ俺は!」

「……。はぁ。」


「……何やってんだ、あいつら。」

 なにやら慌てた様子の石動恭兵と、無表情にそれを眺めている刀祢麟太郎を見て、理一が呆れ顔で呟いた。隣で孝晴が可笑しそうに喉を鳴らす。

「なんでぇ、犬が二匹になってやがんじゃねぇかぃ。」

「……いやに嬉しそうだな?」

「さぁな。で、だ。早く連れ戻して説教しねぇと。なぁ、衣笠センセ?」

 理一は一度孝晴を見遣り、大きく溜息を吐くと、白衣を翻して歩き出す。

「おい、そこの馬鹿ども、医者の指示を無視して動き回ってんじゃねぇ。治ってるんなら、今すぐここから放り出すからな!」


帝國の書庫番

二幕 「東都中央兵団第一五七分隊」

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