帝國の書庫番 十六幕

帝都に蠢く思惑は、ただ人知れず静かに、魔の絲を紡ぎゆく。


 すっかり木葉は紅く色付き、人々が最後の秋の味覚に舌鼓を打つ、冬の始め。一時いっとき世間を騒がせた勘解由小路家令嬢求婚の話題は、続報が出ない事もあり気を引かなくなり始めていた。留子もあの日以来、家族や他人の目がある場所では大人しく振る舞っていたが、実際の心中は嬉しさ半分、気掛かり半分という所だった。あの後、麟太郎からはすぐに、丁寧な礼を記した手紙が届いた。また、衣笠理一と、そして有坂孝晴からも、ふみが送られて来たのだ。勿論三人共、表に宛先である留子の名以外を記していない。その為、二通目・三通目を受け取った時、麟太郎から受け取った手紙に返事も出していないのにと留子は内心混乱したが、手紙を留子に届けてくれる「じいや」は、何も言わなかった。

 麟太郎の手紙は相変わらずの文体ではあったが、有坂孝晴と互いに本心を明かす切掛を作った留子に対して、非常に感謝している事が読み取れた。それまで表れていた筆の乱れも直っている。しかし、と留子は思い返す。

(衣笠さまと、有坂さまのお手紙からは……やはりどこか、寂しさを感じるのは、何故なのでしょう。皆さま、あの時和解されたというのに。)

 衣笠理一は柔らかな筆跡をしており、文字の流れにも無駄が無い。彼の手紙には、麟太郎と同じくあの時の礼、留子の献身への賛辞、そして麟太郎と気長に付き合って欲しいという旨と、孝晴を怖がらないでやって欲しいという旨、最後に追伸で、孝晴の発作と自分の生まれについては一部の者しか知らない為、口外しないで欲しいと書き足されていた。追伸の形になったのは、理一が留子に釘を刺しておくかおくまいか、迷ったからだろう。麟太郎に「信頼出来る」と言われた事は嬉しかったし、理一もきっと麟太郎の言葉を疑っている訳では無い。ただその上で、念の為、書かずには居られなかった。それが若くして当主の座にある彼の人となりなのだ。

 対して有坂孝晴は、完璧と言っても良い美しい字をしている。それこそ、書の教本をそのまま写し取ったかのような。余りにも整っている為に人柄が読み取れない字、というものを留子が目にしたのは初めてだった。普通ならば手本に習って書いたとしても、文字の大きさや力の入れ方、線の引き方や傾き等、随所に癖が表れて来るものだ。留子が考えたのは、孝晴が人格や癖を読み取られないよう、敢えて教本の文字を真似ているという可能性。しかし、幾ら真似たとて、こうも違和感無く書けるだろうか?

 内容は、謝罪から始まっていた。自分の事情で迷惑をかけた事、発作を起こして驚かせた事。有坂家は分家を作らない為、役割を果たす才の無い子女に対して少し厳しい所があり、それを留子が気にする必要は無いとも記されていた。確かに、有坂家には分家が存在しない。衣笠家のように動乱時代の武将として名を馳せた訳ではないが、幕府の側用として何度か記録に名が挙がる人物を輩出している家である。最近――と言っても、まだ幕府があった時代の話だが――では、倒幕派の放った刺客を返り討ちにした話が有名だ。そんな有力貴族が家を分けないというのも不思議な話ではあるが、有坂家は直系子孫のみを徹底的に管理する方法で生き残ってきた、という事なのだろう。孝晴の手紙の最後に短く書かれていた「麟太郎が留子と結ばれて欲しいという思いに偽りは無い」という言葉。何も知らなければ、手放しで喜んでしまったかも知れない。しかし、やはり孝晴は、影に日向に立ち回る有坂家から、麟太郎を切り離したいのではないかとも思えてしまう。あの時麟太郎の言葉を受け入れた孝晴が、喜びに近い感情を抱いたのは確かだ。少なくとも留子はそう感じた。けれど孝晴はまだ、何かを恐れているような気もするのだ。それが何であるか、留子には分からない。文の内容に思考を戻し、留子は顔を曇らせる。

(有坂家に分家を作らないという家令があるのなら、孝晴さまはずっと、あのままなのでしょうか。ずっと、ご自身を出来損ないだと苛んで。それは余りに、悲し過ぎます……。)

 帰宅の為、学舎まなびやの板張り廊下を歩く留子。あの日の出来事でもう一つ、忘れられない事が留子にはあった。理一の顔だ。彼が、自身の秘密を明かした時。孝晴も感じていた通り、彼はまだ「言葉を喉に詰まらせている」顔をしていた。衣笠家は公家の出ではなく、政治的な繋がりも先代の死により途切れた為、現在の勘解由小路家と衣笠家に特別強い関わりは無い。計画に協力する為に文を送り合いはしたが、留子が実際の彼に会ったのは、あの日が初めてである。それでも、三人が共に心の内を曝け出したあの場で、あんなに苦し気な顔を見てしまえば、孝晴だけでなく理一も、口にした以上に深い苦悩を抱いていると痛い程に伝わって来た。それを抱えながら、麟太郎と孝晴の為に尽力できる強さも。

(……どうしたら、皆が苦しまずに済むのでしょう。わたしがすべき事は、何なのでしょうか。)

 留子は麟太郎を好いている。しかし、それだけで良い筈も無い。今はただ待つしか出来ないのか。もどかしい。自身の生まれや立場が「枷」になっていると感じるのは、初めてだった。

『考え事をしながら歩いていると、また転んでしまいますよ。』

 留子は顔を上げる。其処に立つのは、あの、金の髪の少女だった。以前のようなふっくらとしたドレスではなく、紺色のワンピースを着ている。

『ユリアさん……。』

『今、先生のお手伝いが終わったので、帰る所だったのですが。門までご一緒しても構いませんか?』

 ふわりと微笑む少女に、留子もほっとしたように、笑みを返した。


 留子は少女――ユリアと共に廊下を歩く。彼女は、歳は留子と同じく十五だが異人街の出であり、瑛國語の教師になりたいと、学校に頼んで見習いをしている。留子を助けた日は、その許可を取りに訪れていたそうだ。無事に教師見習いとして採用された彼女は、助手の雑務をこなしつつも、授業や放課の後、瑛國語が苦手な生徒の課題を見るなどしている。彼女は生徒達と歳も近く、其々の躓きに合わせて丁寧に解説してくれると親しまれる存在になっていたが、皆が彼女に惹きつけられるのは、何よりその美しい容姿故だろう。白粉を塗った顔とは違う、赤い血の透けるような白い肌に、緩やかに波打つ金色の髪、空の色を閉じ込めたような瞳。長い睫毛に整った顔立ちは、まるで舶来品の洋人形が命を持ったかのよう。実際、留子も彼女に助けられた時、思わず見惚れたものだ。それを切掛にして、二人は時折他愛無い会話を交わす程に仲を深めた。兄弟と喧嘩した話、義姉に素敵なケープを選んで貰って嬉しかった事、自分のこいの悩みなど。

『それで、留子さん。今は何を悩んでいるのですか?』

 ユリアが訊ねる。留子は悩んだ。ユリアの歩調はゆっくりで、答えを急かす様子は無い。考えた末、留子は言った。

『ユリアさん、喩えばのお話です。ユリアさんから見て、わたしは友達です。そして、ユリアさんが、わたしの別の友人に、悩みを抱えている人が居ると知った時……そしてその人が、ユリアさんの知人でもあり、わたしにとって、とても大切な人だと知っている時……ユリアさんなら、どうなさいますか?』

 ユリアは、ぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。留子と麟太郎と孝晴、そして理一との関係は、伏せて話すには非常にややこしい。伝わらなかっただろうかと留子が不安になった時、ユリアがゆっくりと唇を緩める。

『少し難しいですね。私にとって【留子さんほど親しくは無いけれど、面識はある】という程度の間柄の方についてのお話、という理解が間違っていないのなら。』

『そう、そうです。』

 激しく頷く留子に、ユリアは小さく笑ったが、その優し気な笑みを崩さずに言う。

『私なら、何もしません。留子さんにとっては大切でも、その方がの助けを必要としているかは分かりません。私自身が助けになれるかどうかも、分かりません。相手の方のお悩みも、外部の助言や、私の手助けで解決する事かもしれないし、そうでないかもしれない。それが分からない以上、私は、安易に口を出す事も、手を出す事もしないでしょう。』

『そう、ですか。そうですよね……。』

 留子は俯いた。ユリアの考え方は正しい。やはり自分に出来る事は無いのだと表情を曇らせる留子であったが、ユリアは微笑んだまま、言葉を続ける。

『けれど、仲良くなる努力は、するかも知れません。』

『どういう事ですか?』

『先程の答えは、あくまで私にとっては他人……言ってしまえば、相手からも私からも、互いをよく知らない相手に対するものです。ならば、その方と仲良くなって、私にも悩みを打ち明けて貰えるような間柄になって初めて、私はその方のお悩みに向き合うと思います。』

 そう言って、ユリアはにっこりと笑った。

『留子さん、貴女もよく仰っているでしょう?【人を知る事が大切だ】と。』

 留子は目を見開いた。そう、そうだ。何も知らないから、何も出来ない。ならば、知れば良い。信頼して貰えるようになれば良い。それが「自分らしい」方法だと、何故今まで忘れていたのか。自分は、会って、話して、感じて、そうして人を知って来たではないか。

『有難うございますっ!』

 唐突に大声を上げた留子に、ユリアが目をぱちくりとさせる。周囲の女生徒や教師も立ち止まり、不思議そうに留子を見ていた。留子は頬を真っ赤にしながら小さな声で「済みません」と呟くが、直ぐにユリアに向かって満面の笑みを浮かべた。

『ユリアさん、本当に有難う御座います。出来る事がないなら、作れば良かったんです。わたし、頑張ってみます!』

 言うや否や、深々と頭を下げてから走り出す留子。そんな彼女に小さく手を振って見送るユリアに、数人の女生徒が近寄って来る。

『ユリアさん、ご機嫌よう。勘解由小路さんは一体どうなさったの?』

『ご機嫌よう、雪子さん。お悩みがあったようですが、お話したら、晴れたようです。』

『勘解由小路さん、なんだか放っておけない方ですわよね。最近元気が無いようでしたから、良かったですわ。』

『それにしても、ユリアさんは凄いのね。先生のお手伝いだけでなく、私達の悩みも聞いて下さるの?』

『私は教師になりたくて、こうして勉強させて頂いていますから。皆さんの相談に乗るのは当然です。』

 ころころと、鈴のように少女達の会話が転がってゆく。その隣を、一人の女が通りすがる。西都小紋の着物を纏い、真っ直ぐな髪を顎の下で切り揃えた美しい女だ。彼女は少女達に目を向けると、顔を僅かに顰め、足早に去って行く。女を見送った後、少女達は不思議そうに呟いた。

「椿先生、どうなさったのかしら?」

「余り気分が良さそうには見えませんでしたわね。話し声が大き過ぎたのかしら……。」

 女生徒に囲まれたユリアは苦笑する。自分は、女――花道教師の冷泉れいぜい椿つばきが、何故あのような目を此方に向けたのか、知っている。しかし、それは生徒達には関係無い。今の自分の立場にも。

『長々と立ち話をしている事は、行儀がよいと言えないかもしれません。私は帰りがけでしたから、失礼しますね。』

 ユリアは瑛國語で言うと、丁寧に礼をした。女生徒達も同意する言葉を交わしながら、校門まで来ると手を振って別れの挨拶をし、散って行く。一人ワンピースの裾を風に遊ばせながら歩くユリアが微笑みの下、脳裏で呟いた言葉は当然、誰にも知られる事は無い。


――これで留子ちゃんが有坂家に近付けば、もう少し情報が落ちてくるかな。



 こつこつと窓が鳴る。衣笠理一は本から目を上げ、煙管を置いた。こつこつ。

「少しくらい待ってくれよ……今開ける。」

 理一は一人呟くと、机を離れ、窓を引き上げた。窓の外には、一羽の鴉が止まっている。鴉はじっと理一を見ると、麻紐で紙片が括り付けられた片脚をひょいと上げた。理一はそれを解いて取ると、表情を和らげる。

「有難うな、『くろすけ』。気を付けて帰れよ。ま、街中なら、鷲や梟なんて飛んじゃいねぇだろうがな。」

 声を掛けられた鴉の「くろすけ」は、もう一度理一の顔を見詰めると、窓枠の上で二度程飛び跳ねて向きを変え、真っ黒な空へ飛び去ってゆく。開けた窓から入り込む冷気に軽く身震いをすると、理一は元通り窓を閉め、洋机ではなく、煖炉ストウブ近くに据えた安楽椅子に腰掛けた。丁寧に巻かれた紙を解きながら、しかし本当に頭の良い鴉だと思い返す。「くろすけ」に態々労いの言葉を掛けるのは、彼が言葉を理解しているからだ。少なくとも彼は、人間の顔と名前・場所と地名を言葉によって判別出来る。初めに覚えさせる必要はあるし、長期間行かない場所や会わない相手は忘れてしまうようだが、何処の誰に届けろと命じれば、その通りに飛ぶのだ。麟太郎であれば伝書だけでなく、ある程度複雑な指示を出す事もできるが、それも全て言葉によるものだ。彼が余りに伝書役として優れている為に陸軍では鴉の研究も始められた程だが、やはり他の鴉では同様の働きは出来無いらしい。

(あいつも、他の鴉と自分は違うと思ってるのかもな。……孝晴みてぇに。)

 そんな事を考えながら、理一は紙を伸ばし終える。その内容に、溜息を一つ。

「やっぱりか。」

――某件について、進展は無し。警兵の扱う処では無いとの由。

 短く記された麟太郎の文に、理一は眉を寄せる。つい最近、先月の頭頃からだ。「気付かぬうちに着物の袖が切り裂かれている」という事件が起こり出したのは。始めは新聞に取り上げられたが、ここ一月の間に紙面には載らなくなった。しかし、人の集まる場所に顔を出せば、必ず誰かが口にするその話題。奇妙なのは、「被害者は多いが、実害が無い」点だ。勿論、破られた着物は繕わなければならない。その手間や金は実害と言えるだろうが、逆に言えば、それ以上の事は何も無いのだ。ただ気付くと、洋服や着物の袖が裂けている。孝晴も妙だと感じているらしく、軍病院の執務室を訪れた彼に聞けば「噂を元に調べた限り、被害者の身分・年齢・性別に決まった法則は見出せない」との事だった。ただ「晴着や正装が狙われた例が無い」点のみが、強いて挙げられる共通項だと言う。

『――ま、一通りぶらついてみてはいたンだがねぃ。どの方向でも、行けば必ず誰かしらが話してやがる。お前さんなら分かンだろ? リイチ。こんな短ぇ間に、帝都中の何処に行っても奴が居るなんてェのは異常だぜ。』

 孝晴はそう言っていた。まさにその通りで、理一が理解出来無いのは、布を切るのにどうやら刀を使っているらしい、という点だ。邏隊が被害者の衣服を調査し、小太刀か匕首か懐刀かいとうか、とにかく小型の刀のきっさきをごく僅かに刺し、布地を滑らせるようにすると似た切り口が出来ると突き止めた。これは初期に新聞に載っていた情報だが、愉快犯だと片付けるには余りに物騒である。悪戯で切りたいだけなら、鋏でも使えば良い。刀で着衣一枚だけを斬り付けるなど、それこそ一歩誤れば身体を傷付けるだろう。そんな事態が何時起きてもおかしくないと、理一は最近何処に行くにも、処置の為の最低限の医薬品、そして縫合用の針と糸を持ち歩いていた。消毒液もその一つだ。しかし今の所は危惧したような事態は起こらず、初めは恐怖が勝っていた市井の空気も、最近では「またか」程度である。その空気が、どうにも厭だ。それで、麟太郎に警兵の側で何か動いていないかと訊ねてみたのだが、警兵はこの件に手を出すつもりは無いらしい。実際、目的も分からず、人が殺されている訳でもない。住民達の不安を掻き立てたのも一瞬で、治安を乱しているとも言えない。警兵が組織として取締に乗り出すような案件では無いのだろう。届出せずに繕って済ませる者も居る事を考えれば、邏隊が把握しているよりも、実際の被害者は遥かに多くなるだろうに。

(……勘、なんて。不確かにも程があるが……引っ掛かって仕方ねえ。)

 理一は溜息を吐き、麟太郎からの文を煖炉の火に翳して焼いてしまう。と、その瞬間。扉が開く。叩く音すらしなかった。弾かれたように立ち上がった理一を、扉の前に立つその人影は、じっと見据えた。



「『蝙蝠』達は、良くやっているようだね。」

 男の声が、耳に届く。何処か嬉しそうな響きを孕む、穏やかな声。この声が自分を導いて来た。明ける事の無い暗闇の中を。

「……。」

 口を開こうと一瞬思ったが、辞めた。殺しならば慣れている自分を使わず、被検体を使ってよく分からない事件を起こしている理由も。導火線を剥き出しにしたまま歩き回っているような男を引き入れた理由も。彼の中に答えがあるならば、知る必要は無かった。

「私はね、君のそういう所が好きだよ、『飛鼠ひそ』。」

 男の声が微笑む。此方の内心を悟ったらしい。

「……やつがれは、彼奴きゃつ等に報いる事のみが、本懐故。」

「安心し給え、私の大切な『仔』を育てるには、沢山栄養が必要だからね。彼等も是非研究する事になるとも。だが、物事には順序というものがある。急いてはならないよ。」

 しわがれた自分の声に応える男の気配が近付き、自分の頭に手が伸びる。幼児にするようなその仕草を、甘んじて受けた。自分のような者でも、男にとっては、子供どころか赤児にも等しいのだから。少なくとも、本気でそう思っているのだ、この男は。正気では無い。そんな事は分かっている。しかしその純粋な狂気に、燈に群がる羽虫のように、狂人達は惹き付けられる。……自分も含めて。飛鼠。男が自分に付けた呼び名。光に集る羽虫を喰らう、めくらの獣。そう、自分は、仲間等ではない。ただ男と目的を共にしている為に、此処に居る。それを妨げるならば、周囲の羽虫も喰わねばならない――

 その男は、暗闇に浮かぶ「赤き月」の幻影を視ながら、節くれ立った手で刀の柄を強く握った。



 開け放した部屋は、この家の主が私室として使っている。当然、戸を叩きもせずに開く事は、通常であれば許されない。しかし女は直立したまま、安堵と疲労の混ざった表情で椅子に座り直す若い当主を、じっと見詰めた。

「お前、またこんな時間まで起きているのですね。」

「開けるなら声くらい掛けてくれないか、姉さん。」

 女に応えて息を吐く理一。これでも一応は衣笠邸の主なのだが、と内心嘆きつつも、理一は女――異母姉で三女の「きり」に目を向けた。

「それに姉さんこそ、こんな時間まで起きてるものじゃない。早く寝ないと体に触るだろう。」

「それはお前も同じでしょう。」

「俺は鍛えてるし、慣れてるから平気だよ。」

 言われても、きりは弟の顔から目を離さない。小さく薄い唇を結び、大きな目だけが目立つその顔。先に目を逸らしたのは理一だった。

「お前、初姉様に心配を掛けた事、忘れた訳では無いでしょう。」

「……。」

「だと言うのに、お前は、懲りて居ないのですね。一人で何をしているのです。」

「仕事だよ。家の事とか……色々あるんだ。」

 理一の返答に、きりは僅かに眉を寄せて言い募る。

「家事なら、管理人に任せる事も出来るでしょう。」

「その分、余分な出費が出る。姉さん達の為にも、無駄遣いはできないんだよ。だから俺がやってる。分かってくれないか?」

 理一の声音は穏やかだが、ごく僅かに苛立ちが混ざっている。それに気付けないきりでは無かった。

「そんな事は分かっています。お前が本当に私達の為を思っている事も。けれど、お前は私達に何も言わないじゃないですか。お前、そういう所が御父様にそっくりなんですよ、『トシ』。」

 俯いたままの理一が、椅子の肘掛けに置いた手を微かにぴくりと動かした。正式な場以外で、彼は自分の名を呼ばれる事を嫌う。自分達姉妹弟きょうだいの、同じ父が、彼に付けた名。

「私、お前のそういう所が嫌いです。」

「知ってるよ、姉さん。」

「……。私は休みます。お前も早く寝てください。」

 返事を待たず扉を閉め、踵を返したきりは、面食らったように立ち止まる。

「初姉様。こんな時間に何をしているのです?」

「……きりちゃんが部屋を出る音が、聞こえたから。」

 廊下の少し先に佇む儚げな容貌の女は、そう言って悲し気に笑った。きりは早足で彼女の元へ近付くと、手を取って歩き出す。初が逆らう素振りは無い。寝室の前までやって来た時、初がおずおずと言った。

「きりちゃん、もう少し、優しい言い方はできないかしら? トシちゃんも、色々頑張っているのだし……。」

 立ち止まったきりは、大きな目を姉に向け、手を離す。その直前、彼女の手に少しだけ力が入ったのを、初は感じた。

「出来ませんし、するつもりもありません。御父様は、トシを甘やかすなと仰いましたもの。」

「でも……これでは、きりちゃんが嫌われてしまうわ。きりちゃんも、トシちゃんを心配しているのは同じなのに……。」

 きりの眉が寄り、そしてゆっくりと下がる。彼女は首を振った。

「初姉様、あの子の恨みは深いんです。あのままのトシを私達が許容し続けたら、いずれあの子は破滅しますよ。御父様から目を背け続けて、恨みつらみを抱え込んだまま。だから、トシは自分で気付かなければいけません。ずっとこの家の事と、私達の事と……あの子の母の事しか考えて来なかった子ですから、荒療治になるのは覚悟の上です。姉様だって、その為に『あれ』を残したのでしょう?」

「きりちゃん……。」

「それに、私はトシが嫌いです。……あんな風に、自分を蔑ろにして、誰にどう思われても構わないなんて思っている人、大嫌い。」

 最後の言葉を吐いた彼女を見て、初は手を伸ばすと、きりの頬をそっと撫でた。その表情は、穏やかで優しい。

「それは、きりちゃんも同じだわ。余り自分を嫌いにならないでね。きりちゃんは、本当に優しい子なんだから。」

 姉の手は温かい。きりは、暫し口を噤む。きりが産まれた時、母が亡くなった。士族の出で薙刀の使い手であったそうだが、性格は穏やかな上、体も強い方ではなかったらしい。次姉の「月」も、体が弱い。きりが生まれてからの初は、乳母や使用人達と共に、まるで母親のように父と妹達の面倒を見て来た。異母弟の理一としかずが、そんな衣笠家で育った三姉妹の為に力を尽くしている事は、きりとて知っている。彼女は一つ、息を吐いた。

「私のは同族嫌悪ですよ。姉妹わたしたちの中で、私が一番、御父様に似ているんですから。」


 閉じられた扉を暫くの間見詰めていた理一は、深く深く息を吐くと、椅子の背凭れに体を預けた。

(きり姉さんは、一体何が気に食わないんだ……。)

 研究は、母を殺した「病」を知り、元凶の男に近付く為。家の管理は、姉達の嫁入り先への持参金を出来る限り増やす為。必要だから行っているに過ぎない。衣笠家の当主であるからして、常に身体は鍛えているから、多少の無理も利く。そもそも衣笠家に男は理一だけなのだから、自分が役目を果たすしかない事は、おきりも分かっているだろうに。

(俺、姉さん達から逃げたいのか……? だから、妙な事件なんかが気になるのか? いや……雰囲気が厭なのは確かだ。けど……。)

 幼い日の記憶。あの時に、この家の女達も救うと決めた。決して蔑ろにして来たつもりはない。復讐心から飛び込んだ医学の道も、体の弱い次姉の助けになっている。しかし、いつまで経っても、彼女達と打ち解けられた気がしない。お初は自分を心配しているが、あれは誰に対してもそうするだろうから、家族として、姉弟として特別だからという訳では無い。おきりは先の通りだ。唯一お月は、自分を「トシちゃん先生」などと呼んで笑うが、逆に言えば侍医と患者程度の関係なのだろう。あの男――父親が居る間は姉妹と接する時間など貰えなかったから、他人行儀になるのは仕方無いかも知れないが。分からない。自分の中にあの男が居るから?自分だけ母が違うから?それとも――。理一は無意識のうちに、自分の顔に手を触れる。


 あたし、姉さん達の事、嫌いなのかな。あたしと同じあいつの血が、姉さん達にも流れてるから。だから上手くいかないのかな。駄目だね、あたし。かかさまの仇も取れてないし、姉さん達も幸せにできない。どうしたらいいんだろう。……ねえ、どうしてあたしが会いに行く前に死んじゃったの。かかさまは誰より頭が良かったから、きっと、「こうすれば良いんだよ」って、言ってくれたよね。あたし、寂しいよ。恋しいよ。


「会いたいよ、かかさま……。」


 ごく小さく呟いたのは、急に襲い来た猛烈な眠気の所為だろうか。肘掛けに、するりと落ちた手が引っ掛かる。理一は椅子に掛けたまま、滑り落ちるように眠ってしまった。


「帝國の書庫番」

十六幕「初冬の風に混じる毒」

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