帝國の書庫番 十五幕

欠けた半身は片割れを求める。抜け落ちた刀が鞘へ戻ろうとするように。


 あの時ほど孝成が傷を負った姿を、孝晴は後にも先にも見た事が無い。

 その日、彼は初めて侍女を付けずに外出した。教本に記載された地形や治水の跡を自分の目で確かめたくて、歩いて見て回ったのだという。それも孝成らしい話だが、幼い頃から規律に厳しく正義感が強かった彼である。本を片手に河原の土手を歩いていた孝成は、その光景を見て、彼よりも年長の少年達の中に割り込んだ。生きる世界の違う庶民の少年にとって、突如現れた小綺麗で生意気なちび助でしかない孝成は、石を投げられ、棒で叩かれながらも彼らを殴り返して叱り飛ばし、犬を抱えて走って帰った。誤って罠に掛かったのか、それとも野犬同士の喧嘩でやられたのか。片端でびっこ引きのその犬は、手当てしてやれば、命は助かったかも知れない。だが、番犬に出来るような勇猛な性格の犬であったなら、例え片端でも子供は手を出さない。助けても「役に立たない」のは明白だった。母の言葉を聞いた孝成の血に塗れた顔が、絶望の硬直から、感情そのもの全てを覆い隠すような表情に変わった瞬間の母の微笑みは、純粋に満足気だった。あの時蹌踉よろめきながら裏庭に向かった孝成だが、彼が今も裏庭に足を運ぶ姿を、稀に目にする時がある。その点では、まだ、彼はを失ってはいないのだろう。



 開かれた窓から吹き込む夜風が、窓枠に嵌まった硝子を鳴らす微かな音。静まり返った広い空間の中、低い声が、空気を揺らした。

「私は、生きています。」

 一言。麟太郎は言った。孝晴は目を細める。

「今、私の命があるのは、ハル様が私を殺さなかったからです。」

「違う。……お前は運が良かっただけだ。」

「どういう意味ですか。」

 答えの代わりに、ふう、と疲れたような息が孝晴の口から漏れた。理一は留子を見たが、彼女は目に涙を溜め、余りにも残酷な話に震えながらも、じっと二人を見据えている。強い女だ、と理一は思い、敢えて手を引っ込めた。衝撃で倒れてしまうようなら、支えるつもりだったが、彼女は耐えようとしている。孝晴は膝に片肘をついて、何処か遠くを見るようにして言った。

「お前を拾ったのが兄貴だったら、お前はその場で死んでた。『俺だったから』母上は興味を示さなかったンだよ。俺ぁ出来損ないで、母上に期待されてねぇからな。使えない屑の末っ子が、同類を拾って来たってのを面白がって、好きにさせたってだけだ。……初めは、な。」



 少年が自分の家に「それ」を抱えて来た時、庭の使用人達は驚愕と困惑に騒めいた。坊っちゃんは一体何をしているのだ、と囁き交わす声も、有坂孝晴には、はっきりと聞こえている。しかし、彼が澄ました笑みの下で、これから起きる事を想像し、不安と恐怖を抑え込んでいると気付いた者は居なかっただろう。

 孝晴は、兄と遊べなくなってから、同年代の子供との付き合いも避けていた。学校には通うが、課題を提出し授業を受けたら、すぐに姿を消し、寺前で饅頭をつまんで帰る。あの真面目で厳格な兄に対してさえ、怒りをあらわにしてしまったのだ。何も知らない同世代の子供達と「普通に」接して居られる自信は無かった。その後「師匠」と出会い、心が凪ぐ感覚を身に付けたが、その頃には友人と呼べる存在など出来ている筈も無かったし、十五にもなれば「有坂家の子供」に安易に関わらない程度の分別はつく。もっと幼い頃は、孤独に耐えかねて獣や鳥と戯れようとした事もあったが、餌を撒こうが何時間待とうが、一度たりとも獣が孝晴に近付いた試しは無かった。皆んな俺の事が怖ぇんだ、と気付いたのは、初めて馬乗りに連れて行かれた時の事。練習用で気性も穏やかだという馬が、孝晴にだけは近付こうとせず、それどころか息荒く脚を踏み鳴らし、威嚇するように睨み付けていた。そして十五になるまでに、孝晴は、全てを諦めた。自分はそもそも、人との交わりを望むべきでは無かったと。――そんな孝晴から、この痩せ細ったちっぽけな少年は、逃げなかったのだ。

(こいつは、俺の事を知らない。けど、言葉も解ってる。それに、俺から、逃げなかった……人間なんだ、こいつは、まだ……。)

 殺したくない。

 できるなら。

 できることなら――。

 そんな小さな願いを押し殺しながら、孝晴は母屋へ向かった。母にはもう孝晴の奇行が伝わっている筈だが、母が庭に出て来る事も無かった。


「母上。『犬』を拾いました。」

 異臭を体中から発している汚れた茶色の毛玉。そんなものを抱えて部屋にやって来た孝晴を見た彼女は、ゆったりと口を開く。

「なんじゃ、それは?」

「飢えて人を襲おうとした所を捕まえました。俺が世話をするので、飼っても良いですか。」

「ふむ……。」

 母は、美しい仕草で手を頬に当て、少し笑みを浮かべながら、孝晴と毛玉に目をやる。毛玉から、骨と皮だけになった人間の手足が垂れ下がっている事にも、気付いただろう。孝晴は思考しないよう、返事の中身を想像しないように必死で「頭の中」を空にしていた。考えれば考えるほど、返事までの時間が、長くなる。母の唇が動いた。


「そうじゃの、好きにするがよい。さあ、く退がりやれ。」


 呆気なく、母はそう言った。目を丸くして立ち竦む孝晴に向け、彼女はふわりと微笑む。

「鈍い子じゃのう、母がいと言うたのじゃ。不満でもあるのかえ?」

「いえ、……何も。失礼しました。」

 部屋を出て扉を閉めた時、孝晴は少年を抱えたまま、廊下にへたり込んでいた。この手の中の少年を殺さずに済んだという安堵感だけではない。虚無感。母に興味を持たれていない、などと思っていたのは自分だけだ。そもそも、。孝雅が相手でも、孝成が相手でも、母が理由も問わず、殆ど見る事さえ無く、無条件に許可を出すなど、有り得ない。使用人が驚いて声を掛けてくるまで、孝晴の頭の中は空っぽになっていた。


 その後、少年の世話を始めてみると、思いの外、彼は体が丈夫で物覚えが早い事が分かってきた。地頭が良いという以上に、一度「やれ」と言えば、一日中でも、一晩中でも、出来るようになるまでやり続ける。その体力や精神力には、孝晴も素直に驚いた。あんな状態でも生き延びられていたのは、この頑丈さも理由の一つだろう。

 少年に「リン」と名付け、少しずつ言葉も交わせるようになった。確かめると、どうやらリンには孝晴と出会うまでの記憶が無く、「腹が減って寒かった」という感覚だけが、それまでの彼の全てだった。ただ、リンは初めて孝晴の前で声を出した時から敬語を使っており、恐らくそれは彼自身にも分からない、育った環境故のものだろうと孝晴は推測していた。いつかリンが全て思い出したら、元の居場所へ帰ってしまうのだろうか。いや、どうせ、大人になれば離れるのだから、この関係はそれまでの戯れでしかない。表情のないリンが何を考え、どう感じているのかまで読み取るには、まだ孝晴は幼かった。

 それから一月経ち、二月経とうかという時。母は孝晴とリンを母屋へ呼んだ。好きにしてよいと母は言った筈だが、経過報告だろうかと考えていた孝晴は、母の前に出た瞬間、自分の誤ちを悟った。母は、総てを知っている顔をしていた。その上で、リンを「使えそうだ」と判断したのだ。物覚えが早い。大人しく従順。頑丈な体と強い精神力。まだ言葉は拙いが、常識も少しずつ覚えている。そして何より、「有坂家に全く縁のない存在」だ。母はリンと二言三言会話を交わした後、にこりと微笑んで、言った。

「これはお前がここまで育てたのかえ?」

「はい。」

「中々に良い拾い物をしたのう。明日みょうにちから、お前が学校へ行っている間『此方』へ通わせるがよい。妾が礼儀作法の面倒を見てやろう。」

「……有難う御座います、母上。」

「して、これに名はあるのかえ?」

「『リン』と付けました。」

 どうせ知っているのだろうと思いながら、孝晴は答えた。母は嬉しそうに微笑む。

「リンよ、妾は其処の孝晴の母じゃ。これからは、妾の教える事も良く聞くのじゃぞ。」

「ハルさま、の、おかあさま。きれい、ですね。」

 一見睨み付けるような目付きで母の顔を見ながら、淡々と、リンは言った。母は小さく笑い声を上げ、孝晴に向き直る。

「『ハル』と呼ばせているのかえ。」

「『タカハルさま』が言い辛そうだったので、ハルでよい、と。リンは言葉を解していますが、まだ話す事には慣れていないので。敬語は教える前から話していました。」

「成程のう、面白い奴じゃ。」

 そう笑う母の目の奥には、愛情などという生温い感情は読み取れない。どこまでも冷たく鋭い、値踏みするような目。

(どうして俺ぁ、こいつを『ひと』のまま連れて来ちまったんだ。)

 この先、リンは常に母の評価に晒される事になる。実子故に目溢しされている孝晴と違い、リンは籍もない浮浪児だ。もし母の期待に応じられなければ……その時に手を下すのは、自分だ。あの時、初めに連れて来た時に殺しておけば。一時の感情に流されて、育てたい等と言わなければ。人間としての自己認識を取り戻したリンを殺す日が来る恐怖に、怯える羽目にはならなかったのだ……。



「……母上がお前に興味持って、お前は母上の期待に応えた。お前が生きてンのは、お前の力でしかねェんだよ。お前が軍に行きたいっつった時、刀祢の爺さんに預けたのは、これでお前と『有坂家』の繋がりが切れると思ったからだ。けど、お前は刀祢姓を得てからも、警兵になっても、俺から離れやがらねぇ。今でも母上がお前をたまに呼んでンのも知ってんだよ、俺ぁ。だが、流石に所帯を持ったら話は変わる。お前が主人になる訳だからな。それでやっと、お前は『有坂』の手から離れられる。」

 孝晴の言葉は、余りにも端的で短い。しかしその裏にある彼の記憶が、抱え込むには重過ぎる物であると皆分かっていた。同じ時を過ごした麟太郎はどうなのか。自然、理一と留子は麟太郎に目を向ける。麟太郎は、――首を傾げた。

「離れなければ、なりませんか。」

「……は?」

 流石に面食らい、目を見開く孝晴。麟太郎はじっと、血に汚れたその顔を見ている。

「私が以前言ったのを覚えているでしょう、ハル様であれば。例えどんな心に根差していても、その行動が人を作ると。ハル様、私は貴方に出会うまでの事を、殆ど覚えていません。けれど、貴方に出会わなければ、遅かれ早かれ私は死んでいました。奥方様が私を利用する為に優しくして下さった事も、私は承知しています。それでも、やはりハル様が私を救ったのです。その事実が揺らぐ事はありません。」

「まだ分からねぇのか、お前? 俺は……、」

 顔を歪めた孝晴は、唐突に口を噤む。その顔に浮かぶのは、驚きの表情だ。自分は、今、何と言おうとした?

 孝晴が黙ったのを確認し、麟太郎が再び口を開く。

「しかし私も間違っていました、ハル様。今なら分かります。貴方を一人にはしないと言ったのに、私は、貴方だけを特別視して、周りから切り離していました。ハル様を隣でお支えする事を、いつの間にか、諦めてしまったんです。どれだけ努力しても、ハル様には届かないと。違いました。ハル様は望んでいた。なのに私は、追い縋っているつもりで、後ろに退がっていたんです。『犬』は、主人の後ろを歩きません。隣を歩き、時に前を走ります。貴方の引く綱の下にある事も、貴方の隣にある事も、私自身が望んでいます。それでは、いけませんか。」

「……なんで、」

 俯いて黙った後、発した孝晴の声は、僅かに震えていた。わざと「犬」扱いして、自分の気持ちを切り離そうとして来たのに、それでも手放せなかった首輪と綱は、とっくに自分の手には無かった。傷付け突き放しても戻って来た。恐ろしい。どうして。一番恐ろしいのが、自分だからだ。母の支配は、言い訳に過ぎない。どんな生き物も寄り付かない、人間からも疎まれる自分。従順である以外に、母に認められる術を知らない自分。兄を殺しかけた自分。師を自らの手で屠った自分。生きる時間の違う自分。そんな自分が、あの時。


 殺したくない。

 できることなら、――ともだちに、なりたい。


 そう、思ってしまったのだ。十五の自分は、何と浅はかだったのだろう。そして、今でも何も変わって居なかった。有坂家と、自分と共にあれば、常に死の陰は付き纏う。あの犬も、師も、死んだ。だからこそ、離れなければならない。なのに。

「……ぇんだ。」

 俯いた孝晴の頬を伝った雫は、黒ではなかった。

「俺が、お前を殺したくねぇんだ。お前は……俺に初めて出来た、、だから。」

 ぽたり、ぽたりと雫が落ちる。麟太郎は僅かに目を細めた。たった独りで帝都の、帝國の危機すら止められる力を持つ孝晴。しかし今そこに在るのは、友を失う事を恐れ苦悩してきた、一人の青年の姿だった。


 啜り泣きの音が、風の音に混じる。留子は理一に縋り、声を押し殺すように泣いていた。麟太郎は彼女のように泣けなかった。涙が出ない。ただ、驚きの感情はある。あの孝晴が涙を零した。静かに。甕に落ちた一雫の雨が、縁から水を溢れさせるように。けれどその涙は、孝晴との間に存在していた壁を溶かした。そう、麟太郎は感じた。

「ハル様。」

 静かに呼びかける。無言で孝晴は顔を上げた。麟太郎には、彼の表情から感情を読み取る事は出来ないけれど。

「私には記憶がありません。しかし、貴方と出会った瞬間からの事は、覚えています。あの時、既に感じていたんです。貴方の為に生きる道以外は無いと。だから私は、ハル様に殺されたりしません。勿論、他の誰の手によっても。死んだら貴方のお側に居られなくなりますから。例え貴方に刃を向けられようと、私は貴方の前では死にません。」

「……できねェだろ、そんな事たぁ。」

 孝晴が少し、笑ったように見えた。応える麟太郎の声に抑揚は無いが、その言葉はどこか、熱のようなものを孕んでいる。

「ハル様が出来ない事は、私が行います。ハル様がお一人で立てない時は、杖にもなります。貴方は『リン』にとっての『』です。貴方無しで生きるつもりは、私にはありません。だから……ハル様は悩まなくて良いのです。」

 そっと、手を伸ばす。孝晴は動かなかった。その頭に、麟太郎の手が触れる。髪の流れに沿うように、頭を撫でる小さな手。こんな事が、前にもあった気がする。

 孝晴が、ゆっくりと頬につく手に頭を預けた。

「本当に、着いて来るンだな?」

「私は貴方を一人にはしません、ハル様。」

 呼吸を大きく一度行う程の間の沈黙。そして、ふ、と小さな息と共に、孝晴が喉の奥でくつくつと音を立てる。そして、急に天井を仰ぐと、からからと、笑った。

「あー、お前はとんでもねェ馬鹿だぜ、『お麟』。」

「よく言われます。」

 麟太郎の頭を軍帽の上からぐしゃりと撫でると、孝晴は寄り添う二人に目を向ける。

「悪かったな、リイチ。」

「本っっ当にな。俺だって手前の事ばかり考えてる訳にはいかねぇんだぞ。」

「御当主様の苦労、お察しするぜぃ。」

 口の端を上げる孝晴を見て、理一は特大の溜息を吐くと肩を竦めた。

「けど、友達だからな。見捨てねぇよ。」

「はは。」

 ああ、いつもの孝晴だ。けれどこれまでよりも少し、距離が近付いたのは確かだろう。麟太郎も変わった。さて、自分はどうだろうか……。だが、一先ずは何とか、収まる所に収められただろう。そう思い、理一は事の発端である留子を見遣る。と、ほぼ同時に。

「……よ、よか゛っ゛た゛です〜〜〜!」

 わっと留子が泣き出した。麟太郎以外がぎょっとする中、留子はぼろぼろと涙を溢しながら、何度もしゃくり上げる。口許に当てている理一の手巾は既にびしょ濡れだ。

「わた、わたしっ、御免なさい、でも……孝晴さまが、凄く、嬉しそうだから……本当に良かったって……!」

「……お麟、どうなってンだぃ、この嬢ちゃんは。」

 今度は憮然として麟太郎を振り返る孝晴。しかしその半分呆れ混じりの驚きと照れの混じったような声音で、彼女の言葉が間違っていないのだと分かる。麟太郎は淡々と答えた。

「私の内心を初対面で見抜いた方ですよ?」

「とんでもねぇなァ。」

 孝晴は息を吐き、眉を下げる。

「しかし、本当に誰にでも共感なさるのですね、留子様。」

「す、済みません……でも、わたし、どうして孝晴さまを怖いと思ったのか、分かった気がします。」

 留子は赤くなった目を手で擦りながら、微笑んだ。

「初めは、あんなに柔らかな振る舞いをする方が、どうしてこんなに冷たく感じるのだろうと不思議でした。でも、孝晴さま、沢山秘密や悩みを抱えていらして、周りを巻き込まないようにしていたのですね。だから、わたしはさて置き、麟太郎さまや、衣笠さまとお話している今の孝晴さまは、怖くありません。本当はとてもお優しい方なのだと、」

一寸ちょっと待っ、留子様は……おいリイチ! 女ってのは皆ンなこんな感じなのか?」

「何の話だ?」

 今度は面食らった顔。こんなにもころころと表情を変える孝晴を見るのは初めてで、理一はクスクスと笑いながらとぼけて見せる。何故孝晴が焦ったのか。留子が「自身はさて置いて」と言ったあたり、彼女は男二人が孝晴の秘密――勿論、内容までは分からないだろうが――を、共有していると勘づいているのだろう。人は見かけによらないとはまさにこの事だ。

「ま、女が皆んな『こう』な訳じゃねぇよ。お嬢様の察しが良過ぎるだけだ。天下の有坂様も形無しだな?」

「ちくしょうめ……。」

「え、えっと……御免なさい、わたし、思った事をそのまま言ってしまうので……。」

 右手で軽く頬を掻く孝晴に、留子は申し訳無さそうに声を窄める。未だ兄弟にも麟太郎の名すら明かさない程に口は硬いのに、不思議な女だ。孝晴はもう一度溜息を吐くと、血の付いた自分の手を眺める。

「さァて、どうすっかねぃ。お麟はさっさと窓から帰れば良いとして、俺ぁこんなナリじゃ出て行けねぇ。」

 確かに、と理一も頷いた。念の為に理一が診ても既に血は止まっていたが、真っ赤に染まった眼球を晒せば騒ぎになる事は想像に難くない。難儀な体質だと息を吐く理一。

「そう言えばお前、床に血を落としたよな?消しておくか……リン公、あるか。」

入子いれごの小さいものなら。」

 座り込んでいる孝晴の前に、理一と麟太郎が膝を着く。留子は泣き腫らした顔ではあるが、興味津々で彼らの手元を覗き込んだ。麟太郎は服の何処かから掌に収まるほど小さな竹籠を取り出し、手袋を嵌めると、籠の中心に飛び出ている蝋で固められた糸を摘み、手袋の指先で擦る。一瞬でそこに火が灯り、留子が驚きの声を上げた。

「凄い! どうなっているんですか!?」

「仕組みは……長くなるので、次のふみに記します。この火はあまり保ちませんから。」

「すぐ終わるから大丈夫だ。っと、これだな。」

 理一も、これまた何処に持っていたのか、硝子の小瓶を取り出し、中の液体を絨毯の染みに数滴垂らす。それを暫く手巾で押さえて拭うと、染みは消えていた。

「なんだぃそりゃ。」

「オキシドール。簡単に言えば消毒液だよ。」

「んなもん、こんな時まで持ち歩いてンのかぃ?」

「いつ何処で医者が必要になるか分からねぇだろ。最近何やら妙な事件もあるしな。」

 言いながら、ちらと孝晴に目線を向ける理一。孝晴は目を細める。麟太郎は無言だが、火を指先で潰して消し、立ち上がる。

「私は……後で離れに参ります。留子お嬢様、本当に有難う御座いました。」

 深々と彼女に礼をする麟太郎に、留子は手を口許に当て、この暗がりでも分かる程に顔を赤くした。

「いえ、あの、その……これからも、皆さまのお力になれるなら、いつでもお手伝いします。」

「はい。では。」

 短く返事を返すと、麟太郎は外套を翻し、一直線にバルコニーに飛び出すと、屋根に飛び上がって消えて行った。孝晴は苦笑しながら留子を見遣る。

「本当に『あれ』で良いんです?」

「わたしを選んで頂けるなら、それに増す幸福はありません。」

 留子はにっこりと笑って答えた。孝晴も笑う。その先を決めるのは二人だ。さて、と孝晴は立ち上がる。それを待っていたように、理一が口を開く。

「で、どうやって誤魔化す?」

「そうさな……。」

 孝晴は腕を組んだ。こっそり帰るには自分の名前は知られ過ぎているし、麟太郎の袋にあった砂糖は全て食ったものの、まだ頭痛は残っているため、無茶をすればまた血を噴く可能性がある。どうしたものか。すると、留子がおずおずと二人を見上げ、言った。

「あの……少し聞いて頂きたいのですが。」


「おや、衣笠伯爵。お戻りですか。」

「ええ、一寸煙草をやりに外へ。」

 入りしな、初老の男性が声を掛ける。理一が応えると、彼は意外そうな顔をした。

「何故外へ? 此処でも皆吸っているではありませんか。」

「有坂様が煙草を苦手にしているらしいんです。それで、個人的に彼の居る場所では吸わないようにしているんてすが……、」

 言いかけながら会場内を見回した理一は、おやと不思議そうな表情を浮かべる。

「そう言えば、有坂様は帰られたのですか。」

「そのような話は聞いておりませんが……。」

 男性が言いかけた時、扉の外からばたばたばたと激しい足音と共に「お兄様ぁ〜〜〜!」という声、同時に目を真っ赤に泣き腫らした少女が走り込んで来る。入口付近の人々がどうしたのかと騒めく中、兄を呼んでいた少女と理一の目が合った。泣きながら彼の元へ飛んで来た少女に面食らった顔をする理一に、彼女は言った。

「衣笠さまですね!?」

「ええ、」

「衣笠さまは、お医者さまですよね!」

「まあ、医学校は出ていますが……どうなさったのです。」

 困惑した様子で理一が声を掛けると、少女は息を詰まらせながら言った。

「わ、わたし、有坂様にお怪我をさせてしまいましたぁ……!」

 わっと泣き出す少女と、どよめく人々、慌てて走って来た鐵心と、そして――扉の外には、非常に罰が悪そうな表情をしながら、血の付いた手巾で片目を押さえている有坂孝晴が立っていた。

 飛んで来た鐵心が泣きじゃくる留子から聞き出した話はこうだ。バルコニーで涼みながら暫く話をしていたが、流石に体が冷えてきた。戻ろうと孝晴に言われたものの、留子はまた質問攻めに遭う事を考えると戻りたく無かった。そこで、それまでの会話で、孝晴が晩餐会での舞踏を苦手としていると聞いていた留子は、体を動かせば冷えも治まるし、一緒に練習しませんかと誘った。そして……

「わたし、裾を踏んで倒れ込んでしまって、それを有坂様が受け止めてくださって……!」

「……そのまま足を滑らせてバルコニーの柵に額をつけたんですよ。あの、お嬢様、恥ずかしいのであまり言わないで下さい。上手く受身を取れなかった私の落ち度なのですから。」

 あの有坂家の三男、木偶と言われてはいるが、社交の礼儀を弁え笑みを絶やさない有坂孝晴が、恥ずかしそうに眉を寄せている様子に周囲は驚いた。しかし流石に鐵心は顔を青くして、何か言いた気に留子と孝晴を交互に見ていたが、やっと口を開く。

「し、しかし孝晴様、その、血が……、」

「失礼、私で宜しければ拝見しますが。」

 その言葉を鋭く遮ったのは衣笠理一、留子が声を掛けた相手だ。彼が軍医少尉である事は皆知っている。大人しく彼の言に従って手巾を外した孝晴の目が真っ赤に染まっているのを見て、周囲の何人かは息を飲んだ。理一は淡々と「打ったのはこの辺りですか」などと確認し、最終的に一言「打撲ですね」と告げた。

「打撲……? 目を打ったんですか?」

 恐る恐る訊ねる鐵心に、理一は首を振る。

「違います。体を打つと、其処が内出血を起こして痣になります。が、目の上辺りを打つけると、皮膚の内側に溜まった血が目の中に下りてくる事があるんです。なので、見た目程酷い怪我ではありません。ただ、早く帰って患部を冷やした方がよいでしょうね。」

「……そうします。鐵心君、面目ない。」

「いや! その……留子は、後で叱っておきますから……。」

 今すぐにでも妹を怒鳴ってやりたいというような顔をした鐵心に、孝晴は苦笑する。

「余り彼女を責めないで下さい、私が色々と疎かにしてきたツケが回って来たんです。次までに舞踏も練習しておきます。衣笠様も、有難う御座いました。」

「大した傷でないとは言え、場所が場所ですし、数日は無理なさらない方が宜しいかと。」

「そうしましょう。では、お先に失礼致しますよ。」

 医者らしく助言する理一に孝晴は緩く頭を下げ、館の出口へ向かって行った。未だ周囲は騒めいていたが、孝晴が居なくなると、鐵心が大きく溜息を吐いて妹へ向き直る。

「留。」

「は、はい……。」

「今日は帰ろう。僕が覚えている限り、この二月ほどで、お前が他人に怪我をさせたのは二度目、転んで助けて貰ったのも二度目だ。ちゃんとお父様にも報告して、反省しなさい。周りが見えなくなる癖を治さなければ、嫁になど行けないぞ。」

「はい……そうします……。」

 落ち込んだ様子でとぼとぼと兄の後を着いて行く留子。彼らが出て行ってしまうと、暫く周囲の話題は今の騒ぎ一色だったが、人々は勝手に何かしらの結論をつけ、それぞれの目的に戻ってゆく。理一は小瓶の隣から紙巻きの箱を取り出し、燐寸を擦ると、ふう、と煙を細く吐いた。

(なかなかに女優じゃねぇか、あの。)


『わたしが、孝晴さまにお怪我をさせた事にするのはどうでしょうか。』

『わたしは麟太郎さまに怪我をさせた前科がありますし、先日も泥濘ぬかるみに嵌って転んだので、兄は呆れるでしょうが、怪しいとは思わないでしょう。』

『わたしに、こうと思えば突き進んでしまうきらいがあるのは皆知っていますし、きっと、いつもの仕出かしだと済ませてしまう筈です。』

『わたし自身の評価など、些細な事です。だって、麟太郎さまのご友人であるお二人の、お役に立てるんです。それにわたしも、沢山泣いてしまいましたから、泣きながら出て行った方が自然でしょう?』


 彼女の案に孝晴と理一が理屈や違和感を極力感じないような状況設定を加えたものが、先程の茶番だ。初めに麟太郎から手紙を見せられ、彼女に協力を依頼したいと打診された時には驚いたが、彼女の推察力と胆力は本物だ。孝晴の前ではああ言ったものの、彼女は「孝晴を逃さない為の枷」でもあった。それにも、彼女は勘付いているらしいのだから。

 理一はもう一度白い指先を口許へ持って行く。そのうち、また絣の着流しと烏羽の影が二人連れ立つ姿が見られるようになるのだろう。それを期待している自身を微笑わらうと、理一は会場の人混みの中に戻って行った。


 帰宅した孝晴が負傷している様子を見て仰天する女中に「転んで打つけっちまってな、大した事ねぇから報告も要らねえ、どうせ明日には母上の耳に入ってる」と軽く告げ、孝晴は部屋に上がった。窮屈な洋装を脱ぎ、名刺を纏めるように言い付け、手早く湯を浴びると、浴衣に裸足で歩いてゆく。板張りの廊下を満たす空気は、もう冷え冷えとして冬を感じさせた。床の間の襖を引けば、光の当たらない部屋の角に一つの気配。孝晴は無言で部屋を閉め切り、床に座す。

「お麟。」

「はい。」

 抑揚のない声が返って来た。初めて言葉を交わした時と同じ、「いつもの」声だ。孝晴の表情は柔らかだった。

「俺ぁ、母上が怖い。他人が怖い。んでもって……俺自身の事が、一番怖い。」

「……。」

「けど、駄目みてェだな。お前が居る事に慣れ過ぎた。どうにかして手放さなきゃなンねぇと思って来たってのに、俺の方がお前に『甘えてた』。笑い種だわな、俺みたいな木偶の人間ひとで無しが、一端いっぱしの人間みてェに思ってんだぜ。」

 麟太郎には、孝晴が言葉を選んでいる事が分かっていた。静かに麟太郎は言う。

「ハル様は、ハル様です。家の掟があろうと、他人と違っていようと。ハル様だから、お側に居たいと感じる、それが私にとっての事実です。」

「ん。」

 短く頷く孝晴は、少し目線を逸らしてから、膝の上に頬杖をついた。

「……悪かった。あと……有難な。」

 麟太郎は、少しだけ、目を細めた。驚いたのだろうが、やはり殆ど顔には出ない。しかし、孝晴にとっては、それで充分だった。長ったらしく語る必要も無いのだ。麟太郎が相手なら。

「……ハル様に御礼を言われる事になるなど、思ってもみませんでした。私はどうお答えすれば良いのでしょうか。」

 漸く言われた内容を咀嚼し終えたらしく、麟太郎は首を傾げる。孝晴は笑った。

「好きにしなァ、お前はずっとお前なんだからよ、『お麟』。」


 帝都の周縁、更にその外、旧國境すら越えた山の中。この地域によくある炭焼き小屋の前に、立ち尽くす一人の影があった。いや、正確には、その場に立っているのは二人。一人は小屋の主であろう男。そしてもう一人は――漆黒の軍服に、長い洋羽織。頭は「狐」の面で覆われた、小柄な人間だった。薄暗い月の光にも、白い面ははっきりと浮かび上がっている。まるで妖異か神かといった異様な雰囲気の人間は、驚愕の表情を浮かべる男の前に静かに佇んでいる。

「……何で万華ばんかが、こんな処に……。」

「理由は、貴方自身が知っている筈だ。元陸軍中尉、小田切信三郎。」

 狐面が答える。声音からすると、どうやら中身は男のようだ。小田切と呼ばれた男は暫し無言だったが、ゆっくりと言った。

「兄が死んで軍を辞めざるを得なかっただけの私に、何用があるかなど、てんで分かりませんな。」

「その行動はなかなかにさかしいが、それで貴方が叛乱に加わっていた事実まで消える訳ではない。」

 感情を感じさせないその物言いに、男は僅かに顔を歪める。

「私は身内が出した恥で迷惑を被ったのですぞ。」

「ならば何故、こんな近郊に留まる必要がある。貴方達の出身は奥北だ。」

「地元に戻ればそれこそ命に関わる! 私は此処の者に救われたのだ!」

「何故命に関わる?」

「それは、」

 言い掛けた男は、はっと口を噤む。狐面は淡々と言った。

「戻れば、『計画を失敗させた』と糾弾されるからだろう? 叛乱が露顕したのは貴方の兄の失態が理由だ。貴方が計画に関与していなかったのならば、奥北から指示を出していた者がそれを知らぬ筈がない。……さて、何故俺が此処に居るか、理由に答えよう。貴方から奥北の協力者の名を聞く為だ。」

「何故言う必要がある。貴様等は警兵でも邏隊でもない!」

 絞り出すように言った男に、狐面は一歩近付いた。

「我々は、帝を護る為に存在している。帝の身に及ぶ災いは祓わなければならない。その為であれば、我々は動ける。理解できたか?」

 瞬間、男が腰に下げた鎌を抜いて投げ付けた。狐面は首を傾げて避けるが、男は脱兎の如く駆け出していた。狐面がそれを追う気配は無い。男が何かに躓いた。倒れるその体に、まるで生き物のように鎖が絡み付く。驚きに男が声を発する前に鎖が引かれ、文字通り後ろに飛んだ男の体を抱え込むようにして口を塞いだのは、漆黒の軍服に獣――此方は「いたち」だろうか――の面を着けた人間。もう一人の「万華」だった。

「……!」

「騒ぐな。俺の役目はお前を無傷で連れて行く事だ。」

 鼬面は男の口を押さえながら言った。狐面と違い上背がある。声ももう少し低い。ただ二人共、頭部を全て覆う面の為か、声の質が分かり辛い。鼬面は男を地面に転がし、手早く足首を布で縛ると、結目を作った布を男の口に噛ませ、目も布で覆うと、抱き上げる。結目が邪魔で叫ぶ余地が無い。鼬面の声が言った。

「余り暴れるなよ、鎖で傷が付く。我々に、今此処でお前を痛め付けるつもりは無い。だが、抵抗が酷ければもっと強く縛らなければならない。大人しくしている事だ。……『浅葱あさぎ』、確保した。」

「有難う。早く戻ろう。」

 最後の部分だけは仲間――あの狐面が「浅葱」らしい――に向けて言った鼬面に抱えられながら、そこまで男は聞いたが、それ以降二人が言葉を発する事はなく、冷えた夜風を切り裂くように、漆黒を纏った獣面達は闇へと消えて行った。


「帝國の書庫番」

十五幕「麟子連れ添い、鳳凰于に飛ぶ」

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