帝國の書庫番 廿四幕

柔らかな果皮が、乱れ裂け、飛び散る。


 他の建物と違わず帝都の冬を纏う、勘解由小路家の邸宅。父の帰りを待つ留子は、沈鬱な表情で壁の時計を眺めた。こんなにも針の進み具合が遅い事を恨んだ日は、今までに一度も無かっただろう。

 有坂孝晴への歓待は、つつがなく終わった。使用人達から様子を聞いていた家族は、帰って来た留子が塞ぎ込んでいる様子に驚いた。しかし、幾ら尋ねられても留子は何も言わなかった。話せるのは、留子の本当の目的を知る、ただ一人の家族――父だけだ。

 有坂孝晴が「自分は人間ではない」と言った時、留子にはその意味が分からなかった。孝晴は、何処からどう見ても人間の形をしているし、その心も、苦しみも、人間らしいものだから。しかし、その後孝晴は、詳しく話してくれた。彼は生まれ付き、思考速度が常人と違う。具体的に比べた事など無いらしいが、思考に合わせて普通に動いたら、その動きが常人には見えない程なのだそうだ。それが、留子の簪を取った時に孝晴が行っていた事。彼は、ただ歩いて、髪から簪を抜いただけ。そんな速度ですれ違ったなら、とんでもない強さの空気の流れが発生しそうだが、不思議とそのような事は無いらしい。それほど頭の回転が早い孝晴であるから、当然、囲碁や将棋等でも、相手の一手毎に、先が読めてしまう。双六や賭博でも、振られた賽が跳ね返る強さと角度を見て、どの目が出るか分かってしまうのだそうだ。その逆を行えば、目を狙う事も彼には容易い。勿論、いかさまも彼には通じない。他者の動きは、彼にとっては遅過ぎるから。

 留子は、それは天賦の才で、尊ぶべきものなのでは無いかと言った。しかし孝晴はこう返した。生まれながらの才を開かせるのは、適切な教育と努力だと。勿論、得手不得手というものはある。体質や、性格も影響する。しかし、天才を天才たらしめるのは、それに見合う努力の量だ。逆に孝晴は、自身は何かを習得する時、努力らしい努力をした事が無いという。剣も、書も、覚えて再現出来る。囲碁も、実際に覚えたのは規則と用語だけで、それを基にして、最適解を頭の中で弾き出しているらしい。「何一つ努力せずに得る私の勝ちと、経験と工夫を重ねた上にあるお嬢様の負け、何方どちらが尊いと思いますか」と訊ねられた時、留子は言葉を返せなかった。そして孝晴は、それ故に、自身が根本的に人間と異なる存在であると認識している。だから、「他者と同じ土俵に乗らないように、化物である事を隠している」のだと、彼は言った。留子も、実感してしまった。孝晴の見せた力は、常識的な「出来る出来ない」の範囲で語れるものでは無いのだ。


(そして、そんな孝晴さまが、唯一心を開いていたのが、麟太郎さま……。)


 留子は固い長椅子の上で、両手を強く握る。


『お嬢様は、思い遣りのある方です。口が固いのも、よく知っています。なので、お話させて貰いました。聡い貴女なら分かったでしょう?私について知った所で、貴女には如何しようも無い事が。……私にだって、如何にも出来ないのですから。』


 孝晴の言葉が、胸に突き刺さっている。あれは、明らかに留子を遠ざけようと放たれたもの。しかし、留子を悪戯に傷付けようとした訳では無い筈だ。その言葉を吐いた時の孝晴から伝わる感情は、麟太郎に「お前など要らない」と言い捨てた時と似ていると感じた。自身に近付いて来た者が傷付かないよう、先に遠避ける為の、優しい刃。それでも、留子は自身の浅さを思い知らされた。――同時に、麟太郎の覚悟の強さも。


『私は、人間じゃあ無いんです。』


 言葉と共に笑みの奥から滲み出す、諦めと拒絶の感情。孝晴が麟太郎を「友達」だと言葉にするまでの葛藤は、推し量るには余りある。あの夜の彼の涙は、それ程重いものだったのだ。そして麟太郎は、それを真っ向から受け止めた。

「……わたしは、」

 小さく呟くも、留子はその先を言わなかった。時計の螺子が針を動かす音だけが、暫くの間部屋に響く。見慣れた父の書斎が酷く広く見えるのは、自身の小ささを知ったからだろうか。扉が開く音が聞こえ、留子はゆっくりと立ち上がる。一人で部屋に入った父は静かに扉を閉め、鍵を掛けた。父が表情を変えないのは、いつもの事だ。留子の方からも父に向かって歩み寄り、最後には胸に飛び込んで、がっしりとした体を強く抱き締める。

「分かったのかね。」

 頭上から降る、落ち着いた低い声。留子は父の胸に顔を埋めたまま頷いた。

「……はい。一番知りたかった事が、分かりました。」

 深く息を吸い込むと、父の背広からは、留子の嗅ぎ慣れた煙管パイプの匂いがした。



 その家の周りには、野次馬や記者が集まって人集りを作っている。いや、普段からそうだったらしい。何せこの家の住人は、先だって新聞に取り上げられた「念写」の能力者であったからだ。新聞には虚実入り交じる記事が載り、何度か検証実験も行われていた。そんな経緯で、住人の男は良くも悪くも、目立つ人間であったのだ。

 しかし今、麟太郎の目の前にあるのは、異様な光景だった。部屋の中で、男が座布団に座している。膝の前には、何枚か並べられた写真用乾板。きっちりと正座し、膝の上で固く握られた手。着衣に乱れも無い。しかし、その首の付け根から上だけが、その肉体には存在していなかった。噴き出した血が肩から胸、膝、並んだ乾板にまで飛び散り、床にも点々と血痕が残っている。それだけの勢いで血が噴き出すという事は、首を斬られた時に男は生きていた筈。下手人が居るなら、返り血も浴びただろう。しかし、男の周囲や部屋の出入り口には、飛び散ったものだけでなく垂れ落ちたような血痕も、死体を引き摺ったような跡も無い。つまり男は、此処に座したまま首を飛ばされ、その首だけが忽然と消えたとしか思えない死に様を晒しているのだ。そんな状態で発見された為、邏隊だけでなく警兵も派遣される事態となっていた。

「奇妙ですね。」

「ああ、奇妙だ。」

 麟太郎の呟きに、上官――大尉の水善寺が応える。邏隊員達も分かっていたが、首を刃物で飛ばすには、骨の継目に正確に刃を当てねばならない。座した人間の首を落とすなら、前傾していなければ、刀を真っ直ぐ振り下ろす事が出来ない。しかしこの死体は背を緩く丸めた状態で座り、それでいて、首の中心ではなく付根を綺麗に切断されている。血飛沫も満遍なく飛び散っており、一方向から刀を振るったようには見えない。もし刀を使ってこんな芸当が出来るとしたら……。

「……。」

 麟太郎は、一瞬脳裏に浮かんだ姿を考えから押しやると、水善寺に尋ねる。

「大尉殿。」

「どうした?」

「邏隊の見立てでは、凶器は何と?」

 水善寺はじっと麟太郎を眺め、息を一つ吐いた。

「それが分からんらしいので、お前の隊を連れて来たのだ。」

 首を傾げる麟太郎。水善寺は腕を組んで「正確には、お前を使いたかった」と続けた。

「邏隊員も、警兵隊員も、貴族か武家出の者が大半だ。邏隊は多少状況が異なるだろうが……それでも、貴様のような技能を持つ者は稀だ、刀祢。忍の者は、我々には思いも寄らん道具を使うだろう? 常人とは視点が違うかも知れない。」

「……成程。」

 麟太郎は部屋を見回す。室内に新しい傷等の手掛かりになりそうな痕跡は見つかっていない。自然、麟太郎の視線は上を向く。

「隣室から天井裏に上がります。」

「許可しよう。」

 水善寺が応えると、麟太郎は廊下からも部屋を観察し、隣の床の間に入る。刀を鞘ごと抜き、天井板を突いてずらすと、麟太郎は垂直に飛び上がり、隙間に指を引っ掛けて体を引き上げた。

(埃があまり溜まっていない。)

 麟太郎の第一印象はそれだった。敢えて音を立てつつ、現場の部屋へ向かって移動する。下から「此処だ」と水善寺の声が聞こえた位置で、麟太郎は板を一枚外し脇に置いた。下を覗くと、丁度真上から遺体を見下ろせる位置である。

「何かあったか?」

「天井裏にしては、埃や獣の入った跡が少ないです。誰かが入り込んでいるのか、」

 言い掛けた麟太郎の言葉が止まる。怪訝そうに眉を寄せ見上げる水善寺に、麟太郎は言った。

「血痕があります。」

「何?」

 水善寺は強く目を細める。

「何処にだ。どのように?」

「難しいです。天井板の縁と言うか、横と言うか……此処、です。」

 麟太郎が指差したのは、板を取り外して四角く開いた穴の、縁。一枚板として言えば、表と裏の間、こばの部分だった。真下には踏み入れない為、麟太郎が示した場所の正面側に移動して目を凝らす水善寺にも、黒い染みは見えたようだ。

「確かに血か?」

「はい。」

「……天井から死体を下ろしたにしては、姿勢が整い過ぎているな。別所で殺してから血を掛け直した? いや、遺体に拘束の痕は無いし、そんな妙な手間をかける意味が分からん。そもそも……。」

「……。」

 腕を組み呟き出した水善寺の上で、麟太郎は外した天井板を観察してみる。其方にも、嵌め込むと同じ位置に来る場所に血の跡がある。しかも、残り方が小さい。この染みが付着した時、この板が外されていたのは確かだろう。穴の縁側に付いた血が、板を嵌め直した時に移った。そう見える。しかし、それ以外に、床や屋根の梁等に異常は見受けられない。埃が少ないのは気になる点だが、遺体に埃が付着している訳でもない。恐らく、遺体はここを通ってはいないだろう。ではこの血は?麟太郎は天井から顔を出す。

「大尉殿。」

「どうした。」

「外した板にも、同じ位置に染みがあります。」

「そうか。持って来れるか。」

「はい。」

 短い会話の後、麟太郎は板を抱えて隣室に降りる。水善寺に見せれば、「新しいように見えるな」と彼は眉を寄せた。

「他に何かあったか?」

「いえ。」

 訊ねられた麟太郎は首を振った。水善寺も、板をひっくり返す等して観察していたが、やがて足元に下ろした。

「何を使って殺したか分からないと、そちら方面からは調べられん。ここ最近の人の出入りが判るまで、出来る事は無いか。」

 息を吐き、間を埋めるように軍帽を直す水善寺。麟太郎は遺体と天井を交互に見比べ、ぼそりと言った。

「首、ですか。」

「ん?」

「何故、首の付根から切断しなければならなかったのだろうと思いまして。」

 麟太郎はじっと遺体の首の切断面を見ている。水善寺は腕を組んだ。何か考えているのだろう麟太郎の反応を待つ。暫くして、麟太郎は言った。

「首だけを持ち出したとしたら、どうでしょう。」

「……もう、首級で手柄が決まる時代では無いぞ。」

「理由は分かりません。ただ、例えば絞首の様に、首に縄を掛けて、上に引きます。縄が掛かっていますから、そこを避けて切り落とし、首を引き上げる。天井に血が残った残った理由は、首から血が飛んだから……というのは。」

「……。」

 水善寺は動機等の疑問を脇に置き、麟太郎の意見を状況に照らしてみる。確かに真上に引き上げたならば、遺体の周辺以外に血痕が無い事、そして天井に微量の血痕が残った事には説明がつく。更に、首が周辺から見つかって居ない事も事実だ。殺す事ではなく、首を持ち去る事が目的の可能性も、強ち間違っていないように思えた。だが。

「それでも下手人は血を浴びるだろう。遺体も首が無くなれば姿勢の均衡を保てず倒れる筈だ。それにこの血の痕は、一方向から切ったような飛び方では無い。それはどう説明する。」

「そう、ですね。」

 麟太郎は水善寺に目を向けた。本当に無感情な顔だ。水善寺とて人形のような顔で眺められる事にも慣れて来たが、不気味さが消える訳では無い。それでも、それが刀祢麟太郎という男だ。麟太郎は首を傾げると、瞬きをし、再び遺体を見てから口を開いた。

「大尉殿は、炊事をされますか。」

「……いや? 私はしないが。」

「茹でた卵を、潰さずに切るには、何を使うと思いますか。」

 唐突とも思える麟太郎の問い。しかし、水善寺は黙って考えた。

「良く研いだ包丁ではないのか。まさか刀で斬る訳にはいくまい。」

「刃物以外でも、物を切断する事は出来ます。」

「……それで、正解は何なんだ。」

 溜息を吐きつつ坊主頭を掻く水善寺に、麟太郎は言った。

「糸です。」

「ほう。」

「卵に糸を巻いて、両側から引くと、均等に力が掛かり、断面を潰さずに両断出来ます。」

 淡々とした麟太郎の言葉。水善寺は眉を寄せた。

「まさか、糸で首を切ったと?」

 麟太郎は首を振る。

「糸では不可能です。糸で攻撃するなら細いものを選び、巻き付けて素早く引けば火傷や傷を負わせる事は出来ますが、精々皮膚が裂ける程度、上手くいって肉に達するかどうか。卵も、それ自体が柔らかいからこそ可能であって、生きた人体程の弾力には負けると思います。ただ、糸より丈夫な……糸状の刃物のような物があれば、骨の継目を縊り切れば切断も可能なのでは無いかと考えました。」

「……糸状の刃物など、存在するのか?」

「私は聞いた事がありません。」

 水善寺は再び大きく息を吐いたが、其れでも一考の価値が無いとは思わなかった。外ツ國から大量に物や知識が流入する今、これまでに無い頑丈な糸が存在しないとも限らない。それに、「糸で切断する」という方法ならば、返り血を浴びない距離から手を下せる。ただし。

「どんな殺害方法であっても、犠牲者自身が協力してこの体勢を取っていなければ、こんな死に方にはならん。」

 麟太郎も内心で同意する。抵抗の跡もなく、ただ座っているだけの奇妙な死体。血塗れの乾板には、何も映っていない。まるで彼の死を象徴するかのようだ。ただ一つ、気になるとすれば。

「手を強く握っているのは、何故でしょう。」

「うん……遺体を詳しく調べない事には、何とも言えんな。」

 どうやら同じ点を気にしていたらしい水善寺が、麟太郎の問いかけに応えて息を吐いた。



 勘解由小路大臣の書斎では、父と娘が向かい合って長椅子に座っていた。父はゆっくりと煙管パイプくゆらせ、娘の言を待つ。忙しい父であるのに、急かすでも無関心でも無いその態度が、留子には有難かった。

「……お父さま。」

「……。」

 父が無言で頷いた。留子はぽつりぽつりと話し始める。

「はじめに、わたしの我儘を許可して下さり、有難う御座いました。結果としては、その……孝晴さまと、麟太郎さまには、気付かれてしまいまして、こっそりという形にはなりませんでしたけれど。お二人からお話を伺う事は出来ました。」

 父は小さく頷き、静かに言った。

「孝晴君の悩みとやらは、お前にも話せるような物だったのかね?」

 留子は首を振る。

「本来であれば、わたしには話したく無い事柄であったと思います。それでも話して下さったのは、明かさなければわたしが諦めないと思われて、仕方なくの事でしょう。わたしには到底解決しようの無い、深いお悩みです。わたしには、如何する事も……、」

 留子は俯き、一度言葉を切る。父と話せる日が来るまで、何度も何度も繰り返し考えて、分かってしまった事がある。

「孝晴さまは、とても悩み、苦しまれています。いえ、今迄も、そして此れからも悩まれるのだと思います。わたしが、お力になりたいなどという安易な考えで触れた為に、余計に傷付けてしまいました。わたしは、驕っていたんです。よく知って、話を聞けば、きっとお力になれる、って。わたしには何も出来なかったとしても、きっと話せば解決に近付く、って。そんな事有り得なかったと、もっと早く気付くべきでした。……皆、わたしよりずっと大人なのですから。」

 留子は膝の上で握った手に無意識に力を込めていた。一番辛かったのは、自分が無力であると思い知らされた事ではない。

「でも、麟太郎さまは、孝晴さまのお心を和らげられるんです。孝晴さまにとって、麟太郎さまは、唯一無二の存在なんです。それが、わたしには強く伝わって来ました。……なのに……!」

 視界が、暈ける。

「わたし、まだ、麟太郎さまの事が好きなんです……!!」

 堰を切ったように、感情が溢れた。

「麟太郎さまにとっても、孝晴さまは特別な方で、無くてはならない存在なのに……それが分かっているのに、わたしの想いは、変わらなかったんです! 麟太郎さまと過ごしたい、麟太郎さまと結ばれたい、麟太郎さまの一番になりたい。知れば知る程、あの誠実さが、愚直さが、愛おしくて堪らないんです。わたしは、事情を知ってなお、孝晴さまから麟太郎さまを奪おうとしているんです。わたしは嫌な女です、助けになりたいと思った筈の心に、我欲の根が張っている、卑しく、穢い女です……!!」

 次から次へと頬を伝う大粒の涙。もっと冷静に話さなければ、これでは父は何も分からない。頭では理解していても、心がそれに従わない。麟太郎が、孤独な孝晴の唯一の支えであった事は、あの夜を思い返せば痛い程分かる。分かるのに、麟太郎の隣に居ない自分を想像すると、それ以上に苦しい。自分は皆が幸せになる方法を求めていた筈なのに。自分の心は、その「皆」から、孝晴を切り捨てようとしている。

 父は黙って煙管を咥えていたが、やがてそれを置くと、涙を拭く事もせずにしゃくり上げる留子をじっと見る。

「留。」

「……はい。」

 穏やかな声に、穏やかな目。政治家としてではなく、父として家族と接する時の目だ。

「私は、お前がその感情に気付けた事を、褒めたいと思っているよ。お前は大した女だ。何も恥じる事は無いのだ、誰かを愛するという事は、常に我欲との戦いでもあるのだから。」

 緩やかな笑みを浮かべる父の言葉に、留子はぱちぱちと丸い目を瞬かせた。睫毛に掬われた涙の粒が、ぱたりぱたりと落ちる。

「友人、恋人、伴侶、子、親、そして自分。誰が相手であっても同じ事だ。愛する者に期待を掛けない人間などおらんよ。期待の無い愛という物は無い。それは単なる無関心だ。しかしその期待は何処から来る? 我欲からなのだよ。相手と『斯くありたい』、相手が『斯くあって欲しい』。そうした望みが期待となるのだ。其れが我欲であると気付く者は、実に少ない。そして、自身の欲に気付かぬまま、期待の感情が『斯くあるべき』に変化した時、愛は憎しみとなる。」

「……。」

 目を見開いている留子に、父は心地良い低い声で語る。

「しかしお前は、そうはならなかったのだよ。自身の感情の底に欲があると気付き、相手を慮る心を忘れなかった。そこまで強い精神の人間には、早々お目にはかかれまい。私はお前を誇りに思うよ。」

「お父さま……。」

「来なさい、留。」

 呼ばれるままに立ち上がり、父の元へ向かう。歩み寄った留子の顔が手巾で丁寧に拭われると、体がふわりと浮き、膝の上に座っていた。幼い頃、ねだってもなかなか座れなかった父の膝は、留子にとっては特別な場所だ。

「随分と大きくなったものだ。」

「……年が明ければ、十六ですもの。」

「出会った頃の都子に似て来たな。」

「お母さまに?」

「丸くなったように見せて、あれも頑固で、はっきりと物を言う女だからな。怒らせると怖い。」

 留子は泣き腫らした顔のまま、笑った。そして父の首に腕を回す。父の掌が何度か優しく触れる感覚が背に温かい。留子が落ち着いて来ると、父は口を開く。

「お前が塞ぎ込んでいた理由はよく分かった。だが……其の心配は、杞憂に終わるかもしれん。」

「えっ?」

「孝晴君も、貴族の男子だと言う事だよ。」

 顔を上げた留子の目に映る父の顔は、僅かに険しい。自分が塞いでいる間に、孝晴に何かあったのだろうか。留子の心は再び、千々に乱れ始めた。



 指先で頂点を押さえられた茹で卵の殻に、ピシリと一直線に溝が描かれる。卵を横に一周するそれは実に美しく、卵を押さえていた石動は、思わず息を吐いた。

「……やはり、殻ごと切るのは難しいですね。」

 卵をじっと見て言ったのは麟太郎。その手には、普段衣類の修繕に使っている細い糸がある。

「隊長、こんな事も出来たんですね。」

「武器の形をしているものだけが、武器になるとは限りませんよ。ところで、殻が剥き易くなったと思うので、剥いてみて貰えますか。」

「分かりました。」

 言われた通り、石動は殻を剥いてみる。溝の下は薄皮まで切れており、指先で押して罅を作れば、薄皮ごと殻が取れてゆく。白い肌を晒す卵を皿に置くと、麟太郎はそれもじっと眺め、ふむ、と息を吐いた。

「昼の件ですか?」

 石動が訊ねると、麟太郎は頷く。

「卵の殻一枚なら、糸でも如何にかなりますが、一緒に肉を切断するには至りませんね。それに、回転の力で切ったなら、切断面が焼ける筈ですし。」

「普通は卵の殻も糸で如何にかなりませんからね。」

 頬杖をつく石動を麟太郎はちらと見遣ると、手元の糸を卵に引っ掛ける。卵の頂点から尻までを一周した糸は、交差した後麟太郎の指先に握られている。

「ええ、だからこのように、」

 言いながら麟太郎はゆっくりと両手で糸を引く。卵の肉につぷりと減り込んだ線が見えなくなり、そして麟太郎の手には真っ直ぐな糸が残る。石動が手を伸ばして卵の上半分を摘むと、美しい断面の黄身と白身が顔を出した。

「似ていると思ったんですが、これでは骨は切れません。」

「それはそうでしょう。刀を使ったって、首を落とすのは容易では無いんですから。隊長は卵食べます? 塩取りましょうか。」

「……いただきます。塩は無しで。」

 綺麗に割れて二つになった茹で卵に、僅かな時間差で両側から箸が伸びる。

 と、食堂の入口の方から響いた声に、夕食を取っていた全員が其方を振り向いた。


「刀祢中尉はいらっしゃっと。」


 石動と麟太郎も振り返ったが、二人には声が耳に届いた瞬間、相手が誰か分かっていた。異人にも負けない巨躯に、襟を開いた軍服の着こなし。得物が個人で異なる警兵は、申請して軍服に手を加える事を認められているが、彼のそれは元々、規格の軍服が体に合わず、苦しくなると開ける癖が付いてしまったものだ。故に麟太郎は、士官になるまでの間という条件で、襟を開ける事を許可している。士官となれば、身の丈に合わせた軍服を仕立てられる。尤も、彼に昇進する気があるのかは分からないが。

「辻、どうした? 今頃は宿舎も食事の時間じゃないのか。」

「急な報せがあったで、抜けさせてもろうて来た。」

 ずんずんと一直線に二人の席まで来たのは、石動の同期で、同じ第一五七分隊所属の辻堂。卵を飲み込んだ石動が怪訝そうに訊ねると、辻堂は言葉少なに答える。ぶっきら棒なのは普段からだ。辻堂は麟太郎に体を向けると、頭を下げる。

「何事かありましたか、辻堂君。」

「失礼す、隊長。」

 そう言った瞬間、麟太郎の体が宙に浮く。正確には、辻堂が両脇を抱えて目線が合うように抱き上げたのだ。 麟太郎は無表情だが、石動が頭を抱える。

「お前、それ止めろって何度も言っただろう。」

「こうせんにゃ、びんたが高うなってしまうじゃろ。」

「それで、如何したんですか。」

「隊長も普通に受け入れないで下さい。」

 石動は溜息を吐くが、続く辻堂の言葉に硬直した。

「孝晴どんがといえなさっと、知っちょっと。」

「……有坂様が、何と?」

 麟太郎は抱き上げられたまま石動を見遣る。石動は何か躊躇っているような顔をしていたが、やがて意を決したように、小さく囁く。

「孝晴さんが、御結婚なさると。」

「!」

 全くの無表情のまま、しかし麟太郎の全身に一瞬力が入ったのを、辻堂は掌で感じた。周りには聞こえて居ないようだ。石動が気を遣って声を潜めた為だろう。

「……私は、何も聞いていません。何故、君が、それを?」

 麟太郎が、ぽつぽつと訊ねる。辻堂は真っ直ぐ麟太郎の目を見て、言った。

「相手は、おいん従妹いとこじゃ。」



 頭の頂から爪先に向けて、血が抜け落ちてゆくような感覚。目の前に座す母は、柔かに微笑んでいる。頭が制御出来ない速さで回っていた。ありとあらゆる不幸が目の前を過る。自分ではなく、嫁になると決められた女と、その子に降り掛かるであろう、不幸が。

「お前の名誉の為、お前が選んだ事にしておいた故な。東郷の家に挨拶に参って、日取りを決めておくのじゃぞ。」

 白い指先が、紅い唇の前に添えられる。そして母は、綺麗に笑う。孝晴も笑った。いや、顔の筋肉を操って、笑みの形にしただけた。

「分かりました、母上。」

 そう唇を動かした孝晴の顔は、普段からは考えられない程に、血の気が失せて白かった。


「帝國の書庫番」

廿四幕「白砂に柘榴の垂るるが如く」

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