帝國の書庫番

@haneuo

帝國の書庫番 一幕

 有坂孝晴と刀祢麟太郎の話。


 女中に尋ねてみた事がある。どうしてみんな、もっとはやく走らないの?と。女中は、子供はみなそう思うものでございます、坊っちゃまのお元気には大人はかないませんから、と答えた。やはり、と思ったものだ。その女中の言葉すら、意識して「遅く」しなければ、自分には聞き取れなかったのだから。



 帝都には物が集まる。幕府の時代から脈々と整備された物流網の賜物だ。寺前の目抜きは乾物や刃物、草鞋下駄、各地から仕入れた品々の店が並び、常に賑わっている。そんな人だかりの中を一人の少年が歩いてゆく。紺地の絣に普段履きの下駄。頭の後ろで結われ背中まで届く髪が特徴的な少年は、饅頭屋の前で立ち止まった。

「おばちゃん、今日のは小豆かぃ?」

「ああ、有坂の坊ちゃん。そうだよ、北前でいいのが届いたからね。」

「じゃ、ひとつおくれ。」

「はいはい、いつもありがとうね。」

「へへ、帰ったらまた勉強だから、ハラが減っちまうんだ。」

「そうかい。ゆっくり食べていきなさいな。」

 小銭を小さな手から受け取り、女将はさらのまま少年に饅頭を渡す。少年は毎度、その場ですぐに食べ切ってしまうのだ。しかし、通りの向こうから聞こえた悲鳴のような声に、一瞬女将の手が止まる。ここからでは見えないが、喧嘩でも起きたのだろうか。

「おや、なんだろうね? ああ坊っちゃん、ごめんよ……。」

 そう言って女将が目線を戻した時には、少年の姿は跡形もなく消えていた。

「坊っちゃん? 孝晴坊っちゃーん?」

 女将は手に饅頭を持ったまま、途方に暮れた。


 手に風呂敷包みを抱えた女が、地面に尻餅をついている。彼女は目の前にある菓子屋から出てきたばかりで、その包みには菓子屋の紋が入っている。どこかへの手土産にするつもりだったのだろう。その包み目掛けて店と店の隙間から飛び出してきた小さな影を、通りすがりの人々ははじめ、獣だと思った。しかしその、褐色の毛に覆われた獣は、突如現れた少年に首を押さえつけられ、呆然としている。

「人様のもんに手を出すのは、畜生のやることだぜ、お前ぇよ。」

 前屈みになり、それを押さえつけながら少年が言った。背中まである髪が、はらりと一房、胸元に落ちる。そこで漸く、周りはその褐色の獣が、どうやら人間であるらしいと気づいた。着物も肌も見分けがつかないほどに汚れて擦り切れ、ほぼ半裸の体は、少年よりも小柄だった。その体を、伸び放題のぼさぼさ髪が覆っているのだ。余りに異様な風体に恐怖を感じたのか、後ろにへたり込んでいた女が顔を青くして後ずさる。少年は押さえつける手を離さぬまま言った。

「姉さん、中身は無事かい?」

「へっ!? ええ、お待ちになって……。」

「ダメになっちまってたら、これで替えてもらいな。」

 少年はちらと彼女を見やり、左手で懐を探ると、金属片を投げてよこす。女が慌てて受け取ると、彼女の目がこぼれんばかりに開かれた。

「こ、これ、丁銀じゃないの! あなた……!?」

「有坂のもんだよ。小遣いには不自由してねぇんだ。」

 少年の返答に周囲はざわついた。少年は一つ溜息を吐くと、暴れるでもなく押さえつけられたままの小柄な人間に目を向けた。それにしても酷い有様だ。掌も胸元も膝も硬くなりかけた傷だらけで、殆ど骨と皮しかない。這うようにしてやっと生きていたことが容易に想像できた。少年は片手でその首を地面に押さえてはいたが、力は最初以外入れていなかった。

「『なんで俺から逃げねぇ』んだい、お前? 食い物に飛びつく気力しかなかったか?」

 軽い口調で少年は言うが、相手は無反応だ。仕方なく少年は、顔を覆い隠すその髪を少しどけてみる。現れたのは、落ち窪んだ眼窩に青い顔、飢えているのは一目でわかる。しかし、その相手は幼い瞳でじっと少年を見つめている。彼も、恐らく少年と同い年か、もしくは年下くらいの少年だった。

「もう一度言うが、『怖い』ならさっさと逃げていいんだぜ。」

 その言葉にも反応はなかった。

「言葉はわかんのかぃ?」

 すると、ゆっくりと、僅かに、少年の瞼が下り、そして再びゆっくりと開いた。

「そうか、通じてんだな、言葉……。」

 周囲は静かだ。実際には周りに集まった人だかりは、「有坂」と名乗った少年に向かい何かを騒ぎ立てているが、彼は意図的にその音を遮断していた。仰向けに地面に張り付いたままの少年の瞬きを肯定と捉え、有坂孝晴は目を細める。

「俺から逃げねぇなら、お前ぇはまだ、『人間』だ。」

 そう言って、孝晴は軽々と少年を抱え上げる。同時に音を「合わせる」と、驚愕の声が奔流のように耳を貫き、孝晴は僅かに顔を顰めた。

「あの子、有坂の子だって!?」

「なんてこと、公爵家の坊っちゃんじゃないの!」

「あ……有坂家の子が、そんな乞食に触っていいのかい!?」

 わんわんと響く声に対して、ボロくずのような少年を抱えたまま、孝晴は笑う。

「うんにゃ、うちの家訓でな。『手を出したら、最後まで責任を取る』ってのが母上の教えさ。……手ェ出しちまったからな、俺がコイツの責任、取らなきゃならねぇんだよ。」



「ご無沙汰です、富さん。」

 低くはあるがよく通る青年の声に、女将は顔を上げた。そこには、烏羽一色の軍服をまとった青年が立っている。その姿を見た女将は、顔を皺くちゃにして笑みを浮かべた。

「おやまあ麟ちゃんじゃないかい! 最近来ないと思ってたらまあまあ!」

「有坂様が命じなかったものですから。」

 全くの無表情のまま答える青年にも、女将は「相変わらずだねぇ」と笑顔のままだ。

「あれ、襟巻が変わったね。昇進したのかい?」

「ええ。今は中尉として隊を率いる身です。」

「まあ偉いことだねぇ。来ないから全然知らなかったよ。お祝いにおまけしとくかね。」

「いえ、店の負担になるようなことはよして下さい。私なぞのためにそんな。」

 淡々と断る青年の言葉を笑って流し、女将は油紙を手に取った。

「坊っちゃんのはこし餡だろ?」

「はい。六つで。」

「あんたのは?」

「……。」

 青年は黙ってしまう。まるで睨み付けるかのような鋭い目、感情が全く浮かばない人形のような顔。そして、身に纏う警兵の軍服。初めて彼が店に現れた時、すわ下男が盗みか殺しでもやらかしたのかと、女将は肝を潰したものだ。実際には、彼は有坂公爵家の縁者で、あの有坂孝晴の使いで訪れている、礼儀正しい青年であると、何度目の来店で女将は知ったのだったか。

「選べないかい?」

「はい。……すみません。」

「じゃ、同じのにしとくね、坊っちゃんのと。」

「……はい。」

 女将は六つと一つに分けた饅頭をくるくると包み、銭と交換に渡しながら言った。

「けど麟ちゃん、この時間ってことは休みだろう? やっぱりいつもその格好はやめた方がいいんじゃないかい。みんな怖がっちまうよ。」

「この軍服の存在が抑止になるなら、それに越したことはありません。帝都が、ひいては帝國が平和であることが私の願いであり、役目です。」

「やっぱりあんたはいい子だねぇ。」

 女将は溜息を吐きつつ、小銭を受け取り笑う。対照的に、青年は包みを抱えて俯いた。

「……皆さんそう言いますが、私は、違うと思います。私は私の目的の……。」

「はい麟ちゃん、お金多いよ。七つ分払おうったって、あたしゃ金勘定ができないほど耄碌しちゃいないよ。好意くらい大事にしとくれ。」

「……はい。ごめんなさい。」

 ぺこりと頭を下げる青年に、女将は満足そうに笑みを浮かべた。

「それにもう、何年前になるかねぇ。あの坊っちゃん、金だけ払っていなくなっちまったことがあったからね。その時の分とでも思っときなさいな。……あの頃はしっかりした子だったねぇ、あの坊っちゃんも。」

 青年は頭を上げ、一瞬だけ目を細めたが、もう一度軽く会釈をして店を出て行った。


(結局、私の分までいただいてしまった。)

 刀祢麟太郎は、烏羽色の外套の下から包みを取り出して眺める。ここの饅頭は、有坂孝晴が昔から変わらず好んでいるものだ。普段、彼の分を買うことがあっても、麟太郎が自分のために買うことは滅多にない。警兵中尉の麟太郎が、孝晴のために動くことは、良く思われてはいない。有坂公爵家唯一、武官にすらならず文官の片隅に収まっている、あの「木偶の三男」。女将が「あの頃の」と言ったように、世間の有坂孝晴に対する評価は、そんなところだ。何が原因か赤犬のような褐色の髪をもつ麟太郎に対し、「有坂の犬」と揶揄する者もいる。出来の悪い木偶の坊とその飼い犬、そう言いたいのだろう。麟太郎自身は、全く気に留めていないどころか、飼い犬であることに誇りさえ抱いているのだが。

 刀祢麟太郎は、少年期までの記憶を持たない。覚えているのは、あの時、見知らぬ少年が瞬間的に目の前に現れ、組み伏せられたあの一瞬から先の記憶だけだ。自身の生まれも、本当の名前も、正確な年齢もわからない。有坂孝晴は、全てを与えた。飢えから解放された。寒さから逃れられた。言葉と感情を思い出した。後に義父となる師も、彼が見つけた。ただ這いずるだけの野良犬は、彼の番犬として生まれ変わった。なれば、飼い犬と呼ばれることは、麟太郎にとって賛辞でこそあれ、蔑みの言葉にはならない。隊員にはもどかしい思いをさせているらしいが、問題が起こるほどではない。ただ一つ、表情だけは戻って来なかった。彼が元々そのような人間だったのか、それとも失った記憶の中に原因があるのか、それは彼自身にもわからない。だからこそ、彼は警兵を志願した。邏隊よりも強い権限をもち、あらゆる場面で治安維持を行う、冷酷で無慈悲な警兵。感情が表情に出ない彼には、うってつけだった。

(私が世の平和を願うのは、ただ、あの方をお護りしたい、それだけのこと。皆が言うように『善い』人間ではない。)


『俺から逃げねぇなら、お前ぇはまだ、【人間】だ。』


 あの時の孝晴の言葉の意味は、思考を忘れた当時の麟太郎には理解できなかった。しかし、今はもう、分かっている。孝晴と共に過ごすうち、彼は麟太郎だけに秘密を打ち明けた。彼は、他の人間よりものだという。例えるなら、剣に極限まで集中した時、相手の振る剣先の軌道が直感的に読めたり、遅く見えたりする、あの状態が、彼の「普通」だ。

 ゆえに、常人には――いや達人であっても恐らく――彼が本気を出せば、剣先で捕えるどころか、目視すらできない。かつて、少年の孝晴が忽然と現れた瞬間に麟太郎が地面に叩きつけられていたのは、そのためだ。逆に、孝晴は意図して周りに(彼の言うところの)「頭の回転数」を合わせなければ、話す声を聞き取ることすらできない。周りは静止し、たった一人、彼だけが知覚する世界。人より速い動物ですら、いや動物だからこそ、彼を「脅威」と認識し、怯え、もしくは敵意を向け、避ける。だから、彼は麟太郎を「人間」であると判断したのだ。確かに、麟太郎があの時の記憶を思い返すと、根源的な恐怖心を覚えてはいたのだが。それよりも、十五の孝晴が見せた、あの冷たさと諦めを孕んだ表情から、目が離せなくなっていたのだ。

 有坂孝晴は、國務省第三書記部の一等書記である。書記部の中でも書類の精査と整理が仕事で、「書庫番」と揶揄される部署である。孝晴は普段、仕事場にも顔を出さずにぶらぶらとほっつき、申し訳程度についている部下にも殆ど仕事をさせない。しかし、彼は休日に職場に出てくると、その日で溜まった処理を全て一人でこなしてしまう。何故そんなことをするのかと聞くと、「一時に全ての情報を入れた方が、頭の中で関連づけしやすい」という答えが返ってきた。彼は「整理のため」に回される書類「全て」を覚え込み、そして、別々の書類の中にある情報の点を線にすることで、「なんらかの問題」を見つけてしまう。そして――それを、他人に知られないように、片付けに向かう。その「問題」が帝國の機関や、諸外國にまで絡む事態であることも稀ではない。そんな危険な彼の「働き」が世に知られることはない。三男坊である彼が、長男や二男より優秀であってはならないと、彼の中には刻み込まれている。その理由を、麟太郎はまだ知らない。

(この帝都が、帝國が平穏無事であれば……そんな生き方をする必要はないのだ。だから、私は。)

 麟太郎は、一つの饅頭が入った包みを、六つの包みの中に押し込んだ。


 帝國公文書館の第三棟、中庭に面した一つの事務室に、文官服に身を包んだ有坂孝晴の姿があった。のんびりと書類の束やら綴られた本やらを誰もいない部屋の机に積み上げていた彼は、ふと、手を止めて窓を見た。

「そろそろかねぇ。」

 その言葉とほぼ時を同じくして、窓が細く開き、黒い影がするりと音もなく部屋に滑り込む。

「参りました。」

「ん、待ってたぜ。流石庭番仕込みは違うねぃ。」

「貴方がこんな事をなさらなければ、私がこんな風に忍び込まなくてもよいのですが。」

「わぁってらい。」

 孝晴はからからと笑った。刀祢麟太郎は静かに窓を閉め、饅頭の包みを彼に手渡す。包みを解いた孝晴は、すぐに一つの包みを麟太郎に投げてよこした。

「他人の好意を無碍にすんじゃないよ、お麟。」

「……。」

「ん、やっぱ饅頭は此処のが一番美味ぇや。」

 無言で饅頭と孝晴を交互に見つめる麟太郎に構わず孝晴は饅頭を頬張りだしたが、一つの饅頭を飲み込んでから、笑って言った。

「顔に書いてあるぜ、お前が貰ったって。」

「嘘ですね。」

「そうさな。けど、見りゃ分かる。」

「何をですか。」

「お前の顔と、この包み方だよ。というか、誤魔化す気がありゃ、もうちょい工夫はするもんだ。」

「……。」

 孝晴は澄ました顔で六つの饅頭をぺろりと平げ、さて、と麟太郎を振り返った。

「これから俺にゃお前の声が聞こえなくなるが……帰るかい?」

「いえ、私はお側にいます。」

「忠犬だねぃ。」

「私は貴方を一人にはしません、ハル様。」

 孝晴はちらと麟太郎を見たが、何も言わなかった。


 有坂孝晴は目を閉じた。そしてゆっくりと瞼を上げる。日は傾きかけていたが、手元にはあと一机分の書類が残っている。孝晴は眉を寄せた。いつもより書類量に対して含まれる情報量が多かったようだ。頭がぼんやりとし、頭痛が始まる。自身の唯一にして最大の弱点がこれだ。食事が足りないと、一気に身体の全ての機能が落ちる。普段は力を出さないのは、常人以上に食料を必要とするのを悟られないためでもある。甘味を摂取するとより頭が「はっきり」するため、仕事の前には必要分だけ買わせるようにしていたのだが。

「お麟。」

「はい。」

 部屋の隅で自身の姿が窓から見えないように控えていた麟太郎が、孝晴の方へ顔を向ける。

「まだ終わっていないようですが?」

「六つじゃ足りなかった……。」

「私の分はもう食べました。」

「うー、ちくしょう、飴は減らしたかねぇんだが。」

 頭を押さえながら机を漁る孝晴を見て、麟太郎は言う。

「次から九つ買いますか。」

「……んにゃ、あんまり、食う量は増やしたかねぇ。噂になるからな。効率を上げるしかねぇや……。」

「また、衣笠先生に相談してみては。」

「病気じゃねぇからなぁ。ま……また嫌がらせに行ってやるのも、悪くねぇやな。」

 そう冗談めかして言いつつも、孝晴の顔色はよくない。麟太郎は静かに机に近付き、小袋を置いた。

「先日、隊員に『喫茶店』という場所に誘われまして。その時にとっておいたものです。足りますか。」

 孝晴が怪訝そうに開けてみると、そこには角砂糖が二つ入っていた。

「黒い泥水のようなものに、これを入れて飲むそうです。砂糖が勿体ないと思ったので。」

「……泥水飲んだのかい?」

「はい。ただ……味は泥水ではなかったので。飲めないことはないです。」

「そりゃあよかった。」

 苦笑しながら角砂糖を齧る孝晴。その頭に麟太郎が手を触れた。瞳だけで見返す孝晴に、麟太郎は言う。

「少しは楽になりますか。」

 目付きの悪い顔に何の色も浮かべないまま、ただただ髪の流れに沿うように頭を撫でる手に、孝晴はゆっくりと目を細め、頬杖をついた。

「俺ぁお前と違って、犬じゃないんだがねぇ。」


 夜の闇に、影が疾る。旭暉の帝都は、数多の思惑が蠢く魔都でもある。そこに現れる絣を着流す青年は、ただ人知れず静かに、魔の絲を払いゆく。帝國の「書庫番」の歩みは、どこへ向いているのか。それはまだ、誰も知らない。 


「帝國の書庫番」

一幕 「有坂孝晴」と「刀祢麟太郎」

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