帝國の書庫番 十三幕

覗き込んだ先は見えずとも、感じられるものは確かにある。


 麟太郎は、善い奴だ。

 俺の為に、自分を捨ててまで尽くそうとする。

 本当は、救ってやったなんて言えないのに。

 早く手放さなければならないと、ずっと思っていた。

 丁度良かったのだ。

 あの時来る筈だった「最後」が、やっと来た。

 そう、本来俺が居るべきだった世界に、戻るだけだ。



 帝國公文書館第三棟の事務室は、空気が張り詰めていた。普段ならば軽く雑談したり、専門分野の仕事だけをのんびりと片付けたり、真面目な書記官が溜まってゆく書類と依頼の山に気を揉んだりしているのだが。

 一人の書記官が、恐る恐ると言った風に「一等書記」と記された机に近付く。そこに片肘をついて座っているのは、鶯色うぐいすいろの文官服を纏った有坂孝晴だった。目を閉じている彼の前に立つと、彼は初めから分かっていたかのように瞼を開け、差し出された書類をちらりと見遣る。そして、笑って言うのだ。

「丗五行目辺りをもっかい見返してみなァ。」

 自席に戻って確認すると、実際、其処には誤字や間違いがあるのだ。あの一瞬しか見ていないのに。孝晴自身は欠伸あくびをしたりうつぶせで半分寝ていたりするものの、察する者は居た。この人は、仕事の手を抜いていた訳では無い。「出来過ぎる」が為に、逆の方向に辻褄合わせをしていたのだ。だから今まで一度も、――どんなに締切間際まで残そうと――仕事が「終わらなかった」事が無いのだ。その癖、第二・第一書記部の上等官がやって来る時には、狙い澄ましたかのように爆睡している。彼らからは「やっと真面目に仕事に出て来るようになったと思えば、昼寝をしにでも来ているのか、このお坊ちゃんは」などと呆れ顔をされていたが、そもそも何故、急に仕事に出て来るようになったのか。書記官達が仕事を進めずにいた所で、孝晴は何も言わない。のだが、やはり彼は「有坂家の人間」なのだと彼らは痛感していた。今まで顔を出してもふらりと消えてしまうばかりだった為に気付かなかっただけで、彼が其処に居ると空気が変わる。いつもの空いた上司の席を懐かしく思いながら、書記官達は手を動かすのだった。


 机に頭を付けて薄目になりながら、有坂孝晴は考える。

(……べらぼうに効率悪ぃな、こりゃあ。)

 昼間に麟太郎と鉢合わせないように、ここ一週間ほど通常勤務に出ているのだが、やはり他人が作った書類を見るだけよりも、自分で処理しながら覚えた方が、手先の作業は増えるが頭へ入り込む量が違う。その差を補うには、より頭を回さねばならないが、僅かな差でも全ての書類にそれが及ぶとなれば、消費する体力――というよりも、脳力とでも言った方が正しいのだろうか――は大きく、「頭が疲れる」のだ。限界を越えれば頭痛と全身の倦怠感が来る。やはり、書類情報は始めからそのつもりで一気に詰め込む方が、自分の体質には合っているのだろう。孝晴はちらと目線を部屋の中に向けた。特に仕事をしろと言った覚えも無いのに、書記官達は黙々と書類の処理に励んでいる。これが通常の「書庫番」達の仕事風景なのだろう。ああ、駄目だ。腹が減った。

「……静屋しずや。」

「はいっ!?」

「ちっと、来てくれるかぃ。」

 呼んだだけだと言うのに声を裏返して飛び上がった静屋は、不安気な表情で近寄って来る。孝晴は内ポケットから財布を取り出し、中身を一枚差し出した。

「購買行って、これで買えるだけ、なんか甘いもん買ってきてくれねぇかぃ。」

「いっ……一圓!?」

「ん。そんだけありゃあ、それなりに買えンだろぃ。」

 孝晴が事もなげに差し出した一圓は、一般的にはかなり高価であると理解はしている。しかし空腹には代えられない。

「な、何故私なのでしょうか……?」

「お前さんがこの中で一番真面目だからだよ。何か言われたら一等書記の命令だって言えばいい、頼んだぜぃ。」

「は、はい……分かりました……。」

 他の書記官達が呆気に取られているのを内心で笑いつつ、扉の閉まる音と共に孝晴はぐてりと机に頭を落として目を閉じる。暫くの間は紙の擦れる音、墨を擦る音、鉛筆で紙を搔く音などが聞こえていたが、再びがらりと扉の音がして、孝晴は目を開いた。

「あ、有坂一等書記、これで良かった……のでしょうか……?」

 帰って来た彼の姿に、一瞬の静寂の後、室内から吹き出す声がして、つられるようにして笑い声が部屋を満たす。静屋は胸から上に、頭がぎりぎり出るかという位置まで大量に、あんぱんの包みを積み上げて抱えていたからだ。流石にその数は無いだろう、常識的に考えろよ、と他の書記官が笑いながら声を上げたが、孝晴が立ち上がるとその声はぴたりと止んだ。

「ん、やっぱお前さんに頼んで正解だったな。……あんぱんか、悪くねぇ。有難な、静屋。」

 部屋の全員と、皆の笑い声に顔を赤くしていた静屋が呆然とする中、孝晴は自分の机に適当に空きを作ると、そこに大量のあんぱんを下ろさせる。満足気な孝晴に、身軽になった静屋が恐る恐る訊ねた。

「あの……これで良かったのですか、本当に……?」

「一圓あればこれだけ買えるとなりゃあ、普通は真面目に使い切って来ようなんざ考えないだろうが、お前は俺の指示にちゃあんと従っただろぃ。俺も購買に何が幾らで売ってるか知らなかったンでな、中途半端に足りないよりはこの方がましだ。」

「えぇと、では、一等書記殿はこれを全て食べられるのですか?」

「食える。」

 えっ、と室内の空気が固まった。孝晴はからからと笑う。

「冗談だ、流石に全部ぁ無理さね。けど、俺ぁ結構食う方でな、半分はいけそうだ。」

 本当は全部食えるのだが、そんな事をすれば必要以上に目立ってしまう。孝晴は静屋に訊ねた。

「幾つあんだぃ?」

「丁度、廿買えました。」

「廿、ね。そんじゃ、お前ら、みんな一個ずつ持ってきなぁ。時間も八つ時だ、茶でも淹れっか。休憩だ休憩!」

 軽快に手を叩いて見せると、書記官達は顔を見合わせ、始めは迷いつつ、しかし孝晴が笑って見せると安心したように、最後は皆礼を言って、ぱんを持って行く。

「別に今すぐ食えって訳じゃねぇから、持って帰りたい奴ぁ好きにしなァ。」

 笑いながら孝晴は机に座る。存外、こんな「普通」も悪くないような気がした。毎度大量に飯を持ち込む訳にはいかないのだが、それは一旦忘れる事にする。最近どうも外ツ國との関係書類がきな臭いだけに、書面上の情報は全て頭に入れておきたい。そんな事を思いつつ紙を開ける。丸く、臍のような凹みのある、きつね色をした滑らかな表面。いつも我慢して数を減らしていた饅頭よりも、

「……。」

 孝晴は動きを止めた。じっと手の中のぱんを眺めた後、半分に割り、かぶり付く。中身は粒餡だった。

(……ちくしょう。)

 餡は好きだ。ぱんが悪い訳でもない。寧ろ美味い。しかし、いつもここで食べていたのは、寺前通りのこし餡饅頭だ。そして、その時はいつも、まるで影のように、麟太郎が居た。


 ……お麟。


 十五の時の自分は、何と浅はかだったのだろう。それでも手を出さずに居られなかった、見過ごせなかった。だから責任を取って、解放してやらねばならないのに。

 気付くと五ツ程あんぱんの空の包みが積み重なっていて、書記官達は「本当によく食うのだなぁ」という顔で此方を見ていた。無意識のうちに平らげていたらしい。孝晴は溜息を吐くと、包みをまとめてクシャリと丸めた。その時。

『陸軍病院医事本部より、資料の閲覧申請です。』

 外から聞こえた声に、孝晴は目を細めて立ち上がる。申請者が誰かなど、考えなくとも分かり切っていた。

「入んな。」

「……なんだぁ? 第三書記部には、あんぱん祭りの日でもあるのか?」

 声に応えて開いた扉の先に居た衣笠理一は、部屋の全員があんぱんを食っているという異様な光景に、思わず頓狂な声を上げた。


 廊下の先にある書庫へ向かい、孝晴と理一は歩いている。理一はいつもの白衣を脱いでいるが、此処は病院ではないのだから当然だ。流行病はやりやまいの研究の為、過去の記録を閲覧したいとの申請は如何にも自然だ。孝晴は鍵束の中から当該書類の納められた保管室の鍵を難なく掬い上げ、扉を開けて中へ入ってゆく。続いて入って来た理一は、無言のまま、扉を閉めた。書庫の中は一気に暗くなる。灯りは、暗幕を透かす微かな日光だけだ。

「……戸、勝手に動かすんじゃねぇやぃ。」

「お前の事だから、もう分かってるだろ。腑抜けた顔してんじゃねぇよ、有坂の。」

「へぇ、そう見えるかね。」

 振り返った孝晴は瞼を細めるが、理一は首を竦め、怯む様子は無い。

「リン公の鴉が来た。お前、あいつに何言ったんだ?」

「別に、余程馬が合わない訳じゃないなら、結婚しとけって言っただけだぜぃ。」

「それだけで、んな顔する訳ねぇだろ。」

「会ったのかぃ? 麟太郎に。」

「違う。お前だよ。」

 理一はそれまで浮かべていた笑みを消す。麟太郎の鴉が運んで来た手紙には、麟太郎は今孝晴に会えない事、しかし孝晴の様子を確認して欲しいとの事が手短に記されていた。呼ばれなくとも黙って着いていくような麟太郎が、孝晴に「会えない」とは。違和感を覚え確認すれば、孝晴は急に昼間仕事に出るようになったらしい。これは何かあったなと踏んで来た理一であったが、予想は既に確信に変わっていた。孝晴が理一の前で「麟太郎」と呼んだのだ。彼を見据える理一に対し、孝晴は無言だ。

「お前なら出来るだろうが、逃げようと思うなよ。俺はお前らの友人として話しに来た。……お前、今自分がどんな顔してるか分かってるか。」

「鏡は見ねぇんだ、俺ぁ。」

「見なくても分かるだろうがよ。手前の状態が分からない程、手前のおつむは鈍くねぇ。」

「……。」

 無言で返す孝晴に、理一は溜息を吐く。

「リン公が自分からお前の側を離れる訳がねぇ、だったら奴がお前に『会えない』原因を作ったのはお前だろ。違うか? それでリン公に心配されて、あれだけ買い込まなきゃならなくなるくらい消耗してまで何をやってんだ、手前てめえはよ。」

 理一の言葉は厳しかったが、孝晴は内心、安堵と苛立ちが混ざった、妙な感覚を覚えた。そうか。麟太郎には、他人を心配する程度の余裕があるのか。当然孝晴は、敢えてあの言葉を選んだ。麟太郎が誰よりも、場合によっては自分自身よりも、孝晴を優先している事は百も承知だ。そんな麟太郎にあんな事を言えば、暫くは立ち直れないかも知れないとは思っていたのだが。そこまで自分の事は重要では無くなっていたのだろうか。それは喜ばしい事なのに、こうも苛立つのは、何故だ。

「心配してくれンのは有難ぇんだが、……大きなお世話、って奴だぜ、リイチよぉ。」

「あ?」

 孝晴の言葉に、理一は強く眉を寄せる。孝晴は目を細め、笑った。

「言っとくが、こいつはの問題じゃねぇ。の問題なンだよ。だから、口出しはいらねぇ。自分の落とし前は、自分でつけるさ。」

「だったら!」

 思わず、声を荒げる理一。理一には、孝晴の表情が笑っているようには、全く見えなかった。

「……だったら、リン公にそれを話してやれよ。あいつが只でさえ不安定になってるの、お前も分かってただろ。理由も言わずに突き放されて、何とも無い訳ねぇだろうが。それに――」



 ああ、やはり麟太郎は、善い奴だ。

 こんなにも強く案じられて、慕われて。

 やはりもっと早く、綱を放すべきだった。



 理一の視界にあったのは、真っ暗な天井。そして静寂。孝晴の長い髪が、その肩からさらりと零れ落ちた。自分の頸からゆっくりと離れてゆく孝晴の手。漸く理一は理解した。自分には知覚できない速度で、頸を掴んで倒されたのだと。

「麟太郎は、俺の側に居るべきじゃ無かった。やっと俺の方にケリをつける切掛ができた、それだけの事さね。だから、心配なら麟太郎の方を構ってやれ。」

 静かに言った孝晴は、立ち上がって扉の方へ歩いてゆく。はっと気を取り直し身を起こそうとした理一は、自分の体の上に書類の束が積まれている事に気付いた。ちらと見えた表題で、申請した書類だと分かる。体に痛み等は無い。そうならないように加減されたのだろう。

「ッかは、げほっ!」

 漸く喉に声が戻って来て、理一は咽せ込みながら跳ね起きた。同時に、全身の毛孔から冷汗がどっと噴き出す。

「ッ……、孝晴、……。」

 理一はぎり、と奥歯を噛み締めた。片手だけで自分を押さえていた時。彼が見ていたのは、自分の顔に浮かんだ――恐怖の表情だっただろう。話はまだ終わっていなかったというのに。あんなにも分かりやすく「哀しい」「苦しい」「寂しい」と書き付けたような顔をして。無理矢理、笑顔らしきものまで作ろうとして。なのに、孝晴の本気の力を初めて身に受け、恐れてしまった。情け無い。自分に手紙を送って来た麟太郎は、まだ「頼る」事を知っているだけ状況はましだ。しかし孝晴は。普段は無遠慮に上がり込んで来る癖に、一番肝心な時には誰も頼ろうとせず、未だに自分を独りだと思い込もうとする。本当に欲しいものを全力で拒絶して、勝手に傷を増やす。馬鹿な男だ。馬鹿者だ。大馬鹿野郎だ。

「……今はお前が一番心配なんだよ……話は最後まで聞けってんだ、くそったれ……!」

 絞り出すように呟いた理一は床に拳を叩き付けると、一寸程に開かれた扉の先を睨め付けた。



拝啓 勘解由小路留子嬢

先日ハ失禮ヲ致シマシテ、詫ビヲ申サネバナラヌト筆ヲ取ツタ次第デ御座ヰマス。

婦人ニ別レヲ告ゲル時、物ヲ贈ルハ善キ事デハ無ヰト教ハリマシタ。私ハ物ヲ知ラヌト熟ゞ思フバカリデス。貴女デアレバ、唯斯フ書ヰタノミデ、私ニ友ノ在ル事ヲ屹度察スルデセウ。私ハ善キ友ニ惠マレテヲリマス。友ニ就ヒテハ書ケサウデスガ、私ニ就ヒテハ、如何記ス可キデアルカ難シク、短ナガラ筆ヲ擱カセテ戴キマス。拙文何卒御赦シ下サイ。

兵舎ニテ 刀祢麟太郎


麟太郎様

初めに、筆の乱れを御容赦下さいませ。御手紙を頂戴致しまして、あんまり歓喜に堪へなかつたものですから。私、一體何から記さふと迷つてをりましたら、先に文を頂ゐて終つたのですもの。私が御手紙を抱えて踊つてゐた為、兄姉には笑はれて終ゐました。

さて、麟太郎様は御自身に就いて記し難ゐと申されましたが、御友人に惠まれてゐると謂ふのは、麟太郎様の御人柄が偲ばれる御話でありませう。留子は、又一つ麟太郎様を知つたと謂ふ事です。

私も此春十伍となり、いづれ婚姻の御話があると思つてをりました。けれど私、同窓の皆様のやうに、唯選ばれるだけと謂ふのは嫌でしたの。不思議でせう。けれども其が私の性根なのでせう。麟太郎様と御逢ひして、私は幸福に満てをります。

頂戴致しました簪、毎日着けてをりますわ。御別れの日まで手放しは致しませんでせう。

近頃めつきり冷えますから、御身体を大切になさつて下さい。御陰様で小春は元気です。

あまり長くなつては御迷惑になりませう。又御手紙を送ります。


並木の下に銀杏が落ちてゐるのを見て、毛織のケヱプを買ゐました。

十参夜の月の夜に 勘解由小路留子


拝啓 勘解由小路留子様

御手紙拝見致シマシタ。私ノ短文デ御喜ビ頂ケタトノ由、驚クバカリデ御座ヰマス。貴女様ノ文二較ベテ、私ノ筆記ハ硬ヰヤウデス。然シ筆記ノ硬軟トイフ物ハ私ニハ難解故、一先ヅ御返事ヲ認ル事ト致シマス。

貴女様ガ書カレタヤウニ、私モ歳ヲ記サウト思ヰマシタガ、籍デノ私ノ歳ハ正確デハ御座ヰマセン。只、有坂様二決テ戴キマシタ故、其儘二記シマス。今春デ廿参ト成リマシタ。

私ガ有坂様ニ拾ハレタ時、此御方ノ為二生キル以外ノ道ハ無ヰト感ヂタ物デスガ、其ハ貴女様ノ私ニ対スル気持ト似テヰルノデハ無ヰカト言ハレマシタ。貴女様ノ幸福ト、私ノ忠義ハ、根ヲ同ヂクシテヰルノデセウカ。私ニハ分カリマセン。

明月ノ夜ハ、私ニハ向キマセン。私ハ隠密ノ働ヲ得意トシマス。今宵ノヤウナ満月ハ、星ヲ消シ総テ曝ケ出シテ終ヰマス。故ニ私ハ月ヲ愛デタ事ガ御座ヰマセン。貴女様ハ、今夜月ヲ愛デテヲリマスカ。

窓ヨリ月ヲ観テ 刀祢麟太郎


麟太郎様

此の御手紙が届く頃は、月も欠始めてゐる事でせう。我家では毎年、十伍夜の日には観月の会を開き歌を詠みます。麟太郎様は、月は御嫌いですか。然し同じ夜に同じ月を観てゐたと知り、留子の心は憙びに震えるやうでした。

有坂様、御参男の孝晴様でいらつしやいましたね。私が孝晴様に御逢ゐしましたのは、御長男の孝雅様が議員と成られた御祝の席で御座ゐました。孝晴様は御多弁では在りませんでしたが良く御笑ゐになり、所作にも大層品が有り、上背も御有りで人目を惹いてをられましたが、私には、何処か人を寄せ付け無ゐやうな、怖い御方と感ぜられました。其様孝晴様が、麟太郎様の仰る処の忠義を受け容れてをられるならば、孝晴様も麟太郎様を心から必要としてゐるのでせう。

心と謂ふ物は、万人同じでは御座ゐません。例へ切掛を同じくしても生づる心は同じでは無く、其の逆も又然りで有ませう。有り様は似てゐても、私の心は私の、麟太郎様の御心は麟太郎様だけの御心です。故に留子は、澤山御話をしたゐのです。共に過し、言葉を交はさ無ければ、其方の御心を伺ゐ知る事は難しい物です。けれども、御手紙には又、御話とは異なる、真の言葉が顕れ出る物と思つてをります。かうして御手紙を拝見するに連れ、麟太郎様の正直で真直な御人柄、私を慮らふと苦心してをられる不器用さと優しさ、さうした物を感ぢて嬉しくなつて終う私は、意地悪でせうか。御気分を悪くされましたら済みません。然し、麟太郎様が私の為に御時間を割ゐて下さる、其で私は幸福になつて終うのです。

唯、一つ心配が有ります。麟太郎様の筆記を観てゐると、記す中身に迷つてゐるといふ丈で無い、乱れのやうな物を感ぢてをります。何か御心配事が御有りでせうか。有坂家で御育ちの麟太郎様です、筆書が不得手とは思へず、御伺ゐしました。御負担ならば、どうぞ留子の手紙は捨置き下さい。私は、麟太郎様の御邪魔をして迄、御返事を望みません。要らぬ懸念である事を祈つてをります。

勘解由小路留子


追伸

御手紙でも、御力に成れる事が私に有るならば、遠慮なく仰つて下さいませ。



 読み終えた手紙を卓に置いた麟太郎は、そのまま頭を卓の上に文字通り投げ出した。ゴツと鈍い音が部屋に響き、それぞれの座卓で作業や読書をしていた同室の将校――帝國陸軍では希望すれば将校も兵舎に入れるが、警兵尉官は他隊の者同士三人が相部屋になる事が慣例である――が、同時に麟太郎の方を見た。一人は舌打ちをしたが、もう一人は本から顔を上げ、眼鏡を直しつつ「刀祢?」と静かに声をかける。

「大丈夫です。音を立ててすみません。」

「……本当によくわからん奴だな、貴様は。」

 突っ伏したまま答えた麟太郎に対して男はそう呟くと、舌打ちした男を牽制するように見遣り、再び本に目を落とした。書類を卓に広げていた男も、溜息を吐いて自分の作業に戻る。額を強く打った筈の麟太郎はいつもの如く無表情で、その膝の上に乗っている「くろすけ」は一瞬麟太郎を見上げたが、麟太郎が動かない事を確認すると再び頭を羽にうずめる。ここ数日、気温が下がったからなのか、鳩小屋の隣に据えて貰った小屋よりも麟太郎の元にやってくる日が多くなった「くろすけ」の重みと温かさを膝に感じながら、麟太郎は考える。

(留子お嬢様は、何故こうまで赤の他人の性根の内が分かるのだろう。)

 この一週間、二日おき程の間隔で手紙を遣り取りして来た。麟太郎が報告書以外の手紙を殆ど書いた経験が無い事も、毎度悩みつつ返事を書いている事も、彼女には筒抜けのようだ。しかし、それは単に不慣れさが手紙に出ているだけと思えば、然程不思議ではない。再び受け取った手紙に記された内容のうち、最も麟太郎が驚いたのは、彼女が孝晴を「怖い」と評した点だった。孝晴は普段こそだらし無くしているが、社交の場では確りと貴族らしく振舞う。あからさまに誰かを拒絶するような素振りは見せないし、受け応えも卒無くこなす。故に「木偶の坊の癖に取り繕う事だけは上手い」などと、嫉みを込めて言われる事はままあるのだが。しかし、留子は……。彼女には、孝晴が他人に対して引いている一線が見えているのだろうか。その先にあるものが、孝晴が麟太郎を拒絶した理由なのだろうか。

「……。」

 顔を上げ、何度も手紙を読み返してみる。留子は、麟太郎が孝晴とどう向き合うべきか――麟太郎にとって絶対である孝晴の「不要だ」という言葉に首を垂れて従うか、それとも石動が言ったように理由を確かめに向かうか、向かうならば何時、どの機会に訪ねればよいのか――悩んでいる事すら、感じ取っているらしい。嗅覚の鋭い麟太郎でも、こんな芸当は逆立ちしても不可能だ。勘解由小路大臣は「人を見る目、本質を見極める目を養わせた」と言っていたが、これがその成果なのだろうか。それだけでは無いだろう。孝晴のよう、とまでは言えないだろうが、他人の感情に対する彼女の鋭敏さは、ある程度天性のもののように思える。理一の観察眼とも異なる「感覚で人を見る」才。たった二往復の遣り取りでも、それを感じるには充分だった。彼女ならばもしかしたら、自分に足りないものを与えてくれるのでは。心の奥底に朧げに生じた期待に麟太郎自身は気付いていないものの、殆ど一方通行だった筈の二人の関係が、僅かに結び付き始めていた。

 ふと、麟太郎は手紙の一文に目を留める。「人を寄せ付け無い孝晴が麟太郎を受け容れているのなら、孝晴も麟太郎を心から必要としているのだろう」と彼女は記していた。

(……ハル様が、私を?)

 勿論、彼の目的――彼が気付いた事件の解決の為、麟太郎が代わりに動いた事は何度もある。くるわの件等はまさにそれだ。それらは、孝晴の目的と自身の目的が合致しているし、麟太郎が動いた方がよい理由もあった。しかし人目を気にしない孝晴が、態々麟太郎を呼んで饅頭を買わせていたのは?何の用も無いのに付き従う麟太郎を、追い払わなかったのは?

「私を必要としているのに、『要らない』と言ったなら、それは、嘘、なのでは……。」

 思わず声を出して呟いた。何故、「嘘」を吐く必要が。何故、何故?

 麟太郎は立ち上がった。嘘を吐くなと最初に自分に教えたのは、他ならぬ孝晴だ。膝から落ちた「くろすけ」はガアと鳴き、同室の二人が再び顔を上げる。麟太郎は留子からの手紙を内ポケットに入れ、外套を羽織ると、「くろすけ」を拾い肩に乗せる。

「もう消灯が近いぞ。」

 眼鏡の男が言った。麟太郎は無表情に彼を見る。

「出かけて来ます。用が出来ました。」

「行先は。」

「軍病院です。」

 短く答えた麟太郎に、書類を片付け終わったらしい、髪を刈り上げた男が言った。

「朝点呼までに戻らなかったら、テメェの布団滅茶苦茶に乱しといてやるからな。」

「……善処します。」

 素早く長靴を履き音も無く出て行った麟太郎を見ていた二人だったが、眼鏡の男が溜息を吐いて言った。

「まさか、本気でやるまいな? そんな子供じみた事を。」

 刈り上げの男は其方を見る事も、問いに答える事もせず呟く。

白鞘しろさやよぉ。」

「何だ。」

「刀祢の野郎、扉から出てったぜ。」

「……。」

「何時も出てく時は、窓から飛んでく癖によ。」

 白鞘と呼ばれた男は白髪混じりの髪を軽く掻き上げ、眼鏡を外して布で拭うと、小箱に仕舞った。

「そうだとして、今俺達が詮索する理由も無かろう。……貴様も就寝準備をしろ、柄本つかもと。」

「へーへー、ジジイとガキと同室ってのは面倒だぜ、本当に。」

「失敬な、俺の髪は体質で年齢は貴様と離れては、」

「分かってるよ、何回聞かされたと思ってんだ。だからジジイなんだっつのお前はよ。」

 それぞれに与えられた区画からはみ出ぬよう、布団を敷き、消灯に備える。同室の三人は、それぞれ別の小隊に属するものの、階級は全員同じ。分隊長という立場も同じだ。必要以上の干渉は無いが、同室になれば嫌でも互いの事が分かってくる(それも目的として部屋割りされているのだが)。ここ数日の麟太郎の変化に気付いている二人は、支度を整えると、ただ黙って消灯を待った。


 陸軍病院は、夜でも明かりの灯された部屋が多い。その影に隠れながら暗い廊下を疾駆し、麟太郎は部屋の前に辿り着いた。扉に身体を付け中を伺うが、物音や気配は無い。ノブを静かに引けば、空いている。素早く隙間に滑り込んだ麟太郎に、静かに声が掛けられた。

「待ってたぜ、リン公。」

「返事が無かったのは、私を待っていたからですか。」

 部屋に明かりはないが、まだ半分程残った月の光が部屋に差し込む中、理一は煙管を吸っていた。口を離して煙を吐くと、理一は机から立ち上がる。

「……ああ、そうだよ。昨日、有坂のに会って来た。」

「有難う御座います、先生も忙しいのに……、」

 言い掛けて麟太郎は、言葉を止めた。理一がとても分かり易く苛立っていたからだ。美しい目は細められ、組んだ腕には力が入り、時折強く歯を噛み締めると、鋭い牙が――

「……先生、牙をお持ちなんですね。」

 思わず声に出してしまった。理一は「あ?」と一瞬面食らった顔をしたが、すぐに気付いて言う。

「これは『犬歯』ってやつで、誰にでもある。俺はそれが普通より鋭いだけだ。……親父もそうだったからな。三番目の姉さんも同じだ。」

「すみません。場違いな事を言いました。」

「いや、別にいい。そんな事より、リン公、お前、その鴉に付けた手紙に『有坂のに』って書いたよな。あの意味を聞きたい。」

 麟太郎は普段通り、淡々と答える。

「ハル様は『俺にはもうお前は要らない』と私に仰いました。それに従うか、それともその理由を問い糺すべきか、私の心が決まって居なかったという意味です。」

「って事は、今は決まったんだな。」

 麟太郎は頷く。理一は口の端を上げて笑った。

「あいつにも隠してる事がまだあるなら、俺達は対等だ。ここまで早くなると思わなかったが、俺は腹を決めたぜ。奴を一発分殴る為なら、弱みの一つくらいくれてやる。」

「そういうものなのでしょうか。」

「俺の気持ちの問題だからな。」

 そこまで言うと、理一は再び顔を顰める。

「しかし、奴と話をするには骨が折れそうだ……あいつ、俺を突き倒して逃げやがったからな。流石に有坂のが本気で動いたら、誰も止められやしねぇ。」

「ハル様が先生にそんな事を。」

「俺も相当、情けなかったがな……。」

 悔し気な表情を浮かべる理一。麟太郎の肩に乗った「くろすけ」が、頭を麟太郎の頬に擦り付けた。早く言えとでも励ましているのだろうか。

「私も、ハル様があの速さで去ってしまえば、何も出来ないと思っています。……だから、ハル様が『逃げられない』状況を作るべきかと。」

 麟太郎が上衣のポケットから取り出して理一の前に掲げたのは、――留子からの手紙だった。


「帝國の書庫番」

十三幕 「濁った水鏡」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る