帝國の書庫番 廿八幕

此世は延べつに幕はなし。


 兄弟の世話をしながらも高等小学校に通い、いつか役者になりたいと語っていた少女。授業後に畦道で級友と遊んで帰って来るような、男勝りで御転婆な娘だった。彼女はその日、日が落ちても家に戻らなかった。早朝、防火水槽に俯せに浮いた少女――女物の着物を着た子供――を見付け、助けようと引き上げた男は、驚きの余り腰を抜かしたという。その顔は、赤黒く爛れて肉が剥け、白い骨が露出していた――



 寺前の通りは、冬でも活気に溢れている。寧ろ、年末の近い今だからこそ、入用のものを買い込んだり、入れ替えの品を売り捌いたりで、賑やかなのかも知れない。東郷あまねは、女中について買い物に出ていた。有坂孝晴が訪れたのは、親から婚約を知らされた、その日の夜。あまねは翌日には有坂家へ飛んで行き、正式な婚姻前の同居を申し出た。あまねは、自分がどんな相手に嫁ぐにしろ、夫を立て、家を守ると誓っていた。夫の不始末は妻の不始末であるからして、夫が至らないならば妻のあまねが世話してやらねばならない。それは幼い頃から聞かされて来た父母の教えだった。将来妻として当主である夫を支える事になると同時に、年長者として未来の当主――東郷の家を継ぐのは、二つ下の弟である――を教え導く立場のあまねは、文武の鍛錬に明け暮れる日々を送って来た。しかし、分家を作らない有坂家に嫁ぐとなると、これまでのように多数の使用人を雇える保証は無い。ならば、今までした事がない使用人の仕事も妻の自分がこなさねばならないと、先の生活を見据えた花嫁修行を申し込んだのだ。そうして女中や使用人達から、孝晴の慣れ親しんだ世話の仕方や、炊事洗濯を習っている。買い出しもその一環であるが、普段は直接屋敷に届けさせている食材の選び方までも教わっているのは、そうした理由からである。幸い、通いの女中や仕入れの担当はそちらにも詳しかった。初日にそうして話をつけて終い、さて残りの時間は夫の監督に、と思っていたのだが。あまねは教わった内容を書き付けた帳簿を閉じて息を吐く。

「余り、気にしなくとも良いのではございませんか、あまね様。」

 彼女の嘆息を聞き付け、女中が苦笑した。

「孝晴坊ちゃんは、あまね様がいらっしゃる前から、お仕事を好む様子はございませんでしたからね。奥様も孝晴坊ちゃんを咎める事も無く放任でございましたから、慣れていないだけでございましょう。」

「けれど、初日から逃げ出してしまわれたんですよ。きっと、わたくしは嫌われてしまったのです。」

 目を伏せるあまねに女中は労るような目を向ける。幼少期の孝晴は成長が遅く、その分兄二人より学習の開始も遅かったという。また、既に兄が二人居る末っ子の立場もあってか、厳しくされる事が無かったらしい。実際、孝晴は書庫番の職に就いてからも頻繁に休んだり抜け出したりしているし、それを有坂家のあるじが咎める素振りは無い。そうして甘やかされて来た孝晴に、あまねのような厳しい嫁を充てがえば、こうもなるだろう。女中としては、監督の必要が無く過大な要求もしない、非常に楽な「お坊ちゃん」なのだが。そう考える彼女の隣で、あまねが言う。

「だからと言って、わたくしは任を放棄する訳に参りません。孝晴さんがこのまま、世間から良くない評価を受けていては、孝晴さんの今後の生活が成り立ちませんから。故にわたくしは、嫌われようと、避けられようと、あの方を一人前ひとりまえ男子おのこに育てねばならないのです。」

 その横顔は凛々しく、ともすると少年のように見える。男女共に髪を伸ばす習慣がある旭暉では、洋外に倣い断髪する男はいても、あまねほどに短く髪を切っている女は殆ど居ない。東郷家は現政府の立役者の一人と関係があり、「南州の雄」と呼ばれる武の名門の一つだ。あまねの剛毅さも、そんな家で育った為なのだろう。

「気を張らずとも、坊ちゃんもそのうち慣れましょう。毎日、お仕事に出られるようにもなっているではございませんか。」

 そう笑って言った女中の横で、「それが続けば良いのですけれど」とあまねは小さく呟いた。



 帝國公文書館第三棟内の事務室。書記官達が軽く雑談したり、専門分野の仕事だけをのんびりと片付けたり。平穏な「書庫番」の仕事風景の中に、有坂孝晴の姿があった。極力頭の回転を落とし、半分眠ったような状態で、ゆっくりと、それこそ孝晴にとっては気の遠くなるような時間をかけて、一枚一枚書類を確認してゆく。孝晴は平日も一日二日程は仕事に出るようになっていたため、第三書記部の職員達にとってはその姿は見慣れた光景だ。しかし、これが毎日となったら。自分に耐えられるのだろうか。紙の感触を確かめるように、親指と人差し指の先で触れる。これは非常時動員に関する法令。先程は各地に置く師団の増設を決定する書類だった。文面や筆跡は全て頭に入れたものの、非常に効率の悪い方法を取らざるを得ない。大盥に一滴ずつ水を垂らして満杯にしようとしているかのように、一文ずつ、一文字ずつ。それでも腹は減るものだ。ああ、眠い。孝晴は頭をゆるゆると振る。

(有坂家を出たら無駄費い出来無くなンのは、俺だって分かってっからなァ……。)

 空腹で集中が続かない。しかし、子供の時に貰った丁銀を頻繁に使う訳にもいかないくらいの分別は、孝晴にだってある。今はあまねに渡された財布の中身でなんとかするしかない。正介の下宿先で目覚めた時、女将が朝食を出してくれたが、正介の姿は無かった。邏隊員は出勤も早いのだろう。銀が見当たらなかったのは、恐らく、正介が持っているからだ。眠っている人間の手に握らせておくのが憚られる物なのは間違いない。それを思い出し、孝晴は息を吐いて小さく笑う。

(この為体ていたらくじゃ、俺にゃ価値なンて無ェも同然だなァ。)

 自分は人間では無いし、人間になりたいとも望んだ。なれないからこそ、こうして心を澱ませる。けれど、が出来るのは、自分が化け物であるが故。自己満足の行為と言えど、それに自分の存在意義を見出していなかったと言えば、嘘になる。

(太田の父っつぁんにも、中途半端な事しちまった。)

 自分の思慮が無意識に不変の未来を想定していた為に、首を突っ込んだだけで終わる事になると考えすらしなかった。使えるようで使えない自分の頭に苦笑しながら、ふと思う。太田家と言えば、あの時四辻鞠哉に渡された角砂糖には、まだ手を付けていない。あれを噛んで食べてしまうのは些か勿体無いようにも思うが、ずっと取っておいても意味が無い。昼に帰ったら二、三個持って来ようと決め、改めて孝晴は書類を眺め始めた。



 帝都中心部から少し東にある、平屋の広い屋敷。使用人の案内で座敷に案内された刀祢麟太郎は、座布団の上にきっちりと正座していた。その胸には、鴉の入った布が襷掛けに結ばれている。麟太郎は少しの間、外から時折聞こえる鋭い鳴き声に耳を傾けていたが、一人の男が部屋に入って向かいの座布団に腰を下ろすと、深く頭を下げる。

「捜査へのご協力に感謝致します、鷹峰さん。」

重真しげざねと呼んで頂いて構いません。私は兄弟がおりますので、其方に慣れているんです。」

 三十路過ぎの男は穏やかに言った。流石に由緒ある貴族の長男は、警兵を前にしても常人のように狼狽えはしないらしい。では、と断って麟太郎は口を開く。

「重真さん。貴方に、帝都近郊の鷹司たかつかさ達についての情報提供をお願いしたいのです。」

「それは、如何なる理由で?」

 麟太郎は胸に掛けた布を解く。中からは羽に布が巻かれた一羽の鴉が現れた。ぐるりと首を回して男を見る「くろすけ」の頭を軽く指で掻いてから、麟太郎は男に目を向け直す。

「これは軍に登録されている鴉です。この鴉が、四日前襲撃されました。下手人とされる男は死にましたが、我々の調査で、鷹に追われる鴉が目撃されていた事が分かったのです。街中に野生の鷹が入って来ないとは限らないものの、鴉を『追い回し続ける』というのは不可解です。もし、その追われていた鴉と此れが同一の鴉であったなら、下手人には協力者が居た事になります。」

「成程、それで私の所へ。」

「ええ、貴方は組合の長ですから。帝都の鷹司について話が聞ければと。」

 男――鷹峰重真は、納得したように頷く。鷹峰家は、古来宮廷の鷹飼部に鷹を献上していた一族である。その後鷹飼部そのものを任されるようになり、貴族となった後も鷹遣いの一族として知られて来た。その歴史もあって、新政府樹立の際に旧幕府や其方に属する諸大名が手放した多くの鷹を保護し、帝都に正式な組合を設置したのが、重真の父・現当主である師真もろざねである。現在は鷹司の技術を修めた重真が組合長を引き継いでいるが、陸軍は鴉研究を始めた頃、調教技術の指南役として彼に協力を求めた。彼が直ぐに状況を理解したのはその為だ。

「訓練の成果を狙われたという訳ですか。」

「……いえ、この鴉が切掛で、軍が研究を始めたのです。この……、」

 そこで一度麟太郎は口を閉じる。「くろすけ」がじっと嘴を麟太郎に向けていた。

「……『くろすけ』ほどに任務をこなせる鴉は他にありません。特別なんです。だからこそ狙われたのだろうと考えていますが。」

「そうでしたか。」

 重真が顎に手を当て、じっと「くろすけ」を眺める。「くろすけ」はその視線を受け止め、重真が顔を上げるまで逸らさなかった。

「成程、確かに、獣らしくない態度を取りますね。分かりました、少しお待ち下さい。」

 そう言って立ち上がる重真を見送りながら、麟太郎は「くろすけ」の首元の毛を軽く掻いてやる。重真はこの鴉の何が特別か、見ただけで見抜いたらしい。少し待つうちに戻って来た重真が畳に置いたのは、組合の名簿だった。

「此方には、鷹司の所在地と管理する鷹の種類・数が纏まっています。」

「写しても?」

「構いません。捜査に役立てて下さい。私としても、邪な目的で鷹を飛ばす者が居るならば、心穏やかではありませんから。」

「有難うございます。」

 許可を得ると、麟太郎は手帳と鉛筆を取り出し、帝都付近で活動している鷹司達の情報を写す。鉛筆の先を動かしながら、麟太郎は言った。

「重真さん。此処には載っていない鷹司がどれほど居るか、貴方に分かりますか。」

「いえ……ただ、そう多くは無いでしょう。鷹は捕るにも調教するにも技術が必要です。我流で行う者が居ないとは思いませんが、単純に猟をするなら、銃を選ぶ傾向にあります。銃に餌は要りませんし、現にそうして手放された鷹を引き取っていますしね。猟期の間のみ鷹を手懐けるならば、組合に入らずとも行えますが……方法を知らずに簡単に出来る物でも無いと考えると、組合員と面識はある者が大半でしょう。」

「成程。」

 重真の言葉の間に、「帝都とその近辺」の頁を書き写し、麟太郎は筆を仕舞う。

「また、必要になったら話を伺っても宜しいですか。」

「構いません。」

 重真は頷いた。しかし、麟太郎がその場を離れず彼の顔をじっと見ていた為、重真は怪訝そうに言う。

「まだ何か?」

 麟太郎は数度瞬きをした。その心情が重真に推し量れる訳がないのだが、麟太郎はそれを気にする風もなく頷く。

「今の話とは別のお願いなのですが。鳥の調教を、私に教えて貰えませんか。『くろすけ』が襲われて、私が軍の鴉を教えるように言われたのですが。私は『くろすけ』を調教した覚えが無いのです。」

 重真が僅かに目を見開いた。そして再び「くろすけ」に目を遣る。鴉は自分が見られている事に気付いたのか、首をくるりと回して重真を見た。

「刀祢さんは、この鴉に指示を出す時、笛や合図を使いますか。」

「? いいえ。言葉で伝えるだけですが。」

 首を傾げる麟太郎に、重真は苦笑する。

「軍の鴉を教えた時、皆さんが怪訝そうだった理由が分かりました。人間の話す言葉をそのまま理解させるのは、獣の調教とは異なりますよ。犬にだって、『手を前に出せ』とは言わず『お手』と決められた言葉を合図にするでしょう。」

「そうですね。」

「刀祢さんが他の鴉をこの子と同じように扱っても、成果は出ないでしょう。人間にも突出した才を持つ方がいるように、きっと、この子も才ある鴉なのだと思います。」

 麟太郎はそれを聴くと、僅かに目を伏せた。

「となると、やはり私は鳥の調教を学ぶ必要がありますね。」

「その事情があるならば、私が再度軍に出向いて鴉を見ましょうか。刀祢さんは調教に関しては素人であると説明も致しましょう。」

「それは願ってもないお話ですが……、」

 と、麟太郎がいい言い淀んだ隙に、「くろすけ」が一声鳴いた。それまで全く声を上げなかった為に予想外であったのか、重真が驚いた表情を浮かべる。麟太郎は首を傾げた。

「どうしたのです、『くろすけ』?」

 もう一度「くろすけ」は鳴いたが、麟太郎が首元の羽毛を掻いてやると落ち着いたようだ。指先を動かしながら、麟太郎は目線を成真に向ける。

「……鴉の訓練は、拝命した以上、全うするべきだと思っていましたが。私は、『くろすけ』が今、何を思って鳴いたのかすら、分かりません。素直に貴方にお任せするべきやも知れませんね。」

「そう、ですか。」

 麟太郎の言葉を聞いた重真は、ふむ、と頷く。

「では、軍には刀祢さんと共に話した方が良いかと思いますので、後日改めるとして……宜しければ、お戻りの前に私の鷹を見て行かれますか。鷹と鴉は違いますが、その子を理解する一助となるかも知れません。」

「……助かります。」

 頭を下げる麟太郎に、重真は手を振って微笑むと立ち上がる。

「丁度、雛の給餌もありますから。気になさらないで下さい。」

 重真と共に玄関へ向かうと、出口ではなく敷地の奥へと向かう。広い敷地の中には庭園もあり、池にかかる石橋を渡った傍にある東屋に近付くと、屋根の下に据えられた腰掛けに誰かが座って池を眺めている。その手には短冊と筆があり、どうやら句か歌を書いているらしい。何処かで見覚えのある後姿だと麟太郎が思った時、重真が立ち止まって声を掛けた。

、此処に居たのか。客人に鷹を見せるが、お前来るかい。」

「兄上、何度も言いましたが、私は鷹の世話には余り興味が……、」

 上半身だけ振り返った青年は、そう言いかけて硬直する。手にした筆がかたりと地面に落ち、墨の跡を残しながらころころと転がった。その顔が白くなり、青くなり、やがて燃えるように赤くなるのを見て、麟太郎は首を傾げた。

「鷹峰君。今日は非番でしたか。」

「…………えっ、は、あの、……、」

「ヨシ? どうした?」

 青年は目を白黒させていたが、怪訝そうな兄の言葉を聞くと、ゆっくりと椅子から降りて膝をつき、そして頭を地面に下げた。

「あの時は、大変な非礼を致しまして、本当に、申し訳御座いませんでした。」


 高い笛の音に応え、力強い羽ばたきが空を裂く。軽やかに鷹を操る成真の様子を眺める麟太郎の隣には、気まずそうな表情で鷹峰世四郎が立っている。彼が病室に殴り込んで来たのは、二年前。今日は丁度交代勤務明けで非番だったらしいが、まさか鷹峰家の中で出会うとは思っていなかった。

「刀祢中尉。」

「何でしょう。」

「直接謝罪する機会を取れず、今まで先延ばしにしていた事、お許し下さい。」

「忘れていたなら、それで構わないのですが。私は気にしていませんでしたし。」

 ぽつぽつと言った世四郎に、淡々と返す麟太郎。全く心情の読み取れない口調と表情に、世四郎は小さく息を吐いた。

「感情を出さないのは、変わっておられませんね。恭兵は分かると言っていましたが。」

「そうですね。私にとっては、彼がああまで私の内心を理解できる事の方が不思議です。」

 二人の目線が空に弧を描く。ぐるりと大きく回った鷹が、重真の腕に舞い降りると、指先から餌を啄む。世四郎が言った。

「その、有難う御座います。恭兵……石動の、帰る場所になって下さって。」

「どういう意味ですか。」

 見上げる麟太郎に、世四郎は指先で頬を掻くと、瞼を伏せる。

「私は元々、警兵になる事を反対されていました。一士官候補生として試験を受けねばなりませんからね。けれども、私は曽祖父に最も可愛がられて育ちましたから、市井の者が武に訴えた時、政治に成す術は無いと、よく聞かされていました。曽祖父は、有坂直孝殿の事も話していましたよ。いざという時に身を守るのは、他者の武ではなく自己の武なのだと。」

 有坂直孝は孝晴の祖父である。新政府成立までは旧幕府で側用を務めていたが、剣の達人としても名高く、乗っていた駕籠を討幕派に襲撃された彼は、逆にほぼ全員を返り討ちにしたという。世四郎の祖父は幕臣であった為、交流もあったのだろう。

「身分で官位を得るよりも、恥じない実力をつけたい。曽祖父以外には理解されませんでしたが、その意思を示す為に名を変えて髪を切ったんです。」

「名を変えた?」

「元は『世四与よしよ』と言う名でした。それを、兵卒らしい名に変えまして。」

 麟太郎は一度瞬きをした。

「古風で良い名ですね。」

「そうですね。しかし、それでやっと家族を説得出来ましたし、今の名も気に入っています。」

 ひゅーい、ひゅーいと笛が鳴く。麟太郎の胸の中で、「くろすけ」が身動いだ。やはり鴉は、鷹が苦手なのだろう。頭を布に突っ込んで、出て来る気配が無い。

 世四郎が再び頬を掻いた。

「けれど、私には長く積み重ねた経験という物が無かった。付け焼き刃の技術が通用したのは、試験までで。入隊してからは……月並みに言えば、辛い日々でした。名を変えてまで入ったのだから、挫けてなるものかと思っていたものの、実力の差を痛感する事ばかりで、世間知らずの坊々故だと馬鹿にされていました。その頃、石動が声を掛けてくれて。『お前は無駄な努力ばかりしている、自分に合った努力をしろ、見ていられん』なんて言って。あいつ、すがめの癖に周りを凄く見ているんですよ。警戒の裏返しなんですけどね。何もかも他人より遅れているからとがむしゃらに何でもやっていた私に、全てが中途半端になっていると指摘してくれました。まあ、たまにどつき合う事もありましたけれど、石動が初めて『そう出来る』関係になってくれたお陰で、私は本当の意味で軍人らしくなれたと思っています。」

 語りながら微笑む世四郎の表情や語調が余りにも貴族の青年然としており、麟太郎は驚いた。同時に、勘解由小路大臣の言葉を思い出す。確か「数年前まで『勘解由小路のおじさま』と呼ばれていた」と、彼は語っていた。礼儀正しい貴族の青年と、友人の為に激昂出来る軍人。何方の顔も鷹峰世四郎なのだろう。不思議なものだと麟太郎は思った。そのような表裏は、麟太郎には無い。

「……ただ、石動は常に神経を張っていました。休暇にも帰宅せず、ずっと自身を追い込む事を止めなかった。入隊後に知り合った同輩三人の中で一番早く尉官に昇進したのは石動ですが、今思えば、あいつは自分でも分からない部分で、焦っていたのでしょうね。だから中尉の隊に配属された時、焦りと嫉妬で、悪い噂を鵜呑みにしてしまった。常識的に考えたら、士官学校も出ずに入隊した平民出の兵卒が尉官に任ぜられるなんて、裏があって然るべきですから。」

「恐らく私の任官と昇進にはその『裏』が関与していましたよ。望んだ事ではありませんでしたが。」

 淡々と返した麟太郎に、世四郎は苦笑する。

「石動が私に言いましたよ、経緯はどうあれ、中尉はその地位を賜るに値する方だと。」

 そして彼は、優雅に弧を描いて飛ぶ鷹に目を向ける。

「石動は中尉と出会ってから、随分と変わりましたよ。自分の為に自分を追い詰めていたあいつが、中尉の為に自分を高めようとするようになりました。中尉の隣が、今のあいつの帰る場所なんです。だから、私としても中尉には感謝すべきであると。……これ以上を私が語ったら、石動に殴られそうですね。」

「……。」

 世四郎は笑って見せる。麟太郎は数度瞬いた。丁度、最後の鷹を小屋に戻した重真が此方に近付いて来るのを認めた世四郎は、麟太郎に向き直る。

「お邪魔して申し訳ありませんでした。」

「此方こそ、休日に時間を取らせてすみません。」

「上官が下官に簡単に謝らない方が良いとされますが、中尉はそのままで良いと私は思います。」

「どういう……、……。」

 麟太郎は言いかけたものの、言葉を飲み込む。敬礼し顔を上げる間に、世四郎の纏う雰囲気が、一瞬で「軍人」のそれに変化したためだ。答礼を返した麟太郎の前で踵を返し、世四郎は去って行く。

(帰る場所、か。)

 麟太郎は「くろすけ」を布の上から撫でる。世四郎が言ったのは、きっと「副隊長として充実している」という程度の意味なのだろう。そう、今迄の麟太郎であれば捉えていた。しかし、今の麟太郎は知っている。自身の居場所を見出す事が、どれ程困難かを。

(あまね殿は、ハル様の帰る場所に、なれているのだろうか。)

 戻って来た重真に応えながらも、麟太郎は胸中に雲がかかるような感覚を止める事が出来無かった。



 市が開く早朝から見回っていた為、昼前には必要な注文を終えてしまった。荷物は自分で屋敷まで運ぶと言い張ったあまねを説得して配送を頼んだ女中は、残りの時間で市場の見物にあまねを連れ出していた。あまねとて家から離れて嫁ぐ身、そして自ら町で買い物などした事の無い身分なのだ。急に慣れない事ばかりしては疲れてしまうだろう。

「あまね様、ほら、飴の屋台でございますよ。」

 女中が指差す先にはちょっとした人集りが出来ている。不思議そうにしながら子供の後ろから屋台の屋根の下を覗いたあまねは目を開いた。職人の手元には、色とりどりの塊。そこから千切られた物体が、あれよあれよと形を変えてゆく。陶器のように艶のある兎、透明な鱗を持つ鯛、そして、柔らかな飴色の毛を持つ犬。

「……。」

「お気に召しましたか?」

 目を丸くして見入っているあまねに女中が微笑みかけると、あまねははっと振り返って頬を染めた。

「……可愛い、です。けれど、孝晴さんの無駄遣いを諌めるのですから、わたくしが無駄に甘味など買う訳にはまいりません。」

 其れ迄と打って変わり、ぽそぽそと呟くあまね。その頬に赤みが差しているのに気付いた女中は、声を僅かに弾ませた。

「欲しいのでございますね?」

「違、……と、言ったら、嘘になりますが……! その……。」

 女中に見詰められ、あまねはぽつりと言った。

「犬、が、可愛いなと……わたくし、犬が好き、なのです。」

「まあ。」

「い、家にも犬は居ましたが、わたくしは、もっと小さくて可愛い……番犬や闘犬には使えないような……そんな犬が、昔から欲しくて……わ、忘れて! 忘れて下さい! やはりそんな弱者の世迷言は東郷の女に相応しくありません!!」

 話し終わる頃には、あまねは耳まで顔を真っ赤にしていた。急に叫び出したあまねに、飴屋の前に集まっていた数人が怪訝そうに振り返り、あまねは更に声を小さくして「すみません」と呟いた。しかし、初めは微笑ましく聞いていた女中は、少し残念そうに思案する。

「お犬は……有坂の家にはおりませんものね。孝晴様は動物がお嫌いと聞いておりますし……。」

「そ、そうですか。別にわたくしは、今それを望むつもりはありません。それこそ、番犬も出来ない犬など無駄飯食らいですから、不要ですし。」

 まだ頬を紅くしながらもあまねはきっぱりと言ったが、それが本心ではないのは明白だった。女中よりも年少の少女が家と婚姻の為に抑えている内心の欲は、これだけでは無いのだろう。少しは叶えてやりたい、そう女中は思った。

「あまね様、そう言えば最近は帝都の畜犬業者が増えているのでございますよ。見た事も無いような洋外の品種も取り扱っていて。」

「貴女が買えないと言ったばかりでは?」

 怪訝そうに眉を寄せたあまねに、女中は微笑む。

「ええ、そうした業者の中には、散歩の手が足りていないという事で、安く貸犬を出している所もあるんです。飴のお金で、数時間は犬と散歩出来るんですよ。如何です?」

「で、でも……帰宅が遅くなっては、家の仕事に支障が出ます。」

「私が交代して貰いますから、ご心配なさらないで下さい。このままお邸まで戻るのを片道に、私は別の者と交代して仕事に入り、あまね様はまた散歩に戻って犬を返す。それくらいは皆、引き受けてくれますよ。あまね様は評判通り、真面目で一生懸命であらせられますもの。少し息抜きをしながら務めるくらいが、丁度良いのではございませんか。」

 にっこりと笑う女中の顔からあまねは目を逸らしたが、やがて頬を染めながら「では今回だけ……」と小さく呟いた。



 正午の鐘が窓から響く。孝晴は眠い瞼を擦って伸びをすると、息を吐いた。この数日、昼食までの時間が長くて敵わない。昨日はあまねが弁当を作ったが、余りにも少な過ぎた。「今日は昼休憩中に家に帰って食べる、弁当作りは休め」と言って誤魔化したのは、外食にかける金が多過ぎると咎められた為だ。

(そりゃあ、一食に使う金だけ見りゃ、贅沢してっと思われても仕方ねぇが……。)

 まさか昼だけで店を三、四軒梯子しているとは思うまい。そんな事を考えつつ、欠伸を噛み殺しながら帝國公文書館の第三棟を後にする。以前はあれだけ歩き回っていたというのに、今は少しばかり歩いて帰るのも億劫だ。有坂家の昼餐ならば、小箱に詰められた飯よりは多く食べられる。あまねが来てまだ一週間も経って居ないというのに飯の事ばかり考えてしまうのは、それだけ自分が異常な体をしているという事なのだが、それすらどうでも良くなりそうな程空腹だった。やっと向こうに有坂家の門が見えて来たと溜息を吐いた時、同時に孝晴の足は止まった。玄関前に、あまねが居る。向こうはまだ此方に気付いていないが、孝晴には見えていた。

 あまねは足元に居た小さな白い玉を拾い上げ、顔の前に持って来る。そして、とても幸せそうに、その毛の中に顔を埋めた。白い手のひらが小さな頭の上をゆっくりと往復し、抱かれた毛玉から生えた尾がゆらゆらと揺れている。仔犬だ。毛が長く真っ白で、まるで梵天のような体。その辺りの野良には見た事が無い。舶来の犬だろうか。孝晴はその光景から目が離せなかった。空腹も吹き飛んでいた。自分は、人間以外の生き物と、あんなに近く触れ合った事が無い。あまねが、あんなに柔らかな表情を浮かべる事も知らなかった。そして、自分と一緒に居る限り、彼女は今のように幸福な気持ちに浸る事は、二度と出来ない……。

 孝晴は一歩踏み出す。あまねは気付かない。当然だ。孝晴はで動いている。彼が歩いて居ると気付ける者は、誰も居ない。


「あまね。」


 背後から声を掛ければ、彼女は文字通り飛び上がった。振り返ったあまねが絶句したのは当然だろう。

「買ったのか。」

 孝晴は声を態と低く出す。あまねの腕が、目を閉じて丸くなっている仔犬を強く抱き締めた。まるで、恐怖を押し殺すように。いや、きっとその通りだ。自分は今、彼女を脅しにかかっているのだから。

「俺ぁ、畜生は嫌ぇだ。さっさと捨てて来い。」

 あまねの青褪めた顔に、僅かに赤味が戻る。そして小さく「そんな酷い言い方、」と呟いたが、孝晴はその先を言わせ無かった。

「なら、お前の家に戻って好きにしろ。畜生の居る家なんざ、俺は帰らねぇからな。」

 語気を強めて言い捨て、踵を返す。あまねは、孝晴が怒りを露わにするとは思っていない筈だ。世間での自分は、仕事を怠けてのらくらとほっつき歩いてばかりの「木偶の三男」なのだから。背後から、きゃん、きゃんと甲高い吠え声が聞こえる。孝晴は眉を寄せ、その声に追い立てられるように早足でその場を離れた。



 畜犬商で借りる事が出来たのは、洋外から輸入した犬が産んだという仔犬だった。まだ乳離れしたばかりで、矢鱈と短い足でよちよちと歩く様は言葉に出来ない程愛くるしい。そんな仔犬だからなのか、有坂家に着くまでに眠り始めてしまった。あまねは、寝息を立てる小さなふわふわを抱き、女中が交代して出て来るのを待っていた。犬に合わせてゆっくりと歩いた為、昼を過ぎた事に気付いて居なかった。孝晴の動物嫌いが、あれ程のものとも想像して居なかった。孝晴が去ろうとした瞬間に震えて飛び起きた仔犬が、ここまで激しく吠えるとも思っていなかった。

「大丈夫です、ごめんなさい、わたくしが力を込めてしまったから……、」

 あまねは混乱していた。孝晴に声を掛けられた時、あまねには――剣で鍛えた自負があるにも関わらず――全く気配が感じ取れなかった。それに、あの目は。昏く、何者も寄せ付けないような、恐ろしささえ感じられるような、あの目は一体……。

「あまね様!?」

 犬が漸く落ち着いて来た頃、女中が小走りで寄って来た。彼女が経緯いきさつを聞いて、交代してくれたのだろう。孝晴に怒られてしまった、と言おうとしたが、声が出ない。

「何があったのです!? あまね様……これで顔をお拭きになって下さいませ……!」

 女中に手巾を差し出され、あまねは自分の目から涙が溢れていた事に気付いた。気付いた瞬間、視界が滲んだ。

(まだ、一週間も経って居ないのに。わたくしは、妻としての勤めを、果たさねば……ならない、のに。)

 あまねは手巾を受け取る事もなく、その場にしゃがみ込むと、やがて押し殺すように嗚咽を漏らし始める。

(嫌われても、構わないのに……どうして、こんなに、怖いの……。)

 自分の心が理解出来ないまま、あまねは泣いた。溢れて止まらない涙を、あまねの腕から顔を出した犬がぺろりと舐めた。



 白い指先が少し流行遅れのスーツの胸ポケットに伸び、くすんだ金色の懐中時計を引っ張り出す。ぱちんと軽い音を立てて蓋を開けた四辻鞠哉は、文字盤から目線を外し、隣に向かって話し掛けた。

『貴方のお陰で、土地の確認が予定より早く済みました。感謝します、ユーリ。』

 その目線の先に居たのは、これまた白い肌に、金色の髪。青い瞳は髪と同じ色の毛に縁取られ、まるで少女のような顔立ちをした少年だった。言うまでもなく、あの「ユリア」である。ただ、今の彼は吊りベルト付きのズボンをシャツの上に履き、足元は作業靴、髪は後ろで束ねてキャップを被っている。旭暉語でも鐵語でも瑛語でも無い言葉を使った鞠哉に対し、彼はにこりと笑って同じ言葉で応えた。

『いえいえ。ウィリアムさんも太田家の出資に感激して、國元まで新しい機械の買い付けに出て行ったくらいですし。旭暉の職人と共に工場を起こせる事を楽しみにしていますから、僕も異人街自治組合の通訳兼書記として、出来る事は協力したいんです。』

 少年はそこで一度言葉を切り、後ろを振り返る。旧國境付近の田園地帯。奥に目線を向ければこんもりと茂った山が見える。数年前まではこの時期になると狩人達が集まっていたらしいが、今はその気配は感じられない。

『北讃会事件の影響で、この辺りは随分と寂れたんですよね。一般の家まで厳しい調査が入ったらしいですし。でも、そんな場所だからこそ、異人と旭暉人が共に働く場を作り、更に、工場を中心にして人を呼び戻したい……僕は、旭暉人として成し遂げたいと思ったんですよ。その理想をね。』

『成しますよ。少なくとも、太田の事業を簡単に失敗させる訳にいきませんし、させません。』

『旭暉人には冰國語が分からないからって、本性出し過ぎてません?』

『貴方が相手だからですよ、ユーリ。』

 鞠哉の言葉に、少年が笑う。鞠哉も小さく笑みを浮かべたが、ふと何かに気付き、少年の手を取ると早足で歩き始める。不思議そうにしながらも従った少年は、空き家になった民家の陰に入って無人の田圃を見遣る鞠哉の表情から、笑みが消えて居る事に気付く。その目線の先を追うと、鶯の文官服を着た人影を認めた。一瞬少年は目を細めたが、直ぐに鞠哉に訊ねる。

『お知り合いですか?』

『……【知人】ではあります。』

 その人影は、頭の後ろで結った長い髪を風に散らしながら、ゆっくりと山の方へ向かって歩いて行く。どうも足取りが覚束無いようにも見えた。鞠哉は僅かに眉を寄せ、少年を振り返る。

『ユーリ、お願い出来ますか。先に旦那様の元に戻って、私はもう少し確認してから帰ると伝えて下さい。』

『……分かりました。もう日も落ちますから、余り遅くならないで下さいね。』

『有難う。』

 少年は鞠哉から書類鞄を預かり歩き出すと、少し歩いて、足を止めずに背後の様子を伺った。鞠哉は自分が帰るのを確認してから動くようだ。仕方ない、と少年は切り替えて、歩きながら考える。見間違いでは無いだろう。確かに、あれは。

(仮にも有坂の人間が、こんな郊外で何をしているんだ? というか四辻さんも、あんななりふり構わず接触しようとするなんて、分かりやす過ぎるでしょ。最近の留子ちゃんはどうも塞いでるし、朱華はねずさんも相変わらず気にしてると思ったら、今度は四辻さんか。……一体何を持っているんだろうね、有坂孝晴って人は。)

 少年は小さく息を吐くと、もう振り返る事はせず、最寄りの駅に向かって歩いて行った。



 げひ、げひ。

 げひひ、ひっ、ひひ……


 奇妙に擦れた笑い声が、誰も居ない山中に響く。いや、その三人の陰以外に誰も居ないと言うのが正しいか。人気の無い山の中に、鳶服の青年と、背広の青年、そしてもう一人、手袋の上に手甲を着け、股引きに脚絆を巻いた、一見旅人のような格好をした人間が後ろから二人の後に着いてくる。その顔は殆ど全てが頭巾に覆われているが、笑い声はその中から聞こえていた。

「煩っせぇな、少しは黙っていられねぇのかぁ? あの気色悪い野郎はよぉ。」

 苛立ちを隠しもせずに呟いたのは武橋金次。その左手には小銃が一丁握られている。隣を歩く背広の男は柔らかな笑みを崩さぬまま言った。

「まあまあ、武橋君。『蜥蜴』もこれで役に立つのだから、大目に見てやり給えよ。それに、久々の射撃なのだから、楽しまなければ損ではないかな。」

 金次は男の言葉に舌打ちで返事を返すと、少し立ち止まり小銃を抱え、近寄って来た覆面男の頭に向けて無造作に銃床を振り下ろした。

「がひっ、」

 鈍い音がして、覆面がつんのめる。金次は口端に笑みを浮かべた。

「俺がテメェに苛ついたら、次からこうする。」

 頭を押さえて奇妙な声を上げる男を後に、楽し気に笑みを浮かべながら歩き出す金次。それを眺めていた背広の青年は、表情を変えずに「ふぅん」と笑った。

 以前は賑わっていたという山道も、数年経てば草木に覆われてしまう。生意気だ、と金次は思った。少し隙間を作ってやれば、何処からでも生えて来る、無知蒙昧な存在。そんなモノに人間の痕跡を上書きされるというのは、どうにも気に食わない。それでもこんな使われていない山を登っているのは、先日鴉を射た後に、「そろそろ銃を撃っている所を見たい」と言われた為だ。指先が擦り切れるまで弓を練習したのは銃に戻る為なのだから、金次としても異論は無かったが、練習を何故この山で行うか迄は教えられて居なかった。中腹辺りにある山小屋に辿り着くと、背広が「ああ疲れた」などと笑って座り込むのを横目に、金次はさっさと銃に弾を込め始めた。弓で使い慣れて来た左手で銃把を握る。右手に残った引鉄を引く感覚が、まるで一度も使った事の無い左手にも移ったような感触を覚え、無意識に口端が上がる。銃身を持ち上げ照門を覗くと、遅れて入って来た覆面がその先に現れ、金次は舌打ちして銃を下ろした。しかし覆面は背広の方へ這い寄ると、笑い声の隙間に言葉を発した。

「きひ、ひ、ひと、ヒト、ヒト……けひ、ひ、ひひ……。」

「おや、誰か居るようだね。」

 その言葉に金次は一瞬目を細めたが、背広はそれが当たり前かのように、古い罠猟の道具が掛けられた壁に近付くと、跳上げ窓を細く開ける。そして振り返ると、笑みを深めて言った。

「予想していたより、随分早かったが。武橋君、獲物だよ。」

 金次が無言で窓に近付くと、背広は黙って場所を譲った。葉の落ちた木々の隙間から、山の入口付近に僅かに開けた土地が見える。金次も新聞の記事くらいは覚えている。政府に叛旗を翻そうとして失敗した無能共が、根城にしていた襤褸ぼろ屋の跡だ。既に建物は取り壊され、空地でしかない其処に、

「……!」

「驚かなくて良いんだよ、武橋君。私はこの為に此処に君を連れて来たのだからね。」

 硬直した金次の背を、背広が二度ほど軽く叩く。しかし、金次は内心に浮かんだある感情を押し込めるように、声を絞り出した。

「何でこんな所に有坂の野郎が来ると知ってた?」

「知っていた訳では無いんだが、予想していたのは確かだね。亀の甲より年の功と言うだろう?」

 答えになっていない答えを返され、金次は眉を寄せる。しかし、背広――自分達が「アカツキ」と呼んでいるこの男が、特別な人間なのは間違い無いのだ。

「さ、武橋君。撃ち給え。」

「は?」

「この機会を逃したら、次は相当長く待たねばならなくなる。私はずっとアレが欲しかったのだが、督孝よしたか直孝なおたかも……その前も機会が無くてね。今回は、またと無い機会なのだよ。」

 流石に絶句した金次に、「アカツキ」は穏やかな笑みを向けた。

「それに、『飛鼠ひそ』の望みも叶えてやりたいからね。君だって、彼には借りがあるだろう?」

 そう言って「アカツキ」は窓の先へ顔を向ける。その通り、自分が左手で銃を持たねばならなくなった切掛を作った衣笠は、有坂孝晴の働き掛けにより太田本家から謹慎の短縮を求められ、のうのうと軍に舞い戻った。左手に僅かに力が籠る。

「ああ、分かっているだろうが、頭と肺は狙ってはいけないよ。腹を狙うんだ。不安がる事は無い、君は沢山努力して来たし、銃を撃つのが好きなのだから。好きこそものの上手なれ、だよ。さあ、久々の射撃なのだから、楽しみ給えよ。」

 優しく、まるで子供に言い聞かせるようなアカツキの言葉。他の人間であれば馬鹿にしていると感じるが、不思議と怒りは湧かなかった。逆に、精神が鎮まり、純粋に愉しみを前にした高揚で充されてゆく。鴉などでは物足りない。久し振りに、人を撃つのだ。もう、周りの音は聞こえない。金次は唾を飲み込むと、僅かに開いた窓の隙間で銃身を支え、両の目で獲物を見据える。丁度、背が見える状態。此方に気付く筈がない。静かに、霜の音のように静かに、金次の左の指先が引鉄を引いた。



(どうして、此処に来ちまったんだろうな。師匠はもう、居ねぇってのに。)

 孝晴は、頭痛に耐えながら其処に立っていた。何を考えて居たのか分からない程頭を回してしまい、耐えられなくなって、こんな場所までやって来てしまった。これであまねは自分から離れるだろうが、意図的に女を傷付けるのは初めてだった。厭な気分だと思い、そう感じた自分を孝晴は嘲笑う。

(此処で何人殺したンだよ、俺ぁ。其れに比べりゃ、些細なもんだろぃ。)

 日も傾き、気温も落ちて来た。あの日のように夜が来る。空腹を通り越して何も感じなくなっていた為、いっそこのまま一晩過ごしてしまおうかと思った、その時。

 火薬の爆ぜる音が思考に割り込んだ。

 聞いた瞬間、銃の発砲音であると分かる。しかし、頭痛が反応を妨げた。音の方向を振り向いた時には、孝晴の視界の中に弾丸が飛び込んで来ていた。

 瞬時に、頭が回転する。弾道は?射手の位置は?音が鳴ってからほぼ同時、入射角を辿る、あの山小屋から撃たれた、確実に、何故、いや、時間がない、弾丸はの世界の存在だ、常人には目視出来ない、こちらの――

 孝晴は「迷った」。避ける事は出来るが、この距離ならば射手から自分が見えている。弾は「当たる軌道」を通っている、それくらい射手も分かっているだろう。避けて、殺しに行くか?いや、何が目的かも分からない相手は殺せない。

 その後の思考は本能に引っ張られた。孝晴は体の向きを変え、腰を落とす。そして額で弾を受けた。弾に合わせて角度を計算しながら。ぶち、ぶちっと頭の中で血管が切れる。痛ぇ。目の前が赤と白に激しく明滅し、そのまま孝晴は慣性に身を任せる。自分の体が地面にぶつかる衝撃は、「頭の中の痛み」に較べたら、全く大したものではなかった。



「…………は……?」

 一瞬前までの高揚感が、嘘のように頭が冷え切っている。鶯の文官服を着た男は、弾かれるようにひっくり返り、頭から血を噴き出しながら仰向けに倒れた。隣でアカツキが残念そうに言う。

「おや……頭に当たったようだね。」

「ちが、」

「ん?」

 思わず声を上げた金次に、不思議そうにアカツキが顔を向ける。金次は混乱していた。

(俺が、失敗した? 左手で撃ったから……いや違う、俺は胴を狙った、万一、万が一照準がずれたとしても、何で……どうして!? 撃ったのは背中からだぞ! 衝撃で回るような瞬間は見えなかった、奴は……倒れる時にはもう、此方こっちを向いてた!)

「あいつ……、」

 言い掛けて金次は我に返る。アカツキの頭を押し下げ、窓を急いで閉めた。

「……どうしたんだい?」

「人が見えた。」

「おやおや、今日は随分賑やかだね。」

 アカツキは笑みを崩さないが、金次は踵を返し、背後で笑っていた覆面を蹴飛ばすと、小屋の外で壁に身を隠しながら空地を伺う。有坂孝晴の死体の側に走って来たのは、……あの髪の色は。

「狐野郎……!」

 小さく呟くと、即座に金次は小屋に戻る。アカツキは小屋の中で蹲る覆面の頭を撫でてやっていた。そのまま黙って自分を見ているアカツキだが、笑みの形に細められたその目線が何処を向いているのか、金次には分からない。

「失敗、した。あと、狐に見つかった。どうする。」

「そうだね。まあ、他人が見付けてしまったならば仕方ない。諦めるとするよ。次の世代を待とう。今は、有坂ばかりに手を割いていられないのだしね。」

「……。」

 あっけらかんと笑うアカツキを見ながらも、金次の内心に生まれた違和感は、何時迄も消える事は無かった。



 飛び散る赤。

 倒れる体。

 もとどりを結えた紐が切れ、散らばってゆく長い髪。

 目の前で起きた事が信じられず、四辻鞠哉はただ呆然と立ち尽くした。何かが弾ける音、そして地面に倒れる重い音が、視界に残った映像とずれて、何度も脳内にこだまする。そうして暫く、体感では途方も無い時間立ち尽くした後、急に意識が正常に戻り、鞠哉は木陰から飛び出した。

「有坂、……ッ、」

 呼びながら傍へ駆け寄ったが、直ぐに絶句してしまう。額の穴から吹き出した血が顔中を赤く染め、地面にも後頭部から溢れた血が飛び散っている。先の音は銃声だったのだろう。余りに呆気なく目の前で人が死んだ事に、さしもの鞠哉も動揺を抑えられなかった。側に膝をつき、胸を押さえる。鼓動が速い。

(何で、こんな……何が起きたんだ。俺はどうすべきだ……? いや、やはり通報を、)

「……オイ、」

「ひっ!?」

 裏返った甲高い声が鞠哉の喉から走り、恐怖に満ちた目が目の前の死体に向けられる。

「げほっ、あぁ、お前さんか……。」

 孝晴の目が、開いていた。

 元々白い顔を更に真っ白にしている鞠哉に、孝晴は言う。

「四辻、俺を背負って、衣笠んとこまで連れてってくれ。」

「……ッ!? 待って……下さい、どうして、頭、生きて、」

「俺の『病』について知りたけりゃ、手ぇ貸せ。」

 そう言うと孝晴は再び目を閉じる。鞠哉は驚きの余り止まりそうになった呼吸を、数度胸を強く叩いて再開させた。

「……分かりました、軍病院ではなく、お邸でよろしいですか。」

 孝晴は血塗れの顔で僅かに微笑む。それを肯定と捉え、鞠哉は一度目を閉じる。少なくとも、この怪我人には事情があり、更に衣笠家――恐らく、衣笠理一個人――も、それに噛んでいる。その内情を得られるならば、恩を売るのも悪くは無い。そう自分に言い聞かせて動揺を収めると、鞠哉は孝晴の体を起こし、腕を掴んで背中に乗せ、――そのまま無様に地面に倒れ伏した。

「ぐっ!?」

「はは、重いだろうが頑張れよ、精々上手く誤魔化してくれや……。」

 笑い混じりの孝晴の声が力無く萎んでゆき、更なる重みが鞠哉の背にのしかかる。重い。力の抜けた成人男子というだけの重さではない。予想していた目方の、数倍は、重い。

(何だこれ……一体、何なんだ、こいつは……!?)

 くたりとした頭から、肩の辺りに血が染み込むのを感じる。鞠哉は震える腕で体を支え、片足を前に出し、その足を産まれたての仔馬のように震わせながらも、なんとか体の平衡を崩さないようにしながら立ち上がる。それだけでも息が上がりそうだったが、ふと、思い出す。

(このまま、街中まで、歩いて戻るのか……!?)

 動揺の余り忘れていたが、此処は郊外。衣笠邸を目指すなら、四里はある。その間、車や電車に乗せれば大事になるのは明白だった。背負って連れて行けとは、そういう事だろう。そうして立っているだけでも、体力が急激に奪われてゆく……。

『……クソッタレ!』

 母國の言葉で悪態を吐くと、薄暗くなった森の出口に向かい、よろよろと鞠哉は歩き始めた。


 円卓の上に開かれた冊子の表面を鉛筆が走る。少し走って、音が止まった。再び走り出して、また止まる。それを無言で繰り返しているのは、一人の少女だった。髪を頭の左右で団子にしており、肌は浅黒く、大きな瞳に気の強さを滲ませている。その隣には、梟の面を被った黒軍服――「小紫こむらさき」である銭形透子が、黙ってその手元を眺めていた。少女は万華菊紋隊の一員であるが、軍服を纏っておらず、動きやすいように袖が襷で留められている以外は、至って平凡な着物を着ていた。正面の丹塗りの扉が開く度に彼女は顔を上げたが、それが目的の人物では無いと分かると無言で冊子に向き直る。しかし、入って来た狼面――「深緋こきひ」は、ゆっくりと彼女に近寄って来た。

「どうした、白橡しろつるばみ。誰を待っている。」

 少女――白橡はちらと其方を向くと、手を止めて息を吐いた。

「あんたには関係ない。」

「……。私的な事情は、万華には持ち込めない。お前も理解しているだろう。」

「わーってる! でも……!」

 白橡は叫んだが、直ぐに口を噤む。深緋は透子に顔を向けたが、透子も首を振る。そして彼女は立ち上がると、深緋に紙を手渡した。

緑青ろくしょうちゃんにも、藤黄とうおう君にも、この調子だった。今日、まだ一度も来ていないのは、浅葱あさぎ君と、朱華君。』

 黙ってその文を読んだ深緋は、白橡に再度目を向ける。白橡は得物の手入れを専門とする「くろ」と同じ技術職で、面作りを専門とする色。彼女は十三で代替わりしてもう二年になるが、生まれた時から技術を叩き込まれて来ており、働きは申し分無い。だが、他の候補者と競い合う生活を強いられて来た為、まだ一般人との関わりが少なく、未成熟な情緒は攻撃的になりやすい。そんな彼女が最も信頼しているのは……。

 深緋が背後に目を向けた直後、扉が開く。その隙間に鼬面の男が見えた瞬間、白橡が勢いよく立ち上がった。

「……どうした?」

 部屋に入って来た朱華は、その場にいる三人が漏れなく自分を見ているという状況に首を傾げたが、その瞬間に白橡が叫んだ。

「朱華ッ! 面取れ!」

「!?」

「早く! あーしは面を被ったお前と話したくねーんだよ!」

「な、何だ? どうしたんだ、一体。今着けて来たばかりだぞ……。」

 戸惑いつつも留具を外し、顔を露わにする――「朱華」こと、多聞正介。

「ほい、取ったで。どないしたん、あおちゃん? ちゅうか深緋と小紫さんは何して……、」

「あいつらは関係ない。」

 きっぱりと言い切り、白橡は正介の前に立つ。その真剣な表情を見て何かあると察した正介はしゃがみ込んで彼女に目線を合わせた。

「何があったんや。」

 静かで穏やかなその声を聞いた瞬間、白橡の表情が歪む。しかし彼女は歯を食い縛ると、震える声で言った。

「……あーしの友達が、殺された。」

「!」

「あいつは……おツネは、あーしが学校に入って、初めて出来た、友達だった……修行しかして来なかったから、文字も、算術も、みんなよりできないあーしを、唯一馬鹿にしなかった……でも、おツネは、顔を潰されて死んだ! 何でだよ、朱華!? お前、邏隊員だろ! 何でおツネが死んだんだ!!」

 最後の言葉を叫んだ時、少女の目から涙が溢れた。正介は静かにそれを聞いている。深緋と小紫も、黙っていた。やがて、正介は彼女の目を真っ直ぐに見て言った。

「分からへん。けど、それを明らかにするのが、邏隊の仕事や。……ツネちゃんは、生きてる俺らが弔ってあげなあかん。」

 そっと正介の手が白橡の肩に触れる。彼女はそれを振り払わなかった。溢れる涙を両手で擦り上げながら、彼女は喉を詰まらせた。

「うるさい、分かって……っ、しょ、すけ、かたき、取ってよ。おツネの無念、晴らしてよ……!」

「敵討ちはでけへん。裁くのは法や。けど、下手人を法の下へ引き摺り出すんが、邏隊の仕事や。」

 正介はきっぱりと言った。白橡はまだ幼いが、万華の一員。子供扱いして誤魔化す訳にいかない。白橡は奥歯を噛み締めると、何かを求めるように正介を見る。正介は頷くと、口調は軽く、表情は安心させるように微笑みながら言った。

「泣きや。子供は泣くんも仕事やで。」

「こどもじゃないっ……馬鹿野郎ッ……!」

 そして彼女は正介に飛び付き、肩に顔を埋めて大声で泣き出す。正介は黙ってその背に手を回しつつ、深緋に言った。

「深緋。万華は帝に関わる件のみ動くやんな。」

「……。」

「せやけど、俺等の仕事は、つるちゃんがおらへんと成り立たへんやんな。」

「……。」

 黙っているが、深緋が話を聞いていると正介には分かっていた。

「血縁のおらへんつるちゃんにとって、友達は身内みたいなもんや。これだけ『白橡』に影響があるんは、万華にとって、帝にとって、看過でけへんのやないか。」

 万華は、帝に関連がある事件であれば動く。逆に言えば、それ以外の件では基本的に動けない。しかし、帝の剣であり盾である万華の隊員に強い影響を与えるような事件を、万華の権限で調査できれば。正介は、内心で自分を嫌な奴だと思った。白橡――名は、能見葵子というのだが――を慰めながらも、この件は、「深緋」を「人間」に近づける切欠に出来るかもしれない、そう、思ってしまったのだから。腕を組み暫く黙っていた深緋は、やがて呟いた。

「期待はするな。だが……考えておこう。」


「帝國の書庫番」

廿八幕「連鎖」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る