帝國の書庫番 十八幕

時は少し戻り、世が冬の間口に踏み入った頃。


 灯りを落とし、煖炉で燃える火が薄く照らすだけの部屋。格子型の硝子が綺麗に並ぶ窓の向こうには、漆黒の中にぽつりぽつりと主張する瓦斯燈の灯りが見える。煖炉のお陰で部屋は暖められているが、体が熱いのはそれが理由ではない。心臓の音が体中に響いて、頭の天辺から脚の爪先までが一つの塊にでもなったようだ。理由はただ一つ――来るのだ、彼が。彼の愛しい人。ふみの遣取りは最初程頻繁にではなくなったが、それは留子の気が変わったからではない。秋の終わりまで謹慎の名目で数を減らし、そして二人で「当初のように頻繁な文通を続ければ、何処かに嗅ぎ付けられる可能性がある」として、控えるようにしたのだ。しかし、今夜。麟太郎からの返信に記載された日。それこそ、一日中自分を保っているのが精一杯。やっと了承して貰えたのだ。窓から離れているようにと文には書いてあったが、それでもどうしても目は行ってしまう。寝台に腰掛ける留子の膝には、猫のコハルが丸まっている。まだ甘えたなコハルの頭を撫でながら、留子は暗闇の中の点々を数えて、心を落ち着けようとしてみた。一つ……二つ……八つ、九つ……。

 その時、数えていた灯りの数が急に減った。驚いている間も無く、一瞬、冷たい空気を感じる。そして、その時にはもう、刀祢麟太郎は其処に居た。陰の中に溶け込むような烏羽の軍服は、初めて会った時から何ら変わっていない。音も無く、ぴたりと窓を閉めた彼は、黙って留子に深く頭を下げる。留子は動けなかった。顔を上げ直立した麟太郎が、じっと留子を見ている。数秒間、睨み合うように硬直していた空気を、猫が破る。留子の膝からひょいと飛び降りたコハルは、とてとてと麟太郎に近付き、その足首に体を擦り寄せた。

「……毛が。」

「あっ……。」

 猫の方へと目線を逸らし、小さく呟く麟太郎。留子が何の意味も無い声を上げたが、麟太郎は静かに屈むと、脚に絡み付く猫を抱き上げる。

「コハルですか。」

「……はい。」

「大きくなりましたね。」

「……はい、麟太郎さまのお陰で。」

 留子は立ち上がり、麟太郎に歩み寄る。留子の言葉に首を傾げる麟太郎から猫を受け取り、寝台に載せると、彼女はぱっと駆けて麟太郎を抱き締めた。

「お会い、したかったです。」

「……。」

 麟太郎は煖炉を背にしている上、留子と殆ど背の高さが変わらないものだから、抱き着いてしまうと留子から表情は全く見えない。けれど、彼がどんな表情をしているかなど考える意味は無いのだ。大切なのは、彼の心なのだから。

「……済みません。このような時、男はどうするべきなのでしょうか。」

「ふふっ。」

 棒立ちのまま、淡々と訊ねる麟太郎。留子は腕に少しだけ力を込めた。

「麟太郎さまのなさりたいようにすべきです。わたしは、抱き締められると安心しますから、抱き締める事も好きです。」

「そう、ですか。」

 ややあって、麟太郎の手が留子の頭に触れた。そしてゆっくりと髪を滑る。そう言えば、彼は有坂孝晴に対しても、同じようにしていた。これが今彼にできる唯一の愛情表現なのだと思うと、留子は堪らなくなって、そのまま暫く麟太郎を離さなかった。



 冬に入り気温が下がると、体を壊しやすくなる。くるわの中でも風邪引きが増えているようだ。次姉の体の調子も管理するのは自分ゆえ、早めに薬を買わなければならない。そんな事を考えながら、衣笠理一は軍服姿で通りを歩む。休日なのだから外出着でも良いのだが、以前孝晴に言われたように、目立って仕方がないのだ。孝晴や麟太郎のように、気にしないて居ようとしても、寄って来られるとあしらうのも面倒だ。それに軍服ならば、軍医であると一目で分かる。

 彼が向かっているのは、町の薬屋だった。薬師で町医者であった、西方にしかたという老人の診療所を兼ねた薬屋では、ほぼ一通り必要な物が揃う。理一も医学を志した頃から懇意となり、西方老人を医者として尊敬していたが、彼はつい先日、天寿を全うして亡くなってしまった。薬屋は助手をしていた女が継いだのだが、この女がまた変わり者で、常に顔の下半分を布巾で覆い、一切言葉を発しないのだ。西方老人が指示を出せばその通りに動いていた為、ろうではないようだが……その西方老人はもう居ない。今迄通りに薬が手に入るのか、そもそもあの女――西方老人は「トーコ」と呼んでいた――だけで店を続けているのか。薬の調達と、店の様子の確認。その二つが理一の目的だった。

 問屋が軒を連ねる一角の、通りを挟んだ角にある建物。入口の戸は開いている。先客がいるな、と感じた瞬間、理一の眉が僅かに寄せられた。その声がどうやら、男の怒鳴り声であったからだ。理一は歩調を緩め、開け放たれた戸に静かに近付いてゆく。内容が聞き取れるまで近付くと、今度こそ理一は顔を顰める。どうも、男は腰痛で此処を訪れたらしいが、湿布薬を勧められた事が気に食わない――というより、店にいる「女」に直接処置を施せ、身蓋もなく言えば「触れ」と迫っている。理一は「性の奉仕が欲しいなら女を買えば良い」などと口が裂けても言わないが、それでもまだ、買われれば女に金が入る。まして薬屋に奉仕を求めるなど言語道断だ。無理に手を出すようなら飛び込んで助けようと戸口に取り付き中を窺った理一は、おやと意外そうな顔をした。土間の隣の板張り床の上で、壁一面の薬箱を背にして台の後ろに座っている女は、顔の下半分を隠したあの「トーコ」であったが、彼女の目は怒鳴り付ける男を全く恐れて居ない。怯えて呆けている訳ではなく、例えるなら組手で相対した時、相手の隙を伺うような目だ。腕に覚えがあるのだろうか。男が痺れを切らし、彼女の胸倉を掴もうとしたか、それとも顔の覆いを剥ごうとしたか、右手を突き出す。案の定と言うべきか、その右手は彼女を捉える事は無く、逆に素早く立ち上がった彼女の右手に捉えられ、彼女が鮮やかに腕を一回転させると、男の手は背中に捻り上げられていた。

「いでででで、痛てえっ! この糞婆クソババア、何しやがる!」

 歳上の女に手を上げようとして、何を言っているのだろう。理一は噴出すのを堪えながら戸を潜る。男は慌てて新たな客の方を見たが、女は一呼吸置いて男の腕を固めたまま、ゆっくりと理一を見て、少し目を細めると、頭だけで小さく会釈した。

「おいあんた、その色は軍医か!? この暴力婆なんとかしてくれ!」

 叫ぶ男。理一は軍帽の鍔を上げ、男に向かってにっこりと笑いかけると、言った。

「もう少し捻っても折れないぜ、『トーコ』さん。」

 一瞬女は目を開いたが、その目が弧を描くと同時に、男の情けない悲鳴が店内に響き渡った。


「先生が亡くなったばかりだってのに、災難だったな。しかし、あんたに武の心得があるとは知らなかったよ。」

 男はほうほうの体で逃げ出してゆき、店の中に客は理一だけだ。彼女は理一の言葉を聞くと、傍に置いてあった洋紙を取って、鉛筆を走らせる。


 オミ苦シイ処ヲオミセシテ、申シワケゴザイマセン


 その文の上には、薬の名前や他の客への問いと思われる文に線が引かれている。筆談で会話しているのだ。理一は首を振ると、彼女の目を見る。

「気にしなくていい。ただ、そこらの悪党なら捻れそうな腕はあるにしろ、心配なのは心配だ。……名前、先生が呼んでたのを聞いただけだったから、改めて訊いても構わないか?」

 彼女は頷くと、先の一文に線を引いて消し、その下に「透子」と記した。透子とおこ。理一が礼を言うと、彼女は微笑んで頷く。何となく、このような表情を何処かで見た事があるような気がした。ただ、それは余りにも朧気な感覚であった為、理一は一先ず問いを重ねる。

「手前勝手で申し訳ないんだが、あんなのが寄って来て此処が無くなるなんて事になったら、俺も困っちまう。だから、出来る事があれば協力したい。その為に、今の透子さんの立場を教えて欲しい。あんたは此処を継いだって事だが、薬師も医者も継いだのか?」

 透子は一つ頷く。では、彼女は西方老人の弟子であったという事か。

「もう一ついいか?」

 頷く透子。

「透子さんは、今一人で此処を回してんのか?」

 首肯。理一は首を振るだけで答えられるように言葉を選んでいた。彼女もそれを理解しているようで、手許の鉛筆は動いていない。

「……助手や弟子を取る気は、無いのか。」

 彼女は頷くと、理一が何か言う前に手を動かして、こう書いた。

【私はおしです。人を雇って動かすにも字を書かねばなりません。二度手間です。私が直接、患者や客に対応した方が早いのです。】

「……。」

 確かにその通りだ。しかし聾ではない唖というのは、どのような理由であろうか。喉の病気か、心因性のものか、はたまた……。理一は彼女の目を見る。その表情は真剣だ。

「一つ思った事があるんだが、それを伝えるには、透子さん、あんたが話せない理由を、知っておきたい。……嫌でなければ、教えて貰えないか。」

「……。」

 彼女は少し瞼を伏せる。しかし嫌がっているというよりは、何かを考えているような表情だ。やがて透子は、理一の目を見た。紙を手許に寄せ、暫く何かを書付けてゆく。そしてその紙を理一に見せぬまま、手を頭の後ろに回した。顔の覆いを外すようだ。彼女は顔に何の色も浮かべる事なく、ごく自然に、髪でも解くように、布を解いた。

 理一は、僅かに目を見開き、それを見詰める。彼女の両側の頬には、肉が陥没したような疵があった。更に彼女は口を開いて見せる。舌が無かった。

「……。そうか。」

 小さく呟いた理一に、透子はにっこりと微笑む。その笑みに他意は読み取れない。彼女は先程書いた紙を理一の前に向けると、理一がそれを見ている間に、手早く元通り顔を覆った。

【私は武家の娘でした。当然、兄弟姉妹皆、武芸に励んでいました。弓矢の手入れをしていた弟が、誤って手を滑らせ、矢は私の顔を貫きました。その時に駆け付けてくれたのが、西方先生です。舌は矢に持っていかれました。もう丗年も前の事です。】

「……それで透子さんは、家を出て、先生の弟子になったのか。」

 頷く透子。理一は顔を歪めた。彼女の年齢は恐らく四十後半。丗年前ならば女盛りの少女であった筈だ。そんな頃に、顔に傷を負い、言葉も話せなくなったとは……。彼女の哀しみはどれ程のものであっただろう。俯く理一の前から紙が取り上げられ、先の言葉に線が引かれた後に、続きが記載されて戻って来る。

【私は怪我をする前から、ここに通っていました。妹がよく体をこわしていたので、楽にしてやる方法はないかと、教えてもらっていたのです。だから、嫁に行けなくなったなら、真に医者になろうと思い、先生に引き取ってもらいました。】

「……凄いな、透子さんは。」

 理一の言葉に、透子は微笑みを返す。彼女がそうして立ち直れたのも、西方老人あってのものかも知れない。本来、医学とは、医術とはそういうものなのだ。復讐の為にその道に入った自分に後ろめたさを感じつつも、彼女の唖が治らない物であると確認した理一は、改めて透子に訊ねる。

「透子さんは、『手詞てことば』って知ってるか?」

 透子は首を振る。理一は言葉を続けた。

「聾唖学校で取り入れられてる会話法で、手の動きで言葉を表すらしい。俺も読んだ事しか無いんだが、要は、声を出せる奴と透子さんが手詞を覚えて……外國語とつくにことばと同じだ、通訳して貰うんだ。そうすれば、書いて見せるよりは早いだろうし、人手も増える。」

 透子は目を丸くし、ぱちぱちと瞬く。今までは殆ど後ろ姿か作業中しか見た事が無かった為に気付かなかったが、彼女は目での感情表現が豊かだ。理一は少し表情を和らげる。

「俺はここ数年の付き合いだから西方先生と透子さんしか知らないが、西方先生の他の弟子に知り合いが居れば、協力を頼んでも良いんじゃないか。此方でも手詞の教本を取り寄せてみる。急な思い付きだから、上手くいくかは分からねぇ……けど、今は一人で全部出来ても、やっぱり無理はして欲しく無いってのが、正直な所だ。」

【なぜですか。】

 初めて、透子の方から問いが返って来た。理一は苦笑する。

「透子さんみたいな立派な医者は、不養生しやすいだろ。声に治療の見込みがあれば、外ツ國の新しい療法なんかも提案するつもりだったが、それが出来ないなら、少しでも楽な方法を取って欲しいと思った。俺も一応、医者だからな。」


 数種類の薬と薬包紙を買い、次は手詞の資料と教本を持って来ると言って、衣笠理一は店を出て行った。残った透子は息を吐く。

(どうやら、悟られはしなかったみたいね。昔から、似ていない姉妹だと言われていたものだけれど。)

 彼女は、衣笠理一を知っていた。勿論、師である西方老人を慕う客として、そして医者の一人としては、当然知っている。目立つ風貌をしているし、廓狂いの色男だという噂も聞いている。しかし、彼女と衣笠理一の関係は、それだけではない。透子は先に「西方老人に引き取ってもらった」と書いたが、籍は変えていない。住込みの奉公人として働き、店を譲られた形だ。姓を知られたら、きっと彼は自分が何者か気付くだろう。衣笠理一。衣笠家前当主の子。その彼が、親の先妻の姓を知らない筈が無い。

(初めて此処に来た時には、驚いたものだけれど。あの子は私とも、妹とも、血の繋がりは無いのにね。まさか、医者になっていたなんて。)

 彼が衣笠を名乗った時には、何の因果だろうかと思わざるを得なかった。妹の子の異母弟――義甥と、同じ職を通じて関わる事になるとは。考えながら手を動かし、店の片付けを粗方済ませた透子は、先の理一の言葉を思い返し、一人微笑みを浮かべる。

(それにしても、この歳になっても知らない事はまだまだあるものね。手詞なんてもの、初めて聞いたわ。『御参り』の時に、匂坂さぎざか君に訊いてみようかしら。あの子は、色々な物事に通じているから。皆とも話し易くなれば嬉しいわね。)

 彼女は戸口から外に顔を出し、他の客が居ない事を確認すると、入口を閉じる。そして店の奥へ向かい、そのまま裏口へと消えて行った。



 有坂孝晴は、座布団を枕に寝転がりながら、新聞に目を通していた。当然、平日の昼間であるから、書庫番業務はすっぽかしている。ただ、平日に顔を出すようになってから、前のように煩く言われる――第二や第一書記部からの小言は別として――事は無くなった為、幾分か気は楽だ。それに市井の情報は、第三に回ってくる書類よりも新聞の方が早い。切裂きの件は、爵位のある者やその妻子が被害に遭った時のみ「犯人未だ姿を見せず」などと紙面が割かれる程度だ。今はまだ、仕立屋に注文した背広が仕上がるのを待つ身。その間に出来る限り情報を集めておきたいと、記憶にある限りの記事や噂を頭の中で洗い出してみても、日毎に新しい新聞を読んでも、異人の被害に関する情報は無い。ごろりと孝晴は背を畳に預け、新聞を放り出して寝転がった。流石に少し冷えを感じる。しかしその冷えが、体の熱を逃してゆく。じきに頭も冷えるだろう。

(……俺ぁ、何の為にこんな事に気を割いてんだか。)

 帝都の異変に一早く気付いてしまえば、放って置けないのは性分だ。自分にはその力も備わっている。ただ、切裂きの件は今までのそれとは事情が異なる。調査してまで関与する必要はあるのだろうか。そう、何度も思った。しかし、孝晴は苦笑する。理由等とうに分かっていた。

(結局、これが自己満足だってンだから、笑っちまわぁ。)

 真っ当に仕事に打ち込むではなく、人とは違う自分にしか出来ない事を探して彷徨い、暗闇から這い出る事件を密かに斬り捨てる事で小さな自尊心を満たす。麟太郎や理一のように、他人の為、世の為等と思うような心は自分には無いだろう。ただ気付いたから、片付ける。気付ける自分が、どぶを浚う。それが何時しか、自分から探すようになっていた。より深い溝を、より深い闇をと。

 はたた、と鳥の羽音がした。寝転がりながら障子に目を向けると、廊下の板を爪が掻くかつかつという音と共に、障子を透かして影が見える。孝晴はごろりと体を転がし、腕を伸ばして障子を開けてやる。隙間からぴょんぴょんと飛んで来たのは、あの「くろすけ」だった。孝晴は障子を元通りに閉めながら、おやと思う。「くろすけ」は、足に何も巻いていなかった。

「どうしたぃ、『くろ坊』。お前さんがお麟の文を落とすなんて事たぁ無ぇだろぃ?」

 孝晴が声を掛けると、「くろすけ」はじっと孝晴の顔を見詰める。顔は此方の方が可愛いが、その仕草は麟太郎そっくりだ。そして、トコトコと歩いて横向きに寝転んだ孝晴に近付くと、なんとその腕に沿うようにして蹲った。そして仰天している孝晴の腕に頭を載せたではないか。

(……こいつぁ驚いた……いや、『くろ』はお麟の命令なら俺にも近付いて来たが、触れた事なんて無かったってのに。)

 否応無しに鼓動が早くなる。今まで、一度たりとも生きた獣に触れた事など無かったのだ。これは、懐いたという事なのか?そもそもこの鴉が麟太郎の元に居ないのは何故だ?しかし疑問よりも興味と不安の方が勝った。孝晴は反対の手を、恐る恐る「くろすけ」の頭に伸ばしてみる。

 ガッ!と一声鋭く鳴いて、「くろすけ」は触れようとした手を牽制した。

「なんだぃお前さんよぉ……。」

 孝晴は溜息を吐き、今の緊張を返せやい等とぼやきながら、ぐでんと大の字に寝転び直すが、「くろすけ」はその場を離れない。元通りに腕に頭を載せると、どこか不貞腐れたように目を閉じている。獣が不貞寝とは、不思議なものだ。

「お前さん、実はヒトだったりしねぇよな? はは、そんな事たぁ無ぇか。妖怪変化の類いか、絵物語でも無けりゃあ、な。」

 呟いた孝晴に、「くろすけ」は目を開け、そして再び閉じた。冗談のように言ったが、此処まで言葉を正確に理解する鴉は他に居ないだろう。少なくとも、この鴉が届け先の違う文を持って来た事は一度も無い。直ぐに返事を出すから待てと言えばちゃんと待つし、此方が麟太郎や理一に送った文も、届かない事は無かった。

「……案外、お前さんも、自分と他の鴉は違うって悩んでんのかぃ? そんなら俺と一緒さね。俺も……、」

 他の人間とは違う。孝晴はその部分を口には出さなかった。そして思う。もし、自分がこの家に生まれて居なかったならと。貧しく、日々の暮らしにも事欠くような場所に生まれて居たら、こんな体では生きる事すら出来ないだろう。職を放って遊び歩いても、昼間からだらけていても、安定した衣食住が保証されている、そんな「有坂家の子」の立場に、自分は生かされている。此処から離れるのは、きっと自分が死ぬ時だ。

「お前さんも、難儀だねぃ。鳥だってのに、ヒトの側から離れられないってのは。ま、周りから可愛がられてるだけ、俺よりましかも知れねぇな?」

 その言葉に、「くろすけ」は頭を上げる。直後「痛ぇっ」と孝晴は声を上げた。見れば、嘴で腕をしこたま突いておいて、その場所にまたも頭を載せて澄まし顔をしている。鴉が何を思っているか等、分かる筈が無かったかと孝晴は口を噤むと、そのまま暫く一人と一羽は動かなかった。



 寄り添う二人の間には、無音の時が流れていた。しかし、そんな事をしている場合では無い。留子は自ら体を離し、一歩下がって麟太郎の目を見る。その瞳は全く静かで、それでいて優しかった。留子の気が済むまで待って居てくれたのだろう。

「有難うございます、麟太郎さま。」

「……ええ、はい。抱擁が好きだと仰いましたので。私でよいならと。それで、話に入っても構いませんか。」

「はい。その為に態々、来て頂いたんですもの。」

 そう、今夜の時間は、ただ逢瀬の為にある訳では無いのだ。麟太郎が口火を切った。

「孝雅様や、他の公爵家の方に、孝晴様について訊ねて回っていると言うのは、本当なのですね。」

 留子は頷いて言う。

「念の為、先に申し上げて置きますが……関係を穿って見られないようには、気を付けています。以前わたしが孝晴さまに話については、皆ご存知ですから、そのお詫びの為に、どうお近付きになるべきかと……孝雅さまには、元々良くして頂いておりましたから、わたしが弟君と仲良くしたいと言って、喜ばれこそすれ、不審に思われてはいません。」

「留子様なら、その心掛けはお有りと思っていました。しかし……何故、そのような事を。そして私に何を伝えたいのですか。文には記載されていませんでしたが。」

 麟太郎は目を細めて、そう言った。息を細く吐く留子。麟太郎が初対面の相手を怖がらせる理由が、分かった気がした。確り目を見ていれば、彼が怒ったり、責めたりしている訳ではなく、ただ事実を述べて問うているだけだと解る。しかし、その睨むような目、感情が削ぎ落とされたような顔、そして淡々と抑揚無く吐き出される言葉。部屋が薄暗いのも相まって、彼の「不気味さ」が際立っていた。勿論、それで自分の心が変わる事は無いのだが。留子は麟太郎の目をじっと見る。

「わたしは、あの親睦会の日に、皆さまのお話を聞いていました。それで、麟太郎さまだけでなく、衣笠さまと、孝晴さまからも、お手紙を頂いたんです。あの場では確かに、皆さまはわだかまりを解かれたと思います。けれど、衣笠様も、孝晴さまも、ご自身以外を心配する内容を書かれていました。それが、どうしてか、とても寂しく感じたんです。お二人はまだ、ご自身の抱える何かに苦しんでいらっしゃる。けれど、わたしが力になれるかも分からない。ならば、お二人とお近付きになって、もっと知るべきだ。そう、思ったから……お話を聞いて回っていたんです。」

 麟太郎は暫く無言だった。そして、そのまま首を傾げる。

「何故ですか。」

「え?」

「何故、貴女がそこまでなさるのですか。いえ、言い方が違いますか。一度ご協力頂いたにしろ、貴女にとって、私も、孝晴様も、衣笠先生も、他人です。他人の為にそこまでする理由は何なのですか。」

 その言葉に留子は一瞬面食らったが、次には思わず、吹き出してしまった。くすくすと小さく笑う留子を、麟太郎は不思議そうに目を瞬かせながら見ている。留子は、ふう、と息を一つ吐き、自分を落ち着けてから、微笑んだ。

「麟太郎さま、お手紙に書いていらしたでしょう? わたしの心と麟太郎さまの心は似ているのだろうかと。わたしはあの時、其々の心は自分だけの物だとお返事しました。でも、似たような事を経験された麟太郎さまなら、分かってくださる筈です。麟太郎さまは、孝晴さまをお慕いしています。その孝晴さまや、ご友人の衣笠さまが、悩まれているなら、力になりたいと。そう思った事は無いのですか?」

「それは……つまり?」

「わたしが麟太郎さまをお慕いしている以上、孝晴さまも、衣笠さまも、わたしにとって他人ではない、と言う事です。わたしは、麟太郎さまと結ばれたいと思っていますが、自分だけが幸せであれば良いなどと考える事は出来ません。わたしに出来る事など少ないかも知れませんが、手の届く所だけでも、皆さんに、幸せになって欲しい。そう思うのは、おかしな事でしょうか?」

「……。」

 麟太郎は口を噤む。考えているようだった。後ろでコハルが、みゃあと鳴いた。留子が猫を抱き上げ、頭を撫でながら戻って来ると、麟太郎はゆっくりと言った。

「おかしな事かどうかは、私には分かりません。しかし、留子様がそう思われるなら、それが事実なのでしょう。」

「有難うございます、麟太郎さま。手紙に書きました『お伝えしたかった事』の一つは、今お話した内容を、直接伝えたいという事でした。麟太郎さまに、誤解されたく無かったんです。」

「そう、ですか。確かに、先に知っていたら、少なくとも疑問には思ったでしょう。私は孝晴様と衣笠先生以外の貴族の方々とは、殆ど付き合わないもので、知る由は無かったかも知れませんが。」

 そう言って、麟太郎は留子を見る。先程留子が「一つ」と言ったため、続きを待っているのだろう。留子はそこで、きゅっと眉を下げた。

「もう一つは……麟太郎さまに、あなたを知る方が、あなたをどのように思っているか、もっと知って頂きたい、とお伝えしたいと思っていました。」

「どういう事ですか。」

 麟太郎は首を傾げる。留子は腕の中の猫を抱く手に、少し力を入れた。

「わたしが孝雅さまにもお話を伺った事は、手紙でもお伝えしました。孝雅さまは、議員になられる前に父の秘書をされていましたから、当時は沢山可愛がって頂きました。先日お訪ねした時も、本当に喜んで下さって……。その時に孝雅さまは、ご兄弟をとても大切に思っていらっしゃる事と共に、麟太郎さま、あなたを心配しているとも仰られたんです。」

「孝雅様が……? 何故なにゆえ……。」

 麟太郎は目を細める。有坂孝雅は、麟太郎が拾われた頃には既に軍に勤めていた。有坂家で養育された三年の間、今の有坂孝成と同じように、偶に家に帰って来た時に顔を見る事はあった。麟太郎が刀祢姓を得て家を出た時には、挨拶に行った。麟太郎と有坂孝雅との間には、その程度の付き合いしか無い。何故「心配」という言葉が出るのだろう。そんな麟太郎に、留子は優しく微笑む。

「孝雅さまは、ご兄弟の孝成さま、孝晴さまと同じように、あなたも、有坂家の家族だとお考えのようです。」

「……。そのような事実はありませんが。」

「孝雅さまのお気持にとっては、それが事実なんです、麟太郎さま。」

 無表情のまま首を傾げる麟太郎。留子は猫を片手に抱え、もう片方の手で麟太郎の手を握った。二人は高さの同じ目線で、静かに見つめ合う。

「孝雅さまは、昔の孝晴さまについて、お話して下さいました。幼い頃、孝晴さまは、他人との交わりを避けがちであったと。そんな孝晴さまが、楽しそうに麟太郎さまに物事を教えているのを見て、こう思われたそうです。『本来私や孝成が務めるべきであった【きょうだい】の関係を、孝晴に教えてくれたのは麟太郎君だ』と。だから、孝雅さまにとっては、殆ど面識が無くても、麟太郎さまは家族のお一人なんです。」

「それは……孝雅様の思い違いでしょう。私は、孝晴様に『友達』だと言って頂きましたが、友人は家族ではありません。」

 一度目を逸らしてから、麟太郎が答える。留子は、やはり、と心の内で思った。初めて此処で会った日もそうだった。麟太郎は、彼を評価する言葉を、受け止められない。麟太郎は卑屈な訳では無い。少なくとも留子には卑屈には感じられ無かった。ただ、彼への評価は、彼にとって事実ではない。故に、理解出来ない。否定する。麟太郎の中には、「麟太郎」が、居ない。不思議だった。自己を持たない訳では無い。決断が出来ない訳でも無い。ただ、評価だけが彼を素通りする。

「麟太郎さまは、ご自身が『褒められている』と感じる事はありますか?」

「……無いように思います。私は、自身に出来る事をしているだけですから。」

「どうして、そう感じられないのか、考えた事はありますか。」

「……、……。」

 どうして。留子のその問いに、麟太郎は答えられなかった。言われた通り、その理由など、考えた事も無かった。麟太郎にとっては、自分が当然に出来る事をして、他人を助ける事は、自分への評価に結び付いていない。それが今まで、当たり前であったから。

「可笑しな事を言ったら、済みません。褒められるとは、どのような状態を表すのですか。それで何か、……心体に、変化が起こるのですか。」

 麟太郎は留子に問う。留子には、彼が何故そうなったかなど、分かる筈もない。ただ、麟太郎が真剣なのは確かだ。留子が何を言おうとしているのか、理解しようとしている。彼は。留子は麟太郎の手を握ったまま、その手を自身の頬に触れさせた。硬い手に、柔らかな頬の感触が伝わる。

「……わたしは、褒められると、『嬉しい』と感じます。心が温かくなりますし、自信にもなります。麟太郎さまは、孝晴さまに信頼されていらっしゃいますし、隊の方からも慕われていらっしゃいますし、ご友人もいらっしゃいます。だから、留子は、そんな皆さまが麟太郎さまに対して抱く気持ちを、麟太郎さま自身に、気付いて欲しいと思ったんです。孝雅さまが麟太郎さまに向ける気持ち、孝晴さま、衣笠さまが麟太郎さまを思う気持ち。『褒められて嬉しい』という感覚は、感情の一部でしかありません。……麟太郎さまは、ご自身の力で孝晴さまとの関係を前に進められました。けれど、そんな麟太郎さまを思う皆さまの気持の温かさが、麟太郎さまに届いていないのは、とても悲しいんです。先にも言いましたが、わたしは、自分だけが幸せであれば良いなどと思いません。わたしに出来る事があるなら、せずには居られないんです。だから一つ、孝雅さまのお気持を、伝えさせて頂きました。あなたを思っている方は、沢山います。それを、忘れないで下さい……。」

 留子は手から力を抜いた。自然と麟太郎の手は抜け落ちる。指先には、まだ留子の体温が残っていた。留子は無言のままの麟太郎を見詰める。その目は、少なくとも麟太郎を責めているようには見えない。

「孝晴さまや衣笠さまが、わたしが素性を探っていると感じて不快になられる事があれば、もっと他の方法を探します。わたしは、直接お話を伺うにはまだ遠い関係ですし、それに『大臣の娘』という立場もありますから、目立ってしまいます。けれど、わたしは欲張る事にしました。皆さまの力になりたい。一方的な我儘ですけれど。……わたしがお伝えした事で悩ませてしまったら、申し訳ありません。でも、わたしは何があっても麟太郎さまが大好きです。それだけは、信じて下さいね。」

 留子はそう言うと、もう一度麟太郎に抱き着いた。そして直ぐに、数歩退がる。麟太郎はじっと留子を見詰め、「分かりました」と静かに呟いた。その表情は、以前見た時と、先程この部屋に来た時と、全く変わらない。けれど、彼に新たな迷い――悩みと言った方が正しいだろう――を、生んでしまったのは確かだ。それでも麟太郎は語調を変えない。

「先ず、留子様が孝晴様や衣笠先生について知りたいと思う理由は、理解しました。御心配をかけて申し訳無いとも思いましたが、そこまで案じて頂けるというのは、我々全員にとって、光栄な事なのでしょう。そして、次に仰った事については……此れから、考えてみます。答えが出るかは、分かりませんが。」

 留子が頷くと、麟太郎は「では」と短く言い残し、窓の外へと飛んで行った。再び一瞬だけ部屋に入って来た空気は、心なしか先程よりも冷たい。留子はゆっくりと窓に近付き、鍵を下ろす。そのままの足取りで寝台に腰掛ける彼女の、腕に抱えられた猫が見上げたその顔に、笑顔は無かった。

(きっと、孝晴さまや、衣笠さまが抱えている寂しさを埋められるのは、麟太郎さまです。けれど、麟太郎さまがご自身を『下』に置いている限り、その立場以上の事は出来ない……。わたしに出来るのは、麟太郎さまが、ご自身をお二人と対等だと思えるように、言葉をかける事……けれど、やはり麟太郎さまを悩ませてしまいました……。)

 留子は様々話を聞くうち、孝晴も理一も「一人で育った」事が、どこか感じる寂しさの根底にあるのではないかと考えていた。平等化政策が取られても、貴族の中にも、貴族と平民の間にも歴然とした身分差は存在し、その貴族も家毎に全く異なる暮らしを送っている。有坂孝晴は自分を「出来損ない」と言い、衣笠理一は養子の上、若くして当主となった衣笠家唯一の男子だ。留子には、あの月の光が差し込む暗い広間で語られた以上の、彼らの心情は分からない。けれど、その二人が麟太郎を大切に思っているのは確かなのだ。麟太郎が自身に欠けた部分を見付け出す事が出来れば、また、何か変わるかも知れない。しかし、それは同時に、純粋な麟太郎を苦しませる事でもあるのではないか。ぐるぐると考えながら、留子はコハルに頬を寄せながら呟いた。

「わたしは本当に、麟太郎さまの支えになっているのでしょうか……。」

 煖炉の火は、もう小さくなっている。布団に潜り込んだ留子の胸の中で、子猫が小さく、みゃあと鳴いた。


 冬の風が、頬を撫でる。暗闇の路地は、麟太郎にとっては馴れ切った道だ。考え事をしながら歩いても、足音は一切しない。纏った烏羽の外套が多少はためくが、その音は風の音よりも小さい。麟太郎は無表情であったが、その内心は、衝撃に乱れていた。言われて初めて気付いたのだ。自分は、驚く。怒りもする。呆れる事もあるし、感嘆したり、悲しみ傷付いた――それも石動に教えられたが――事もあった。故に、感情が「ある」と思って来た。しかし、今までに、「歓喜」した事が、あっただろうか?

(ハル様や親父殿に技術を認めて頂いた時、私は喜んだだろうか? ……いや、私は「感謝」していた。もう一度ハル様の為に尽くせるとなった時、友人だと言って頂いた時、私は喜んだのだろうか? ……違う、私は、「安堵」していた。褒められるとは、何だ? 嬉しいとは、どういう事だ……? 何故私には、その感情が「無い」?)


 ぽたり、


 雫の落ちる音に、弾かれた様に麟太郎は背後を振り返る。だが、背後に水が落ちる様な物は無い。ここ数日雨は降っておらず、雨樋も乾いている。幾ら見回しても、水の出所も、垂れ落ちた跡も見つからない。

(幻聴……? 何故水音など……。)

 麟太郎は片手で頭を押さえ、自分がそんな仕草をした事に驚く。まるで頭痛でも感じているようではないか。ただ、その「驚き」で少し頭が冷えた気がする。まだ十五の留子が、自分だけでなく、孝晴や理一までも気遣っているのだ。彼女の心遣いに報いなければ、勘解由小路大臣にも顔向け出来無い。孝晴も理一も気に掛けている切裂き事件についても、情報を拾わねばならないのだ。動揺している暇など無い。麟太郎は頭を一度振ると、初冬の夜を切裂く様に駆けて行った。


「帝國の書庫番」

十八幕「闕遺の寒烏」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る