沢渡先輩のこと

目々

一夜の過ち(解決済み)

 沢渡さわたり先輩について俺が知っているのは、全く以て表層的で一方的なことばかりだ。

 木曜の午後になると大抵食堂か喫煙所にいるし、アジアン雑貨屋のバイトみたいな恰好をしてるし、学部も学科も教えてくれないけども本人の言うことには部員のいない映画研究会に所属しているらしいし、ブラッドベリなんかの古いSFと刃物と血が出る映画が好きで仲良くなると安くて朝までやっている飲み屋を教えてくれたりする。その上趣味が合ってウマが合ってつまりは親しくなれば学生らしい宅飲みの誘いにも応えてくれるし、酒の肴になりそうな文学論とバカ映画の扱いが手厚い動画サービスがあれば大喜びだ。曖昧な素性も不確かな来歴もお互い様だと言い聞かせて、したいこともするべきことも見当たらない大学生モラトリアムの夜は楽しく更けていく。


 その夜の中で先輩を殺しても当たり前に夜は明けるし、電車は動くし、大学の講義もある。先輩に関連する事象としては、一等知ったところでどうしようもないことだろう。


 動かなくなったままの先輩を風呂場に置いて、いつもと同じ時間に家を出た。下手に欠席すれば記録が残る。不自然な真似はしない方がいい。幸い明日は講義が入っていない日だから、先輩をどうこうするなら今日の夜がいいだろう。

 そんな稚拙なくせに保身に満ちた考えで頭を満たし切ったまま、習慣として染みついた記憶だけを頼りに体を大学へと向かわせる。夏の獰猛な日射しの中で当たり前のようにすれ違う人々が普通の顔をしていることがとても異様に見えたけれども、先輩一人を殺したくらいで世の中はどうにもならないということでしかない。当然だ。人間一人の生死など、世の中の機構に毛ほどの影響も与えない。そのくらいに世界は頑強だ。


 当たり前のことだが、授業の内容などひとつも頭に入ってこなかった。講義の声もチャイムの音も空調の唸りも等しくただの雑音だった。

 昨晩の先輩の顔が、言葉が、嗚咽だけが思考の中をいつまでも反響していた。


「ノート真っ白じゃん。寝てた?」


 背後から囁かれた声に叫び出しそうになった。


 少し掠れた、そのくせ言葉の端々に妙な甘さのある声。

 知っている声だ。

 この声の酔って揺れる語尾の調子も、咳き込むように笑うのも、断末魔の掠れ方さえ俺は知っている。


 振り返れば沢渡先輩はいつものように薄笑いを浮かべてこちらを見ていた。


「この先生、毎年全く同じ内容で授業してるからな。試験対策とか超楽なんだよ、去年取ったやつにノート借りればいいだけだからさ。出席だけちゃんとしといて、あとはツテがあればなんとでもなるし」

「……」

「お前本当に真面目だね。昨日の夜にあんなことしといてさ」


 声も出せず、俺はただ黙って先輩の顔を見つめる。

 先輩はまっすぐに視線を返して、昨日と同じ毒虫じみた柄のシャツ──オリエンタルだかアジアンだか幾何学なんだかさっぱり分からないくすんだ緑に赤の縞が滲む生地──の襟を弄りながら笑う。


「とりあえずさ、授業終わったんならお茶でもしようぜ。駅前の店、今なら限定メニュー出してるから」


 先輩が奢ってやるから付き合えよ、と先輩は右目だけを器用に細める。

 その一言は昨晩の誘いと全く同じなのは故意だろうかと思いながら、俺はその非対称な笑みを呆然と眺めた。


***


 乾いた血糊の色をした夕日が先輩の喉に貼り付いている。


 差し込んだ陽に赤く染まった喉は嚥下のたびに上下する。その動きに絞めた首の痙攣の感触が不意に甦り、ソファに掌を拭いつけてから、俺は恐る恐る視線を正面に向ける。

 首を絞めて殺したはずの男は目の前でもそもそと季節限定のケーキを食べている。


「具合悪かったりすんの、お前。なんか上の空じゃん。今日ずっと」

「いや……大丈夫ですよ。済みません。何かこう、気が散ってて」


 呆然としながらつまらない答えを返せば、さして興味もなさそうに先輩は手元のカップに口をつける。その所作は普段喫茶店で空き時間を潰し損ねて先にも後にも進まない雑談をしているときのそれと全く同じで、あまりにも見慣れた凡庸な動作に動揺する。

 酒に酔って、押し倒して、殴り倒して、縊り殺した。ドラマの筋としては陳腐な、日常には余りにそぐわない行為の記憶。

 その対象が目の前で喫茶店の限定ケーキセットをつつきながらコーヒーを飲んでいるという事態に、冷静でいられる方がおかしいだろう。


 俺に向ける目をゆっくりと細めて、先輩は口を開いた。


「……今度撮る短編映画の筋なんだけどさ、鬱屈青春モノみたいな感じでやろうと思うのよ。主要人物は主人公とその先輩で、偏屈な先輩とどうしてか付き合いが続いて、わけわかんない映画見に行ったりやたら古いSFなんか読まされたりしつつ、二人で飲みに行くぐらいには仲良くなってさ。ある晩珍しく先輩が酔い潰れちゃって、主人公は優しいから家に連れ帰ったんだよね。その辺に捨てて置けないってさ」

「は」


 唐突に始まった語りの合間にカップを傾けながら、先輩は視線だけは真っ直ぐに俺に向けている。

 レンタル専用のB級映画の感想くだらない与太話でも語るような調子で、陳腐な筋は続いていく。


「そんでまあ、家着いたところで先輩が持ち直してまた飲み始めてさ。安いビールと缶チューハイかぱかぱ空けて楽しい宅飲みしてたんだけどね。そのうち悪酔いした先輩がうわごとみたいに思い出話をし始めてさ、聞いてもないピアスの由来とか話すの」

「あの、先輩」

「そのくせ後輩の質問には答えないんだよね、大学生っていうけど所属学科はどこなのかとか、誕生日とか、下の名前とか。なのに聞いてもない昔話だけだらだら続けるんだから、嫌なやつだよ」


 聞いてもない耳飾りの由来、聞いても躱される質問の数々、その代わりとでも言うように流し込まれる尊敬する『あの人』についてのくだらないこと、お前には教えてやんないよと吊り上がる口元と鎌のように歪む目、白っぽい蛍光灯に照らされる泣きぼくろ。

 酔いに沈み切らない夜の記憶が、気怠い語り口に発火する。

 その白い喉首に掌を巻きつけても抵抗すら見せず先輩は俺の方を細めた目でじっと見て、


『やれんの?』


 しなやかな首に指先は沈むように食い込んだ。掴んだ首はどこにも逃げられず、ただ加えた力のままに皮膚がねじれ骨が軋んでいく。

 掌の下で圧し潰される気管の震えも、排水口が水を飲み損ねるような嗚咽とも悲鳴とも分からない音も、俺はまだすべてを覚えている。


 脳内を先輩の死で満たしたまま、俺は先輩を正面から見る。


 先輩は返り血のように夕日を浴びたまま、ただ視線だけをこちらに向けて、ゆっくりと首を傾げる。

 右耳から下がった重たげな耳飾りの房が微かに揺れた。

 あの耳飾りは殴りつけたときに真っ先に耳朶から毟り捨てたはずなのにな、と指先の感触を反芻する。


「先輩。俺、その話知ってますよ」

「適当言うなよ。さっき言ったろ、今度撮る映画の話をしてんだからさ」

「でもその内容って、昨日の夜の」

「俺、脚本も自分で書くからさ……な、分かるだろ。


 細められた黒い目、沈み損ねた月のような双眸を俺は呆然と眺める。


 今度の映画の脚本だという建前で述べられた、昨夜の出来事。先輩との関わり、安酒の酔いと意図しない殺意、衝動的で破滅的でどうにもならない結末。

 一字一句、表現の全てに覚えがある。殺された本人が語っているのだから当然だ。


 俺がこれまで先輩に抱いてきた感情と、昨晩至った惨劇。そのすべてを先輩は覚えていて、それでいて『今度撮る映画の脚本フィクションの話』と馬鹿でも見破れる申し訳程度の建前を被せる。

 駆け引きというには稚拙で、心理戦というには直截が過ぎる。だからこそ意図は嫌になるほど鮮やかに浮かび上がる。


 つまるところ、あの夜のことはすべて虚偽フィクションとして扱うという宣言だ。

 俺の激情を、愚かな過失を、全て一夜の悪い夢として葬り去る。与えた奪ったはずのですら、先輩の曖昧で冷やかな薄笑いに初期化される。

 なかったことにしてやる、忘れてやる、お前のつけた傷などどこにも残してやらない──。

 俺が掴み潰したはずの喉笛で、この男はそう囀るのだ。


 呆然としながら俺は珈琲を啜る。

 加減のない熱は喉を一瞬だけ焼いて、すぐに腹の裡に沈んでいった。


「で、どう? お前主演やんない?」

「……その脚本で俺が引き受けると思うんですか」

「当たり前じゃん。結末だって決まってる。その上でお前がいいなって言ってんだよ、俺」


 という誘いと共に、右目だけが一際細くなる。目尻に刻まれた黒子が何かの徴じみて見えるのは、俺の気の迷いのせいだろう。どんな姿で蘇ってもあの黒子は変わらないのだろうかと、つまらないことを思った。


 西日を浴びてただ赤に塗れたその笑みと蛍光灯の下で俺を煽った口元の歪みは、悍ましい程同じだった。

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