第8話

   8


 明け方の大通りをグレーのバンが北上する。


 雪は夜通し降り続けてもなおやむことを知らず、目に見えるすべてが白一色に染まっている。助手席のネズミは黙って窓の外を眺めていた。この町はいつも灰色だった。幸福は自分たちが一つ残らず回収してしまったから、色彩がないのだと思っていた。しかしこうしてみると、ネズミがふだん気づいていないだけで町はさまざまな色にあふれていたのだと気づかされる。


 エアコンがなかなか温まらず、吐く息が白く濁っている。頬が痛いほど冷たかった。まるで氷の手で顔を包まれているみたいだ。


 信号を待っていると、歩道に寝そべって痙攣している男の姿が目に入った。きっと幸福虫に侵されているのだろう。本来ならすぐに保健所が回収しにくるはずだが、極楽党による死者の対応に追われているのか、それとも回収を行う人たち自身が不幸狩りに遭っているのか、このところ幸福虫患者は野放しになっていた。本当にこの町は終わるんだな。嫌なことばかりの町だったが、いざ終わりを目にすると少し感傷的な気分になってしまうのがわれながら意外だった。


「もうすぐ検問所だ。銃の用意をしておけ」


 運転席の猿田の声が震えていた。ネズミは外套のポケットに忍ばせた拳銃を取り出し、弾が装填されていることを再確認する。


「兄さん、やっぱり銃は私が持つよ」


 後部座席からネコが身を乗り出し、銃を奪おうとしたが、ネズミはそれを押し返した。


「これはおれが持つ。二人で話し合って決めたはずだ」


 でも、とネコが俯く。ネズミにまた人殺しをさせてしまうかもしれないことに対して、ネコなりに後ろめたさがあるのだろう。だが、ネコは銃を握るには優しすぎる。母に首を絞められたときも、自分が死ぬかもしれないのに反撃することをためらっていた。ネコにはその優しさを持ち続けてほしかった。


 検問所には鉄パイプを組んで作ったバリケードが張られ、獅子堂と、その両脇に二人の男たちが立っていた。粉雪を纏った風に髪をなびかせ、仁王立ちでバンを睨みつける獅子堂の姿にネズミは圧倒された。ここで挫けてはいけない。必ずこの町から脱出するのだと心のなかで言い聞かせ、自らを奮い立たせる。


「車を降りろ」


 取り巻きの一人が運転席の猿田に告げる。猿田はエンジンをかけたまま車を降り、ネズミとネコがそれに続いた。兄妹の顔を見た獅子堂が声を上げて笑う。


「まさか自分たちから殺されにくるとはな」


 獅子堂の言葉を合図とするかのように、取り巻き二人が警棒を手に近づいてくる。猿田は彼らをギリギリまで引きつけたところで銃を構え、立て続けに数発撃ちこんだ。


 乾いた銃声が朝の静寂を切り裂く。取り巻き二人は低いうなり声を上げて倒れこみ、被弾した腹部から流れ出す血が降り積もった雪を真っ赤に染めた。


 猿田は獅子堂に銃口を向けたが、獅子堂もまた懐から銃を取り出し発砲する。胸と腹部に弾を受けた猿田が背中から倒れこみ、ネコが悲鳴を上げた。


「獅子堂!」


 ネズミは考えるより先に、獅子堂に向かって走り出していた。獅子堂は慌ててネズミに狙いを定めるが、指が引き金を絞るよりも一瞬早く、ネズミが獅子堂を押し倒した。


 拳銃が獅子堂の手から離れ、雪の上をスルスルと滑っていく。ネズミはポケットから取り出した銃を獅子堂の額に突きつけた。撃鉄を倒し、引き金に指をかける。


「母親だけじゃ飽き足らず、今度はおれを殺すのか」


 獅子堂は笑いながら言った。どうやってかは知らないが、ネズミの過去を調べ上げたのだろう。獅子堂の挑発的な口ぶりに、ネズミは頭がカッと熱くなるのを感じた。


「どうして不幸狩りなんかするんだ。幸福虫が不幸な人間から生まれるだなんて、本気で信じてるのか?」

「信じてないさ。おれはこの世界の何も信じちゃいない」

「だったらなぜモグラを殺したの?」


 ネコがいまにも飛びかからんばかりの勢いで獅子堂に詰め寄ったが、獅子堂は驚く素振りすら見せず、皮肉めいた笑みを浮かべてネコを見た。


 この世界には価値がない、と獅子堂は言った。


「おまえたちは保護区がいまどうなっているか知らないだろう。巷では楽園のように言われているが、そんなのは嘘っぱちだ。一年ほど前から保護区内でも幸福虫が流行りだして、あっという間に広がった。いまでは人口のほとんどは死に絶えて、わずかに残された者たちは考えることを放棄している。運命を受け入れて、幸福なまま死んでいくことを選んだのさ」

「そんな……」


 あまりにも衝撃的な告白に、ネズミの理解が追いつかない。兄妹があれほど憧れていた保護区。それが崩壊寸前の状況にあるだなんて。暗い人生を照らす唯一の光が消えていく空しさにネズミの心は打ちひしがれた。


「だからおれは保護区を出た。おれは、おまえたち不幸な人間が羨ましかった。幸福虫に打ち勝つ強さを持っているおまえたちのことが。おれは不幸になりたかったんだ」

「そんな理由でモグラを殺したのか?」

「この世界で幸福虫に侵されることなく生きていくには、平凡な人間にならなくちゃいけない。夢と希望を節約して、何者にもなれない人生を歩む悔しさがおまえたちにはわかるまい」


 獅子堂の目から涙がこぼれ落ちる。その涙をネズミは知っていた。保護区に住む人間を、幸福な者たちを羨んで幾度となく流してきた涙と同じ色だったからだ。


「おれたちだって望んで不幸になったわけじゃない。おまえはおれたちを強いと言うが、ただ強がっているだけだ。この不幸こそおれがおれである証しだと思わなければ、自分の人生に意味や価値を見出せないから」

「だが、それでもおまえたちは諦めずに生きてきた。おれには無理だ」獅子堂は額に突きつけられた銃を握りしめた。「撃ってくれ。おれがおれであるうちに殺してくれ」


 ネズミは引き金を絞る。銃声とともに獅子堂の身体がビクンと跳ね、あたりが血の海と化した。幸福虫に脳を半ば侵蝕された者に特有の、薄紅色の血がネズミの足元を染め上げていく。


「猿田さんは?」


 ネズミとネコは急いで猿田のもとに駆け寄ったが、すでに息はなく、右手から滑り落ちた拳銃が雪に埋もれていた。ネズミはそれを拾い上げ、運転席のドアを開ける。


「猿田さんを放っておくつもり?」

「じき騒ぎを聞きつけて極楽党の連中が来る。残念だけど、行かなくちゃ」


 ネコを助手席に乗せ、バンを発進させる。運転のしかたは猿田の隣でよく見ていた。雪道に不安はあるが、慎重に進めばどうにかなるだろう。


 バンは隣町の大通りを抜けて、高架上のバイパスに合流する。これからどうしようか。ネコがぽつりと呟いた。ネズミは答えることができなかった。ただ、報われない人生を強いられ、絶望しか選べなかった兄妹にとって、明日を迷うこと自体が大きな意味をもつはずだ。胸の奥にわだかまる不安を押し殺し、ネズミはそっとアクセルを踏んだ。


              〈了〉

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幸福虫 屑木 夢平 @m_quzuki

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