庭寒くして

菊池浅枝

庭寒くして



 筆を真っ直ぐ立てるために、私は膝立ちした身体の背筋を伸ばした。

 六畳の和室には、墨の匂いが広がっている。

 連雀の掛け軸と水仙が生けられた床の間、締め切られ、和紙を透かした白い光のみが降る障子、黒く塗られた松の床柱に、地袋だけの、すこしゆったりとした印象の床脇。

 机の上に置いた半切はんせつの、上中央から筆を入れる。

 この瞬間が、一番怖い。

 紺色のセーラー服の袖口と、その下で紙の上を滑っていく筆先に視線を集中させながら、私は墨が滲みすぎないように、掠れすぎもしないように、筆先を開きたいところで開けるように、手首を動かしていく。

 昔から、習字の時間が嫌いだった。

 小さい頃から習字教室に通わされていたから、墨の匂いも、筆の扱いも、身に馴染んだものではあったけれど、ただ、半紙に大きく漢字を綺麗に書くことが、私にはつまらなかった。先生が、今日はこれを書きましょう、と選んでくる言葉に、思い入れも持てなかったし、ただ綺麗に書くだけで、言葉の良さが目に見えてくることも、なかった。

 綺麗に書くことに意味が無いとは思わないけれど。

 ただ、つまらないなと。

 教室の後ろに掲示される、半紙の列を、無表情で眺めていた。

 庭寒月色深にわさむくしてげっしょくふかし

 上から、ゆっくりと。雪や霜でも降りているかのように、時折掠れさせながら、けれど流れすぎない筆致で、文字をしたためていく。

 月の色が見えてくるように。

 和紙の余白を意識して。

 ああ駄目だ泣くな。

 泣いたら紙が歪んでしまう。

 私は震える手を紙から離して、唇を噛んだ。深、という最後の一字の、位置を見定める。しん、と冷えた和室の、降ってくる光だけが明るい。

 とても、好きな言葉だった。

 冷えた空気が、明るいものを研ぎ澄ましていく。

 音のない空間が、気持ちを削ぎ落としてくれる。

 好きな言葉を探したら、と言ってくれたのは、読書好きの妹だった。病院の棚に積まれていた色んな本。漢詩、禅語、万葉集、故事成語の本。

 紙は空間だよ。

 文字は立体。

 お姉ちゃんの字、綺麗だね。

 そうだね。ありがとう、美雪。

 冬休みの宿題で、最初にこの字を書いたとき、クラスの誰も意味を知らなかった。二つ年下の、当時小学三年生だった美雪だけが、この言葉好き! と、頬を赤らめて喜んでくれた。

 最後の一画から筆を抜く。

 慎重に、書き上がった文字を眺めた。

 既に十枚近く書き直している。どうだろう。綺麗に書けたかな。

美尋みひろ。書けた?」

 襖を開いて、喪服に真珠のネックレスをつけた母さんが声をかけてきた。そろそろ出発の準備をしたいのだろう。美雪の葬儀の、開始時間が迫っている。

「――うん。書けた」

 私は、もう一度だけ自分の書いたその字を眺めて。

 凍るような朝の光の中、まだ少しだけ乾いていない墨の輝きに。

 月の色を見たような気がして、ようやく、ほんの少しだけ、涙を流した。



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庭寒くして 菊池浅枝 @asaeda

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