おやすみ、菊池くん

春木みすず

おやすみ、菊池くん

 待っていたバスがようやく道路の向こうに顔を見せたので、僕は安堵のため息をついた。最終バスに乗り損ねたかと少し心配だったのだ。若い頃ならいざ知らず、この年になると歩きは辛い。


 やや混雑したバスに乗り込み、適当な手すりに掴まると、バスは焦ったように発進した。


 今日はとりわけ遅れていたなと、僕は思った。朝から雨だったので、利用者が増えても不思議ではないが、それにしても遅かった。何か途中でトラブルでもあったのかもしれない。


 そう考え出した時、ピンポーンというバスの止まりますボタンが押された音と、乗客のいらついたような舌打ちが聞こえ、合点がいった。


 案の定、次の停留所に着き、運転手が停留所名をアナウンスしても、乗客は誰一人降りなかった。


「降りる方、いませんねー」


 運転手は慣れた口振りで、降りる乗客を待つには早すぎるタイミングでドアを閉めた。


 このバス路線にはまれに怪奇現象が起きる。


 誰も押していないのにボタンが点灯する、という怪奇現象が。


 この現象は、決まって僕の母校である中学校の停留所から始まり、そこから8つ先の停留所を最後に起こらなくなる。僕がいつも乗るのは中学校から5つ先の停留所だ。普段はこのあたりの区間で乗り降りするのは自分くらいのものなので、この現象が起きるとバスはずいぶんと遅れる羽目になる。


 最近しばらく起きていなかったから、忘れていたなと僕は思った。この前現象に遭ったのはたしか2ヶ月以上前だったはずだ。


 そう考えている内に、バスは中学校から7つ目の停留所に止まり、そして発進した。次で最後だなと思った時、すっと隣から手が伸び、ボタンが押された。


 こんな所で降りる人は珍しい。僕はそう思い、暗い窓ガラスに映った隣人に反射的に目をやった。隣人は自分と同い年くらいの(つまりは中年の)男性で、麻のポロシャツを着ていた。


 その顔を見たとき、僕は強烈な既視感を覚えた。誰だか思い出そうとしていると、バスはちょうど中学校から8つ目の停留所に着いた。


 中学校……中学校。そうだ


 顔を上げると、彼はさっさとバスを降りていた。あわてて後を追いバスを降りる。降りると少々雨が降っていた。だが彼は傘を差さず、すたすたと歩いていく。僕は後ろから声をかけた。


「おーい、今井くん」


 大きめの声で言ったはずだが、彼は立ち止まらず、そのまま歩き続けた。もともとあった距離の差がさらに広がる。人違いだろうか? 少しためらったが、僕は彼の後を追った。


 彼も年をとっていたため一瞬わからなかったが、おそらく、彼は今井くんだ。中学生の時の同期。高校2年の時に彼は家出し、2度と戻って来なかった。



 彼はかなり早いペースで歩を進めていたので、僕は息切れしながら後を追った。


「待ってくれ今井くん、今井タカヒロくん、僕だよ、菊池だ、菊池マサキ」


 何度も声をかけるが、彼が止まる様子はない。雨のせいで徐々にシャツが湿るので、僕は傘を差した。


 僕は彼を追いながら不思議に思った。彼はどこに向かっているんだろう?あの停留所で降りる人はめったにいない。この近くは田んぼと畑以外何もないからだ。あるのは僕の職場である小さな診療所くらい。しかし彼は脇目もふらずどこかへ向かっている。


 その後ろ姿を見ていると、ふと思い出したことがあった。そう言えば、あのときもこうだった。道を確認すると、やはりそうだ。この道は、川へと続く道だ。小さい頃に僕がよく遊んでいた川。


 なんとなく、彼が川に着く前に追い付きたいと思い、僕は息切れしていたが気合いで走り出した。しかし彼は歩いているのに驚くほど早かった。差は今や20メートルくらいに開いている。


「今井くん!!待ってくれ」


 彼はついに川の土手に達した。そこでさすがに距離が縮まると予想していたが、そうはならなかった。彼はずんずんと川の土手の階段を進んでいく。まるで彼だけが中学生に戻っているかのように、スピードは衰えなかった。


 僕はというと、階段を走るのはさすがに無理だった。というか既に限界である。


「はあ、はあ、ごほっ」


 咳き込みながら、一段一段長い階段を上るのがやっとだ。彼の姿が傘に隠れる。時々傘を上げて彼を見ながら、できるだけ急いで階段を上るが、僕が半分くらい上ったときには、彼はひらりと土手を越え、川の方に降りてしまった。


 しかし、やっとのことで頂上に着き、土手の向こうを見渡した時には、彼は消えていた。


「あれ……」


 僕は周りを見渡した。身を隠せるような場所などない、だだっ広い土手と川の景色。夜なのでさすがに暗いが、街灯が点いているので人がいれば分かる。



 彼はこつぜんと姿を消してしまったのだ。



 僕は混乱した。今井くんはどこへいったんだ?さっきまでは確かに、その後ろ姿を見ていたのに。僕は雨の降る土手の上で途方に暮れた。今井くんを見失った今となっては帰るしかないのだが、最終バスを降りてしまったのだから、帰るにはタクシーを呼ぶしかない。


 面倒だなと思いながら、僕は川を見下ろした。そして、あのときを思い返した。あの事がなければ、僕は彼のことなど覚えてはいなかっただろう。なぜなら彼は隣のクラスの生徒で、接点といえば同じ図書委員だったことだけだったからだ。




 彼は確か、隣のクラスでけっこう人気がある人物だった。整った顔立ちで、運動がよくできた。勉強はあまり得意でないが頭の回転は早く、平和主義で誰にでも優しい、というような評判だった。


 そんな彼が、なぜ隣のクラスの、外見も能力も平凡であった僕なんかを好きになったのか。それは今でも謎だった。


 中学校の卒業式の後、僕は急に彼に呼ばれた。僕は数人の親しい友達と十分に別れを惜しんでから、彼のところへ行った。彼は多くの人に囲まれていたが、僕を見ると周囲の人にあっさりと別れを告げ、後日遊ぼうと手短に予定を立てた。


 彼は用件を尋ねる僕をバスに乗せ、さっきとまったく同じように、僕をこの川へと導いた。その時も彼は僕の問いかけに一切答えず、無言のままだった。



 そしてちょうどこの場所で、彼は僕に告白した。



 僕は驚愕した。とにかく頭が真っ白になった。告白されるなんて露ほども考えてはいなかったのだ。僕は混乱しつつ、何か言わないとと思った。しかし何も出てこなかった。


 しばらく気まずい沈黙が続いた。そして僕はやっと、「ごめん」と言った。


 その時の彼の表情を僕はよく覚えていない。


 彼は1拍おいて「そうか」と言い、「じゃあ、ボタンくれない?制服の」と言った。


 僕は「わかった」と言い、学ランの上を脱ぎ、特に使用されていなかった第2ボタンを力任せにちぎって、彼に渡した。この時も僕はまだ内心だいぶ動揺していた。


 彼は僕の手からぱっとボタンを取ると、そのまま土手から走り去った。僕はただ呆然としてその後ろ姿を見送った。告白されたのも初めてだったし、ボタンを欲しいと言われたのも初めてだった。


 冷静に考えられたのは家に帰って、制服のボタンが無くなっていることに気づいた兄から散々にからかわれ、それを振り払って自分の部屋にこもってからだった。


 僕は思った。彼から好意を寄せられたことは特に嫌ではなかったが、僕は女の子が好きだったので、たぶんこうするしかなかっただろう。


 僕は彼に告白されたことは誰にも言わなかった。



 それから僕と彼は違う高校に進学し、疎遠となった。というか図書委員というもともと細かったつながりすら無くなり、関係性がゼロになったのだ。



 そして彼は高2の時家出した。




 僕はスマホでタクシーを呼び、ぼんやりと彼について考えた。さっきいた人物は本当に今井くんだったのか。彼は今どこでどうしているのか。


 タクシーが来たので、僕は川の土手から降りてタクシーに乗り込んだ。


 疲れたなと僕は思った。遅くなったので家族が少し心配しているかもしれない。でもまあ、連絡を入れるほどでもないだろう。僕は運転手に行き先を伝え、ついでに音楽をかけてくれと言った。


 流れてきた音楽は、自分にはとても馴染みのある曲だった。遊佐未森の「合歓の木陰で」という曲だ。この曲が入っている「水色」というアルバムは妻のお気に入りで、娘がお腹の中にいた頃によくかけていた。この曲はアルバムの最初の曲だった気がする。


 暖かい午後の、木陰の情景。寄せては返すようなゆったりとしたメロディのせいで、僕は急激に眠くなってきた。


 あるいは彼は亡くなったのかもしれない、と僕は思った。彼は僕に別れを告げに来たのかもしれない。


 なぜかはわからない。彼が僕を好きになった理由と同じように、それは彼にしかわからないし、僕には知らされることがないのだ。


 眠りに落ちる寸前に、彼の声が聞こえた気がした。



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