九「姉への表明」

        九


 包丁を慣れた手つきで動かし、食材を弄んでいく。ふと、冬の始まりを告げる曲がテレビから聞こえてきたので、そのリズムに合わせて刻まれた食材を鍋に入れた。

 野菜を焦げないように炒めながら時計を確認すると、時刻は丁度、十八時を指していた。炊飯器を開けて先ほど炊いたご飯を混ぜ、料理も佳境に入っていく。


 鍋に水を適量、煮込んだら火を止め、味付けのピースをポトポトと落としていく。ゆっくりと大きく混ぜながら、軽く味を見た。ふむ、悪くない。最後に隠し味のすり下ろしにんにくを入れた所で、玄関のチャイムが鳴った。


「ただいま〜。あ、いい匂いね。今日はシチューかしら?」


 落ち着いた足取りで玄関を抜けた声は、静かにリビングの扉を開ける。


「ただいま、春馬」

「おかえり、姉さん」


 振り返らず答えた俺に、海荷は鼻歌を歌いながら近づいてきた。


「あらあら~? お仕事で疲れたお姉様を労ってくれないの〜? 今日も今日とてパワハラに耐えてきたのよ〜」


 今日はこのパターンか。たまに珍しく静かに帰って来ては、ねちっこいパターンで俺の邪魔をする。これならいつも通りのうるさい方が、マシだな。俺は言った。


「風呂なら沸いてるぞ」

「あら、つまんない」


 早く風呂に行ってくれないかなあ。今日もいつもみたいに肩叩きをしてやるというのに、何が不満なんだ。いや、不満なんじゃないな。ただ俺に絡みたいだけなのだ、この姉は。

 俺は無視して料理を続けた。海荷は諦めたのか風呂に向かって歩く。しかし、これまたいつも通りに風呂の前で立ち止まると、俺に向かって言った。


「春馬も一緒に入る?」


 飽きないものだな。もうそのネタは擦り過ぎて味がしないだろう。いや、今日は少し機嫌がいい。ちょっと乗ってやるか。


「そうか、なら少し待っててくれ」

「え?」


 俺の予想外の返答に、海荷は目を丸くして固まった。俺は振り返りながら、言ってやった。


「冗談だ。何を期待してんだよ。早く入れ」


 俺の言葉に、海荷はムッとすると、子どもみたいに口元をイーッと威嚇し、風呂に入っていった。撃退成功。今日は俺の勝ちだな。






 テレビから流れてくる音楽に身体を乗せながら、俺は出来立てのシチューを堪能していた。目の前では海荷も、同じく楽しそうにシチューを口に運んでいる。不意に、海荷は口に運ぶスプーンを置くと、


「で、今日は学校で何かなかったの?」


 と、訊いてきた。なので俺は当然のように答える。


「なにも────」


 いや、違うな。


「いや、生徒会選挙に通ったよ。明日から生徒会書記だ」


 テンプレとは違う回答に、海荷は驚く様子は見せない。寧ろいつもより機嫌を良くして俺に言った。


「あら、そうなの。良かったわね」


 良かった、か。そうだな。生徒会の仕事はきっと面倒くさいだろう。書記ということは、基本的に常に仕事があるだろうし、生徒会全体でも教師の頼み事や、生徒の悩み事、イベント運営などなど、挙げたらきりがない程仕事はある筈だ。それでも、今はあまり悲観していない。寧ろ少しだけ、楽しみでもあるのだ。


 面倒くさいのは相変わらず嫌いだが、それでもこれから金木や嵐士と一緒に仕事をしていく中で、俺のモットーや信念など、簡単に無視されるだろう。だから、そうだな。それでも信念を貫く方が、効率が悪いってものだな。

 俺は思わず笑った。自分のアホみたいな言い訳に、少しおかしくなってしまったのだ。そんな俺の様子を、海荷は楽しそうに見ている。


「友達は? 学校に出来た?」

「元々多くはないが、それなりにいる」

「勉強は? ついていけてる?」

「姉さんがうるさく言うから、しっかりやってるさ」


 海荷は少しだけムッとすると、またシチューを口に運んだ。少しの間、沈黙が流れる。

 ふむ。たまには俺から話をするのもあり、か。


「姉さんは? どうなんだ」

「どうって、何がよ」

「仕事とか、人間関係とか、諸々だよ」

「あー、そういうことね」


 そう言って、海荷はジッと数秒動きを止めると、少ししてから答えた。


「前からパワハラ上司がウザいって話はしてたわよね? でも私は春馬と違って人間関係超絶上手いから、一応何とかなってるわ。あとは……ああ、同期のサっちゃんとは仲良くやってるわ。事務のタカちゃんも良い子ね。優しいし、とても気が利くのよ」


 楽しそうに、海荷は仕事や友人の話を始めた。

 思えば、俺から海荷にこういった話を振ったのはいつ以来だっただろうか。両親と死別してから、高校生だった海荷は友達などとの関係を無視してでもバイトを増やした。俺と生活するために。高校卒業後も、進みたかった道には進まず、高卒でこうやって働いている。


 俺は正直のところ、海荷に対して罪悪感があった。海荷は昔から絵が好きで、母とも楽しそうに話していた。高校でも、美大に推薦など、結構話は進んでいたのだ。だが、両親が死んで、海荷は全てを捨てた。夢も青春も、普通の高校生活も。


 俺はそんな海荷に申し訳なくて、中学生の時から父の知り合いのところで、少しでも生活の足しになればと、バイトをしている。だが海荷から俺に関する恨み節や、不満は聞いたことがない。嵐士と同じように、常に元気でいて、誰よりも率先して周りを明るくさせようしている。


 不満がないわけじゃないと思う。もしかしたら、俺以外には溢しているのかもしれない。そう思ったら、ただの日常的な会話ですら、俺は聞くのが怖くなっていたのだ。

 俺は手を止め、海荷の顔を覗いた。海荷は楽しそうに笑って、色んな話をしている。

 だがどうやら、それは俺の勘違いだったのかもしれない。海荷は自分勝手で、面倒くさくて、暴君で、わがままな姉だが、自分の事で、誰かの責任にしたりする人間じゃない。そんなの、十年以上も前から分かってたじゃないか。

 俺は思わず笑ってしまった。海荷は首を傾げながら、俺に言った。


「ちょっと、聞いてるの? 珍しく春馬が話振ってきたから、話してあげてるのに」

「すまん、ちゃんと聞いてるよ」


 俺は軽く頭を下げた。海荷は口を尖らせると、不満そうに唸る。

 それから少し喋ったあと、海荷が俺に問うた。


「それで、前言ってた話はどうなったのかしら?」


 前言ってた話? 何のことだろう。


「なんだ? 何かあったか?」

「あら? 覚えてないの? あれよ、女の子を泣かせたとか言ってたやつよ」


 あー、良く覚えてるな。そう言えば海荷に少しだけ溢していたんだったか。だがなんと言おう。金木の話は当然、約束通り話せない。つまり金木一郎や、金木の祖母の話も駄目だ。前回はどう話したんだっけか。ああ、ぼかしたのか。じゃあ今回もそれでいいか。


「前と同じように詳細は話せないが、何とかなったよ。泣かせ……てない訳じゃないが、悲しくて泣いたとか、そういうのは無くなった。一応上手くいったと思う」

「あらそう……、でも泣かせたのね?」

「だから、悲しい以外も泣くだろ人は。今回はそっちだ」

「ふーん」


 ちゃんと話聞いてるのか? まあいい。元々海荷は俺より適当なやつだ。あまり気にしない方が良いだろう。

 俺は未だ口を尖らせる海荷を無視して、食事の続きを始めた。しかし、海荷はまだ体制を変えない。


「というか、やっぱり私の言った通りになったわね」

「は?」


 無視するつもりが、思わず反応してしまった。それを見て海荷は続ける。


「忘れたの? 私の言った通りになったじゃない」

「言った通りって、何か言ってたか?」

「あら? 私は春馬を信じてる、って言わなかったかしら?」


 ……そういやそうだったな。嵐士といい、海荷といい、簡単に信じてるとか言いやがる。言われた側は悪い気はしなくても、責任にはなるんだぞ。分かってるのか。

 だがそれをこの姉に言っても無駄だろう。それこそ、非効率非合理という話だ。


「そうだったな。そんな事もあった」

「そうでしょ? ……それで、これからやってけそうなの?」

「何がだ」

「生徒会よ。明日から始まるのよね?」


 ああ、そうだったな。海荷との話ですっかり忘れていた。


「大丈夫だ。嵐士もいるし、先輩達もついてる。一人面倒事に首を突っ込む可能性のあるやつはいるが、まあそれも何とかなるだろう」


 俺はそう言って、シチューの最後の一口を頬張った。すると、海荷は何故か目を丸くして俺を見つめていた。何だ? 何か変なことを言っただろうか。不思議に思い、俺は訊いた。


「どうした」


 俺の質問に、海荷はキョトンとしたまま答える。


「いや、まさか春馬の口から人を頼るとかそういう言葉が聞けるとは思わなくて。思わず思考が止まったのよ」


 ……大きなお世話だ。だがそう言われると、俺も少しは驚く。確かに、俺の口からそんな言葉が出るとは。半年前の俺なら信じないだろうな。

 だがまあ、そうなった要因は何となく分かっているが。俺は言った。


「さっきの詳細を省いた話に戻るが、今回、色々考えさせられたのさ。学校生活とか、友人とか、人の想い、とかな」

「そう……。変化はあったの?」


 海荷は楽しそうに俺に聞いた。だから俺は無表情で言った。


「どうだろうな。モットーは変わらず非効率非合理な事はやらない、面倒事には首を突っ込まない。これに変化は無いさ。ただ……」


 ただ、たまにはそれを破るのも悪くないかもしれないな。










────Iの遺書 完

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Iの遺書 九十九春香 @RoxasX13

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