サキに捧ぐ

春道累

サキに捧ぐ

   ◆


 五月十三日 晴天 三十二度

 夜間にかけての風雨がひどかったため、今日の採集には期待していなかったが、落雷で倒れた木の上で面白いものを見つけた。粘菌だ。ちょうど雷に打たれたようで、半ばから焼け焦げているが残りが微弱に動いている。まだ生命活動を維持しているのだろうか。今回の出張の本筋からは外れるが、持ち帰って観察することにした。カツミに見せたら喜ぶだろう。


 五月十四日 曇り 二十九度

 昨日のサンプルをマッチ箱から出すと、落雷で焼け焦げた部分を生きている部分が捕食していた。餌が必要かもしれない。オートミールをひとさじ湯で戻して入れた。カツミに送るための写真を撮った。

 明日でキャンプが終わるため、今夜は荷物をまとめておくこと。

 新規採集物はなし。


 五月二十二日 曇り 二十二度

 帰国してからしばらくばたついていたので、久しぶりの日記になる。

 あくまで比較だが、ボルネオに比べると日本は涼しくて最高だ。カツミは六月の終わりまでアマゾンだと聞いたが、メールが届くだろうか。カツミの帰りまでサンプルが生きているか心配になったが、おおむね元気そうだ。何なら餌を食べて成長している。大きさが三センチを超えた。落雷の電気エネルギーが何らかの影響を及ぼしている? マッチ箱では足りなくなったので、今日から桐箱を使うことにする。三センチメートル、八十七グラム。


 六月一日 晴れ 二十七度

 ボルネオ出張の採集物について、おおむね整理をし終えた。新種と思しきものがいくつかあったので論文を取り寄せること。カツミに共同研究を頼む。

 例のサンプルについて。

 オートミールを与えていたが、動物性たんぱく質もあった方がよいだろうかとペットフードの類を増やしてしばらく経つ。食いつきがよく、縮んでいるときに一握り程度の大きさ、重さが三百グラムほどまで成長した。密度が高いから変形したらより大きく広がるはずだ。どこまで育つのだろうか。


 六月六日 雨 二十度

 信じられないことが起きた。大発見だ。

 カツミに会いたい。これを見せたくてたまらない。早く帰ってきてくれ。

 四十二センチメートル、一キログラム弱


 六月七日 曇り 二十二度

 昨夜は一晩中サンプルを見つめて過ごした。興奮冷めやらぬといったところだが、以前から予定していた雑木林の調査へ赴く。帰ったらさらに実験を行う。我々はついに、我々以外の知性ある隣人を得ることができるのかもしれない。

 四十五センチメートル、一キログラム強


   ◆


 七月二十日、俺はデスクに向かっている。

 手帳のページを繰るたびに、もうこの世界にいない人間のにおいを嗅いでいる。


   ◆


 俺がサキの訃報を聞いたのは彼が三か月にわたるアマゾン川流域の調査を終える直前、ぎりぎり電波の入る村へ立ち寄った時のことで、つまり全くの手遅れだった。日本の六月の気候は遺体を長期保管するのに向いていないし、そもそもサキの身体は調査に行った先で運悪く緩んだ地盤の崩壊に巻き込まれてしっちゃかめっちゃかに損壊されていたので、葬式の棺桶には先んじて焼いた骨だけを入れたという。

 齢三十六にして好いた男の葬式にも出られなかった哀れで研究熱心な植物学者として日本に戻って、俺はまずサキの家へ向かった。

 線香を上げて、お悔みの言葉を告げて、遅くなったことを詫びて、といった諸々の手続きを済ませた後にコーヒーを飲みながらサキのパートナー――彼女も学者だが、専攻は人文だ――から聞いた話によると、サキの研究室はいまだ手付かずの状態で、出入りの学生が簡単な世話だけはやっているという。「処分でも寄贈でも、どれだけ時間がかかっても良いから、お詳しいカツミさんにお願いできれば」というようなことを言われて、午後からそちらへ出向くことになった。

 サキの研究室。結婚と同時に中古の一軒家を買ったサキは、そこから歩いて五分の空き地も買い上げて研究室を建てた。一階が丸ごと温室で、ロフトにミニキッチンとねどこがあって、数日帰らなくてもいいような城だった。俺も何度も泊まっては、夜通し顔を突き合わせてサキと議論したものだ。温室のLEDより幾分暖かな色の裸電球の下で、毛布を枕に並んで寝そべった夜のサキの瞳の輝かしさを、俺はまだ昨日のことのように思い出せる。

 預かった鍵を使って室内に入れば、まず部屋の中央に据えられた平たい水槽が目を引く。腰高の台に乗せられたその中に鉢植えのランが何株も整然と並んでいるのは、以前に訪ねたときと変わっていなかった。壁際には毒々しいまでの常盤緑をした葉を持つサトイモ科の植物や毛細血管のように赤い葉脈を走らせたウツボカズラの鉢が据えられ、ロフトから下がるハンギングプランターにはシダ植物の類が、ロフト下の日陰のスペースには標本棚と大型の冷蔵庫が、それぞれ丁寧にあしらわれている。主の不在を気にもとめずに、どの生体も夏の日差しを浴びて青々と光っていた。

 サキはボルネオの植物を研究対象にする学者だった。研究のための遠征に行って、帰ってきて、そしてつまらない事故で死んでしまった。

 水槽を見渡せる位置で寂しげなサキのデスクに座る。よく手入れされた赤茶色の木の机の上には、雑多な紙切れやらノートやらが置かれている。大学の卒業式で撮った写真が、俺と肩を組んで笑うサキの写真が飾られているのを見つけて、そうするともう耐えられなかった。

「なんで死んだんだよ」

 改めて口に出せば眼球に薄膜が張ったのを、こぼさないように袖で抑える。閉じた瞼の裏に輝かしい日々が蘇る。まだサキが生きていた頃の日々。大学に入りたての頃、教養の授業で出会って意気投合した俺たちはそれからずっと一緒だった。卒論は共同研究で出せないからな、と教授から釘を刺されるくらいに互いとその研究にずぶずぶで、大学院に進んでからもそれは変わらなかった。何なら博士課程では共同研究で論文を何本も出したし、それぞれが最初に見つけた新種のランには互いの名前を献名した。六年前、サキが結婚すると言い出した時には失恋の悲しみと後悔に暮れて三日三晩泣き明かしたけれど、結局新郎友人代表のスピーチをやってふたりを祝福した。幸せそうなサキを見ているだけで報われたような気持ちだった。だって俺たちは結婚なんかしなくても、ずっと一緒に研究するんだろ?

 その時はそれだけで十分だった。

 今となってはすべて遠い過去の夢だ。

「どうして俺を置いていくんだ」

 もう一度、聞けたもんじゃない声が喉から出ていく。上を向いて涙がこぼれないようにして、そして俺は異臭に気付いた。植物の青臭いにおいや化学薬品の刺激臭ではない。動物的なものだ。

 それはどうやらロフトに端を発しているようだった。

 俺は梯子に足をかける。横木がきしむ音すら何倍にも大きく聞こえて、息が止まりそうになる。

 ロフトは六畳ほどしかない。手前のキッチン、水回りはきれいに掃除されている。理由はわからないけれど、梯子を上がってすぐのところには新品の図鑑やら辞典やら物語の本やら、それに学生が使うような参考書が優しいものから難しいものまで山になるほど置かれていた。足の踏み場もないような床に茶色い粒がいくつか落ちていて、それをたどっていくと淡い水色の布団の山へたどり着く。

 サキのねどこ。

 今はもう主を持たないはずのその寝具が、ふっくらと膨らんでいた。まるで何かを孕んでいるかのように。


   ◆


「またそれを読んでるの」

 一か月足らずの、しかも日付が飛び飛びの日記をまた該当箇所の初めまでめくり戻した俺の首に、やわらかいものが巻き付く。払いのけずに、そうさせたままにしてしまう。

 視界に入る腕はサキのそれと近しい造形をしている。けれど、腕の内側にふたつ並んだほくろだけが見当たらない。サキの指に触れられることを希求していた俺が見落とすはずもない相違。


   ◆


 あの日サキのねどこから這い出してきたのは、俺の新しい運命だった。

 それはサキと同じ姿をしていて、サキより少し高い声を出して探るように俺の名前を呼んだ。

 死んだはずのサキが目の前に立っているという奇矯なシチュエーションを目の当たりにして、俺はいったん気絶したらしい。正確には覚えていないが、次に目を覚ました時には頭の下にやわらかいものが敷かれていて、案の定というべきか上からサキが――サキのようなものがのぞき込んでいた。

 サキでないのはわかっていた。それからは土くれと日陰と、それからドッグフードのにおいがした。サキからはいつだって日向の草のにおいがしていた。

「……誰だよ、おまえ」

 呻くように誰何した俺に、サキもどきは一冊の手帳を差し出した。そこに書かれていたことはとても信じがたかったけれども、サキは真実、研究に対して誠実な男だった。


   ◆


 ある種の魚類に対して、遺伝子組換えによってタンパク質合成の制御を外すことで筋組織を肥大化させ収量を増やす技術がすでに存在している。粘菌に対する外部刺激を入力とみなして形状の変化が出力される過程を計算とみなす粘菌コンピュータは、最近流行りの研究テーマである。そもそも人間が出力する複雑な生態活動をもたらしている源も、根本的には外部刺激の入力とそれに伴う電位の変化だ。それならばユーリ-ミラーの実験か、あるいはシェイクスピアをタイプする猿に倣って、まったくの偶然が知性を持つ粘菌を生み出す確率は?

 確率論は意味を持たない。俺の目の前の存在が、その値を収束させている。


   ◆


 俺は最初の一日を、サキがそうしたように彼――便宜上代名詞で呼ぶしかなかった、サキもどきの粘菌である――との問答で潰した。積まれていた本の山はサキが、少しばかりの出張の間に彼の学習を手助けするために用意したものだという。サキがいない――山の中で砂礫に押しつぶされたり、炭酸カルシウムの塊になって白木の棺に入ったりしている間も、サキもどきはそれらの書籍を通して学習を行っていたらしい。最も、出力がそれとわかる形で生じる前にも入力自体は行われていたようで、サキの姿かたちやら話し方やらの模倣はそれらを元に行っているようだった。

 次の二日間は現実逃避の日だった。俺はサキの残した生体を管理し、ナンバリングしたリストを作り、それぞれ欲しがりそうな相手に連絡をしたり自分の研究室に運び込む算段を付けたりした。水槽の中にはサキが初めて記載した新種の――俺への献名でカツミエと名付けられた――ランも入っていて、これを見つけたときはまた少しだけ泣いた。未記載種にはそれぞれ確認のための論文を対応させる。お礼と今後のスケジュールについての相談のメールを送ることだって大事な仕事だった。単純作業は脳が自らを整理するのに向いているという。しかし、その間も俺の意識の片端は必ずロフトにあった。昔はサキのにおいがしていた、水色の毛布の内側をずっと気にしていた。

 三日目の終わりにロフトから「そろそろ生の食べ物が欲しいな」と声が降ってきて、四日目に俺はツナ缶と真っ赤なトマトをサキの研究室に持ち込んだ。つまるところ、それが受容の表れだった。


   ◆


「区切りをつけるんだよ」

 俺はその手首を軽く撫でて、持ち込んだ鞄から一冊のファイルを出した。半透明の表紙から、中の紙束が透けている。細かな文字の羅列を見て、後ろの彼が肩をすくめたのがわかる。


   ◆


 一度、彼を殺そうと試みたことがあった。

 人の似姿をとっているとはいえ、本体は単なる変形菌だ。単細胞であるからして外部からの汚染物質には弱いはずで、殺そうと思えばいくらでも手段がある。

 ここに彼がいることは誰も知らない。彼は学習する。俺がサキの話をしなくても、サキの書いた記録や撮った動画を糧にどんどんサキに近づいていく。その成り立ちが偶然であるからして、サキの最後の研究成果として世間に出すのも難しい。俺だけのサキ。一度逃したチャンスが奇跡のように、あるいは奇術師の鳩のように手の内へ舞い戻る。今度こそ逃すなよ、と誰かがささやくような気すらする。

 恐ろしかった。彼も、そのようなことを考える自分自身も。


 計画を練る、というほどのことはなかった。サキは植物学者の例にたがわず、剪定用のはさみは錆止めの塗られていないものを用いていたが、デスクのものはその限りではなかった。サキのデスクに掛けて、彼が無防備に近づいてくるのを待つだけでよかったのだ。

 太ももに刺さった大ぶりのはさみの、表面にうっすら纏った油が彼の肌に広がって、そこから肌色の擬態が融けて中の変形体に由来するバターじみた色味が覗くのを見て、俺は息をのんで椅子を蹴った。とんでもないことをしてしまったのではないかという実感が遅れてやってきて、耐えきれずにその場から逃げ出してしまったから、悲鳴一つ上げずに「ひどいじゃないか」と呟く彼の表情は見られなかった。見ておくべきだった。

 翌日、形を失って、おそらく意識や知性も失って床にでろでろと広がっているだろう彼の後始末をするためのごみ袋と新聞紙を携えてサキの研究室に向かった俺が見たのはもっと恐ろしいものだったのだから。


 もうサキの幻影に惑わされることはないと、そう安心してサキの研究室に入った俺が目にしたのは、デスクに腰かけて足をぶらつかせる少年だった。一瞬、近所に住まう子どもがいたずらに忍び込んだのかと思って、そうではないことがすぐにわかった。サキだった。俺と出会う前の、俺が写真でしか知らないサキの姿がそこにあった。若枝のように伸びた四肢、不釣り合いに未成熟な細い胴、霊性すら帯びたその横顔!

 彼は俺の記憶を離れて、過去さえも呼び覚ましたのだ。

 それはこちらを振り向いて、「昨日はご挨拶だったね」と言った。彼にしか言いえない言葉だった。

「思ったよりも多く切り離さないといけなかったから、せっかくの機会だと思って小さな身体に作り変えてみたんだ。食べればまた戻るけど、きみはどっちが好みかな?」

 その太腿と机の隙間から、床にぐずぐず広がった変形体の一部が覗けた。俺が思っていたより少なくて、ぞっとするほど死の色をしていた。

 知性を得るということについて、その罪深さについて思い知らされた俺は、いつかのように床にくずおれた。出来損ないのスワンプマンが寄ってきて、自ら切り離した片割れを気にも留めずに俺の肩を軽く叩いて立たせようとする。薄い手のひらが嘆息を吸い取ろうとするかのように口元を覆う。

「ぼくはこれくらいじゃ死なないから、別に気にしなくていいからね」


   ◆


 振り返る。彼は子どもの姿より幾分大きくなって、ちょうど俺たちが初めに出会ったときのような青年の見目をしていた。キャベツやらひき肉やらをたくさん食べさせたのが効いたのだろうか。好奇心に燃える瞳までよく似ていて、それでもやはりサキではないと思う。サキによく似たサキではない何か。サキはもういなくて、代わりに彼がいる。

 言い含めるように声にする。

「おまえは分類学的に言えば単なるモジホコリ目に属する変形菌の一種で、種としては固定されていない。世界に一個体だけだ」

「その通り。ぼくは変形菌の単純さと再生能力がもたらした非常に不安定な存在で、雷に打たれて変異した遺伝子がたまたま生き残っていた部分の細胞に食われて増えただけの偶然の産物だよ」

 打てば響くような返事があって、俺はサキを幻視したくなる。けれど、だからこそ。

「だからこれはどこにも出さない」

 俺の一番新しい論文。様式に則ってこそいれど、どこにも出されることのない記載論文。学名のうち後半となる、つまり新しい種を発見したときに発見者が命名する種小名では、接尾辞のaeを付与して献名とする。サキエ。サキに捧げる名前で、俺と彼だけの秘密の符号だ。

 声に出して呼べば、サキエは嫣然と微笑んだ。サキが絶対にしない表情。サキに捧ぐ

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