のれないブランコ
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のれないブランコ
ある小さな住宅地に、古びた遊び場があった。
公園という程、広くはない。
ブランコがあって、鉄棒があった。
それと、ベンチがあるだけだ。
だが、ここに引っ越してきたばかりの子供にとっては、近所で一番面白い場所だった。
鈴木
中古物件ではあったが、リフォーム済みで綺麗だし、庭もついている。
以前の賃貸アパートよりもかなり広いので、真一は大喜びしていた。
家の片付けは終わってはいないが、夕飯の買い出しも必要である。
夫・健二は裕子の手料理が好きで、いつも美味しいと褒めてくれる。今日は引越し作業もあって疲れから出来合いのものになってしまうが、夫の好きなビールも買ってあるので大丈夫なハズだ。
真一を伴っての遊び場に立ち寄ると、息子は元気よく走り出した。
「走らないの」
裕子は軽く注意するが、真一は耳を貸さなかった。誰も居ない遊び場を独占できるのが嬉しくて仕方ないらしい。
嬉しそうに裕子が諦めていると、真一は鉄棒で、ぐるんと前回りをしてみせた。両足で地面に降り立つ。
真一は、すっかり得意になって、何度も同じ事をしてみせる。少し前まで裕子が手伝っていたのに、自分ひとりでできるようになっていたことに裕子は子供の成長を感じずにはいられなかった。
「凄いね」
裕子は、公園の入り口近くのベンチに腰掛けて、そんな真一を微笑みながら見守っていた。
気づくと、近所の主婦と
裕子は奇妙に思いながらも、これから生活していく地域だけに、笑顔で会釈した。
女性達は、ぎこちなく表情を和らげ去っていく。
裕子が再び真一に目を戻した時には、ブランコに乗って立ち漕ぎを始めている。
「お母さん」
真一の元気な笑顔を見ていると、近所の主婦の奇妙な表情のことは頭から消え失せていた。
一週間もすると、裕子は近所の人達への挨拶回りも終え、徐々に地域に馴染んでいった。
引っ込み思案気味だった真一も、保育園に入園してからは急速に社交性を身につけて、近くの友達と遊ぶようになった。
そんな時だ、裕子は夕食の買い出しに行った帰り道で、またあの主婦二人組み・池田、橋本に遭遇した。
やはり立ち話の最中である。
以前と違って、今はお互いの存在を認識している。
「こんにちは」
裕子が挨拶をすると、向こうも挨拶をしてきた。
「こんにちは鈴木さん」
「買い物帰りですか」
池田、橋本の主婦達は、明るく挨拶を返してきた。
それから他愛のない世間話をいくつかして、池田が思い出したように口にした。
「そうだ。鈴木さん、あの遊び場でお子さんを遊ばせない方がいいわよ」
裕子は、啞然とした。
池田は社交辞令などではなく、心から心配している様子なのだ。
困惑した裕子が言葉を返す。
「どうしてです?」
尋ねながらも、裕子なりに違和感を感じていた。
それは、あの遊び場で真一以外の子供が遊んでいるのを見たことがなかったからだ。すると橋本は、驚くべき事を口にした。
「……実はね。あのブランコで首吊り自殺があったのよ」
裕子は言葉を失った。
自殺をしたのは女性で、ブランコを釣っている上部フレームにロープを潜らせ、それに首を掛けて自殺をしたのだという。
裕子は驚きと同時に、寒気が背中を這うのを感じた。真一が無邪気に遊んでいるあの場所で、自殺があったというのだから。
「……じ、自殺って。どうして」
裕子が訊くと、二人は事情を口にした。
その女性は
佳代は、出会った男性に心を開き、彼との間に深い絆を築くものの、その男性は愛人を作るだけでなく、佳代にDVを繰り返すようになり、結婚生活は破綻してしまう。
唯一の拠り所は、男性との間に生まれた男の子だけだったが、その子供も突然の事故で亡くなってしまう。
川に落ちての溺死だった。
失意に暮れた佳代は、子供との思い出のあるブランコで首を吊ったのだ。
あの遊び場は、昼間は近所の子供達の声で活気のある遊び場だったのに。そうした事情から、子供も遊ばなければ親もそれを良しとしなかったのだ。
裕子の心に寒気が走り、悲劇の過去がある遊び場で、子供を遊ばせてしまっていたことに対する後悔が襲ってきた。
池田が話し始める。
「それだけじゃないのよ。あのブランコには、何かが潜んでいるみたいなの。私達も最初はただの噂だと思っていたけれど、夜になるとブランコがひとりでに揺れ動いたり、不気味な笑い声が聞こえたって……」
裕子は言葉に詰まり、真一の無邪気な笑顔が遠くなっていくのを感じた。
すぐさま裕子は駆け出す。
行き先は、あの遊び場だ。
自分の身体能力を無視した走りをしたのは、言いようのない不安からだった。肺と喉が激しい呼吸の繰り返しで冷たく、苦しくなっていく。
あの小さな遊び場に辿り着くと、裕子は息を整えながら周りを見渡した。
まだ午後4時過ぎで明るいのに、何故か異様に暗いように感じた。
物寂しい感じがするのは何故だろう。
ブランコハンガーが軋む音を聞いて、裕子がブランコを見ると、真一は無邪気にブランコに乗り、楽しそうに笑いながら遊んでいる。
「あ、お母さん!」
裕子に気づいた真一は、ブランコから降りて駆けてきた。
思わず裕子も駆け寄り、息子の体を抱きしめた。
何ということか、幼い子供の体はこんなに暖かいのに、自分が感じている悪寒は何なのだろう。
「帰りましょ。おやつにプリンを買ってあるわよ」
と、裕子は言い真一の手を握る。
そそくさと息子の手を引いて、遊び場から離れていく母親の様子に、真一は幼いながらも何かを感じた。
「どうしたの?」
何の事情も知らない真一は子供らしく無邪気に尋ねてくるが、裕子は作り笑顔で何でもないと打ち消すのに精一杯だった。
とにかく、早くこの公園から離れたかったのだ。
「真一。お母さんと約束して、もうあのブランコで遊ばないで」
幼い真一には、母の言っている意味が分からない。
ただ、自分が楽しいことをしてはいけないんだと本能的に察知した。
「どうして?」
真一の無邪気な疑問に、裕子は事実を口にはできない。幼い子供に、詳しい事情を説明などできようものか。
だから、こう言って誤魔化すしかなかった。
「……あそこのブランコは古くなってるの。そのせいで、子供がケガをしたの。真一がケガをしたら、お母さんが悲しいからよ」
幼い真一は、母の言う事を聞いて素直に頷いた。
確かにそこにあるブランコのフレームには塗装が剥がれたり、ブランコ座板の金具には錆があったので危ないのかも知れないと納得したのだ。
しかし、遊び場を取り上げられたような寂しさを感じたのも事実だった。
「分かった」
真一の頷きに、裕子はほっと胸を撫で下ろした。
そこで、ブランコハンガーの軋む音が響いた。
錆びた金属の軋む音は、どこか悪意を感じさせた。その音は空気中に不気味な共鳴を巻き起こし、裕子の中に不安を溶かした。
裕子は振り返る。
すると、ブランコに一人の女が座っていた。
いつ来たのだろう。
ほんの数10秒前まで、周囲には人影すらなかったハズだ。
女は、両手をだらりと垂らし、首を90°曲げて空を見上げている。
そして、ブランコを漕ぐでもなく、ただ揺れているのだ。
肌は褪せた白さに包まれ、その髪は漆黒で、長い髪結いの跡が残っていた。顔は不明瞭で、影に隠れたかのように不確かな存在感を漂わせている。
女の目は何も見ていないかのように深い闇に包まれ、その口は微かに開かれていたが、不気味な笑みが、その唇を押し広げているように見えた。
裕子は、その女から視線を離せなくなった。
まるで別の次元から迷い込んだような異質な存在であるかのようだ。女の存在は、冷たい空気と共に、裕子の背筋に寒気を走らせるものだった。
女の首が何の前触れも無く、裕子に向かって折れた。首関節の動きを無視した、有り得ない方向に。
そして、女は顔を、裕子の方に向けたのだ。
口角を耳まで引き裂く笑みが浮かんでいた。その女の黒く闇に塗り潰された眼は、濁った殺意を孕んでいるように思えた。
◆
以来、裕子はブランコハンガーの軋む音を聞くことになる。
決して昼間は、聞こえてこない。
だが夜になり、街灯が灯し始めた頃、あの恐ろしい音を時折、聞くのだ。
夢に出てくる事も珍しくはなく、冷や汗に塗れた寝苦しさで目が覚める事もある。
悪寒を常に感じるようになった裕子は、あの遊び場に決して近づかないようにした。
ブランコを漕いでいるような音が風に乗って聞こえてくることがあるが、気に留めないようにしている。
それを聞く度に裕子は、あの不気味な女の顔を思い出す。不安に
ある時、裕子はスーパーでレジ打ちの仕事をしていると、カートのキャスター音で悲鳴を上げてレジカウンターの下に転がり込んでしまう奇態を晒す。
裕子は夢と現実の狭間で苦しむ中、近所の人々も次第に彼女の異変に気づき、避けるようになってしまう。彼女が何を見て、何を体験しているのかを理解できないからだ。
裕子は心身に激しい疲労を抱えていた。悪夢の連続で安眠も出来ず、衰弱していくのは明らかだった。
裕子は、ますます狂気にとり込まれ、人を信じることができなくなっていた。
夫に相談したくても長期出張で会えないし、引っ越してきたばかりで友人や知人も居ない裕子は、一人で耐えるしか無い。
そうした時、慰めてくれたのは息子の真一だけだった。真一の笑顔を見ると、裕子も心の底から癒され、この子を守らなければならないという決意が湧き上がるのだった。
夜が訪れていた。
あの日以来、真一は裕子との約束通り、あの場所へ行くことはなかった。
裕子は真一を寝かしつけ、リビングで家計簿をつけていた。
疲れは溜まっているというのに眠りにつくことが出来なかったのだ。まるで深い水底に沈んだまま浮かんでいるような倦怠感が拭えない。
今日は妙に時間の進みが遅く感じられた。
時刻は、21時42分だった。
不意に、裕子は何かを聞いた気がした。
甲高く不快な金属音。
まるで錆びたブランコが軋むような音が、どこからか聞こえた。
裕子は耳を済ませる。
それは家の中で聞こえるハズのないものなのに、確実に聞こえるという矛盾した音だった。
そうであって欲しくない、心のどこかで否定したいと思うのだが、その音はやはり聞こえてくるのだ。
夫が不在ないだけに、戸締まりはしっかりしていた。
しかし、音は続いていた。
そして徐々に大きくなっているような気がした。まるで家の中に何かが侵入してきているかのように感じられたのだ。
「真一……」
裕子は、突然の悪寒に幼い息子の寝顔を見ようとする。
あの子は寝室に居ることを確かめたかったのだ。
廊下を走った裕子は、寝室の扉を開ける。
そこに真一の姿はなかった。
布団は捲り上げられ、幼い真一がいた形跡すらなかった。
裕子は、恐ろしい想像をして顔を蒼ざめさせる。
もしかして……。
あの音を頼りに、外に出てしまったのではないか。決して入ってはいけないと言い聞かせた場所に入ってしまったのではないか。そんな疑問が湧くと、もう止まらなかった。
「真一!」
裕子は家を飛び出し、子供の名を呼びながらブランコのある遊び場へと駆けつけた。
まだそう遠くへ入っていないかも知れないし、あの音に誘われて行った可能性も否定できないのだ。
いや、もっと最悪な状況も考えられるではないか。
夜闇の中で、ブランコの軋る音が聞こえる。
裕子は息も絶え絶えになり、震える足を動かしてブランコを目指した。
そこには人影があった。
真一がブランコに乗っていたのだ。
「真一! なにしてるの!」
裕子が叫ぶと、真一は顔を向けてきた。
真一は口を開き、不気味な声で答えた。
「ここが楽しいんだよ、お母さん。ずっとここにいたい」
そう言って、真一は笑っていた。
裕子は息を呑みながら、真一がいるブランコに近づく。
夜風が冷たく、不気味な雰囲気が漂っていた。真一の笑顔は裕子にとって異様で、その笑みがますます裕子を恐怖に引き込んでいく。
「真一、ここは危ないのよ」
と裕子は心の中で祈るように
しかし、真一は微笑んだまま、ブランコを揺らし続けた。
真一を、この異次元のような場所から引き戻さなければならないという使命感が彼女を駆り立てた。
「真一。こっちを見て」
裕子は近づこうとするが、重い何かが彼女の足を引っ張った。
そこで初めて気づくのだ。
彼女の足が何かによって掴まれていることに……。
裕子は足下を見た。
すると、そこには地面から蒼白い手が伸びていた。死人のように青白い手は泥のような柔らかさを持ちながら固く、足首を掴んで離さなかった。
それだけではない。
いつのまにか裕子の背後にも腕が彼女を掴むように伸びていたのだ。その腕は脈打ちながら体や首に絡みつき、彼女を逃さないようにしている。
裕子は思いが過る中、突然の出来事に悲鳴を上げた。
その声は暗闇の公園へ響き渡らなかった。
いや、正確には漏れなかったのだ。裕子の声は声帯ではなく、口の中に押し込められているようなものだったからだ。
ブランコに乗っていた真一もまた、裕子と同じように蒼白い腕に掴まれていた。
真一の後ろには、女の姿があった。
白い肌と漆黒の髪、折れ曲がった首を持つその女は、真一の後ろで微笑みながら立っていた。
裕子の心臓は激しく高鳴り、寒気が背中を這う。
しかし、裕子は恐怖に怯えるのではなく、母親としての本能が強く湧き上がっていた。何としても、あの子を守るという強い決意である。
裕子は声を上げようとするが、吐気を催す不快感と口の中に溢れる生臭さに息を詰まらせ、その場に吐く。
腐った肉のような汚物だ。
ブランコにいる真一の口からも同じような汚物が溢れ出し、ゆっくりと気を失うように瞼を閉じていく。
女の蒼白い腕は、真一を後ろから抱きしめると、女の脚が地へと沈み始める。まるで底なし沼に沈むように。女の身体は足首、膝、腿と続き、真一と共に地面の中へ沈んでいく。
女の表情は相変わらずの漆黒の笑みである。それはまるで、墓に埋まる死者のように不気味だった。
(嫌だ! ダメよ! 私を置いて行かないで!)
裕子は声を出そうとするが、口を塞がれているのでくぐもった声しか上げることが出来ない。
女の身体はゆっくりと沈み続けていき、とうとう姿を消したのだ。まるで最初から何も存在していなかったかのように……。
不気味な笑いが微かに聞こえていたのを最後にして、静寂が訪れる。
急に公園を照らしていた街灯が消えていき、月明かりだけが辺りを照らすと、そこには何事もなかったかのような静けさがあった。
風が枝葉を揺らしながら吹き抜けてゆき、枝葉の擦過音だけを残響させていた。
◆
ブランコが揺れていた。
軋みながら、錆びた金属が擦れる音を立てていた。
昼間の公園のブランコに腰掛けているのは、女性だ。
黒い髪を振り乱し、濁った両眼で虚空を見つめていた。
まるで呪詛のような低い声が、女性から漏れている。誰もいない公園のブランコを漕ぐ音が、いつまでも木霊していた。
夫である健二が妻を迎えに来るが、彼女は気を留めることなくブランコを漕ぎ続ける。彼女の様子がおかしいことは、すぐに彼にも分かった。
「帰ろう、裕子」
健二はなだめるように声をかけるが、裕子はまるで聞こえていないかのように無視し続けた。
裕子の瞳は深く濁り、異様な光を宿していた。そのまなざしには死者のような冷たさが漂っていた。
「健二。ここが私の居場所」
裕子の声は死んだように冷たく、言葉には嫌忌なる力が込められていた。
健二は傷心と絶望の中、それを受け止めることしか出来なかったが、付き添わなければ夜になっても帰ってこない妻を放っておくことはできなかった。
「体が冷えてしまうよ。さあ、帰ろう」
健二は裕子に優しく語りかけるが、彼女は返事をすることも無い。それでも健二に背を向けて帰りたがらない妻を宥めながら、彼は彼女の肩に手を添えて自宅へ帰るのを勧めて時間をかけて帰宅した。
そんな二人を、池田と橋本の二人組主婦が見ていた。
「鈴木さんところの奥さん。変になっちゃったわね」
橋本が呟くと、池田も頷いた。
「それはそうよ。お子さんが行方不明になったんですもの……」
池田はそう言うと、遊び場に目を向けた。
ブランコが軋んだ音を立てて揺れていた。
「あそこで遊んでいたのが悪かったのかしら? 」
橋本が、そう言って肩をすくめた。
だが、池田は首を横に振る。
「もしかしたら、あの家に引っ越してきたかもよ。だって、あの家、首を吊った佳代さんが住んでいた家だもの」
と池田は囁く。
【怨念】
うらみに思う気持。うらみの思い。
古来よりその存在だけで標的に何らかの害を与えるとされている。
怨念は、古くからの祟り信仰に基礎をおいたものということができる。
祟り現象の諸相は、特定の人間の執念や怨念が凝りかたまって呪詛霊となり、それに感染することによって異常現象が発生するというもの。
これはある意味でニーチェのいう〈ルサンチマン(怨恨感情)〉の発現と類似している。かつてニーチェは、原始キリスト教の成立とフランス革命の発生の心理的動機を、社会の水平化現象をひきおこすルサンチマンによって説明しようとした。
するとブランコが風も無いのに、何かに煽られたかのように激しく軋み、悲鳴のような金属音を響かせた。
その音が聞こえてきた時、池田と橋本の二人は、心臓を鷲掴みにされたような寒気が襲いかかってきた。まるで自分たちを取り巻く全てのものから拒絶されているかのような疎外感を感じ取り、二人の体が震え始める。
橋本と池田は目を合わせると、逃げるように走り去った。二人は決して遊び場の方に目を向けることはなかった。
その小さな住宅地の遊び場には、誰も近づかない。
乗れないブランコが、軋む音を延々と響き渡らせるのだった。
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