オオブチの話

 大渕淳おおぶちあつしは暗い店内を見渡した後でドアをしめた。父から譲り受けた本屋はいつの間にか年中無休営業になり、文具や雑貨類も扱うような本屋になっていた。


 本だけで生き残るのは正直厳しかった。本を売るスペースを縮小し雑貨や文房具類を増やす。それでなんとか売り上げを伸ばした時期もあった。でもしかし。近所に大型ショッピングモールができ、大手の書店が入り込めば大渕堂書店の需要は減っていく。


 ——親父、ごめんな。


 今は亡き父に心の中で呟きながら徒歩三分の自宅へ向かう。店を閉める決断をしたのは経営悪化だけではない。健康診断でみつかった自身の病気を考えると、今年で三十五になる娘を施設に預けるタイミングは今しかないと考えた。自分の病気の治る見込みはゼロに等しい。知的障害のある美智留みちるを一人残していくことはできない。残された時間はそう長くはないかもしれない。せめて自分が生きているうちに、安心できる障害者支援施設に入所手続きを済ませ、できる限りの時間、娘を連れ出して余生を過ごしたいと思った。


 閉店前に自宅に戻った時、美智留はもう寝るところだった。であればと、大渕は自宅とは反対方向に踵を返す。まだもう少し、己と話がしたかった。冬の夜空は星が瞬き、冷たい風が頬を撫でていく。吐く息が白い。


 生きている。

 まだ俺は、生きている。

 閉店するのは美智留との時間を生きるため。だから、これは仕方のないこと。


 不意に「もうお店は閉店ですか?」と背後から声をかけられ、大渕は振り返った。見覚えのある老婦人。昔からよく本を買いに来てくれた常連客の一人だ。老婦人の娘は大渕の同級生だった。


「ええ。もうこんな時間ですし」

「娘にね、絵本を買ってあげたいのに、困ったわ。あの子きっと新しい絵本が欲しいんです。読み聞かせてね、寝かせてあげないと」 


 ああ、そうか——、と、大渕は思った。親父の代からやっている本屋。常連客も同じように歳を重ねている。この常連さんは痴呆が入り始めていると、以前、娘さんから聞いたことがある。それでもこの店のことは覚えていてくれたんだ——、と。


 大渕はそれが何を意味するのかを思い、胸が詰まった。大渕堂書店はもうすぐ閉店する。この街に書店はこの店しかない。だとすれば、この人はこの先、どこで絵本を買うのだろうか。唐突に胸が詰まった。閉店は仕方のないことだ。でも、目の前の常連さんをこのまま帰すわけにはいかない。


「まだやってますよ」と、大渕は微笑む。


 大渕堂書店の閉店まで後二日。


 深夜の散歩をやめた大渕は、たった一人のお客様を大渕堂書店にお迎えした。

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