——大渕堂書店の閉店——

 大渕堂書店閉店の日。営業終了間近の店内には花束を持ったご婦人や親子連れなどの知った顔が何人も残っていた。そして、昨日大渕が話した男性の姿も——。


 閉店時間まではあと五分。

 大渕は最後の一言を考えていた。


 閉店を決めたのはもう随分前だった。これ以上書店を続けていけない理由があった。でもそれでも、大渕はここにきて悩んでいた。いや、もう悩みというよりは、ほぼ結論に達している。大渕の考えが変わったのは、ついさっきのことだった。きっかけは昨日の閉店後にやってきた男性だ。


「この店を僕にやらせてくれませんか。本の販売は必要最小限。あいたスペースでフリースクールをやりたいのです。行政から認定を貰えばある程度の収入も見込めます。行き場のない子供達、地域の人達の居場所を、僕はこの場所で、大渕堂書店の名前を残して作りたいんです」


 坂上さかがみと名乗った初老の男性は、大渕に事業計画書を見せ、何年も前から温めてきた夢を熱をこめて語った。しかし、その情熱よりも最初に大渕の心を動かしたのは家賃収入だった。


 余命宣告を受けた大渕にとって、心残りは一人娘の美智留のことだった。美智留には知的障害があり現在三十五歳。安心できる障害者施設に入所するとしても、お金があるに越したことはない。年間約180万円までの収入ならば、障害者年金を貰い続けられる。だとすれば、美智留は月々約15万円の家賃収入を得ることができる。


 しかし……。

 事業計画書を見る限り、家賃15万円は無理だろうと大渕は思った。


 それでも昨晩、大渕は閉店を決めてから今まで棚上げにしていた案件を考えた。建物を売ろうにも、老朽化が進んだこの建物ごと売れる保証はどこにもない。更地にしたとして、その費用はどれくらいか。それでも、売れる保証はない。幹線道路沿いといえども、空き地や空き店舗はそこら辺にごろごろある。でも、家賃収入ならば、この建物を壊すことなく美智留にお金を多少は残せる。最終的には二束三文でも売ってしまえばいいだけのことだ。


 それに、坂上の事業計画書には「保育士1名」と書いてあった。

 

「店長、時間です」


 パート社員の智子が大渕に声をかける。智子は目に涙を溜め、腕に花束や色紙を抱えている。智子は美智留の同級生で、美智留の数少ない友達のひとりだ。小学校の登校班が同じで、美智留のことを偏見の目を持たず、いつも気にかけてくれていた。この店が閉まれば、智子は仕事を探さなくてはいけない。心を病んで自宅に引き籠っていた過去がある智子のことが、大渕は気がかりでならなかった。


 智子は、この十年間。絵本のお姉さんとしても、書店員としても、本当によく働いてくれた。もしも、「保育士1名」が智子の次の仕事であったならば……。


「もう答えは出てるんだよな」大渕は誰にも聞こえないくらいの声でひとりごちる。今日、大渕は店内で坂上の姿を見つけ、「もしもフリースクールをやるなら、保育士1名は私に指名させてもらえますか?」と聞いた。坂上は面食らった顔をして、「もちろんです」と答え、「店長さんの紹介なら間違いないですからね」と言ってくれた。「彼女のことですよね」と子供たちに最後の絵本を読んでいる智子に視線を向けて。


 午後八時。

 蛍の光が流れる店内に拍手が湧く。

 大渕は意を決した。


「大渕堂書店は——」

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