大渕堂書店の閉店【感謝!カクヨムコン9短編特別賞受賞】
和響
タケルの話
タケルは本屋に向かって歩いていた。風は冷たく時々突風が吹いてくる。伊吹おろし。この辺じゃ小学校の校歌にも出てくるくらい有名な風の名だ。でもタケルはこの風に名前がついていることを知らない。校歌を真剣に歌ったことなどないからだ。
ダブダブのサイズが合わないコートを引き剥がすくらいの強風は、タケルの髪の毛をボサボサにし、さらには行手を拒むように圧をかけてくる。それでもタケルは負けじと足を踏み進め、本屋に向かい確実に一歩一歩近づいている。
目的地の本屋は幹線道路沿いにある。ビデオレンタル店と横並びになったこの本屋は地元の人に愛された古い本屋で、明日閉店してしまう。
「大渕堂がなくなったらどこで本を買えばいいんだよ」
「そんなの簡単じゃん。ネットだよ」
タケルの家にはネットがない。学校に行けばタブレットでインターネットが使える。でも、ネットがあるかないかの問題じゃなく、タケルは『大渕堂』で本を買うのが好きだった。お母さんのしている仕事を手伝ってお駄賃にもらう数十円。それを貯めて、それを握りしめて本を買いに行く。本棚に並んだ文庫本の背表紙。そこに書かれた文字をみて、「これだ!」と、思うものを買って読む。
読む。読む。読む?
細かくて難しい漢字がいっぱい並んだ小説の文庫本。買ってきた文庫本を読みながらタケルは毎回小首を捻る。お話の内容は正直言って分からない。
タケルはたまにしか学校に行かない。だからなのか、掛け算も漢字も小学校低学年から進歩していない。中学校の勉強は、タケルにとっては、もはやちんぷんかんぷんだ。そんなタケルが文庫本で小説を読むなんて到底無理だと人は笑うかもしれない。でもタケルは『大渕堂』で、自分のお金で新品の本を買う。
タケルはいろいろ気にしない。中学校の制服はお母さんが制服譲渡会でもらってきてくれたサイズの合わないものだったし、通学鞄は名前の部分が黒く塗りつぶされた誰かが使ったものだった。学用品は誰かのお古でいい。でも本だけは自分で新しいものを買うとタケルは心に決めていた。
「大渕堂がなくなったら困るよな」呟いたタケルの目から涙が溢れた。それを風が吹き飛ばしていく。
タケルは思った。
読めない本を買い続けることに意味があるのだろうか。でも僕は、お父さんの残した本の横に、自分で買った本を並べていくのが好きなんだ。いつか読めると信じて、本棚に並べて眺めるのが好きなんだ。前の家は焼けて何もかもなくなってしまった。でも、お父さんの買った本だけは、お父さんの会社に残っていて、僕の手元に戻ってきた。お父さんの買った本と僕の買った本が並ぶ小さな本棚。大渕堂がなくなったら、僕はもう新しい本をその本棚に並べられなくなってしまう。
タケルは自宅の本棚を思い出す。お父さんの残した本は新しい本じゃなく、何度もページをめくった柔らかい本ばかりだった。僕の買った本は硬いままだ。呼吸をしない本たちは硬く冷えていて、それはまるで、最後に触れたお父さんの身体みたいだとタケルは思った。
「僕の本は死んでいる」
どうやったら本を読めるようになるのだろうか。お父さんの残した本も読める自分になりたい。掛け算ができなくっても、割り算ができなくっても、英語の単語が書けなくっても、本だけは読めるようになりたい。そのためにはどうしたらいいか考えながら北風の中歩く。お父さんの顔が脳裏に浮かぶ。その口が、「分からないことが分かるようにならなきゃダメだろ?」と優しく囁く。
タケルはハッと気づいた。それならば、手持ちのお金じゃ足りない気がした。あれは、かなり分厚い。紙を沢山使ってる。だからきっと高いはず。
タケルは自宅に向かうため踵を返す。向かい風は追い風となりタケルの背中を押している。
「大渕堂がなくなる前に」
家に帰りかじかんだ手に全財産を握りしめ、大渕堂へ。いつも絵本の読み聞かせをしている店員さんに「あの」と、声をかける。
「僕でも分かるやつが欲しいんですけど」
タケルは今日、大渕堂書店で店員さんおすすめの国語辞典を買った。
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