第4話

 熱々の玉子粥たまごがゆだけでは足りないと追加で鮭雑炊サケぞうすいも平らげたケイは、せっかく汗を拭ってさっぱりした体が新たに噴き出した汗にまみれてしまっていた。火照ほてる体を冷やそうとパウチゼリーをすすりつつ、羽織るようにしていたブランケットを邪魔そうに跳ねのけると、ぬるくなってしまった洗面器のお湯に浸したタオルを固く絞り、パジャマの下に手を突っ込んで体を拭いた。

 しかし、やはり背中には手が届かない。もともとあった不快感に上乗せされたような感覚だ。我慢できないほどではないものの、気にはなる。


「…………」


 タオルを洗面器に戻し、ちらりとユキノを見る。

 今なら普段通りに、仲のいい友達の他愛無たあいない頼み事程度の気軽さで背中を拭いてもらうこともできそうだった。なにせケイは病人なのだ。少々のワガママは許されてしまう。

 そんなことを考えていると、ユキノは「ん?」と不思議そうに小首を傾げ、ケイを見つめ返してきた。


「ケイ、後ろ向いて」


 唐突にユキノはタオルを絞りながら言う。

 考えていることが読まれたのか、とケイは酷く焦った。


「え? 何?」

「背中拭けなかったんでしょ。ケイは運動しないから肩関節の可動域が狭いんだよ。ほら、背中出して」

「ちょ、ユキノ、待って……」

「あらゆる事態は唐突にやってくるもんだぜ、お嬢ちゃん。さあ、無駄な抵抗は止めて、おとなしく後ろを向いて背中を拭かせるんだ。心配すんな、休日の遊園地の超人気アトラクションで順番待ちするくらいの時間で終わるさ」

「いやそれ思いっきり時間かかるやつー。というか誰の真似よ?」


 悪漢小説ピカレスクに出てくる下っ端チンピラのようなセリフとともに、ひひっと笑うユキノ。対して冷静にツッコミを入れるケイ。

 それが妙におかしくて、二人は大笑いした。


「じゃ、お願いしても?」

「仰せのままに」


 脱力しきったケイは抵抗するのもバカらしくなって、素直に背中を拭いてもらうことにした。小さな不快感が文字通りすっきり拭い去られると、空腹を満たしたこともあって心身ともに落ち着いて、いまだ体に残る熱すら心地いいと感じるほどだった。

 お薬飲みましょうねー、とまたも幼児をあやすように言うユキノが用意してくれたクリニックで処方された薬を飲み、またソファに寝転がる。

 ずっと眠っていたので眠気は皆無だったが、起きているにはまだ少し体が辛い。食べたものが消化されてエネルギーに変わるまでは動けそうになかった。


「もう外は真っ暗だねー」

「そうだね。六時前だもんね」

「ごめんね、ユキノ。迷惑かけて。……あたしはこの恩をどうやって返せばいいんだろう」

「大袈裟な。そうねぇ、恩を返したいんなら……早く元気出して、あの笑顔を見せて」

「……まりや?」

「正解」


 即答にくすくすとユキノが笑う。ケイも赤みのさす顔を笑顔にした。


「……熱、まだあるね」

「少しだけね」


 ケイのそばにしゃがみ、額に触れる。手のひらに伝わる熱が、洗い物をして水に冷やされたユキノの手をじわじわと温める。

 しかし顔色は今朝に比べれば随分良くなっていて、熱も驚くほど高くはなさそうだと、ユキノは内心で安堵した。


「リッちゃんにもお礼言わないとなー」


 ふと思い出したようにケイは呟く。

 直接ケイの周りで駆けずり回ったのはユキノだが、要所でリツコの働きが支えていた。いわばかげの功労者だ。


「そうだね。ケイが元気になりつつあるってメッセージ送っとこ」

「あと、上有住ほんやくさんにもね。レトルトを届けてくれたの、彼女でしょ?」

「何だ、気づいてた?」

「来たときのことは寝てたからわからないけど、なんとなくそんな気がした」


 言ってケイは、ローテーブルに置きっぱなしのレトルトの山に目をやった。

 それらを通っている高校の近くのローカルスーパーで買ったことは、レジ袋を見れば一目瞭然だった。リツコがユキノからケイが風邪で倒れたことを聞いていれば、差し入れにと買ったものを白川しらかわ家のご近所さんである『翻訳ほんやくさん』に届けるよう頼むだろうことは想像に難くない。人見知りの激しい『翻訳さん』ではあるが、今やケイとユキノはリツコ繋がりで親しい友人になっているので引き受けてくれたのだろう。

 ――しばしの沈黙。

 壁掛け時計のアナログ秒針が、こつ、こつ、とリズムを刻んでいる。キッチンの冷蔵庫が低く唸るような音も聞こえてくる。

 ケイのすぐそばでは、ユキノがスマートフォンを操作し、リツコにメッセージを送っていた。


「……ユキノ」

「ん?」

「…………なんでもない」

「ん」


 天井を見つめたままのケイの横顔に短く返事をして、ユキノは再びスマートフォンに視線を落とした。


 ――あたしの部屋で何か見たよね――


 そう訊きそうになって、ケイは慌てて言葉を飲み込んだ。

 訊いてどうする。

 「見た」と言われたら、どう返せばいい。

 何も考えていない。

 考えるのが怖い。

 考えないようにしたんじゃなかったのか。

 小さく首を振って、浮かんでくるを散らす。

 ――いまだ体に残る熱で、が溶けてなくなればいいのに。

 そんなことを思う。


「…………」


 目を閉じて、じっと意識に居座るが体に巣食う熱に包まれて溶けていくところを想像する。

 しかし、案外は頑丈なようで、なかなか溶けそうになかった。

 早く。少しでも早く。

 そう焦るケイ。

 熱に浮かされた思考では、いつまたを口にしそうになるかわからない。溶けるのを悠長に待っていられる保証がない。

 それだけではない。

 一日中献身的に看病されて、のだ。その想いが不意に溢れることもあり得ないことではない。

 そうなる前に。


「ユキノ」

「ん?」

「あたしはもう大丈夫だから、こんな時間だし、そろそろ帰ったほうがいいよ。いまさらだけどやっぱり風邪うつしちゃうかもだし、疲れてるでしょ。もうちょっとしたらお母さんが仕事から帰ってくるし、心配いらないよ」


 恩をあだで返すような行為だが、ユキノを遠ざけるのが一番だ。

 ユキノはそんなケイをじっと見つめている。


「そうなの? じゃ、母君ははぎみがお帰りになられるまでここにいるよ」

「いや、だからね……」

「もう一回しるさんの言葉を聞きたいの?」

「それはもうわかったから。でも……」

「ひょっとして、私がいると迷惑? 嫌だった?」

「……っ」


 またそういうことを言う、とケイは内心で動揺した。想いがこぼれそうになるのを必死に抑え込む。


「そうじゃなくて。迷惑なことなんてないよ。嫌でも嫌いでもない。でも、大……事な親友だからこそ、風邪をうつしたりしたくないの。わかってよ」

「ケイこそ、病気で弱ってる親友を一人にできないのもわかってよ」

「…………」


 平行線。

 そんな単語がケイの頭に浮かぶ。

 ユキノは言い出したら一歩も引かない頑固者だということは、自分が一番よく知っているではないか。

 はあ、と諦めの長大息ちょうたいそくが漏れる。


「……じゃ、せめて家の人に連絡入れときなよー? 遅くなって叱られても、あたし責任取らないから」

「そうだね。お母さんにメッセを……」


 と、そのとき、玄関ドアが開く音がした。

 ユキノはスマートフォンから顔を上げてそちらに向く。ただいま、と声がして、廊下をスリッパで歩く音が近づいてきて――


「……どうしたの、ケイ?」


 ブランケットに包まってソファに横たわる娘と、その友人らしき女の子を見て目をしばたたかせ、ケイの母親は状況が把握できないとばかりにぽかんとしていた。



       ◇



 娘が風邪を引いて高熱を出してダウンしていたことを知らされていなかった母親は、その窮地をユキノが救ったことに、ユキノが恐縮されすぎて居たたまれなくなるほど感謝の言葉を並べた。仕事の関係で先に家を出たためとはいえ、気づかなかったのは親として落ち度があったと反省しきりだった。

 ついでに洗濯物を取り込んで畳んでおいたこと、シンクに溜まっていた洗い物を片付けたことにも土下座する勢いで礼を言われた。


「いいお母さんだなぁ」


 そんなことを思いつつ、帰り道を歩く。

 親が帰宅して後顧こうこうれいもなくなって、ユキノは白川家をあとにした。

 玄関ドアを閉める寸前に、


「どうしてあんたは連絡一つよこさないの!」

「しんどくてずっと寝てたのに連絡なんかできるわけないでしょ⁉」


 という母娘の声が聞こえたが、あれだけの大声を出せるなら大丈夫そうだとユキノは思った。

 同時に、医師からケイの親に連絡しておきなさいと言われていたのに完全に忘れていたことを思い出した。そのせいでケイが叱られているかと思うと、土下座したほうがいいかなと苦笑が漏れる。

 明日はきっと、元気な姿で学校に来るだろう。そのときに謝ろう。

 そう決意し、学校で会えることを願って空を見上げる。あいにくの曇り空で星も月も見えなかったが、代わりに飛行機らしき光が西のほうへ流れて行ったので、それに祈っておいた。意味があるかどうかはどうでもよかった。


「…………」


 それにしても……と思い出して、頬が少し熱くなるのを自覚する。

 悪い夢を見てうなされていたケイが、自分の名前を何度も呼んでいたことだ。

 友達が夢に出てくることはよくあるし、それ自体は気にするほどでもないのかもしれない。

 だが、ユキノはその前にを目にしていた。

 ――ケイの部屋に着替えを探しに行ったとき。

 勉強机の上に、写真立てが一つ置いてあった。

 そこにはユキノが陸上の地区大会で、走り高跳びで自己最高記録を出したときに撮った写真が収められていた。リツコやケイが応援に来てくれて、三人で写真をいっぱい撮ったことをよく覚えている。もちろん、ケイのスマートフォンでも三人一緒になって何枚も撮った。

 しかし、飾られていた写真はだった。自己新記録が出た嬉しさと、それをもってしても上位三十二位にも入れず涙した、泣き笑いの顔を撮ったものだ。素の自分をさらけ出したような表情が気恥ずかしい、そんな一枚。

 どうしてケイはそんな写真をプリントアウトして、後生大事そうに飾っているのか。


(……やっぱり、そういう、意味、なのか、な……?)


 いかに鈍いユキノといえど、身近に女の子同士のカップルがいるため、その意味に気づくのに苦労はなかった。

 ケイのことは仲の良い親友だと思っている。好きか嫌いかで言えば、迷いなく好きだと答えられる。誰よりも大事な人だと確信している。

 それはケイも同じだと思っていた。

 だが、どうやらケイは違っているらしいと写真の件で思った。


『たぶん、そうだと思います』


 レトルトを届けに来た上有住澄香ほんやくさんに思わず写真のことを相談し、ケイって私のこと友達以上の意味で好きだったりするのかな? とド真ん中に火の玉ストレートを投げ込むが如く単純明快な質問をして、そういう答えをもらった。

 小学校からの知り合いとはいえケイとさほど交流のない『翻訳さん』がそれに気づいていることに驚くと同時に、ケイが気持ちを漏らしていることにも気づかなかった自分は鈍感すぎやしないだろうかと頭を抱えたくなる。


 ――困る。否定してくれないと困る。

 ケイとはそういう関係でいたいわけじゃない。

 ケイの想いに応えられない。


 それと同じくらい、ケイの想いを否定して傷つけたくない。

 一番大切な人だから――


 そんな思いがユキノの中で交錯し、絡み合っていく。


(ホント、困ったねぇ……)


 心の中で呟き、殊更ことさら意識する。そうすることで交錯したものが平らにわかりやすく形を変えていく。

 ユキノが出した答え。

 難しい問題を処理するだけの思考力を持ち合わせていない脳筋娘ユキノが取れる、唯一の方法。

 それは――


「見なかったことにして、いつもどおりにすることだよねぇ……」


 だった。

 単純にケイに好かれていることは嬉しいし、ユキノもケイが好きだ。

 ケイが気持ちをひた隠すなら、ユキノはそれに気づかないフリをするだけ。

 今はそれでいい。

 もしケイが気持ちをぶつけてきたら、そのときはそのとき。

 なるようになれケ・セラ・セラだ。

 ユキノはそう考えることにした。


「しかし……」


 こんな複雑で大変な問題を、猪突猛進でねじ伏せたもう一人の親友リッちゃんはすげぇなぁ。

 と、いつかのケイと同じようなことを思いつつ、帰りの電車が滑り込んできた駅の改札を通り――


 ばたん。


 ゲートに通せんぼされた。


「……そうだった……」


 電子マネーの残高不足で電車に乗ることができず、ユキノはケイに電車賃を借りればよかったと後悔しながら、自宅まで八駅分の距離を走り出したのだった。





       終

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風邪引きケイと世話焼きユキノ ~『翻訳さん。』スピンオフ~ 南村知深 @tomo_mina

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