第3話

 ユキノがコンビニから戻ったとき、ケイは静かに寝息を立てていた。寝る前に何かおなかに入れてやりたいと思って急いだが、間に合わなかったようだ。


「しゃーなしか……」


 目覚めたときにすぐ食べられるようにと、購入したパウチ入りのゼリーをいくつかとスポーツドリンクをソファの前のローテーブルに並べ、自分用に買った黄色い箱の固形バランス栄養食を開けてもしゃもしゃとかじる。

 ケイがしっかりしたものを食べたいと言うかもしれないから、食材を買い込んで料理をしよう……と思ったが、昨日欲しい本を買いあさって現金の補充をしていなかったのでサイフに七十三円しかなかった。コンビニの精算は通学に使っている鉄道系電子マネーで何とか間に合わせたものの、こちらも残高がギリギリで帰りの電車賃すら残っていない。


(家までランニングかー……革靴ローファーで最後まで走れるかな……)


 少々憂鬱になりながら、ココア味のブロックを咀嚼そしゃくして飲み込んだ。

 ん……とケイが小さく呻く。その顔に珠のような汗が浮かんでいて、ユキノはポケットのハンカチでそれを拭いてやった。

 そういえば、とケイの襟元を見て、着ている服が制服のままだということを思い出した。上着は脱がせたものの、ブラウスにリボンタイ、スカートという格好で眠っている。

 思い切り汗をかいているし、寝るには窮屈かもしれないと思って、ユキノは着替えを用意することにした。

 ケイを起こさないように足音に気をつけ、リビングを出る。廊下を玄関のほうに行き、二階への階段をゆっくり上る。二階には部屋が四つあったが、それぞれのドアにネームプレートのようなものがあったので、ケイの部屋はすぐにわかった。


「お邪魔しまーす……」


 親友の部屋に無断で入る後ろめたさを感じつつドアを開け、中を覗き込む。

 遮光カーテンがかかっているせいで部屋は薄暗かったが、勉強机やベッド、ローテーブル、姿見、本棚を確認できる程度の明るさはあった。クローゼットはどこだろうと視線を巡らせる。


「……あれかな……?」


 勉強机と本棚の向こうにそれらしき扉を見つけ、部屋に入る。

 そこで、ユキノの足の裏の感触が変わった。

 何だ? と足元に目をやると、布の塊のようなものを踏んでいた。足を引き、目を凝らしつつしゃがんで手に取ると、それがパジャマだということがわかった。


「脱ぎっぱなしか……キッチリ者のケイも、家じゃテキトーなのかな」


 くすくすと笑い、ともかく着替えが見つかってよかったと部屋をあとにして階下へ戻った。



     ・  ・  ・



 ふと気がつくと、ケイはお風呂に入っていた。

 温かいお湯と、ほんの少しの浮揚感。

 体全体が心地良い熱に包まれ、思わずため息が漏れる。

 いつまでも浸っていたい――そう思ったとき、浴室がオレンジ色になった。

 ゆらゆらと揺らめくあかが室内を嘗め尽くし、やがてそれは炎となってケイの周りを燃やし始めた。

 早く逃げないと……!

 そう思っても、体が動いてくれない。焦れば焦るほど、体が石になったかのように重く浴槽に沈んでいく。

 炎はやがて、湯に燃え移った。

 常識で考えて湯が燃えるはずがないのに、ケイはそんなことにも気づかず必死に炎から逃れようともがいていた。

 目の前で燃えさかる炎が、心地よかった湯を沸騰させていく。

 熱い……熱い……!

 なすすべもなく上がっていく温度に体がかれていく。

 誰か、助けて……!

 叫ぶ。

 だが、それは声にならない。誰にも届かない。

 それでもケイは呼ぶ。

 いつも心の奥底にいる人の名を。

 助けて……ユキノ……!

 ユキノ……!



     ・  ・  ・



 ハッと目が覚めると、見慣れたリビングの天井が見えた。

 夢か? それにしては体が熱い……とケイは熱っぽい息をつく。


「大丈夫? ケイ。うなされてたけど」

「……ユキノ……?」

「私ですよー」


 天井照明で逆光になったユキノが覗き込んできて、幼児をあやす母親のように微笑んだ。


「怖い夢でも見た?」

「……そんな感じ」

「そっか。怖かったね」


 ハンカチで顔の汗を拭いてやりながら、空いた手でケイの頭を撫でた。それだけでケイの恐怖感がさらさらと灰になって崩れていく。


「今、何時?」

「五時過ぎってとこかな。さすがにおなか空いたでしょ」

「んー……そうかも」

「よし。好きな物を選びたまえ」


 とユキノがテーブルを指す。

 そこにはパウチ入りのゼリーはもちろん、風邪引きで弱った胃にも優しい食べ物(ただし全部レトルト)が山のように積んであった。


「何これ……? ユキノが買ってきたの?」

「ゼリーとスポドリは私。あとは天からの授かりものということにしておいて欲しいって」

「……?」


 要領を得ない言葉に眉をひそめるケイ。

 ともかく今は体が栄養を要求しているので、細かいことは気にせず選ぶことにした。ソファに起き上がり、ブランケットを脇にやって――


「寒っ……」


 一気に体が冷えて、歯の根が合わないほど体が震え出した。

 汗に濡れて肌にぴたっと貼りつくブラウスや下着が、容赦なくケイの体温を奪っている。熱があるだけに、この冷たさは酷くこたえた。


「ごはんの前に着替えだね。でもちょっとだけ待ってて、体を拭くタオルとお湯を用意するから。桶とかタオルとかはバスルームにあるよね?」

「あるけど、着替えは……」

「そちらにパジャマをご用意してございますゆえ」


 芝居がかった物言いをして、ユキノはブランケットを震えるケイに掛けてリビングを出て行った。

 ケイはソファの背もたれに乗せてあるパジャマを手に取り、リボンタイを外して着替える用意を始める。


「……え?」


 その手がピタリと止まった。

 リボンタイをつまんだままパジャマに視線を向ける。

 間違いなく自分のものだ。今朝、部屋で制服に着替えたときに脱ぎ散らかしたままの、飾り気の乏しいベージュ色の地味なパジャマ。

 それがなぜここにある……?

 その自問に即自答する。


(ユキノがあたしの部屋に入ったってことだよね……⁉)


 それ以外の理由が見当たらない。

 もしそれ以外にあるなら、こちらの電話番号もしくはメールアドレスまでご連絡ください、と意味不明なナレーションが脳内に流れるほどケイは動揺していた。


……? いや、……!)


 そう考えるだけで全身から血の気が引いていくようだった。

 寒い。

 震えが止まらない。


「お待たせ……ってケイ、どうしたの⁉ めちゃくちゃ震えてるし顔色真っ青だよ!」

「…………」


 戻ってきたユキノと目を合わせることができない。うつむいて両腕を抱き、震えることだけしかできない。


「とにかく、服脱いで。そんな汗で濡れたシャツを着てるから寒いんだよ。ほら、拭いたげるから」

「…………」


 いつもと変わらないユキノ。ケイが震えているのは寒いからだとしか思っていない、心配そうな表情。

 だが、その心の奥で何を考えているのかわからない。

 ケイはおびえるような目でユキノを見る。


「……あー、ケイは人前で脱ぐのダメだったっけ。じゃ、お湯とタオルは置いとくから、自分で拭いて。無理そうだったら手伝うから。オーケー?」

「……うん」


 何やら警戒されていることを察したらしく、ユキノは咄嗟にそんなをでっちあげた。そうすれば離れる言い訳が立つと思ったのだろう。


「私はそのあいだにレトルトを温めておくよ。どれにする?」

「……これで」

「ん、りょーかい」


 パッケージをしっかり見もせず適当に指し、それに疑問を持つことなく玉子粥たまごがゆのレトルトを取ってキッチンに向かうユキノの背を目で追って、ケイはほんの少しだけ緊張を緩めた。


(全然ユキノの反応が変わんない……見てないのかな……?)


 そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。

 わからない。

 熱でぼんやりした頭では何を考えてもまとまらない。何をしていいのかわからない。

 それでも――体は寒さで震えているし、空腹を訴えかけてくる。

 ならば、とりあえず理性とは別に体が求めていることを満たしていこう。

 そういうふうに頭を切り替えて、ケイは湯気の立つお湯をはった洗面器にタオルを浸した。


「っ……!」


 指先が湯に触れて、その熱さに手を引っ込める。

 さっき見た夢のようだと指に息を吹きかけて冷ましながら、ふと夢の中でユキノを呼んだことを思い出した。

 目覚めたときにユキノがそばにいたのは、ひょっとしたら寝言で呼んでしまったからではないかと思った。もしそうなら恥ずかしすぎる。


(……考えないことにするんじゃなかったの? ケイ)


 ふるふると頭を振って余計なことを追い出して、タオルを掴んで――湯の熱さに再び指先を火傷しそうになった。

 まったく、湯加減って言葉を知らないのかー。とキッチンでレトルトを湯煎ゆせんしているユキノに内心で毒づき、ぼんやりして二度も熱湯にしてやられた自分を嘲笑あざわらう。

 体の冷えが冗談で済まなくなる前に熱々のタオルと格闘しつつなんとか絞って、ブランケットを羽織ったままブラウスと下着ブラを脱いだ。

 ほかほかと心地いいタオルで腕から首、胸、おなかの汗を拭う。背中には手が届かず、しかたなく肩と脇だけで済ませた。

 温くなったタオルを洗面器に戻し、パジャマを着る。

 足はスカートなので、ストッキングだけ脱げば大丈夫だった。さっぱりした足にパジャマのズボンを穿いて、脱いだスカートとストッキングをブラウスと一緒に丸めて脇に置く。


「ふう……」


 体を拭き終えると、じっとりとした嫌な感覚がほとんどなくなって気分が少し良くなった。

 残るのは、手が届かなかった背中の不快感だけだ。


(どうしよう……)


 ユキノに言えば、快く引き受けて拭いてくれるだろう。

 だが、今のケイにそれを乞うことはできなかった。お願いをして、ただ背中を拭いてもらうと思われたくないから。

 それが単なる思い込みに過ぎなくても、部屋を見られたと思っているケイはその想像に囚われて言い出せなかった。


「お待たせしました。レトルトの玉子粥、梅干し添えでございます」


 ソファに体育座りしながらブランケットに包まるケイの前に、ユキノは温めたレトルトを茶碗に移しただけ(梅干しはレトルトの付属品)の料理を差し出した。


「レンゲが見つからなかったんでカレースプーンで申し訳ないけど」

「ううん、大丈夫。ありがとー」


 あまりにもユキノがいつも通りで、ケイは思わず警戒していたことを忘れて、いつもと変わらない調子で返事していた。


(そうだよね。ユキノはいつだってあたしの気持ちになんて気づかないもんね……)


 今までずっとそうだった。

 普段は秘めた想いを出さないようにしているケイではあるが、不意にユキノが無自覚にそれを引っ張り出すような言動をする。そのたびに少しこぼれてしまった想いにユキノが気づいてしまわないかとドキドキしていた。

 だが、ユキノは全然それに気づかない。そんな様子がまるでなかった。

 きっと、ケイの部屋を見ても気に留めることはないのだろう。

 そう思うと、いろいろ考え込んでいたことがバカバカしくなった。風邪を引いて熱が出て、そのせいでろくでもないことを考えてしまっただけだ、と。


「いただきます」


 茶碗とスプーンを取り、湯気の立つ玉子粥を一口――


「……あち……っ!」

「もう、慌てるからそういうことに……ふーふーしたげよっか?」

「え? さすがにそれは引くわー」

「酷ッ!」


 気持ちが楽になって、普段のようにユキノと掛け合いができて、ケイは高熱で気絶するほど苦しかった今朝が悪い夢だったのではと思うくらい、楽しいと思った。

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