第2話
人の声が聞こえる。
そう思った瞬間、真っ暗でグルグル回り続けていた視界が白い光に包まれた。
「…………知らない天井だ」
なぜかそんなセリフが口を突いて出る。
事実、白い天井に白い照明、カーテンレールらしき金属の線が見えて、それが自宅や自室のものではないのだ。
とすると、ここはどこなのだろう?
そう思ったとき、視界の端に動くものがあった。
「おはよう、ケイ。気分はどう?」
聞き慣れた声。見慣れた顔。
親友であり、ケイの大切な人だった。
「ユキノ……?」
「そうだよ。私の顔、忘れちゃった?」
「ウソを申せ。ユキノ様がこのような場所に
「私は私だよ。君の友人の
ほう、とユキノは今にも泣きそうだった顔に微笑を浮かべ、安堵のため息をつく。
その表情を見て、ケイは冗談抜きでものすごく心配をかけたらしいと悟った。
ユキノに声をかけようと息を吸い――消毒薬のような匂いが鼻腔を抜けて、ここが病院ではないかと思ったところで、ケイは体調不良で倒れたことを思い出した。
「ここ、病院?」
「うん。ケイの家の近くのクリニック。リッちゃんが教えてくれた。……多分、『
ユキノとの通話中にリツコが話していた相手は、
「ケイ、今朝のこと覚えてる?」
「テーマパークのアトラクションよろしく視界がグルグル回る中でトイレを目指して、某国のマーライオンばりに朝食を吐いたところまでは覚えてるよ」
「あー、じゃあそこで力尽きて気絶しちゃったんだね」
「みたいねー」
はは、とケイは小さく笑い――急に真顔になる。
「……で、ネタはさておき、ホントになんでユキノがいるの? あたしんちの場所は教えてなかったよね?」
「リッちゃん経由で『翻訳さん』から聞いた」
「個人情報ゥー! いや、それもなんだけど、なんでうちに来たの?」
「いつもの時間にケイが来なかったからだよぅ。のんびり屋のわりにやたら時間にうるさいケイが時間通りに来なかったら何かあったと思うでしょ。実際何かあったし。直感を信じてよかったよ」
「……直感って」
「そのおかげでケイのピンチに駆けつけられたんだよ。でも、
ぎゅっとケイの手を握って、ユキノは震える声を絞り出した。
ケイはその手に視線を向け、握られた自分の腕に点滴のチューブが二本刺さっていることに気がついて、自分の状況がのっぴきならなかったことを理解した。
「ごめんね、ユキノ。心配かけて」
「ホントだよぅ……声かけても返事しないし、火傷しそうなくらい体が熱かったし、苦しそうに息するし……ケイが死んじゃうかもって本気で思ったよ」
「ごめん」
ベッドサイドの椅子にうなだれて、ぐす、と
「診断は風邪だった?」
「うん。ケイって風邪をこじらせるとめちゃくちゃ熱が出るんだってね。先生が言ってた。今日ほど酷いのは初めてだったみたいだけど、インフルエンザとかそういうのじゃないって」
「ここは昔からのかかりつけだからねー。勝手知ったるってもんだよ。……ちなみに、『翻訳さん』の
「マジで⁉ リッちゃんが『連絡しておく』って言ってたのはそういうことか……診察時間前なのにすでに来院していた人の順番待ちすっ飛ばして診察してくれたから、何が起こってるんだと思ったよ」
「マジだよー。すごいよね、上有住一族は」
泣きそうなユキノを暗い気持ちにさせまいと、ケイはのんびりした明るい調子で言って笑顔を見せた。
点滴が終わるのを話しながら待ち、ベッドを下りたケイの足元が少々
「……ユキノ。玄関の鍵はどうしたの?」
「下駄箱横に掛かってたのを手当たり次第試したら合うのがあったよ」
ケイを背負ったままポケットから鍵を取り出し、ドアロックを解除する。
「急いでケイを医者に診せないとと焦ったけど、誰もいない家を開けっ放しにするのもまずいと思って。リビングなんかの窓の鍵は開いてるかもだけど」
「案外冷静なんだねー。あたしだったらパニックになってそこまで気が回らないよー」
「ま、訓練されてるからね」
ちょっと自慢げに言って、おぶっていたケイを上がり口に下ろした。
ユキノたちが通う高校では、運動部に所属する全員が年一回、夏休みに丸一日使った救急救命の講習を受けることになっている。その際に口うるさく言われるのは『まず冷静になれ』だった。万一の事態に救命する側が慌てふためいていては助けられるものも助からない、と。
それを思い出して、ケイの緊急事態に直面しながらも冷静になれと自分に言い聞かせることができたのだ。
ちなみに、玄関の鍵は自宅での習慣が出てほとんど無意識にかけていただけである。点滴中のケイを見守っているときに、いつの間にかポケットに入っていた鍵を見つけて「え? 何この鍵?」と驚いたことは秘密だ。
「いろいろありがと、ユキノ。もう大丈夫だから学校に行って。休ませるわけにはいかないし」
「でも……」
「大丈夫。へーきへーき」
軽口を叩き、元気をアピールするケイ。しかし立つのが
無論、そんなものを見せられてさっさと帰ってしまえるユキノではない。
「何も大丈夫じゃない。私にとってケイの看病は、続いたままなんだ」
「……まさかユキノの口から
「少なくともケイをベッドに寝かせて無事を見届けるまでは帰らないよ。部屋はどこ? 二階?」
「そうだけど、大丈夫だから。自分で行けるから」
「ケイの意見は聞いていない。私がそうしたいからそうするの」
「いや、それはちょっと困る……」
ケイはうつむきながら口ごもった。
部屋には他人に見られたくないものが多すぎる。特にユキノには見せられないものが、部屋に入れば間違いなく目につくところにあるのだ。
「部屋散らかってるし、そんなところにお客サマをご招待できるわけが……」
「まともに立てない病人が何を言ってんの。ほら、肩貸したげるから」
「だから、ホントに大丈夫だってば!」
差し出されたユキノの手を払いのけ、ケイはヒステリックな声を上げた。
「ご、ごめん」
すぐにハッと我に返り、謝った。驚いて硬直するユキノにあわあわと慌てながら言い訳を並べていく。
「ほ、ほら、ユキノに風邪をうつしたら悪いし……」
「私、バカだから風邪引かないよ?」
「自分で言うの? それを。いや、そういうことじゃなくて……」
「じゃあどういうこと?」
じっとケイを見つめるユキノの瞳には、一歩も引かないという意思が見えた。ケイはどう言えばユキノを部屋に入れずに済むかを熱に浮かされた頭で必死に考える。
「……正直言うと、足に力が入らなくて、立つのも辛いんだ……。階段なんて絶対に上れない。だから、それまではリビングのソファで横になるよ。そこまで連れて行ってくれる……?」
言い訳半分、本音半分。上目遣いでユキノを見上げる。
「わかった。ちょっとじっとしてて」
「えっ、ちょっ……」
特に怪しむでもなく、ユキノはめったに見せない弱音を吐いたケイを横から抱き上げて、リビングに移動しソファに寝かせた。大きめのブランケットが背もたれに掛かっていたので、布団がわりになればと掛けてやる。
ケイはそれを鼻までかぶり、真っ赤な顔で呟いた。
「人生初の『お姫様だっこ』がユキノになるなんて……」
言い訳が通じて一安心したのも束の間、風邪とは別の熱で頭がくらくらした。
「そうなの?」
「そうだよー……責任取ってよね」
「何の?」
キョトンとするユキノ。
ケイは話が通じなくてよかったと思うと同時に、通じないことに少し腹が立った。だがそれを顔に出すことはしない。
ふぅ……と複雑な感情が入り混じった熱っぽい吐息が漏れる。
「ケイ、寒くない?」
「ん……大丈夫。ありがと」
「おなか空いてない?」
「朝、全部吐いちゃったからねー。でも食欲が全然ないから、食べられそうにないよ」
「喉は乾いてる?」
「少し。冷蔵庫の横に冷やしてないスポーツドリンクがあるんだ。それ持ってきてくれる?」
「おっけ。待ってて」
中腰で顔を覗き込んでいたユキノがキッチンに行き、ケイの視界が開けた。リビングの壁の掛け時計が午後二時を指しているのが見えて、思わずぎょっとした。ケイの中ではまだ昼前だという感覚だったのだ。
「お待たせ。コップに入れてストローをつけたから、起き上がらなくても飲めるよ。勝手に使ってごめんだけど」
「いいよ。……すまないねえ、ユキノどん。いつも世話をかけてしまって……」
「それは言わない約束でしょ、ケイどん」
言って、顔を見合わせて笑う。
どんなときでも小芝居を忘れない。
それはケイの状態が最悪ではないことの証明でもあった。ユキノはほっと安心する。
「ホントにごめんね、ユキノ。まさかこんな時間になってるなんて思わなかった。学校サボらせちゃったよ」
「気にしないで。リッちゃんに事情は知らせてあるし、無断欠席にはなってないはずだから。何より、ケイを放っておいて学校に行けるわけないでしょ」
「ごめん……」
「そこは『ありがとう』でいいんだよ。私もそのほうが嬉しい」
「ありがとうございますユキノ様。この感謝の気持ちを和歌にして我が家の神棚に奉納……」
「しなくていいから」
ピシッと拒否してケイを黙らせる。
「まだ少し熱っぽい顔してるし、もう少し眠ったほうがよさそうかな。あ、その前にしっかり水分取っておいてね。寝てるあいだにめちゃくちゃ汗かくと思うから」
「んー……そうする。そのあいだにユキノ、何か食べるといいよ。あたしにつきっきりで昼ご飯食べてないでしょ。キッチンにあるものは好きなようにしていいから」
「ううん、コンビニに行ってくる。ケイが食べられそうなものを買いたいし。何より
言って苦笑し、ユキノは寒くないかをもう一度訊いてからリビングを出た。
ケイはそれを見送り、すごく安心した気持ちのまま、すうっと眠りについた。
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