風邪引きケイと世話焼きユキノ ~『翻訳さん。』スピンオフ~

南村知深

第1話

 ――ああ、これはダメだ。


 見慣れた自宅リビングが遊園地のアトラクションになったかのようにグルグルと回り始め、白川しらかわケイは強烈な寒さに身震いしながらぼんやりとそう思った。

 とにかく急いで行かないと、と足を動かそうとしても、膝から下がなくなったように感覚が消失していた。そのせいで普段なら決して躓いたりしない僅かな段差でつま先を引っかけて前のめりに転んでしまった。不思議なもので、他に意識が向いていたので痛みを感じなかった。

 気ばかりが焦る。世界が回る。頭の芯が電気ケトルのように沸騰している。

 それでも行かなくてはならない。ここにとどまっていては、容易にこのあとの惨劇を想像できてしまうから。それはついこのあいだ十七歳になったばかりの女子高生が演じるには少々ハードすぎる。

 もはや立ち上がることすら困難な状況で、ケイは床を這い、動かぬ足を引きずって廊下を進み、死力を振り絞ってドアを開けて――少しばかり安心して気が緩んだのか、体の奥からは一気に上ってきた。

 こんちくしょう……!

 女子高生らしからぬ裂帛れっぱくの気合いでそれを押さえ込み、コンマ何秒という時間を稼いで延ばした手が、ひんやりとしたものに触れた。

 ――それから少ししたところで、ケイの記憶は途切れている。



       ◇



 寒さに背を丸めた大勢の通勤通学客が吐き出されていく早朝の駅の改札口をぼんやり見つめながら、東藤とうどうユキノは歩道の街灯にもたれかかって待ち合わせの相手が来るのを待っていた。ときおり吹き抜ける風が昨日よりもずっと冷たくて、思わず身震いが出る。なんとなく見上げた空は冬色をした陰鬱いんうつな曇りで、天気予報で冷え込みそうだと聞いた通りの寒空だった。

 クローゼットから引っ張り出してきたばかりで防虫剤のにおいが少し残っている紺色のマフラーに顎をうずめ、両手を制服ブレザーのポケットに突っ込み、長身の背中を丸めて寒風に抵抗する。


(早く来ないかなぁ……)


 待ち人――ケイがなかなか姿を見せないのでスマートフォンを取り出し、時計を見る。

 普段合流する時刻から二十五分も過ぎていた。時間にルーズなユキノと違って、ケイはそういうところはしっかりしている。遅れるなら遅れると連絡の一つもよこすはずなのに……とユキノは待たされている苛立ちよりも不安を覚えた。


「…………」


 かじかむ指をぎこちなく動かし、スマートフォンでメッセージを送る。

 ややあって、返信を知らせる着信音が鳴った。

 それに視線を落とし――

 ユキノは改札のゲートを駆け抜けた。



 あまり馴染みのない方面へ向かう電車の中で、ユキノは先ほど送られてきたメッセージを読み返していた。三度読んでしっかり記憶し、スマートフォンをポケットに戻す。

 そこから数駅過ぎたところで下車して改札を出た。そして見慣れない駅前の通りを迷いなく走り出し、目的地を目指す。

 陸上部で鍛えた体力で颯爽さっそうと駆け抜け……と言いたいところだが、ユキノはフィールド競技者なのでスタミナはそれほどない。目的地に到着するころには歩く速度と変わらぬ頼りない足取りで呼吸を乱し、体力ゲージもほぼ空っぽになっていた。

 その足が止まったのは閑静な住宅街の一角にある一軒家の前だった。大きくもなく小さくもなく、ユキノの感覚では『普通』の二階建ての家。

 『白川』と書かれた表札を見て間違いなさそうだとわかると、荒れに荒れた呼吸を整えようと五度ほど深呼吸し、しっかり落ち着いてから半開きの門扉を押し開けた。そのままコンクリートの短いアプローチを進んで、玄関ドアの横のインターホンを押す。

 静まり返った屋内に『ピンポン』と呼び出し音が響く。


「…………」


 応答がない。

 ケイの家族は両親と祖母がいて、両親は共働きで朝が早く、祖母は入院中だと聞いていた。ゆえに平日の朝はケイが最後に家を出ることになる、と。

 もうすでに家を出ているのだろうか、と思いつつ、ユキノはドアノブを握った。

 軽い手応えでそれは簡単に回り――ドアが開いた。鍵のかけ忘れか、まだ家に誰かいるのか、ユキノには判断がつかない。


「おはようございます……」


 控えめな声で挨拶しながら中を覗き込む。

 しかし返事はなく、相変わらずしんと静まり返っていて物音一つ聞こえない。

 ユキノはもう一度声をかけながら大きくドアを開いた。南向きの玄関に朝日が差し込み、薄暗かった廊下が明るくなる。

 そこで。


「……?」


 廊下の途中にある部屋のドアが半開きになり、そこから黒っぽい何かが少しだけ覗いていることに気がついた。目を凝らして見つめ――ユキノは血相を変えて背中を思いきり押されたような勢いで家に上がり込み、その部屋に駆け寄った。


「ケイ! ケイ⁉ どうしたの、返事して!」


 見えていたのがストッキングを穿いた人間の足だとユキノの脳が理解した瞬間、ケイが倒れているのだと思ったのだ。

 そうでなければいいのにと願うユキノの祈りに反し、そこに横たわっていたのは間違いなく親友だった。

 うつ伏せだったケイの肩を軽く叩き、声をかける。

 しかし、応答がなかった。

 ユキノはパニックになって大声を上げそうになった。


(待て、落ち着け、落ち着け……)


 その寸前で――こういうときに慌てていてもどうにもならない、まずは落ち着いて現状把握することだ、と自分に言い聞かせて深呼吸した。

 少しだけ冷静さを取り戻し、改めて倒れたケイの様子をじっと観察する。

 見たところ外傷はない。出血もない。倒れてどこかに頭をぶつけたといったことではなさそうだった。

 声をかけても返事がないが、小さく肩が上下しているので呼吸はしている。手首に触れて感じる脈拍も一定のリズムだ。ただし、どちらもかなり速かった。

 うつ伏せだから呼吸が苦しいのかも、と思って抱き起そうとした。

 ……が、ふと気がついて判断に迷う。

 ケイが倒れていたのはトイレで、かすかに吐瀉物としゃぶつの匂いがした。もし仰向けにしたときまた嘔吐おうとするようなことがあったら窒息する危険性がある。意識がない状態ならなおさらだ。ユキノは咄嗟にそう思った。

 とはいえ、こんな狭く寒いところに置いておくわけにもいかないと、意を決してケイを抱え上げてリビングに移動した。もし吐きそうになっても大丈夫なように、体を横向きにして寝かせればいいと考えて。

 ユキノの悪い予想は外れ、ケイは無事リビングの絨毯の上に横たわることになった。ホットカーペットの電源が入ったままだったので十分温かく、体が冷えることはない。

 しかし、それ以上にケイの体が熱かった。寒風の中を駆けてきて冷え切ったユキノの手が溶けるかと思うほどの熱を持っているようだった。

 意識がなく、高熱があり嘔吐もしている。これは一刻も早く病院に連れて行くべきだろう。


(でも……どうやって?)


 必死に冷静さを保とうと意識を集中しているせいか、救急車を呼ぶという選択肢が浮かんでこない。ユキノの年齢では滅多にその機会がないので、思考から抜け落ちているのだ。

 どうしよう、どうすれば……と焦りがじわじわ湧いてくる。すぐそばで親友が苦しそうにしているのに、何も思いつかないのがもどかしい。


「っ⁉」


 そのとき、不意にユキノのスマートフォンが震えた。

 慌ててポケットから取り出して画面を見ると、すでに登校して学校にいるらしいもう一人の親友、浅茅あそうリツコからのメッセージが届いていた。


『ケイの家は見つかった?』


 今まさにそこでピンチだよ、リッちゃん! と反射的にツッコミを入れて、なぜか少しだけ落ち着いた。

 そしてハッと気づく。リツコに相談すればいいんだ、と。

 ユキノは時計を見て授業がまだ始まっていないことを確かめ、メッセージを返すのではなく通話アイコンをタップした。呼び出し音が二度鳴ったところで相手が応答する。


『どうしたの、ユキノ。もうすぐ授業始ま……』

「ケイが家で倒れてて、多分何かの病気だと思うんだけど、すごい熱で呼んでも返事がなくて、どうしたらいいかな?」

『……は? もう一回簡潔に頼む』


 叩きつけるような早口で現状説明をしたせいか、リツコは状況が把握できずに問い返してきた。一度でちゃんと聞いてよ、と喚き散らしたくなるのを必死に抑え、要点だけを伝える。


「ケイが家で倒れてた。どうしよう」

『病院に連れてけ。今すぐ』


 簡潔に伝えただけあって、動揺しているユキノにも非常にわかりやすい回答だった。


「そんなことはわかってるよ。わかってるんだよ。でも、私、この辺りの病院の場所なんか知らないし」

『あー、そうか……うーん……。……え? ちょっと待って』


 リツコが電話口で誰かと話しているような小声が聞こえた。焦るユキノにはそれが何時間もの無駄話に思えて、何をしてるんだと怒鳴りつけてしまいそうになる。

 そんな衝動と格闘しながら待っていると、ややあって返答があった。


『ユキノ』

「うん」

『ケイの家から駅とは反対方向へ徒歩三分のところにクリニックがあるらしい。多分そこがケイのかかりつけだろうから、今すぐケイを抱えて駆け込めって。まだ診察時間前だけど、連絡はしておくってさ』

「え……? どういうこと?」

『いいから。ケイがヤバいんでしょーが。さっさと行きなさい! ハリーアップ!』

「い、イエスマム!」


 有無を言わせぬ一言に思わずそんな返答をしたユキノは、通話を切って会話の内容を頭の中で反芻した。


(最近のリッちゃんって、英語の勉強してるから発音がよくなってるな……)


 この緊急事態にそんなどうでもいいことを思い、違う違うと頭を振るユキノ。

 よくわからないがともかく言う通りにしようと、寝かせたケイを抱き起こして背負い、ソファに置いてあったケイのダウンコートを上から羽織ると、「ちょっとだけ我慢してね」と声をかけてから足早に家を出て、徒歩三分の場所にあるというクリニックへと駆け出した。

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