白む世界
❆
雪の家の地上階の暖炉には、石炭の燃えかすが燻っている。
老人が階下から階段をあがってきた。
手には、空気が抜けかけた古びた赤いボールと、くたびれた二重毛皮の
「ユーハ……。すまなかったな」
老人が手にしている物たちに話しかける。
ボールを小さな机の上、女性と青年の写真や姿絵の前に置き、くたびれた外套は一人掛けソファの肘掛けにかけた。
「そうだ……」
たしか、家族、孫、義両親とで撮った写真があるはずだ、と老人は思い出す。
妻の計らいで、その時には亡くなっていた自分の両親の姿絵も一緒に写した。
唯一の、一家勢ぞろいの写真だ。
息子は出て行ったものの、元気な孫を腕に抱けて、妻と、若い頃に仲違いしていた義両親も傍らにいた。今思えば、人生で一番幸せな時だったかもしれない。
あの写真はどこにあるのか。老人は節々が痛む身体を
地上階の窓は、もう完全に雪で埋もれていた。
そして、天井の玄関扉にも、
◇
「母さん……、母さん……、うぅ……」
息子のユーハが
無邪気に遊んでいるまだ3つにもならない孫は、じいやさんが見てくれている。
「だから、どこの馬の骨かもわからない男に、しかも極寒の地に嫁に行くなんて、反対したんだ!」
「もう済んだことだ! 娘とひ孫の前で、止めてくれ!」
義父が親戚の罵倒を
冬の初め。
都会に出る準備をしている最中、リーナは倒れた。
妻は昔から寒さに弱く、冬は少し無理をしただけですぐに風邪をひく。だから寒い日は家から出ないようにさせていた。
その日は天気のいい日で、街に旅支度の買い出しに行った帰り道だった。
いつもの、風邪だと思っていた。
数日休んだらすぐに良くなって、息子家族に会いに行けると思っていた。
いつもどおり、家事は私がこなして、看病もつきっきりでした。
いつもどおり、手を抜いた覚えは無かった。
妻の様子から風邪は長引きそうだと思ったから、いつもどおり、街にお医者様を迎えに行った。
いつもどおり……。
「極寒の田舎でこき使われて、寿命を縮められたんじゃないか?」
「いやそんなことは……!!」
「リーナの北での暮らしぶりを直接見たことはあるのかね?」
「それは……」
「リーナは嫁ぎ先に殺されたようなものだ。葬儀がこちらでできたのは、せめてもの救いか」
義父と親戚の押収が続く。
たしかに、あの日買い出しに出なければ。
もっと妻の様子を気にかけていれば。
寒波の前に都会へ出立していれば。
私が婿に入っていれば。
リーナと結婚せず都会に返していたら……。
あの日。
眠るリーナの前で放心している間に、容体悪化の緊急電報を受け取った義両親と息子が来て、リーナと私は都会に運ばれていた。
妻も故郷に帰りたいかもしれないと、私は息子たちの手配には逆らわなかった。
「どうだ? 婿も取らない放蕩娘に代わりに、私が貿易会社を受け継いでも……」
「娘を
「母さん……うっ」
眠る妻の薬指には、昔リーナが飲み込んだ婚約指輪を模したガラス指輪が光っている。
義父の仕事を手伝うようになり余裕ができた時に、職人にお揃いで作ってもらった。
外して持ち帰ろうか悩んだが、そのままにした。リーナが嫌がりそうだったから。
「ばーば、ねんね~?」
孫の無邪気な声。
「うん。リーナはね、ちょっと疲れちゃったから、眠っているんだよ」
「ばーば、早くよくなってね。また、ばーばのわんわんとあそぼーねー」
ばーばのわんわん……。
そうだ。
私はあの家を守らないと。
それから貿易仕事は息子に引き継ぎ、私は都会に行かなくなった。
万年氷の切り出しや取引は、街から氷切場へ通い働く若者たちに少しずつ任せていった。
子供は独立し、養う者も家にいない。
家を守る少しのお金があれば、もう十分だ。
ここで静かに、リーナが愛した雪の家を守ることに注力しよう。
たまに息子が孫を見せに来るのが、唯一の生きがいだった。
「父さん、これ。あげる」
その日は久しぶりに息子のユーハが妻子を連れて帰省していた。
毎年夏には息子家族が遊びに来る。今夏は数年ぶりの増築を、興味津々の孫が手伝ってくれた。
設計図をクレヨンで描き、軽い資材を運び、次に打つ釘を渡してくれる。少しだけ、一緒に釘打ちもした。家は増築したばかりで今は地上2階建てだ。
夕食を終え、暖炉前で積み木で遊ぶ孫を眺めながら、私は息子とソファでくつろぐ。
リーナとの離別から数年。
義両親たちも見送り、ユーハは立派に義父の貿易事業をまとめていた。
「なんだ?」
その息子が、重厚な毛皮の外套を手渡してきた。
「久しぶりに作ったんだ。父さんにあげるよ」
両手で毛皮の外套を受け取る。丁寧に
「これは……、二重毛皮じゃないか」
贅沢に毛皮を二重にあしらった外套は、万年氷地方の厳しい冬にうってつけだ。
「作り方、よく覚えていたな」
「まぁね。母さんの手仕事をたまに手伝ってたし。さすがに皮は買ってきたけどさ」
二重毛皮の外套を時間をかけてよく見てから、ソファの背にかける。
本当によく出来ている。
キッチンで紅茶を入れ直し、自分と息子のカップをソファに運ぶ。
リーナの好きな蜂蜜紅茶をユーハが土産にと大量に持ってきてくれた。
「なあ、ユーハ」
片方のマグカップを息子に渡す。
「何? 父さん」
温かい紅茶を一口だけ飲んでから、口を開く。
「父さんな。死んだら、母さんと一緒に眠りたいんだ」
「いいの? ここじゃなくて」
隣に座る息子はソファから腰を浮かし、ローテーブルにマグカップを置いた。
「都会は私にとって第2の故郷だしな」
「意外だね。父さんは万年氷他方がいいんだと思っていたよ」
妻がこっちにいたら、そうしていただろう。
「母さんはこんな北の果てまで来てくれたんだから、たまには私から行くさ」
暖炉前では孫が積み木を手に持ったまま船をこいでいる。その母親も、横でうつらうつらしている。
昔の、私の妻と息子を見ているようだ。
「けど、身体が動くうちはここにいたい。もう少し歳を取ったら、よろしく頼むよ」
「父さん。それなんだけど、実はさ……」
ユーハがソファに座り直して、歯切れ悪く切り出した。
「……新大陸に行くことにしたんだ。エヴァと、息子も連れて」
「新大陸?」
「そう。海を何日もかけて、航海した先の、新大陸」
街に降りた時にたまに読む新聞で、新大陸の存在は知ってはいた。
「何でまたそんなところに? もしかして、貿易事業の調子、そんなに悪いのか?」
「うん……」
数年前から時代の変化が目まぐるしく、様々な事業が
義父とユーハの貿易業もいつ落ちぶれるか。
生き残るために、2人は様々な新規事業に手を出した。当たるものもあれば、失敗することもある。後者と負債の方が多かった。
「万年氷の専売だけは上手くいってて何とか持ち堪えてはいるけど……。このままだと、従業員を路頭に迷わせかねない……」
「そんなに切迫しているのか」
「だから、新大陸で取引を広げたいんだ。都会は信頼出来る者とじいやに任せる」
万年氷だけは増収に転じているらしい。時代の変化で富める者が増え、純度が高く溶けにくい高級氷の需要も増えたからだ。
「私に手伝えることはあるか? 夏だけここに帰れるなら、私も都会に出て……。ブランクはあるけど」
「父さん」
ユーハは姿勢を正し、改まって私の顔を見る。
そして一呼吸置いて
「一緒に、来て欲しいんだ」
一緒に……?
「新大陸にか?」
「うん」
「この家を捨てて……?」
「うん」
「母さんを、置いて……?」
息子が僅かに視線を下げる。
「…………うん」
息子は、随分と背負うものが増えた。
自分の家族の他に、会社、従業員、取引先、その家族……。私が人生で一度も背負ったことのないほどの重責を。
「父さん」
ユーハがもう一度顔をあげて、私の目をまっすぐに見る。
「僕は。父さんを、置いて行きたくはない。新大陸航路は片道でも3週間と莫大な旅費がかかる。簡単には、こっちに帰れないんだ」
近海と違って、新大陸との定期航路はまだ無いと聞く。
事業が傾いているのに里帰りに高額な費用も出せないだろう。
「たぶん、もう、帰れないかも、しれない」
片道切符か。
「だから……、だから、父さんに一緒にきて欲しいんだ!」
息子の気持ちは素直に嬉しい。
しかし、私の答えは最初から決まっている。
「私は……、行かない。この家を守る」
息子と共に行ってもリーナは怒らないだろう。
だが、既に背負いすぎている息子の重荷を、これ以上増やすこともない。
莫大な旅費が大人一人分と、向こうでの私の生活費が、浮く。
「父さん!」
学生時代から取引経験があるユーハと違って、私は冬だけの期間工だった。その上ブランクもあり、もう現役ほどには動けない。
高級氷ならまだしも、新しい世の中と新大陸の世情には疎い。つまり、足手まとい。
「それに母さんを置いてはいけない」
「父さん……。母さんはもういないんだ……。墓参りだってしてないだろ」
その通りだ。リーナの葬儀以来、都会には出ていない。
私がリーナの命を縮めたと都会の親戚一同に罵られ、それを内心でも否定出来なかった。彼女に会わせる顔がなかった。
妻がそれを聞けば笑って否定すると分かってても、だ。
義両親との文通は最後まで続き、最後の手紙には『自分たちの葬儀には来ないでくれ』と書かれていた。
ユーハ曰く、義両親の葬儀でも親戚が私を罵り責め立て、会社の後継問題を有利に進めようとしていたらしい。
「頼むよ、父さん……」
ユーハの声が掠れている。
故郷も、親も、今の生活や友人も捨てて新大陸に向かうことが、ユーハの独善だとは思わなかった。
「……勝手にしろ」
息子に別れを告げる私の心は落ち着いている。
「父さん……」
ただ、もう二度と会えないであろう一人息子との別れが、悲しかった。
「勝手にしろ」
ユーハの、私を見る瞳が揺れている。
一度決心したことは覆さない。これ以上話しても無駄だ。
それは、よく分かっている。お互いに。
「父さん…………」
ユーハはそれ以上何も言わず、顔を伏せて、肩を振るわせていた。
私は紅茶をすする。
温かく、ほのかに甘い香りが広がる。
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