赤いボール



 ❆



 地下に潜っていた雪の家の老人は、埃を被った白黒の姿絵を見つめる。妻との婚儀の際に絵師を呼び寄せて書いてもらったものだ。

 都会とは違って、当時の万年雪地方や近隣には写真機はない。

 姿絵ですら我が家には贅沢で、人生の節目にしか頼めなかった。


 懐かしい姿絵を大切に懐に入れる。


 歳をとり身体が思うように動かなくなってからのここ十数年は、使わなくなった最下層の解体ができていない。

 解体せずに放置した層はやがては氷壁ひょうへきの圧力に負ける。

 そうなる前に。老人は体調のいい時に必要な品や物資を選び、上の階へとあげる。


 ふと。床に、色あせて空気も抜けかけた赤いボールが転がっていた。

 息子が歩くようになった頃に街で買ってきたものだ。


 老人はボールを手に取り、ゆっくりと回す。反対側に持ち主の名前が書かれている。

 「ユーハ」と。繊細な妻の字で。


 老人はボールの名前を撫でながら、物思いにふけった。

 そうしてしばらくすると、顔をしかめ、古びたボールを床に落とした。


 姿絵だけをその胸に大事に抱え、階段を登り、地下の扉を閉める。


 暗闇と静寂だけがそこに残った。



 ◇



 リーナと一緒になった3年後、息子が産まれた。


 極寒の地での出産が不安で、リーナには都会での里帰り出産を勧めた。けど、彼女は頑なだった。

 妻は一度も実家に手紙を書くことはなく、妊娠や出産を知らせたのは僕だった。




「ユーハく~ん! あんよがおじょうずでちゅね~」


 その冬、僕は家族を連れて都会に出稼ぎに出ていた。


「全くもう。父様はユーハに甘いんだから……」


 よちよち歩きの孫と遊ぶ義父へ、リーナがぼやく。


 寒さに弱いリーナに温かい都会で冬を過ごさせたかった僕と、孫と会いたい義父母の思惑が一致した。

 リーナを説得し続け、数年ぶりに冬の出稼ぎに都会に出てこられた。僕は義父の元で貿易の仕事を手伝っている。


「ユーハくーん! チョコレート食べまちゅか~?」

「だめよ! ユーハにチョコレートはまだ早いわ。それに食事の時間は守らせないと」


 都会の家族と仲睦まじくしているリーナを見ていると、結果的に彼女から両親を取り上げてしまっていた僕の罪悪感も多少は薄れる。


「雪の家のお父様たちは大丈夫かしら……」

「あれだけ食料も石炭も備蓄しておいたんだから、一冬だけなら問題ないよ。父さんも家の中くらいは身体を動かした方がいいしね」


 リーナが雪の家の心配を口にした数は、両の手では数え切れない。


 年老いた万年氷まんねんごおり地方の両親を置いていけないと主張するリーナを、冬は家に籠もるしか無く何もすることがないから、僕が都会で稼がないと、と両親と3人がかりで説得するのは骨が折れた。


「アルットゥ君。万年氷の件、よろしく頼むよ」

「あ、はい」


 義父は万年氷の取引を始めたいそうだ。僕は仲介と、氷の卸を頼まれている。


「冬明けに帰省したら、両親と集落の人たちと相談しておきます。たぶん大丈夫です」


 万年氷地方は若者や人は出ていくばかりで、もう、うちを含め3家族しか住んでいない。みなさんご高齢で、地域のことは僕に任せっぱなしだ。


「お金ははずむから、よろしくね」

「ありがとうございます」


 義父は氷の取引や僕の出稼ぎ仕事を通して、娘と孫に援助がしたいのだ。

 昔はお金よりも食料や燃料といったモノの方が価値がある地域だったけど、今はお金で何でも買えてしまう。いくらあっても困らない。


「じーじ。じーじ」

「はーい! ユーハきゅ〜ん! じじと何して遊びましょうか〜♡」


 商談モードでキリッとしていた義父は、一瞬でじじバカの顔に切り替わった。

 僕は、妻と息子を義父母に任せて仕事に向かう。




 母親似の息子ユーハは、大した病気も怪我もせずにすくすくと育った。


「父さん! 学校受かったよ!」

「おぉ! おめでとう!」


 数年前に両親を見送った僕たちは、春から秋は万年氷地方の家で、冬は出稼ぎも兼ねて都会のリーナの実家で過ごした。


「じゃあ、春からはおじいちゃん家で下宿ね」

「うん! 都会の生活、楽しみだな。冬しか行ったことなかったからさ」


 義両親から家族で都会に移り住む話も提案された。

 もし数年に一度の増築や整備が必要な雪の家を一度放棄すると、家は雪に埋もれて二度と帰れなくなる。

 それは僕以上にリーナが嫌がった。


「自分が学びたいことをしっかり学んできなさい。父さんと母さんの心配はしなくていいからな」


 そうして息子は、義両親の家で下宿しながら都会の学校に通った。

 合格できたのは都会では家庭教師をつけてくれた義両親のおかげだ。

 冬になればリーナと共に都会に出稼ぎに出て、家族で過ごした。


 そして、数年後。

 息子は『友人』を連れて雪の家に帰省した。




「俺は父さんじゃない!  父さんの理想を押し付けるな!」


 ユーハは家に連れてきた友人、もとい恋人と、結婚して都会で生活するという。


「母さんはどうするんだ!!」

「暮らしがきつくなったら、都会に出てくればいいだろ? それぐらい僕が面倒見るよ」


 今まで息子と大きく揉めたことは無かった。

 初めての親子げんかは勝手がわからない。


「都会で暮らすなんて下宿とは違うんだぞ! 自分たちの暮らしだけで精一杯だ! だいいち、この家はどうする!」

「そうやって僕の人生を縛るのはやめてくれ!」


 息子は卒業したら万年氷地方に戻るものだと思っていた。

 僕と同じように。家を、家族を、伝統を、守っていくのだと。


「それにこの地方にはもう、うち以外は残ってないじゃないか!」


 そのとおりだ。


 僕が子供の頃から万年氷地方の家々は減り続けている。

 歳をとり、定期的な増築と住み替えが必要なここの暮らしが辛くなったと、温暖な他の地へ移り住んでいった。

 街や他の都市、そして働き出した子供のところへと。


 もう万年氷地方には、我が家しかいない。

 最後の隣家も、とっくに雪と氷に埋もれている。


「僕は自分の道は自分で決める!!」

「なら、二度と……、二度とここには帰ってくるな!!!」


 言ってはいけない言葉だ。

 頭では良くわかっていた。


「あぁ、そうするよ! 行くよエヴァ!」

「勝手にしろ!!」


 息子は階段を駆け上がり、外に出て行った。


 夏は雪は降らないし今日の天気は悪くはない。とはいえ、夏でも溶けきらない万年氷の氷雪原ひょうせつげんを食料も無く軽装で歩くのは危険だ。

 男の足でも、街へ繋がる坑道までは半日はかかる。

 

「ユーハ! 待って!!」


 息子の『友人』が後を追う。


「エヴァちゃん、待ちなさい」


 女性の落ち着いた声が響いた。

 エヴァさんが涙を堪えて振り向く。


 妻のリーナが、2人分の旅装束と、食料や温石カイロなどが入っているであろう革鞄を持って階段を上がってきた。

 家族の一大事に妻の姿を見ないと思ったら、階下でこれを用意していたのか。


「ソリで送っていくわ。ユーハに荷物を渡して待ってて」

「は、はい……」


 エヴァさんは涙を拭い、妻から旅装束と革袋を受け取る。2人が玄関に上がる階段に向かう。


 僕は内心ほっとした。

 僕たちの一人息子を、軽装で氷雪原に放り出さなくて済んだ。


「エヴァちゃん、勘違いしないで欲しいけれどね……」


 妻が階段の手前で立ち止まる。


「アルットゥ……、夫は、ね。あなた達の結婚に反対しているわけではないのよ」


 そう言って、僕へ顔を向ける。


「そうでしょ? アル?」

「あ、あぁ……。もちろん」


 急に振られて、それしか言えなかった。


「あ、ありがとうございます……。ユーハにも伝えます」


 エヴァさんが言葉に詰まりながらもお礼を言う。

 息子の大事な人を泣かせたかったわけでもない……。


 それにしても。リーナは随分と強くなった。

 いや、逞しくなった。


 雪を見たこともなかった都会のお嬢様が、今では犬ゾリを自由自在に操る。

 それだけじゃない。母がリーナに仕込んでいったのは、料理や家事、生活の知恵だけではなかった。




「アル、アルットゥ。ほら見て!」


 都会からの手紙を読んでいた妻が、同封されていた写真を見せてくる。

 最近の都会の写真はうっすら色がついているのか。


「私たち、おじいちゃんとおばあちゃんよ!」


 あの親子喧嘩ぶりに見る息子は、以前より男らしい顔つきになっていた。赤子を抱いた女性と一緒に幸せそうに写っている。


「そうか。無事に元気そうな子が産まれてよかったよ。男か?それとも女の子?」

「ふふふ……」


 僕の知らない間に息子夫婦と手紙を交している妻は、孫の性別を知っているようだ。

 自分の親とは、若い頃に家出してから未だに便りも書かず、微妙な関係を続けているというのに。


 そういう僕は、あいかわらず義両親と手紙を交わしている。

 冬は出稼ぎがてら都会の義実家で過ごすとはいえ、一年の大半は雪の家で生活している。

 養子に入るという義両親の希望を飲まず、リーナを氷の世界の住人にし、義両親と未だに溶けないわだかまりを作ってしまった罪悪感は、消えない。


「今度都会に出たら、家にユーハたちを招きましょう!」

「え……」


 冬に都会に出ても、僕は独り立ちした息子たちと会っていない。


「そうしたら、男の子か女の子か、分かるでしょう?」

「えぇ……」


 リーナが満面の笑みで、両手を口元で合わせた。

 僕と違って、妻は歳をとっても可愛らしくて、若々しい。


「嫌なの? 孫に会いたくないの?」

「会いたくは、なくは、無い、けど……」

「孫を抱きたくないの?」

「……」


 リーナが神妙な表情で僕の顔を覗き込む。


「それに、私の両親だってもう長くはないわ」


 義父はもう歳だからと、学生時代から仕事を手伝っているユーハに大半を任せて、今は半分引退している。


「両親が元気なうちに、家族で揃って食事して、写真も撮りましょう!」


 義両親を持ち出されると、彼らに負い目を感じている僕は弱い。

 リーナは親孝行をしたいのか、夫と息子を会わせる口実にしているだけなのか、分からない。


「……わかったよ」

「そうこなくっちゃ!!」


 僕は渋々という風を装った。

 内心では、名前も性別も知らない初孫への手土産を何にするか考えている。


 あぁ。ユーハが生まれたとき、娘と生き別れていた義両親はこんな気持ちだったのかな。

 僕もリーナも、もう若くはない。孝行しよう。出来るうちに。


 それに、全てを捨てて一緒になってくれたリーナの望みは叶えてやりたい。


 僕は、幸せそうな妻が、見たかった。

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