氷の指輪
❆
雪の家の老人は、時折り息をつきながら生活用品を地下から地上へ
「君は雪が好きなくせに寒がりだったからね」
老人は住み替えが遅くなった言い訳をつぶやく。
老体に荷揚げは堪える。
ゆっくり少しづつ運び、かなりの期間をかけている。
他に地上へと運ぶものはないか、地下の部屋を眺める。
部屋の隅にあった小机の引き出しから、大切にしまっていた指輪を取り出す。これを忘れるわけにはいかない。
これを見ていると、若い頃に作った指輪を思い出す。
◇
「わあ、素敵……。これを私に?」
よく冬晴れしたいつもの公園で僕が手作りの指輪を出すと、リーナは頬をほんのり赤らめた。
「ごめんね。僕に用意できるもの、これしかなくて……」
「ううん。うれしいわ、アル。……とっても」
もうすぐ21になるリーナは既に結婚しててもおかしくない歳。むしろ遅いくらいだ。
リーナのお母さんとじいやさんからは、いつまで彼女を待たせるんだ、早くしないと縁談を組むぞ、と遠回しに匂わされている。
リーナのお父さんからはあいかわらず邪険にされていたけれど。
僕は公園のベンチに座るリーナの前にひざまずいて、指輪をリーナの右手の薬指にはめる。
彼女の目から、透き通った氷のような滴がこぼれた。
「だ、大丈夫?」
「うん。うれしいの。……うれしいの」
僕は立ち上がり、そっと彼女を抱き寄せる。
田舎者で低賃金労働者の僕が良家の一人娘となんて、考えるだけでおこがましい。せめて仲のいい友達でいられたら──。
美しく成長していくリーナを見て、ずっとそう思っていた。リーナが舞い込む縁談を全て断り続けていると聞くまでは。
思えば、僕と出会ってから今まで彼女に特定の相手ができる様子はなかった。
もしかして、もしかして……。
もしかする……かも、しれない。
そう思えるまでに、彼女をだいぶ待たせてしまった。
「……もう、指輪は外そう。指が霜焼けてしまうよ」
「そんな。もう少し付けていたいわ」
「お金をためたら、きちんとした指輪を買おう」
僕はリーナの右手を取り、万年氷で作った指輪を外した。
「そんなのいらないわ。私は、アルが作ってくれたこの指輪がいいの」
「リーナ……」
万年氷の指輪は氷だから、当然冷たい。リーナの指は赤くなっていた。
「なら、大切に保管するわ」
「ごめんね、リーナ。
リーナはさらに瞳を潤ませた。
「こんなに小さな氷は、暖かい都会では氷室に保管してももって数ヶ月だよ」
僕はなぜ、普通の指輪を用意できなかったのだろう。
なぜ、リーナと公園で会う時間を減らしてでも仕事を増やさなかったのだろう。
「なら、なら──、こうするわ!」
リーナは氷の指輪を僕の手から奪い取り──、そして、丸呑みした。
こくり、と彼女の喉が鳴る。
「これなら、指輪は私が死ぬまで一緒よ」
僕はあっけにとられた。
苦労して都会まで持ってきた万年氷から一生懸命切り出した指輪が──、一瞬で無くなった。
「はは。……ははは!」
「なによ、笑わなくたっていいじゃない……」
彼女もクスクスと笑い出す。
「じゃあ、これで、僕たちもずっと一緒だね」
「……ええ。ええ、そうね」
それから僕の仕事の時間になるまで、2人で公園で笑い合っていた。
❆
雪の家の老人は、地下一階から地上への荷揚げと、地下二階から地下一階へ食料貯蔵庫の移動も終えた。あとは地下三階から二階へ資材などの物資を運べば、住み替え作業は完了だ。
それよりも下は、独り暮らしの今となっては使っていない。
地上の暖炉に火を入れ、キッチンで湯を沸かし、一人掛けソファに腰掛け紅茶をすする。彼女が好んでいた都会の茶葉だ。もう残りは少ない。
雪に半分以上が埋もれた窓から、外の様子を伺う。
先ほどまでしんしんと降っていた雪は軽く風に煽られていた。
吹雪の兆候だ。
老人は静かに紅茶をすすりながら、目を閉じる。
あの日、絶望に苛まれて一人帰郷した時の空模様も、こんな天気だった。
◇
「何を言っている。婿に入る約束だっただろう?」
僕はリーナの家で、ご両親と机を挟んで相対していた。
手の震えと冷や汗が止まらない。隣に座るリーナも落ち着きがない。
「ただでさえ分不相応な縁談だというのに。片道10日もかかる田舎に大切な一人娘をやれるか」
リーナの父親が僕に冷たい視線を送る。応援されてると思っていた母親も、さすがに娘を北方のど田舎には送り出したくないようだ。
「お伝えのとおり、父が、倒れまして……。幸い命に別状はないですが、もう重労働ができない状態です」
冷たい汗が僕の額を流れる。
「母一人では、万年氷地方の定期的な増築と住み替えなどが必要な家を維持することはできません……。氷の切り出し仕事も。少なくとも春から秋は、僕が家に戻る必要が出てきました」
声が震える。
「両親をこちらに連れてくればいいだろう」
「それも検討しましたが……、父は長旅に耐えられそうにないのです」
僕のこの言葉が何を意味するかは、よく分かっていた。
「では、破談でいいのだな?」
「父様!」
「リーナには私が良縁を用意する。今からでも遅くはあるまい」
「私は嫌よ! アル、アルットゥ。お願い、何か言って!」
リーナの悲痛な叫びに、僕は俯いて震えたまま何も言えなかった。
親か、リーナか。どちらか一方を選べ。……そういう話だ。
「破談にするのが嫌なら、今までの約束どおりうちに婿に入り、私の貿易仕事を覚えろ。それでもこちらは譲歩しているのだぞ?」
リーナの父親は僕たちが一緒になることに猛反対していた。何処の馬の骨かもわからない出稼ぎ労働者に娘はやらん、身分をわきまえろ、と。
それを何度も通い、リーナと頭を下げ続け、やっと条件付きで許してもらえたばかりだった。
「アル、アル。お願い……」
僕は、腕に縋るリーナの温もりを感じながらも、足元を眺めるしかできなかった。
「ごめん。リーナ」
「アル……」
僕たちは北に向かう乗合馬車の停留所にいた。馬車には荷物と人が積み込まれていく。
「僕は、君が大切だ。一番大切だ」
「……知っているわ」
罪悪感と、苛立ちと、やるせなさとで、僕は顔を上げられない。
「……でも、親を捨てることは出来ない。両親には、僕しかいないんだ──」
「大丈夫、分かっているから」
「リーナ……」
馬車への荷詰めが終わり、周囲が落ち着く。
御者は馬の様子を見ている。出発が近い。
「冬には、また都会に働きに来るでしょう?」
「……うん」
「待っているわ」
「………………いや、」
腹をねじ切られる思いで、僕は、やっと顔をあげる。
これが、最後だから。
「もう、会うのはよそう」
「…………どうして?」
「君の幸せを、潰したくはない」
僕はリーナを置いて帰郷するのだ。僕が周りにいては彼女の将来に差し障る。
「リーナ。ずっと、好きだった」
「……わたしもよ」
「ずっと、この先もずっと、僕は、君の幸せを願っている」
御者は馬と馬車の確認を終えて御者台に座り、こちらを遠巻きに伺っている。
「ほんとう?」
「うん」
「……ほんとうに?」
「うん」
最後にリーナを一瞬だけ抱き寄せ、乗合馬車に乗り込んだ。
すぐに馬車は出発し、彼女の姿が遠くなっていく。
地平線の向こうに消えるまで、僕は彼女を見つめていた。
その後はどうやって万年氷地方の家まで帰ったのか。全く覚えていない。
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