ノスタルジャ



 ❆



 雪の家の暖炉に火はなく、石炭の燃えかすが燻っているのみ。


 一人掛けソファに身を預けた老人はピクリとも動かない。


 胸には茶葉が僅かにこびりついた茶缶が抱かれ、膝には年季の入った二重毛皮の外套がいとうが掛けられている。

 机上には、何枚もの写真や姿絵、とうに冷めて変色したスープ、そして節くれ立った老人の指にはもう入らないガラスの指輪。


 息子が旅立ったのは何年前のことだったか。


 あれから一度だけ雪の家は増築と住み替えがされた。昔は大部屋と小部屋とで作られたが、独り身の今は小さな部屋一つで十分だった。


 しかしそれも昔の話。

 この家はもう何年も、何年も、増築も住み替えもされていない。

 雪の家は、緩やかに氷雪原ひょうせつげんに埋もれていく。


 外は猛吹雪。

 万年氷まんねんごおり地方は数十年に一度の大寒波と猛吹雪に襲われていた。


 広大な白い氷雪原には、昔に賑わった集落の痕跡はひとつとして無い。

 家々は数十年前に雪と氷に飲まれて消え、その最後のひとつも、今や白い世界とほぼ同化している。


 氷壁ひょうへきに囲まれた家の中は静寂に包まれているが、耳を澄ませば階上から微かに風がすさむ音がする。

 氷壁に圧された窓は外光を失って久しい。氷雪ひょうせつは天井に備えつく玄関までもを覆っている。

 この天候では換気口までもが埋もれるまで、そうかからない。


 そんな雪の家で、老人はなお、記憶の中に沈殿ちんでんしている。


 海の底で物言わぬ貝のように。



 ❆



 霊峰れいほうの山々に抱かれた万年氷地方。


 山間に広がる平野は、冬に降り積もる雪と、それが凍り圧縮された純度の高い氷からなる。

 雪が積もる冬は雪原せつげん、氷が露出する春から秋は氷原ひょうげんと、都会や文献では称される。しかし、地元の人は区別せず「氷雪原ひょうせつげん」と呼んでいる。


 広大な氷雪原は白い。

 家や建物はひとつもなく、ただ、白い。


 かつては村があり、家々があり、生活があった。

 今は、白いだけで何もない世界が広がっている。


 その氷雪原に男が立ち尽くしている。


 アルットゥ。この地に住む最後の人。


 アルットゥはゆっくり首を振り、辺りを見回す。

 自分の家はあるべき場所に見当たらない。さっきまで吹雪いていたはずなのに、空は雲一つなく晴れていた。

 服は室内着で外套を着ていないのに寒くはない。

 そして身体の実感が無い。ここは夢か、と一息つく。


 見ていた空から視線を下ろすと、少し先に女性が立っていた。


 アルットゥは目をみはる。


 遠目でも、どんなに時間が経っても、すぐ分かる。

 妻のリーナだ。

 初めて出会った頃の、まだ少女のあどけなさが残る姿だった。


「リーナ!!」


 やけにはっきりと声が出た。

 彼の声はみずみずしく、しわがれていない。


 アルットゥは一歩、踏み出し、手を伸ばす。

 伸ばした手はしわ一つ無く、節くれ立ってもいなかった。


 すぐに足下を何かに取られて転びそうになる。

 息子のユーハが贈ってくれた二重毛皮の外套が落ちていた。手早く拾い上げ、再び駆け出す。


 水の中をもがくようにリーナへ両手を伸ばし、あがき、駆ける。

 身体は軽く、腕も良くまわる。まるで10代の頃の様に。


 彼女に近づくと、リーナの髪と身長が少し伸び、落ち着いた雰囲気になる。

 身体も丸みおびて、大人の女性へと変わっていく。


 それに呼応するかの様にアルットゥの手も、若い綺麗な手から、少しは苦労を知った青年の手に変化する。

 目線も高くなった。


「リーナ!」


 アルットゥの声は先ほどより若干低くなっていた。


 さらに彼女に近づく。


 リーナの目の前までたどり着くと、その姿は、強く、逞しく、でもいつまでも美しく若々しい、自慢の妻だった。


 アルットゥは息を切らし、彼女の前に立つ。

 目線はいつのまにか縮み、身体と節々は重くなり、手はしわがれて節くれ立っていた。


「リーナ……」

 

 呟いた声は、乾いて、掠れている。


 リーナは眉尻を下げ、軽く微笑み、困った顔をしている。

 茶葉を切らした時。子供がいたずらした時。イヌがソリをつけたまま脱走した時。街に降りた帰りに天候が崩れた時も、彼女はこの表情をしていた。


 彼女も外套はまとっていない。


「そんな薄着で。また風邪をひいたらどうするんだ」


 アルットゥは手に持っていた二重毛皮の外套をリーナの肩にかける。

 しかし外套は彼女の身体をすり抜けて、氷雪原に落ちてしまう。


「す、すまない……」


 アルットゥはおぼつかない手で落ちた外套を拾い上げ、再び肩に掛けようとする。

 それを、リーナは手で制した。


 東の空が陰ってきた。厚く暗い雲が空を覆い始める。


「リーナ、雪が降りそうだよ。暖かくしないと」


 リーナは口を開かない。

 ただ、首を横に振り、手で外套が不要だと意思表示する。


 アルットゥは有無をいわせず、もう一度、外套を彼女の肩にかけようとする。

 ……が、外套もアルットゥの手もリーナの身体を通り抜けてしまう。


 何度かそれを繰り返しているうちにアルットゥは思い出す。


 そうだった。

 妻は十年以上前にもう……。


「なあ、リーナ……」


 外套をかけるのを諦め、手にかける。


「僕も、」


 真正面からリーナと目を合わせる。


「僕も、君のところへ連れて行ってくれ」


 そっと告げると、微笑んでいたリーナは表情を無くした。

 無表情でアルットゥの次の言葉を待つ。


「都会のご両親もいってしまい、ユーハも家族と新大陸に渡った。もう戻ってはこない」


 家族との離別を経て、独りで過ごした幾年月いくとしつき

 錆び付いて鈍っていた『感情』というものが、だんだん、腹の底から湧き上がってきた。


「氷の採掘は若者たちに全部委ねたし、犬たちも見送った」


 声が湿って、震える。


「僕には、もう、何も無いんだ……」


 リーナは静かに耳を傾ける。


「どうか君のとこへ。僕も、連れて行ってよ」


 両親たちも、息子も孫も、愛する妻も、もういない。

 この世界には真白まっしろな氷雪原しか、ない。


「頼むよ」


 アルットゥは心の底からリーナに懇願した。


 すると、無表情だったリーナの表情が徐々に変化する。

 眉をひそめ、目尻が若干あがり、口元はきつく結ばれた。 


 怒ってる……?


 彼女の身体は小さく震えだし、肩に力が入り、爪が食い込むのではと思う程に手を握りしめる。

 アルットゥがかつて見たことのないほどの怒気が、リーナから溢れていた。


「リーナ……?」


 アルットゥはこわごわと名を呼ぶ。


 鼻と頬も赤らみ始めたリーナが、ゆっくりと自身の足下を指さす。


 そこには、レンガで囲まれた四角い穴があった。


「これは……」


 見覚えがある。

 自分が昔レンガを積み上げて作ったものだ。


「換気口だ……。雪の家の。僕の家の、換気口だ」


 アルットゥは目線を上げてリーナを見る。


「家の換気口が、どうしたの?」


 リーナは何も答えない。


 厳しい表情を崩さず、身体中から発している怒気を隠そうともしない。

 何か言いたげにアルットゥを見据えたまま氷雪原に埋もれかけた換気口を指差している。


「リーナ……?」


 アルットゥは換気口とリーナを見比べて、腕を組み、首を捻る。

 そのまましばらく考え込んだが彼女の意図は分からない。


「リーナ、教えてくれ。何が言いたいんだ?」


 もう一度、換気口からリーナに視線を戻す。


 彼女の様子は変わっていた。

 怒気はなりをひそめ、眉尻を下げている。そして両手で自身の身体を抱きしめ、うつむいて小刻みに震えていた。


 空には雪が舞い、風も吹き始める。吹雪の前触れだ。


「リーナ、寒いの?」


 アルットゥは手にある二重毛皮の外套をリーナにかけようとしたが、やはり身体をすり抜けた。


「リーナ……。僕は、どうしたらいいんだ……。君は僕に、どうして欲しいんだ」


 リーナの瞳を覗き込む。目には涙を溜めている。

 赤かった顔色は今は白く、唇も色を失っていく。


「寒いんだね」


 リーナは寒さに弱かった。冬に少しでも無理をすればすぐに風邪をひく。彼女を失った原因もそれだ。

 身体をすり抜ける二重毛皮の外套を、彼女の肩付近にかかげる。しかし彼女の震えは止まらず、顔色もさらに白くなる。


 雪と風が強まる。


「リーナ……!」


 吹雪いてきた。

 震えるリーナを温めないと。また、彼女を失ってしまう。


「家の中に入って暖炉に火を……」


 しかし、我が家は換気口の先が雪から僅かにのぞくのみ。

 家自体も、玄関も、雪氷に飲まれてしまった。


 辺りは白い世界が続き、建物や吹雪をさえぎりやり過ごせる場所はない。

 増築をおこたったから……。


 寒さをしのげるリーナの愛した雪の家は、もう、ない。


 リーナの震えは大きくなり、唇は薄紫色に。


「リーナ、ごめん。ごめんね」


 アルットゥの身体も小刻みに震える。寒さからではない。


「ごめん。こんなことなら、君をまた凍えさせるくらいなら、ちゃんと増築しておけば良かった……」


 苦い思いが胸を駆け上がる。

 吹雪がさらに強くなる。厚い雲と猛吹雪であたりはうす暗い。


「ちゃんと増築と住み替えをして、食料と炭を備蓄して、いつでも暖炉が使えるように。温かい蜂蜜紅茶とスープが飲めるように。家を、整えておけば良かった!」


 アルットゥは子供のように顔をくしゃくしゃにした。


「家を……、守れば、良かった」


 力なく肩を落とす。


「雪に埋もれさせて、ごめん……」


 俯いていたリーナは顔を上げる。

 身体を覆っていた両手を外し、まっすぐにアルットゥを見る。悪かった顔色は戻り、もう震えてはいなかった。


 リーナは、微笑んでいた。幸せそうに。


「リーナ……」


 リーナはもう一度だけ雪に埋もれた換気口を指さす。

 そしてそれを見て小さく頷いた夫に、両手を広げた。彼女の身体に淡い光が浮かぶ。


 息子の外套を腕に掛けたアルットゥは、それに答える。

 彼の腕や手はリーナの身体をすり抜けて実体は感じられない。

 それでも光になっていくリーナを包み、ゆっくりと腕を閉じていく。


 たしかに暖かいものが、アルットゥの胸を満たした。

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