どうして?

七海美桜

第1話  梅雨の悪夢

 朝から、しとしとと雨の降る梅雨の日だ。

 今日も降ったこの雨のせいで湿度が高く、暑さと重なってじっとりとした空気が不快感に肌に張り付くようで、気分が優れない。今は梅雨なのだから雨が降ってもおかしくないのだが、梅雨の季節は毎年空梅雨からつゆが多い。なのに今年は、梅雨に入ってここ一週間は何処か薄気味悪い雨が、毎日朝から夜遅くまで降り続いていた。


 仕事を終えて、何時ものように××繁華街のすみにある馴染みの居酒屋へ向かう。ビールに枝豆、冷奴ひややっこ。暑くて、食欲がない。しかもこの居酒屋は今どき珍しく禁煙ではない。先月別れた彼女が嫌がっていた煙草も、家以外で自由に吸える唯一の場所だ。最近は禁煙推奨や電子煙草が流行っている中俺はそれらを嫌って、意地のように紙煙草を隠れて吸っていた。

「ほい、サービスだよ。食べてね」

 小さくて小汚い居酒屋だが、俺はこんなサービスをしてくれる地味目の店主が好きだ。家に帰っても一人なので自炊もそうしない。ほぼ毎日、この店に足繫く通っていた。

 店主はクーラーがあまり効いていない店内で、汗をかきながらフライドポテトを揚げて俺に出してくれた。湯気の上がるフライドポテトは、普段なら美味しそうに見えて俺は心から喜んだだろう。しかし今は、胃もたれがしそうだ。

「暑くてごめんね。先週新しい冷凍庫を買ったから、電力が弱くなったのかなぁ? 本格的な夏が来る前には、業者を呼んでちゃんと涼しくするよ」


――ニュースです。先週から行方不明の女性はまだ見つからず……本日交通事故で小学生とその親が車に……駅でぶつかって謝らなかったから刺したと……――


「おやっさん、野球やってないの? 辛気しんき臭いニュースばっかりじゃん。あ、ポテト有難う」

 少し古い型のテレビから、淡々と事件を読み上げる女性アナウンサーの声が気になる。フライドポテトの皿を受け取りながら、俺は特別見たくもない野球の話題を出した。ただ辛気臭いニュースがこの湿度の様に、俺にべったりと張り付くような感じがして気味が悪かった。

「今はニュースの時間だよ。それに、今日はこの雨じゃ野球はやらないんじゃないかなぁ」

 店内の客は、サラリーマン風の男ばかりだ。皆連れがいて、ニュースなんか見もせずに会話に夢中だ。テレビが気になっているのは、一人で飲みに来た話し相手が店主しかいない、俺くらいだろう。

「物騒なニュースばっかりだね」

「そうだねぇ。この梅雨のせいで、みんなイライラしてるのかもしれないよ」

 「本当に、それだよ」と言って、俺は生ぬるいビールを飲み干した。しかし店内の暑さは変わらず余計に喉がかわいて、店主に冷たいビールのお替りをした。その時、俺が座っている椅子の尻辺りに固い何かが当たった。不思議に思って手を伸ばすと、それは指輪だった。前の客の忘れ物かと思って店主に声をかけようとしたが、店主は俺に冷たいビールジョッキをカウンター越しに渡すと、他の客の注文を取りに向かった。

 「ま、後でいいか」と小さく呟き、俺はその指輪を自分のスマホの上に置いた。


「あの……」

 不意に女性の声が近くで聞こえて、俺は飛び上がりそうになった。中々綺麗な、黒髪の女性だった。彼女は、俺が一人だと思っていたカウンターのすぐ横に座っていた。口元の黒子が印象的だ。しかし、いつの間に座っていたんだろう? 無表情なその顔が、居酒屋には似合わなかった。

「それ……私の指輪なんです。ずっと探していたんですが……」

「あ、そうだったんだ? はい、どうぞ」

「有難うございます」

 彼女は大事そうに指輪を俺から受け取ると、微笑みも浮かべずに礼を言ってくれた。渡す時に彼女の手に触れたが、少しひんやりした肌だった。この暑さの中、まるで一人だけすずんでいるように。


「お礼に、お話を一つ」

「はぁ」


 彼女は、カウンターから見える厨房の中を指差した。油まみれの、年季が入った小汚い厨房は狭い。店主が動けるだけの、小さなスペースだ。

「この店に、大きな冷凍庫が二つも必要でしょうか? 私、たまたまこの店に来てその理由を知ったんです」

 その言葉に、俺は改めて厨房に視線を向けた。真新しい冷凍庫が、狭い厨房には邪魔に見えた――そう言えば、新しい冷凍庫を買った。確かに店主は、さっき俺に言っていた。

「一体……」

 どういう意味か、と聞こうと横を見るとさっきまで隣にいた女性の姿はなかった。最初から誰もいなかったように、カウンターには俺しか座っていなかった。


 どういうことだ?

 暑いから流れる汗ではなく、嫌な汗が背中を伝った。そう、何故か嫌な予感がした。



――ニュースです。先週から行方不明の女性はまだ見つからず……本日交通事故で小学生とその親が車に……駅でぶつかって謝らなかったから刺したと……――


 何故か頭に残っていた先程のニュースを思い出して、俺は誰からも連絡がないスマホを開くとネットニュースを検索した。


 『女子大学生、一週間前から行方不明』『婚約者の悲痛な声』『最終目撃は、いつも通う××繁華街』


 画面に表示された彼女は、間違いなくさっき俺に話しかけてきた女性だ。黒子も、同じ所にある。


 『暑くてごめんね。先週新しい冷凍庫買ったから』


「おやっさん、俺帰るわ。ごめん、会計してくれ」

 ゾッとした俺は、慌てて財布を取り出して店主に声をかけた。「もう帰るのかい?」と店主は言いながらも、にこやかに会計をしてくれた。



 まさか俺は、この一週間――死体の前で酒を呑んで……?



「行方不明の女性の新しい情報が入りました。最終目撃地とされていた××居酒屋で、本日女性と思われる遺体が発見されました。行方不明の女性と酷似しておりましたが、業務用冷凍庫内で冷凍されていたため現在確認中です。犯人と思われる居酒屋の店主のYさんは、現在黙秘のままで……」



「理由が理由だけど、通報有難う。お陰で解決しそうだよ」

「あの……店主の動機は、何ですか?」

 何度目かの聞き取りのため訪れていた警察署を出ようとした俺は、あの人の良さそうな店主を思い出して思わず聞いてしまった。言い方は悪いが、あんな小汚い居酒屋に年頃の若い女性が一人で来るとは思わなかったからだ。

「なんでも、毎日大学帰りに店の前を通る彼女を、好きになったらしくてね。食材が余ってるから無料で何か食べてくれないかって開店前に声をかけて、店に入れたらしいよ。彼女は毎日見ている店だし、見た目は人の良さそうな容疑者だろう? ついその言葉を疑わずに店に入ったらしい。料理を食べた彼女が帰ろうとすると、帰すのが許せなくなったらしい。首を絞めて殺して、前日に買った冷凍庫に入れて毎日眺めてたそうだよ――多分、計画していたんだろう。前の冷凍庫は壊れていないし、あの狭い厨房に大きな冷凍庫は二つもいらない。ずっと、そばに置いておきたかったんだよ」


 そうですか、と返事をして俺は家に帰った。特に、何の感情も浮かばなかった。


 しかしそれから、大好きだった酒はめない。酒を呑むと、あの彼女が俺の前に姿を現すんだ。


――私の死体の前で呑むお酒は、美味しかったですか?

――私は、ずっと見てましたよ。毎日来てましたよね。どうして気付いてくれなかったんですか?


 恨めし気に、無表情に俺を責める。



 俺は、白い壁に自分の指を噛んで出た血で、絵を描く。彼女の絵だ。成仏してくれるように、ただそれだけを願って。

「まあ、また描いてるんですか? 駄目ですよ、また拘束具を付けますからね」

 それを見つけた看護師が、優しい声音とは裏腹に強く俺の腕を取り上げた。痛いと思う感情は、もう俺にはない。彼女の顔だけが、俺に感情を与える――恐怖、それだけを。


 最初彼女は清楚で、美しかった。そうして酒を呑んでいる時にしか出てこなかったのに、梅雨が来るたびにおぞましく彼女は腐っていき、始終俺に声をかける。無表情だった彼女は、腐っていくうちに笑みを浮かべるようになった。とても、おぞましい不気味な笑みを。



 どうして、俺なんだ……。


 彼女本人ですら、もう誰を呪っていいのか分からないのだろう。拘束具に身体を包まれて、俺は麻酔を打たれて眠りについた。



 目が覚めると、またニタニタ笑う彼女を何処か憐れみながら、俺の意識も……縺ゥ縺�@縺ヲ菫コ繧呈→繧繧薙□�溘←縺�@縺ヲ縲∽ソコ縺ェ繧薙□��……







 ねぇ、私をどうして見つけてくれなかったの?



 また、梅雨の季節が来た。

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